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うしろの感覚

 唐突だが、35年前のことを思い出している。

 24歳だった。大学時代の5年間に自分の社会性のなさをいやというほど思い知らされていたので、いわゆる「密室自営業」しか自分の生きていける道はないと心得、英語なんて一行も満足に読めなかったのに、東京に出て翻訳学校に入り、翻訳者を目指していたが、まわりで同じ目標をいだいている人たちとのあまりの隔絶感に、どうせおれは本なんてほとんど読んだことがないのだから、どうせ勉強なんてちっともまともにしたことがないのだからと、早々に妥協し、眼前の生活を糊塗するために雇ってもらった玩具会社の世界に溶け込むほうへ気持ちが傾斜していた。幸いにして、雇ってくれた会社の社長からも、どうしたことか、はいってまだひと月もたたないのに、社長室に呼ばれ、「わたしの次の社長に」と言われていた。通勤の中央線の車内では、いつも「もうこのままここでやっていこうか」と自問自答していた。社員のみなさんも、とても人間味のある人ばかりで、いつも女性の上司から「バカッ! 決済の時間が1時間でも違ったら、利益がいくら違ってくると思うの?」と、変動相場制に移行してからまだそれほど間がなかったという社会背景もあったが、ゆるゆるの心構えで台湾と米国を結ぶ三角貿易を担当していたわたしの責任感とその自覚のなさを怒られていた。

 で、そこへ、四国の父が「胃潰瘍」で手術を受けることになったという連絡が入った。そういう時代だった。胃潰瘍で開腹する必要などそれほどないのに、みんなが社会の黙契のひとつとして、ある事実を口にせずにすませるために共有していた慣行で、言う側も言われる側も、「胃がん」というその事実をバーバルコミュニケーションの背後のノンバーバルコミュニケーションでやりとりしていた。

 わたしはそんなノンバーバルコミュニケーションの存在すら知らずに帰郷し、その存在を教えられ、ふむふむ、なんでそんなことをするんやろ、と思いながらえんえんと5時間にも6時間にもおよぶ手術が終わるのを待ち、その後、当時の「集中治療室」とは名ばかりの、ビニールシートで覆いをしただけのベッドに移された父のそばにつき、ほんのひと晩だったが、尿の世話やなにかをした。

 そのとき、複雑な思いのこもった目でこちらを見る父の目を見ているうちに、いきなりふと、あ、そうか、もうおれのうしろには誰もいないんだな、もうおれがいちばんうしろにいないといけないんだ――と思った。

 で、なにをしたか。常識的には、社長から「わたしの次の社長に」と言ってもらっていたし、ほかの仲間もいい人たちばかりだったから、もうなにも考えず、そこに骨を埋める覚悟をするものだろう。だけど、「いちばんうしろ」を担当するときは、前にいる人とは関係なく、その人、あるいは人たちを支える覚悟をするのが常識的なのかもしれないが、わたしの場合は、どうしてもその前にいる人と無関係に「いちばんうしろ」を担当するという判断ができなかった。

 話を聞いた人が誰しも「なるほど」と思えるような(たとえば、大学で文学や英語を専攻していたような)背景もなく、コネも教養も学歴も、でまた、この「密室自営業」になにより重要な前提として求められる、人に読んでもらえるような文章を書ける文章力も論理的思考力もないという自覚は、わたしにはあったのに、ほかでもない、その一夜のうちに、わたしの頭のなかでわたしのうしろから前へ移動し、ビニールシートの「集中治療室」のなかで話もできずにいた人が、まあ、世間の親なら誰も息子にそんな不安定な道のほうを望んだりしなかっただろうに、文章を書きたいという自分の内なる衝動に抗することができず、息子に文章を書く仕事に就くことを強く、強く望んでいた(もちろん、口に出してその内なる希望を表現したのは1回だけで、それ以外は、なにがあっても、ふふん、ははん、としか言わなかったのだが)。

 それから35年。葛飾区の中学校から浅草橋の玩具問屋に入り、たたき上げで俗に言う「ペラペラ」の英語力を身に付けていた、いちばん信頼していた課長と「そんな不安定な道はやめろ。プロの翻訳者になんか、そんなになれるものじゃない。会社に残れ」「いや、なってみせます」と飲み屋で大げんかをしてまで選んだこの道でどうにかこれだけの時間を過ごしてきたが、いまだに上品なこの道では「外道」のままでいる。

 ああ、そろそろおれも誰かにうしろについてもらいたいな、と思わないでもない。でも、その一方では、しゃらくせい、うしろになんか誰もつかなくたっていい、おれも道端に倒れた(と言われている)俳人たちのような終わりかたでいい、と思うこともある。

 いきなりトピックを切り換えてはいけないかもしれないが、この「うしろ」の感覚は、いまの時代、とても低下してきているように思う。選択しだいで、当面快適な暮らしが維持できるようになったからだろうか、国会に手伝いに行ったときも、強く感じた。新しい社会を作っていくときは、それまでの社会が壊れる。誰もがいろんなところで、ありゃりゃあ、これはまあ――という思いをする。そんなことは、砂場で作った山を壊し、新しい山を作る子どもにもわかる。だけど、新しい山を作る作業を託された未熟な政治家たちが見るも無残なありさまをさらしたとき、それをなじったり、けなしたりしたのは、その責務を託した人たちだった。法律的には、どうなるのかわからないが、基本的に「新しい山を作る」という判断は、託した人たちのものであり、託された雇われ人たちのものではない。わたしのように誰ともつるまないことを信条として生きてきた人間がはたから見ていると、ほんとうなら意思決定の結果がでたらめになったときには、それを託した人が「うしろ」につき、でたらめな結果をカバーし、前へ進んでいかないとなにもできないと思うのに、自分たちの意思決定の結果を託した人たちがでたらめになると、その人たちがでたらめだったと、ばっさりと切っているのがよくわからなかった。

 結果的に、この国は江戸末期の黒船以来の属国時代から抜け出し、アジアの独立国家として、これからの世界が求めている、かつて世界でもっとも遅れた地域だった粗雑な地域、西洋以外の視点を持ったソリューションを提供する国となろうとしていたのに、また属国のぬくもりに回帰しようとしている。自ら進んで属国に回帰しようとしている人たちが、独立を求めて命を落とした人たちの霊を拝みたがるという構図もよくわからないが、その人たちの命を奪ったあと、ずっとこの国を属国として利用してきた国でも同じ現象が起こっており、21世紀の新しい時代に向けて世界のありようを変えようとした人たちが、やはりその意思を託されただけの立場なのに、すべての結果責任を負わされようとしている。

 それで、その場しのぎはできるかもしれない。だけど、わたしたちは宇宙という、いまだにわたしたちの言う「最先端科学」がほとんど「無知」も同然の状態としか思えない世界のなかで、「人類」という一種の家族として生きていこうとしている。誰かが「あ、そうか、もうおれのうしろには誰もいないんだな、もうおれがいちばんうしろにいないといけないんだ」という意識を持たなければならないのだと思う。わたしが「土」との取り組みの必要性、重要性を感じている理由のひとつでもある。

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by pivot_weston | 2014-11-07 09:37 | ブログ