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印象深い光景

 またひとつ、とても印象深い光景に遭遇した。

 25年ほど前に引退し、地方に住んでいる伯父が上京した。東京の郊外に家を構えている叔父もやってきた。わたしと同居している母も加えて三きょうだい(もうひとりの長兄の伯父はすでに齢90を迎え、認知症がもたらす曖昧模糊とした世界にいる)の、なにかというとすぐに終戦直後の阿佐ヶ谷(伯父の最初の上京の地)にさかのぼるにぎやかな話が始まった。当然、みな自分の老いを認識し、別々に住んでいる以上、あと何度会えるかわからないきょうだいの話は、そうそうすぐには終わらず、夕刻が近づくと、近くの都庁の下あたりの寿司屋に場所を移し、まだ勤めの人たちが退勤するには少し早い時刻から、にぎやかな会話はさらに続いた。

 で、もっともっと話をしたいが、もういまの年齢や体調を考えると……という時刻になったころ(当然、いまを盛りとする若い人たちが飲み屋さんの椅子から腰を上げるにはまだまだの時刻だが)、さあ、じゃあ、そろそろ……と言って、いろんな意味で重い腰を上げ、駅のほうへ向かって、勤め帰りの若い男女が大勢闊歩する地下通路をとぼとぼと歩きだすと、30年、40年前にはそのあたり(おもに小便横丁ではあったみたいだが)をホームグラウンドにしていた伯父が遅れだし、「ちょっと腰のあたりに力がはいらないんだ」と言いだした。

 しかたない、地下通路は「ホームレス対策」と称して、視野の狭い元の都知事が年寄りの休む場所もなくしてしまっているから、カツカツカツとすごい勢いで行き交う若いつやつやのおにいさんやおねえさんの邪魔にならないように、わきの階段に退避し、そこの一段目を椅子代わりにして腰をおろした伯父のそばに、あとの二老と一初老も立った。

 目の前を、現代人のひとつの行動形態として、手に持った四角い箱の画面を見下ろしながら、若い男女が通り過ぎていく。そこで、思い出した。20代のころ、そのへたり込んだ伯父に「なんだ、伯父さんはとんでもないことをやってるんだよ。わかってないの?」とあきれて尋ねたことがあった。こちらは雑誌の取材記者。会社の片隅にも、まだ呼び出し音があのけたたましい音だけに限られていた黒電話が残っていたころ、そろそろ情報通信革命が来ると言われ、同僚記者たちのあいだでも、この国が始めようとしていたある実験の名前が語られていた。

 わたしは芸風がそっちじゃない。物理学科出身だけど、そこにどうにもいづらさを感じて途中で飛び出した人間だから、タレントさんのこぼれ話を聞いたり、未来のベースボールの特集記事を書いたりするのが楽しくて、そういう同僚の話には加わらず(加われず)、ひょいひょいとあちこちを飛びまわっていた。

 そしたら、あるとき、その伯父が「転勤になった」という話が飛び込んできた。「ふうん」である。伯父も叔父も巨大組織で勤めを全うした人だが、どういうわけか、身内なのにこちらはまったくその「組織」というものが苦手で、自分で溶け込む努力をしてもどうにもなじめずにフリーランスを目指していたものだから、「部長」「課長」と聞いてもその違いがよくわからない。だから、そのとき、伯父が今度は「…長」になるのだと聞いても、またそんな肩書なんてどうでもいいのに……と思ったくらいで、それがどういう立場を指すのかはよくわからなかった(もちろん、いくらそんなわたしでも、「長」がつくのでその巨大組織の一支部のトップになるのだろうとは思ったし、あとで用事があって、ネンネコで長女をおんぶしてその「…長」になった伯父の職場におじゃました妻が、帰ってきてから目をまるくして、息をはずませながら、「おとうさん、伯父さん、すごい部屋にいたよ」とも言ったので、まあ、えらい人にはなったのだろうな、とは思っていたのだが)。

 で、同僚たちの情報通信革命の話は続き、あるとき、どこかの週刊誌がその、やがて始まろうとしている実験の特集記事を組んだ。そのときになって、わたしも初めて、どれどれ、みんなの話していることはどういうことなのだろうと思い、同僚たちのいないところでその週刊誌を買い、特集記事のページを開いてみた。なるほど、なんだかよくわからないが、またひとつ、鉄腕アトムの未来都市のような、人間のわがまま心に仕える実験が始まるのだな、ということはわかった。が、そのまま読み進んでいくと、その実験を中心になって行うのが「……」と書いてあった。あれ、なにか読み違えをしたかなと思い、またその前に戻って読み直したのを覚えている。なんだ、それじゃあ、伯父さんのところでやるんじゃん……おいおい、だ。

 同僚たちの話をずっと聞いていたせいか、それがとてもすごいことのように思えたので、しばらくたって叔父のところで伯父に会ったときに、ま、いちおう記者のはしくれだったから、もしかすると特ダネをひろえるかもしれないというスケベ心も手伝って、「伯父さん、仕事でどんなことをやってるの?」あたりから始めて、それとなく、その実験のほうへと話を進めてみた。で、はっきりとその実験の名前を口にしたとき、のんびりと四方山話モードで話をしていた伯父の顔がかすかにはっとして、「え、お、そうだよ、なんでおまえ、そんなことを知ってんだよ?」という言葉が返ってきた。

 よう言うわ――だ。天下の週刊誌が特集を組んで騒いでいるものをひとりの市井の民が知ってたらアカンちゅうのかいな、とも思ったが、その反応を見て、はは~ん、とも思った。伯父は組織の人である。わたしが「あんなでっかい組織にいて、楽ばかりして」みたいなことを言うと、不満そうに口をとがらせて「おれだって、労働組合の連中にアルミの灰皿をいっぱい投げつけられてきたんだぞ」と言っていた。だから、「伯父さん、もしかしたら、この実験のこと、なんも知らんでしょう?」と突っ込むと、ちょっと恥ずかしそうに「おお、実はそうなんだよ。すごいことらしいんだけど、おれはなにも知らんのだ」と言って、ふふんと笑った。

 その伯父が、定年まで勤め、昔からの一族の屋敷に戻り、現役時代のことをなにも知らない近所の人から「気のええおっさん」として親しまれるようになり、何年かぶりに、齢90を前にして、小便横丁のある西新宿に戻ってきて、妹や弟と楽しいひとときを過ごしたところでへたり込み、地下通路のわきの階段に腰かけた。目の前を大勢の勤め帰りの若い男女が行き交っていて、そのうちの少なからぬ数が手に持ったスマートフォンだかなんだかの画面を見下ろしながら歩いている。その光景を見たとき、またひとつ、ああ、時代はこうして進んでいくものか、というものを感じた。

 インターネットの時代を生きる若い男女は、ある人は怪訝そうに、またある人はじゃまっけそうに、階段にへたり込んだ伯父を見て、だけど、多くは一瞥をくれることもなく、カツカツカツと、三人の老きょうだいとひとりの初老のかたわらを歩いていく。でも、まあ、時代の変化の一端ではあったとは思うが、この国が黒電話の時代から抜け出し、その、手に持った通信手段の時代へと変化しようとしたとき、口火を開いた実験を行った組織のトップにいたのはこの、ここにへたり込んでいるおじいさんなんだよ、と言いたい気持ちもちらりと頭をかすめた。

 まあ、年をとってくると、こういう思いをすることが増えてくる。とともに、若い人には、こういう現実を、積極的に学んでいるひまはないだろうし、妙に殊勝に学ぶ努力なんてものもしなくていいだろうが、そういうものなのだということを頭に入れて、なにかのときに、そういう現実にも配慮ができるようになることが、自分たちの命をよく知り、住んでいる世のなかを少しでもよくしていくことにつながるだろうし、どんな若い人にもいずれは必ず訪れる自分の老後への備えにもなるのだよ、とは思う。

 あれ、今日は「土」の話はなし?――なんて思わないでいただきたい。これ全体が「土」の話。わたしたちが足もとにし、いずれは還っていくところとなる「土」の話。「土」を大切にすることは、単においしいものを食べ、環境をよくするためだけに必要なことではない。人間がより自分を知り、よりよい世界をつくっていくために、たとえどんな時代になろうと、「土」はまず第一に、なによりも重要なものだ。

 その「土」を大切にするために、国内で活動する人たちの資金はおろか、国連が活動する資金も不足しているという。誰か、ご自分の築いた富を、現世や後世の多くの人たちのために役立てたいという人が現れないものか、なんてことも考えている。


by pivot_weston | 2014-09-25 15:50 | ブログ

わが大地のうた

 先週は珍しく電車によく乗り、小金井の東京農工大学で開かれていた土壌肥料学会のポスター発表やシンポジウムにちょこちょことおじゃましてきた。

 国連が定めた国際土壌年(2015年)のオープニングセレモニー(2014年12月5日)まで3か月を切ったとあって、あちこちで「IYS」(=International Year of Soils)「国際土壌年」の言葉が聞こえてきた。盛り上がるのはいいこと。もっともっと盛り上がればいいと思う。ただ、これは万博やオリンピックと違って、やればあとはお疲れさん、というわけにはいかない。地球人がこれから先も生きつづけていくためには「土」が不可欠の要素であり、わたしたちが昭和版「三種の神器」(白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫)やガスガズラーや高速道路やピッカピカのビルにうっとりしているうちに、足もとの「土」が無視され、人類の生命を永らえるのに適切とは言えない状態になりつつあるから、大仕掛けにも国連をあげて取り組もうとしている。IYSに必要なのは始まりとしての盛り上がりであり、持続していかなければならない盛り上がりである。

 ところが、その盛り上がりのなかで、また、やはりな、と思う話をあらためて耳にした。農業環境技術研究所の赤羽幾子さんと宇都宮大学の平井英明先生の共同研究。前から福田直先生によって、教育現場において土壌教育が積極的に実施されてこなかったことが指摘されていたので、昭和22年以降、約10年ごとに改定されている学習指導要領(中学校の理科、技術家庭科の学習指導要領)のなかで「土」という言葉が使用されている回数を調べたところ、昭和22年段階では75か所で使用されていた「土」が平成20年の段階では1か所でしか使用されていないことがわかったのだという。

 時代や文明は進み、いまの大人たちが死んだあとを生きていく子どもたちに教えておかなければならないことは増えているのかもしれない。でも、大人たちが死んだあと、生きていく子どもたちは丸腰だ。大人たちの庇護のもとで生きていけるわけではない。どこかの国の大統領のように、おれたちは核兵器を持っているんだ、すげえんだぞ、と言ったところで、基本的にわたしたちが生きている舞台である宇宙全体から見れば、そんなの「一糸まとう」にも相当しない戯れ言だ。

 この地球という、宇宙の片隅のちんけな塊の表面で、どうすればこの与えられた感覚や感情を持ってよりよく生きていけるだろう?――そう考えて、ギリシャ哲学でも、インド思想でも、日本神話でも、わたしたちが念頭に置いたほうがよい宇宙観(世界観)の一部を成すものとして、四大元素(「土」「水」「空気(風)」「火」)や「埴安神」などの土の神様のような概念が生み出された。

 もしかすると、いまの学習指導要領は、そうした大昔の人たちの考えはすべて時代遅れなもので、いらないもの、もう人類の次の世代を生きていく子どもたちに教えておく必要がないものと言いたいのかもしれない。教えなかった場合の結果を、いま、わたしたちが実証することはできない。でも、さまざまな事実をもとに推論し、人類が土を大切にする気持ちを忘れたら必ず死滅すると思われるから、「国際土壌年」なんていうイベントを設け、土から離れて、ふわふわとしたところへ遊離していこうとしている地球人の気持ちを「土」に引き戻そうとしている。そして、かりにそこで少しでも引き戻すことができたら、それを持続していこうというのが「2015国際土壌年」の基本的な理念だと思う。

 ……なんてことを考えながらネットを検索しているうちに、いいものが見つかった。とてもなつかしいもの(と言っては失礼かもしれないが)。大学時代に、なにがきっかけだったかは忘れたが、高石ともやさんのレコードを買ってきて聴いていたら、このブログで何度か紹介している『ときは流れる』などとともに収録されていた歌。

  わたしがうたう歌ではない
  あなたがうたう歌でもない
  わが山々がわたしの歌

 と、人を主にせず、「山々」を主にしているところが新鮮で、また、とても共感できた。『わが大地のうた』――題名も忘れていたけど、大学時代は毎日毎日、何度も何度も聴いていた。『ときは流れる』は大野正雄さんという人の歌詞だけど、こちらは笠木透さんという人の詞。このうたのなかに、

  この土にわたしのすべてがある

 という一節がある。いま聴いてもいい。人とつるむのが苦手なわたしはアパートでヘッドフォンを両手で押さえて聴いていた孤独な学生だったけど、多くの人にうたわれていた歌みたいで、気がついて検索してみると、YouTubeにたくさんのバージョンがアップされている。初めて聴いた笠木さんの歌声も、力がこもっていていいけど、わたしはずっと高石さんの声で聴いていたので、高石バージョンのほうをリンクしておきます。


by pivot_weston | 2014-09-14 08:18 | ブログ

聖火ランナーの思い出

 1964年の東京オリンピックの聖火最終ランナーの坂井義則さんが亡くなったという。

「オリンピック随想」「往にし方」など、これまでこのブログでも何度か紹介させていただいてきて、2020年大会の招致が決まったときには、国家や国民という集団があからさまに個人を利用していた時代にひとつの面でケリをつける意味でも、もう一度あの人にやってもらうのがいいのではないかと思っていただけに、残念。

 ほんとうに小さなバーの片隅で、背広を着たひとりのサラリーマンとして、素朴にその夜の時間を楽しんでいたときの様子や表情、それから、その店のママに「この人、なんか知らないけど、有名な人みたいよ」と紹介されて、その「有名」がどういう「有名」をさすかがわかって驚き、その後の、また別の意味での驚きの光景へと展開した夜のことが、しみじみと思い出される。

 1964年の東京オリンピックは、世間一般でもとても大きなできごとだったが、わが家にとっても、それまでなにごとにも自信が持てず、先行きの見えなかった姉に転機を与えてくれたできごとだったので、謙虚に「まあ、もう昔のことは……」と流そうとする坂井さんに、あまり蒸し返すのはいけないことだとは思いつつも、それでも、どうしても言いたくて、「あのねえ、坂井さん、あなたはわたしたちにとって、ものすごく、ものすごく特別な存在の人だったのですよ」と言おうとして、あまりにも興奮して、言葉が口のなかでつっかえたときの感覚も思い出す。

 坂井さんご自身は、ご自分がとてつもなく大きな流れのなかに飲み込まれたことを自覚なさり、そのなかを謙虚に、ご自分を大切にしながら生きてこられたような印象を受けたが、あの1964年10月10日の秋晴れの日に、あそこにのぼって満員の国立競技場の場内を見渡した人は坂井さん以外にひとりもおらず、あのときに目に映った光景を坂井さんご自身の口から聞いてみたかった気もする(あのオリンピックで目覚めた姉も、その後、ひっそりした大会だったみたいだが、国立競技場でプレーする機会に恵まれたことをいまでも大切な思い出として胸にいだいている)。

 あのオリンピックでは、全国で大勢の人たちが坂井さんにつなぐ聖火をリレーした。わたしが間接的に知るそのうちのおひとりは、地域の「伝説の優等生」としてその後の人生を過ごされ、いまでは某有名病院の副院長をなさっていると聞く。1964年の聖火ランナーたちのその後を追っても、味わいのある物語が描けるかもしれない。

 いまわたしが住むところの近所には、広島県出身のおじさんとおばさんがやっているうどん屋さんがある。瀬戸内ではなく、少し山のほうへ入ったところの人だ。個人的には、その店へ行くたびに、ひそかに坂井さんのことを思い出している。

 おつかれさまでした。合掌。


by pivot_weston | 2014-09-12 07:05 | ブログ