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味わい深い暮らし

 これまでの人生で目にしてきた光景のなかでもっとも味わい深いものに「ゴッホの麦畑」の世界の夕景がある(ここで言う「ゴッホの麦畑」がなんだかよくおわかりにならないかたは、ご面倒でもこのブログの2、3本前の記事までたどってください)。

 若いころから「きれいだな」と思い、生きているうちに一度見てみたいと思っていた景色に、スロベニアのブレッド湖の景色があり、そこも幸いにして、じかに目にする機会に恵まれたが、やはり味わいの深さでは……と思う(ブレッド湖でも、ほとりの崖の上に建つお城の裏山をひとりでうろうろしているうちに、樹木越しに近隣の町の外れの陸上競技場のようなところが見えてきて、そのありようがまた、おとぎの国の裏山から見えたせいもあったのだろうが、日本の地方の町のありようを連想させてくれ、はは、人の営みというのは世界中どこへ行っても変わらんものやなと思わされたものだが)。

 小学校低学年のころ、ある日、学校の帰りに「田んぼに寄る」と言いだした同級生についていった。入学当初、毎日、野辺の通学路の途中まで迎えに来てくれていた祖母が亡くなり、解放感もあったのだろうが、その一方で、家に帰ってもなあ……の思いもあった。

 稲刈りの季節だったか、同級生の家族が田んぼで働いていた。その田んぼに着くなり、すぐに、それまでわたしのほうへ向いていた彼の意識が、ぷいっと、もののみごとに別のほうへ向いたのがはっきりと感じ取れた。家族やもんな、と思った。そうか、こいつはおれの知らんところでこういうふうにしていたのかとも思い、おとうさんやおかあさんと最小限の言葉で意思疎通をして野良仕事の一端を担う――というか、大人の目で見ると、一端でちょろちょろしていただけなのだろうが――その姿がまた、とても大人びても見えた(「ちょろちょろ」のそばでいちいち何をどうしたらいいかを聞きながら「おどおど」していたこちらはさらに情けない存在だったのだろうが)。

 そして、あたりが薄暗くなったころ、そのおとうさんが「さ、いぬか(帰るか)」と言って、バタバタバタと、耕運機の発動機(エンジン)をかけた。彼の家(というか、丘の上にあり、細道をのぼっていかなければならなかった家が不便になり、一家で毎日寝起きしていたタバコの乾燥場)は、わが家とは反対方向にあった。おれはここで……と思いながら、耕運機の荷台のうしろで、そこに乗り込む同級生やおかあさんをぼうっと立って見ていると、その荷台の向こうから「乗るか?」というおとうさんの声がした。

「えー、えーん(いいの)?」と、「バタバタバタ」の音に負けないように甲高い声で尋ね、「来いよ、来いよ」と手招きする同級生に誘われるまま、その荷台に乗った。そのときの、薄暗くなった夕空の下で、「バタバタバタ」のリズムに合わせてでこぼこの野良道に揺られながら、またいつもの子どもっぽさを取り戻してすっかり表情のゆるんだおかあさんと話をする同級生の声を聞きながら見た「動く」田畑の景色がいつまでも記憶に残っている。5歳くらいのころに、土建屋さんの庭に停まっていたトラックをいたずらしているうちに、そのトラックが動いたことがあったが、乗り合いバスや遠足のバスや汽車を除けば、人工的な動力で動くものに乗ったのは、実質的にはこのときが初めてのようなものだった。

 その、窓やなにかに囲まれず、荷台の上でまったくのむき出しの状態で、人工的な動力によって「バタバタバタ」と動く感覚と同時に、家族がこうしてみんなでその日の仕事を終えて、いっしょに家路につく農業というのは上等な暮らしだなと思ったのが記憶に残っている。

 わが家は村で唯一の勤め人(サラリーマン)の家庭だった。いまはなくなっているらしいが、かつてはあった「農繁休業」という地方の学校特有の休みの日にも、なにもすることがなかったので、近所の友だちの家の田んぼを「手伝わせて」と言って、手伝いに行っていた。先の同級生の家ばかりでなく、どこの家も同じだった。家族で役割分担をして、自然界の前でいま自分たちに求められていることを黙々とこなし、子どももちょろちょろしてはいても(それは少なからず、おどおどしている友だちへの気遣いだったりして)基本的には、子どもの自分たちにも生きていくためにしなければならないこと、たとえいやでもするしかないことがあることを意識していて、またその意識にもとづく一挙手一投足、あるいはちょっとした表情の変化などが、いくらおとうさんはやさしく気を遣って、農薬の袋のあけかたも知らないこちらにその要領を教えてくれたりしていても、勤め人の子どもには、ほのかな劣等感、あるいは疎外感のようなものを感じさせてくれ、わが家も江戸時代までは農家だったのになあ、といつも思わされていた。

 だから、高校生くらいになって自分の生きかたを具体的に考えるようになったころには「将来は農業がしたい」と口走ることもあったが、意外なことに、そのころには、それまでに経過してきた高度経済成長の時代も影響していたのか、はた目には、あれだけみごとな暮らしをしているように見えていた農家のおじさんたちが顔をしかめて「また勤め人の家で育って、なんちゃ苦労を知らんやつが(なにも苦労を知らないやつが)」と言うようになっていた。

 まったく理解できなかった。わたしの祖父は指物職人の道で挫折し、ぷらぷらと締まりのない老後を過ごしていたが、自分のしてきたことに対するプライドはすさまじく、わたしたちいたずら坊主も大工道具には容易に近づけなかった(それでももちろん、いたずら坊主は果敢にそれを引っ掻き回し、プライドあふれる祖父を嘆かせていたのだが)。

 わたしたちは生きていくために「格闘」を求められる自然界のなかで「安寧」や「豊かさ」を求めて生きている。文明の産物はそのために生み出されているものだが、それはあくまで、それを叶えるための方便に過ぎない。たとえ農業を離れても「格闘」はわたしたちが生きていくために逃れられないものであり、それがあるからこそ、その結果としてたどりつく「安寧」や「豊かさ」の味わいも増す。それを考えたときには、やはりいまでも、子どものころに見たあの農業を中心とした家族の営みが、人間としていちばん上等な営みのように思えるのだが。

 来年2015年は「国際土壌年」だが、その前に、今年2014年は「国際家族農業年」に当たっている。家族で農業をする人たちに目を向けよう、と世界が言っている(情報量が違うので、よかったら英語版のほうもごらんください)。

 中東ではいよいよ、長く続いてきた欧州文明支配の時代が終わるかどうかの瀬戸際を迎えている。自然環境の貧しさに対する劣等感を背景に、中国あたりから無断借用した火薬などの技術で機械的武力を開発し、それで世界を支配してきた欧州文明に終わりが来るのは自明の理だが、明治維新以来、それに追随し、同化することによって末端島国の自尊心を確保してきた国も、いまあらためて自分たちの置かれた環境を見まわしてみると、これだけ人類のより上等な暮らしを求めるために好適な要素がそろっているのだから、そろそろ隷属を脱し、世界のために、人間にとってのほんとうに上等な暮らしを表現し、アピールすべきときが来ているような気がするのだが、どうなのだろう。

 ちなみに、わたしにとってもっとも味わい深い暮らしがあった四国については、こんな指摘も行われている。いまでは30歳前後になっているわが家の子どもたちがわたしと同じ小学校に通っていたころには、まるでオセロの白と黒をひっくり返したように、村の子どもたちの家庭がすべてサラリーマン家庭になっていて(多くは兼業だったと思うが)、わが家だけが自宅営業者になっていた。農業は、人間としてもっともプライドを持っていい仕事だと思っている。そして、それを確かにそうでき、プライドを持って若い世代(別にわが子である必要はないが)に引き継いでいけるようにするのが、政治やなにかの仕事だと思っている。

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by pivot_weston | 2014-08-30 14:52 | ブログ

あらためて「土」を

 また起こってしまった。

 去年も、伊豆大島で土石流が発生したとき、わたしたちが日ごろの暮らしや経済活動のなかに「土」を取り入れることの必要性を強く感じた。今度の広島の災害現場を見ても、もっとなにかができていたはずだと感じる。

 正直なところ、去年の大島の災害現場を空から撮った映像を見たときは、なんでこんなところに家を?――と思い、すぐに、仙台市の(NHKの報道によると、大学の先生が津波の危険性を警告していたのに、開発業者が脅迫してその警告を抑え込んで宅地化を進めた結果、ごっそりと津波にさらわれたという)荒浜地区のことも思い出した。

 ここのところの記事で紹介してきたNIAES、つまり農業環境技術研究所のサイトを開いていただきたい。

 左側に6つ並んだ四角い枠の上から2番目に「土壌情報閲覧システム(全国土壌図)」というのがある。ここをクリックして、さらに次に表示されるページでも「土壌情報閲覧システム」という項目名をクリックすると、そのシステムのページが表示され、やはり左側に6つ並んだ四角い枠の2番目の「土壌図」というボタンをクリックすると、緑色の日本地図が表示される。ここで「広島」県のところをクリックし、あとはポインタを広島市のあたりに合わせてマウスのスクロールボタンでどんどん地図を拡大していくと、最近、テレビの画面にもよく表示される安佐南区から安佐北区にかけての、ちょっと、松の盆栽の枝ぶりを思い出させてくれるような地形図が表示される。

 そこで(少し手間かもしれないが)安佐南区の「06B」という表示のあるあたりをさらに拡大し、「山本八丁目」というところをさがしていただき、水色の縦線で表示された領域をクリックすると、こんな画面が表示される。

 地図の「06B」という表示が「中粗粒褐色森林土」を表しているのだということがわかり、下に解説があり、そこに「地形的には土壌侵食の危険性が大きい」とある。

 こういうことは、もちろんわたしも20日の朝になって広島の異変をニュースで知り(実は、国内のニュースよりも先にBBCの天気予報がはるか南方のタイから香港、台湾、日本にかけてひろがる巨大な雲の画像を映し出しているのを見て、ぎょっとしたのだが)、被災地の地形を見ながら「どうして?」の思いを募らせ、NIAESのサイトを当たってみるまで知らなかったのだが、科学とその研究に身を投じている人たちのナレッジ(知識)ベースでは、警告されていたのである(もちろん、現実の危険性はもっと細かく、個別に吟味し、検討する必要があると思うが)。

 仙台の「荒浜」のときも思ったが、日本の科学は(「原子力村」という例外的な領域のことはいざ知らず)ちゃんと機能している。世界のほとんどの地域よりよく機能しており、志のある人たちが自分たちの使命に取り組んでいる。科学は「ノーベル賞」や「大学教授」という称号を獲得して個々人の自尊心を満足させるためにあるのではない。人間という(安寧を確保することをポジティヴなこととして処理する思考回路を持った)生物集団がそのポジティヴな方向へ自分たちの世界をより近づけるために編み出した分業のシステムである。

 分業のシステムは全体がシステムとして機能したときに初めて生きてくる。先人がせっかく編み出したシステムも、時間を経るうちに自分個人や自分たち一族や自分の仲間内の福祉や繁栄しかイメージできない狭い了見の個体が紛れ込んできて、重要なジャンクションポイントの接続を絶ったり、情報をあらぬ方向へ流したりすると、個々のパートは十分に機能しているのに、全体としては機能せず、わたしたちの営みが「安寧」に届かなかったり、場合によっては、「安寧」の破壊につながったりすることがある。

 だからこそ、わたしたちの世界のシステムに(外国の現状がどうだろうと、そんなことはどうでもいいから)、わたしたちの生活空間の「一部」などという表現にはとてもおさまらない「基本中の基本」である「土」に地道にアプローチしている分業分野とその成果を明確に取り込んでほしい――と、切に、切に、願っている。

 彼らは自分たちの自尊心を満たすために「環境にやさしい」だのなんだのという「きれいごと」の世界を展開しようとしているのではない。自分たちの「メシの種」をつくり出すために予算を獲得しようとしているのでもない。逆である。土壌の科学という分野は、十分ではないにしても、それなりに予算を供給されて機能している。だけど、いまのままでは、その成果を吐き出すエンドポイントが宙ぶらりんになっていて、(現場の人には失礼な言いかたになって申し訳ないが)供給している予算が四散しているといってもいい状態になっている。

 だから、その立派な、人間社会にとってきわめて有効かつ実用的な科学分野の成果を国民全体の生活システムに還流させ、効率的な社会システムを構築していこうと言っているのである。もちろん、立法府や行政府の人にもはたらきかけは行っている。それなのに、場合によっては、「事業(金もうけ)につながらないものは法律をつくってもなあ」というような返事が返ってきている。

 こんな、毎日大勢の人たちが肉体寿命以外の原因で死んでいる世界のシステムが「安寧」を願うわたしたち人類の理想、あるいは究極のシステムであるはずなどない。立法府や行政府の人たちには、まわりの「村」がなんと言おうと、外国のイミテーションなどには終始せず、この不完全な世界に日本が率先して新しいシステム、「少しはよりましな」システムをつくっていくのだという本来のプライドを持ち、発揮していただきたい。日本には、また少し先へ進んだシステムを世界に提示できるだけの科学の土壌も、立法・行政の土壌もそろっているのだから。あとはその両者を合理的かつ効率的に結びつけるだけである。

 たとえば、不動産業者の資格認定の条件のなかに土壌の知識を持つことを含め、不動産取引の条件に前記のような土壌情報の告知・伝達を義務づけるような制度をつくれば、今回のような悲劇を少しは少なくすることもできると思うし、事業の創出にもなる。そんな無駄な金が動くシステムをつくってどうする?――あるいは、黙っていたら売れる土地が売れなくなったらどうしてくれる?――あるいは、そんなことを気にしだしたら都市開発ができなくなるではないか?――と思うかたがいらっしゃるとしたら、今回犠牲になった子どもたちのことを(別に大人たちのことでも同じだが)考えてみていただきたい。わたしたちの体は息をすることによってその「生命」という現象を維持するようにできている。どんなときでも息がしたい。たとえ不意に家のなかに流れ込んできた土砂に埋まって、息をしようとすると口のなかに土がはいってきて、それで口のなかがいっぱいになっても息がしたい。それで、しかたなく飲み込んだ土で気道をつまらせて次の息ができなくなっていった子どもたちのことを考えると、大人がそんな乱暴な、大雑把な了見でいていいのかと思う。「土」のことをつねに意識するのは、「現在の」社会・経済システムのうわっつらからすると、一見無駄のように思えるかもしれないが、わたしたちのシステムが最終的に志向しているのは、ひとりひとりの「安寧」「平和な暮らし」「楽しい人生」なのである。

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by pivot_weston | 2014-08-23 08:27 | ブログ

ささやかなるもの

「土」のにおいのするほうへ、鼻をクンクンとやっている。

 もっとも、わたしには、科学的なデータをあげて、だから「土」がだいじなのだと、頭に説得力のある論を展開することはできないが、人が狭量でわがままな抽象的概念で構築した近代的世界にこもるようになる前、生きていくために「土」を手でかき、死んでもまた、ひとりひとり順送りに仲間たちの手で「土」に返され、その肉体に宿っていた生命力を周辺の草へ、樹木へと転化し、不細工で不如意なものだったかもしれないが、人としての統一のとれた生命を生きていた時代を考えて、自分にとっての「土」の意味を考えてみようとしている。

 してみると、やはり前の話に書いた、秋になると「ゴッホの麦畑」の色に染まった世界が浮かび上がってくる。

 小学校の校区のいちばん外れに当たり、「草ソリ」の季節になって、あっちの校区からも、こっちの校区からも、見慣れない顔の子どもたちが裏にロウを塗った板や厚紙を持って池の土手の斜面に集まってくる季節になると、どうも伸び伸びできないことが多かったが、それ以外の季節はひっそりしていて、どこでザリガニをとろうと、どこで探検やターザンごっこをやろうと、どこでコンバットごっこや石のぶつけ合いをやろうと、もう完全にわたしたち、その世界に住むわずかばかりの子どもたちの天下だった。

 ある年の夏だったか、そのときも、暑い、暑い、と思い、いまの子どもたちが公園の噴水の周辺やプールに行くようにして、近所の子どもたちと、そこらじゅうの田んぼのまわりに掘られた幅1mほどの農業用水路のなかで、いちばん「ちみたい」水が流れていて、いちばん深くまで(といっても、膝下何cmのレベルだが)水に足をひたして遊べるところをさがして、ほとんど人の出ていない「麦畑」の世界をうろついていた。

 おや。大きな池の土手の下の水路だった。なんでこなんとこに背なかが(どうしてこんなところに背なかが)?――と思った。大人が水路で水遊びをしているところなど見たことがなくて、その水を田んぼへ入れる流入口のところはともかく、用水路の途中は完全に子どもたちの独擅場だと思っていたので、水路の横のあぜ道を走っていて、その水路の途中に大人の背なかが見えたときには、とても違和感をおぼえた。

 しばらく足を止めて凝視の時間があり、背後からついてきていた足音も止まった。

「おっさん、なんしょん(おじさん、なにしてるの)?」

 そう訊いても、しばらく顔は上がらなかったと思う。おとろしげな(怖そうな)おっさんかな?――という思いもちらっと脳裏をよぎったが、用水路のなかでうつむいていた顔が上に向いてみると、意外にも、あまり野良の景色には似つかわしくない、はじめて見る顔のおじさんで、向こうにも戸惑いがあったのだろうが(ただし、不審そうに、あるいは面倒くさそうに表情がゆがんだりすることは一瞬もなかったが)、やや置いて、「しじみ、とっりょんじゃ(しじみを獲ってるんだよ)」という返事が返ってきた。

 柔和で、知的で、だけどどこか上の空な感じのおじさんが、ザリガニを獲るわたしたちのように、水路にはいってうつむいてしじみを獲っていた。そんなところが「天下」の悪ガキどもにはとても新鮮で、ほんとうはこちらももっと知的に対応ができればよかったのかもしれないが、悪ガキどものどうしようもないところで、つい畳みかけるように、「しじみ?」「なんで?」「どして、しじみや、とるん(どうしてしじみなんか獲るの)?」の言葉が相次いだ。

 夏空を見上げたおじさん。柔和に、知的に、ほのかな笑みを浮かべていたと思う。

「おっさんの奥さんがの、ジンゾーがわるて(悪くて)……ここらへんでしじみがとれると聞いたもんじゃきに(聞いたものだから)、とりに来たんじゃ」

 ふぅん、である。悪ガキどもは、そう言ってこちらへやさしそうにほほえみかけるおじさんから目をそらし、水路を流れる水深5cmほどの水を見下ろして考え込んだ。

「ほんなら、ぼっきゃもとってあげらい(それなら、ぼくらも獲ってあげますよ)」

 自分でも意外で、それがまたとても新鮮でもあったのだが、ついそういう言葉が口から出たのは、おじさんの柔和で知的な笑みの力だったかもしれない。

 悪ガキどもは、目標が見つかると元気になる。「よしっ、おい、みなでしじみ、とってあげろぜぃ」そう背後に号令すると、「おっしゃ!」「おうっ!」の声とともにドボドボと水路に飛び込む音が続き、その日は日暮れまで、その土手の下一帯に「わっ、こなにおるぞー(こんなにいるよ)!」「わあ、ようけとれた(たくさんとれた)!」の歓声がこだました。

 結局、明るかった空がほんのり薄暗くなってきたころ、おじさんは持ってきていたバケツに半分ほどたまったしじみを自転車の荷台に載せて、ふたつほどとなりの村まで帰っていった。

 子ども心には、とても楽しい経験だった。悪ガキどもはみなそうだったのだと思う。次の年も、同じ季節になったころ、わたしが同じ水路のほとりで水面を見下ろしながら「あのおっさん、また来るかのう?」と言うと、みなすぐに「ああ、あのおっさんか。しじみとったん、おもっしょかったのう(しじみを獲ったの、おもしろかったな)」と反応していた。

 あのおじさん(といっても、いまのわたしから振り返ると、もしかすると30代前半の「若者」ではなかったかと思うが)も、いまの時代ならさしずめテレビのテレフォンショッピングあたりでサプリメントを買ってよしとしていただろうか。ただし、わたしたちといっしょに狭い農業用水路のなかで腰をかがめてしじみを獲っているあいだ、奥さんの身を案じているようなことはひとことも言わなかった。ただ一所懸命に川床の砂を手でかき、まわりでわいわいと騒がずにはいられない悪ガキどもが内面の要求にまかせているのを、ちらりと見ては、ふふ、と笑い、ちらりと見ては、ふふ、と笑いしながら、また腰をかがめており、子ども心にも、その姿がなにより、奥さんの身を案じていることを雄弁に物語っているように思え、こちらも、ほならもっととってあげな(それなら、もっと獲ってあげないと)と、いつのまにか親か誰かに頼まれた仕事をしているように砂をかく手に力がはいっていた。

 柔和で知的なおじさんの背後にあったものにあらためて気づいたのは、自分も「おっさん」と呼ばれる年齢になってからだった。わいわいと歓声をあげるわたしたちのかたわらで、笑みは絶やさず、だけど黙々としじみを獲りつづけていたおじさんの横顔を思い出した。わたしたちにとっては、「しじみは腎臓にいい」という知識をはじめて仕入れた体験だった(それが証拠に、その夜、わが家の家族は夕飯のときに「しじみはジンゾーにええんで(しじみは腎臓にいいんだよ)」などと、急に思いもよらぬことを口走りだしたわたしのほうを不審そうに見ていた)。しかし、次の年には来たものの、もうその次の年には、おじさんの姿を見かけることはなくなり、毎年しじみの季節が来るたびに、悪ガキどもと「あのおっさん、どしたかのう」と水路を見ながら話していた。

 夏の日なかに、池の土手の下の狭い水路から顔を上げたおじさんが言った「おっさんの奥さんがの……」の言葉は、その静かな口ぶりも手伝って、ささやかながらも、いまでもわたしがこれまでの人生で耳にしたもっとも上質な愛情表現として記憶に残っている。

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by pivot_weston | 2014-08-15 12:12 | ブログ

KANO

 そういう題名の映画が台湾で人気を集めていて、来年には日本でも封切られるという。

 還暦を前にする歳になってときどき体験するようになったことだが、大飛球側面見物効果とでも言えばいいのか、往年の阪神タイガースの田淵さんのホームランを見るように、視界の左のほうで誰かがガツンと打った打球が、大きく空に弧を描くほどの時間があって、やがて、右手のほうでスタンドに飛び込んでどっと沸くのを見せられているような印象を受けることがある。

 最近、このブログの常連化している祖父の「細工場」は、言ってみれば、わたしにとって理想とする世界の空気が流れ込み、漂うところだった。大きな窓の敷居にまたがって外を見ると、秋になると一面「ゴッホの麦畑」の色に染まる田畑が広がり、四季折々に、四季折々の装いをした農家の人たちが、四季折々の作業にいそしんでいるのがちらほらと見え、毎日朝になると、となりの小屋のわきで、樺太帰りの元サイコロ師のおじさんが向こうの丘からのぼる朝日に向かってこうべを垂れて一心に手を合わせていて、ほどなくすると、少し離れた中学校に通う校長先生が自転車を押して池の土手に斜めに切り傷を入れたような狭い坂道をのぼってきて、鍬をかついだとなり村のおじさんも窓敷居にまたがるわたしの前を通りすぎていき、裏手の家のおじさんが亡くなったときには、その土手の坂道を、当時のわが家のほうでは珍しかった寝棺(つまり、現代ではごくふつうの棺)をかついだ葬列がえんえんと下っていった。

 窓の内側の「細工場」は、じいさん仲間の社交場になっていた。午後になると、石ころのころがった表の道に下駄の音がして、近くの神社に通っていた「おたゆうさん」(神主さん)が「おお、おるかい?」と言って顔をのぞかせる。祖父の囲碁・将棋の仲間であり、細工場の中央には、つねに祖父の手製の碁盤や将棋盤が出ていて、「おるかい?」と言ってはいってきたおたゆうさんは、口ではよもやま話などをしながらも、それは単なる時間の埋め草程度の意味しかもたないもので、さっさとその碁盤や将棋盤をはさんで祖父と向き合っていた。

 ちょうどいま時分の季節か、そのよもやま話の声を心地よいBGMとして聞きながら、かたわらで腹ばいになって新聞をひろげていると、甲子園大会の歴代の優勝校と準優勝校の一覧表が載っていた。いまとは違い、まだ40回かそこらまでしかない、ずいぶんコンパクトな一覧表だった。優勝校と準優勝校の校名のかたわらには、その学校がある都道府県の名前も載っていて、それを目で追っていくと、「台湾」という文字が目にはいった。

「へえ、甲子園で台湾のガッコが勝ったこともあったんじゃな」

 別に返事を期待するわけでもなく、そうひとりでつぶやくと、手に持った碁石をパチンパチンと碁盤の側面に打ち当てていた祖父が「カーギーかあ」と言い、おたゆうさんも「つおかったのー」と応じた。

 もちろん、戦争があったことは知っていたが、その戦争がどのようにしてあったかは知らなかった時代だ。わたしのまわりで「台湾」のつくものと言えば、川や池で釣りをしてきた子どもたちが不毛な漁場を表現するときに決まって口にしていた「……くらいしか釣れな(釣れない)」というセリフの冒頭にくる「台湾どじょう」くらいしかなかった(実際には、みな「台湾どんじょ」「台湾どんきつ」という言いかたをしていたが)。「台湾」といっても、どういうところかはまったくわからなかったが、南のほうにあって、その当時の日本には含まれないことはわかっていたので、一覧表を見たわたしは、その数年前に準優勝していた満州の大連商なども同じで、さしずめ現代のスポーツ大会で言う「オープン参加」のようなかたちで台湾という外国の嘉義農林という学校が特別に参加して、準優勝していったのだろうと思い込んだ。

『KANO』というのは「嘉農」、つまりその嘉義農林の準優勝までのプロセスやその周辺を描いた映画らしい。

 そうか、やはり人の心をひきつける出来事だったのか――大きな弧を描いてきた飛球がスタンドに飛び込んでどっと沸くところを見せられているような気分で、そう思う。

 田淵さんの、バッターボックスで投手が投げた球を打つという行為も、考えてみれば、こちらはただ側面で見物させてもらっているだけで、見物人自身とは直接関係のないことだが、それでも、ガツンといったインパクトのすごさについ見とれ、あんぐりと口をあけて空に弧を描く打球を目で追っていくように、他人事のその情報を誰とも共有せずに自分のなかに抱え込んでいるうちに、しだいにそれが自分の内面となれ合ってきて、まるで自分と関係があること、あるいは、あったことのように思えてくることがある。「嘉義農林」のケースもそれで、嘉義という町は一度も行ったことがないのに、いつのまにか、わたしのなかでは、旧知の間柄のようになっている。

 実際には、嘉義農林は「オープン参加」ではなく、台湾が日本統治下にあったために、「全国」中等学校野球選手権大会にその「全国」の一地域だった台湾の代表として「正式参加」したチームで、台湾人、日本人、中国人の混成チームだったという。準優勝したのは1931年(昭和6年)で、決勝の相手が昔の甲子園のスコアボードにあのふぞろいな0(ゼロ)を25個(その試合の対戦相手の明石中学の投手の分も合わせると50個)もならべた伝説のスーパー投手、吉田正男さんの中京商業だったところが、また嘉義農林の伝説もふくらませているのだろうが、その一方では、別の面で伝説となっている霧社(ウーショー)事件が発生した翌年にも当たっており、必ずしも日本人と台湾人が仲よくひとつのチームに溶け込める時代環境ではなかったようにも思える。

 ただ、この映画には、「台湾のお大師さん」八田與一さんも作品のためにいささか史実を曲げて登場するらしい。わたしも「台湾の嘉南地方でいちばん有名な日本人は八田さん」と最初に聞いたときには「誰、それ?」と思った。日本の「ため池の国」讃岐でいちばんの有名人はやはり地元出身のお大師さん・空海ということになるだろうが、それは必ずしも宗教的業績ばかりによるものではなく、日照りの国で人が生きていくためになくてはならない巨大なため池・満濃池を改修した功績によるところも大きく、日本統治時代に烏山頭ダムを作って肥沃な台湾の平野を渇水から救った八田さんの場合にも嘉南地方で同じような現象が起きているらしい。

 わたしの頭のなかでは、いろんな時代が混ざり合って「KANO」の文字から呼び起こされる世界ができあがっているが、「嘉義農林」がいて、「八田さん」がいた1930年前後の台湾中南部の田園地帯、そこを現代の台湾の映画制作者たちがどのように撮り、描いているのか、興味をひかれる。いまの若い映画製作者たちは、そこからなにを表現しようとしたのだろう。

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by pivot_weston | 2014-08-14 13:51 | ブログ

土曜の朝の楽しみ

 わたしの暮らしは、基本的に仕事の納期を除けば自由である。その納期を守りさえしていれば、あとは寝転がっていようが、酒を飲んでいようが、誰にもとやかく言われることはない(いや、3年前に母が同居してからは、それがちょっとプレッシャーになっているが)。昨日も出かけたついでに、日頃の運動不足解消のために、昼日なかから、半定期的に通っているバッティングセンターに寄ってきた(左打ちのゲージがメンテナンス中で使えなかったので、少し吹き飛びそこねたもやもやが残っているが)。

 それでも、そんな暮らしのなかで、土曜日の朝には、自分に「must」として課していることがある(もちろん、仕事の納期と重なったときは「may」くらいに変化する条件付きの「must」なのだが)。三井物産の「グローバルビジョン」。これは楽しい。毎回、テーマを決めて世界の3か所の人たちの暮らしを取材し、それを適宜切り換えながら放映していく1時間のテレビ番組。わたしのように「兼高かおる」さんに育ててもらったような気がしている人間にとっては、あの兼高さんの番組が終わってから長く続いた空白の時間を埋めてくれる、とてもうれしい番組だ。だから、毎週、土曜日の朝は、ゴミ出しとセットで自分の頭に叩き込んでいる大切な大切なスケジュールなのだが、それでも夜なかに仕事にのめり込んでしまうと、つい、気がついて「あ、土曜日か」と思ったときには、時計の表示が「7:00」(「グローバルビジョン」が終わる時刻)を過ぎていて、あちゃ、なんだよ~、なんで忘れたんだよ~――と自分を責めたりしている(もちろん、ネット上でも「見逃し視聴サービス」があるらしいのだが、仕事中にずっとネットとにらめっこしているわたしの視聴環境では、なかなかその「サービス」をクリックする気にはなれない)。

 ただ、このすばらしい番組に、理解に苦しむ不思議なところがある。わたしがいま住んでいる地域は、高いビルが多くて電波の具合が悪いので、テレビ放送はみんなケーブル経由で供給されている。だから、MX-TOKYO、チバテレビ、テレビ神奈川、テレビ埼玉がすべて視聴でき、「グローバルビジョン」もその4局すべてで放映されているのだが、その放送時間が4局すべて土曜日の朝5:30~7:00なのだ(局によって30分ずれている)。それなのに、やっている内容(Vol.)は局によって違っている(同じ局もある)。だから、全部見たい(全部のVol.を見たい)と思っているこちらは、どこを見たらいいのかわからなくなる。

 番組の途中ではさまる、針金(線)で立体をつくっていくアーティストをモチーフにした三井物産のCMも、最初は、へえ、なるほどな、線で立体か――などと感心しながら見ていたのだが、そんなわけだから、もう落ち着いて見ている気にはなれない。まずは5:30から始まる局の放送を見ていて、6:00を過ぎると、そのCMに切り換わるたびに忙しく局を切り換え、どれどれ、今日はどこの局のがおもしろそうかな――とやる。

 商業の世界の常識はよくわからないので、どうしてああいうことになっているのか理解できないが、いつも、もったいないことだな、と思う。ゴールデンの時間帯などに放映されているうわっつらだけの騒がしい番組に比べると、ずっと落ち着いてほかの地域の人たちの暮らしを見ることができるのに……ほら、「グローバルビジョン」のサイトにも「毎週土曜日 夜7時から放送中」とあるでしょう……あっ! ……あっ!! なに、「夜」? 「夜」?? ということは「朝」じゃないよね、これ?

 まあ、細かい神経を要する仕事をしているくせに、どうしようもなく大雑把でそそっかしいのがわたしの持ち味のひとつでもあるので、別に珍しいことではないのだが、要するに、ということは、そもそもの「本放送」はちゃんとゴールデンにやっていて、それが見たければ、(その放送をやっているBS12そのものは無料放送らしいが)その無料放送を見るために必要な中華鍋を買わなきゃいけないというわけで、それを買う財力がないわたしの甲斐性のなさに、土曜の「朝」の楽しみをのんきにゆったりと味わえない原因があったわけか。なぁ~んだ。わかってみると、たいていわたしの問題はこんなものなのである(でも、ま、いつも番組を見ていて、取材対象の人たちの表情から、取材陣の関係づくりのみごとさを感じております。いずれにせよ、この番組の制作者のみなさんにはApplause!――ですね。世界を飛びまわるのはたいへんでしょうが、ぜひ、いつまでも続けてほしい番組です)。

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by pivot_weston | 2014-08-09 10:55 | ブログ

足もとの宇宙

 2日の土曜日には、群馬県の松井田というところで、群馬大学の先生や地元の地盤工学会のみなさんなどがお世話をして、夏休みの「親子モノリス(土壌標本)採取教室」という催しが開かれ、深さ2.8mにもおよぶ大標本が採取されたらしい。写真のいちばん手前のほうに写っている黄色いところは、1万6000年ほど前に浅間山が噴火したときに噴出した溶岩が冷えて固まってできた軽石だそうな。

f0196757_1321019.jpg 1万6000年前――ま、どんなに古くから家系が記録されているお宅でも(お間違えなく、一般に言われている「家」の古さは記録の古さであり、「家系」そのものは、現代にいっしょに生きておられるかたがたはみな一様に、同じだけ古いのです)、いくらなんでもそこまで古い記録はない。

 ところが、Wikipediaの「日本列島」の記述によると、この列島の原型が形成されてきたのは5600~3400万年前とのことで、それと比べると、1万6000年前といっても、ついこのあいだのことのようなものになるのかもしれないが、それでも、最近ようやくオスの平均寿命が80年を超えたことが報じられていたこの列島内の人間という生き物の個体が自分の目で見て体験できる時間の範囲からすると、1万6000年前というだけでも、十分に途方もない大昔のことになる。

 それが、その、たった80年やそこらしか生きられない生き物の目でも見ることができる。しかも、その上に積み重なった黒っぽい土の層は、「うそをつく」なんていうつまらない特技を身につけた生き物がせいぜい80年かそこらしか生きられないのが幸いして、もちろんうそをついたりしないものだから、その1万6000年前という大昔から、この地球という生き物がいろいろと思うにまかせぬ時間を過ごしてきた過去を正直に物語っている。

 こんな、わたしたちの命の限界をはるかに超越した時間を、いったい誰がこんなふうに重層的に体験させてくれる?――と問いたくなる。もちろん、宇宙は何億年という昔からいま現在までを重層的に見せてくれる。でも、(ま、土も宇宙もどちらも貴重なものなので、わざわざ比較することはないのだが)「見せてくれる」だけだ。土は「さわれる」。1万6000年前の現実にさわれる(厳密に言うと、1万6000年前の現実が、それからそれだけの期間を経過してきた現実だろうが)。宇宙でさわれる(あるいは、これまでに人類がさわった)のは、何億年という重層的な視界のなかでほぼ「いま現在」に相当するごくごく狭い一角だけだ。

 そこに、わたしたちが、この人間というチンケな生き物に与えられた思考能力というわけのわからないもので時間や空間や感情というものをとらえ、少しでもみんながよりよいかたちでより遠い子孫まで生きていけるようにするすべを考えるうえで、「土」の持っている究極の意味がある。

「教育」といって、最終的にはせいぜい80年かそこらの時間しか与えられていない個体同士の殺し合いに使われることになる技術を編み出すための数式を解くすべを教えるひまがあったら、その時間を少しでもさいてまず教えるべきが、この「土」のこと、「地球」のことだと思う。「土」が体験させてくれる時間の重層性は、うまくいってもせいぜいこの地球の寿命までが限界で、とうてい宇宙にかなうものではないが、それでもわたしたちはまだその「せいぜい」の「地球の寿命」を満たす知もほとんど獲得していないのが現実なのだから。

 というわけで、群馬県の松井田できわめて高尚な催しが行われていたころ、わたしのほうはその「せいぜい80年」のなかでもさらに短い40年の時間の旅に出かけていた。わたしがいたころには人口60~70万だった地方都市が100万を超えるところまで膨れ上がり、プロの野球チームやサッカーチームもでき、3年前には巨大地震にも遭い、街はすっかり変わったと聞いていた。

 まず目指したのは山のなかの「ひそかなお弁当場」。山の下の教養部から山の上の学部まで、山のなかを上がっていく草道があり、その途中に、たぶんわたし以外にも何人かの人が利用していたのだろうが、ちょっと草や木をかき分けたところに、草の生えていない、ちょうど一服するのにもってこいの場所があり、そこの石に腰をおろすと、視野の左隅から右隅まで、なににもじゃまされず、今度の大地震を引き起こした海底を下に隠す太平洋を見渡すことができた。そこに、もう一度行ってみようと思った。下から坂道をのぼるのはもうホネかもしれないから、上の学部のほうから降りてみようと思った。山の上で車を降りると、建物やなにかはがちゃがちゃと増えていたが、記憶にある方向をたどっていくと、お、生協がある、お、薬学部の建物もたしかこんな感じだったな、と40年前の視覚的記憶がよみがえってきて、当時はなかったニュートリノの研究施設のわきなども抜けていった。

 ありゃ! 予想もしない事態が待ち受けていた。クマだ。いや、クマさん自身は、かんかん照りの日なかに40年ぶりに山にのぼってきたじいさんをわざわざ襲いに出てくるほどヒマではなかったみたいなのだが、「クマが出るからこの先は行っちゃダメ」という看板が出ている(どうやら、ニュートリノやなにかを研究する時代の最先端を行く物理学科の研究棟の前にもクマさんがワオーッと出てきたことがあるらしいのだが)。

 まあ、20代のころなら、クマと格闘して血まみれになっても目的の場所へ――という無駄な闘志も湧いてきたかもしれないが、この歳になり、自分に与えられている時間をどう過ごすかを全体的に考えるようになると、もうそれは湧かない。そこで初めて、やはり世のなかは変わっていくものやなあ――と実感しながら引き返し、自動車道を歩いて、山の下の教養部まで降りていくと、ありゃ、こ、これは幻か……と、一瞬ひそかにうろたえてしまうような光景が待ち受けていた。

 ひと目見たときは、なにもかもが変わってしまったように見えた。わたしたちが花を育てていた花壇は駐車場に変わり、ピッカピカの車がずらりと止まっていた。なのに……あれ、あれぇと思い、内心目をこするような気分でよく見直してみたが、間違いない、40年前には、茶道部やダンス部などがサークル部室として使っていた進駐軍時代の白い板張りの細長い建物のわきに、ひとつだけぽつんと離れて園芸部の部室があったのだが、それがまったく当時のまま目の前に残っており、だけど、その向こうに長くつらなっていた進駐軍の建物はすでになく、そう、40年前にわたしたちが「おれたちゃ、毎日、こんなところでこんなことばかりして……」と、ぶつくさ言いながらトランプやなにかをしていた園芸部の部室だけがそっくりそのまま、そのででーんとひろがる駐車場の前に残っていて、「園芸部」という看板までが変わっていない。

 どれどれ……と、なかにおじゃましてさらに驚いた。1年生から4年生まで、4人の男女の学生がいた。もちろん、みな顔もかたちも変わっている。だけど……その、わたしたちの子ども、いや、へたをすると、孫の世代にも当たるかもしれない4人の学生たちがみな、40年前のわたしたちがすわっていたようなベンチや椅子にすわり、40年前のわたしたちと同じような雰囲気を醸し出している。

 もちろん、わたしという個人の目で見るから、40年前と現在との対比になるが、園芸部の部員はわたしたちの前にも、あとにも毎年いたはずだから、いまざっと各学年に10人の部員がいたと仮定し、進駐軍の建物が建てられたと思しき70年前あたりから起算すると、およそ700人の人がそこに出入りしてきたと考えられる。700人の個性が出入りしてきたのに、部室の外見はおろか、室内も、またそこの雰囲気もほとんど変わっていない。これは新たな驚きだった。

 売茶翁にも寄り、定禅寺通りのケヤキ並木も歩いた。40年前には、近くの、空気の重みで押しひしがれそうな下宿に住み、理知的なおばさんがやっていたおでん屋「こだま」に毎日通い、このケヤキ並木の下のベンチで昼寝していた。いまではストリートジャズフェスティバルなどが開かれていると聞いていたので、ここも変わってしまったのではないかと予想していたが、人影のまばらなふつうの日の午後には、なにも変化はないように思えた。

f0196757_13213355.jpg ケヤキの幹を見上げた。年々歳々、わたしたち人間の個体のように生まれ変わる葉はもちろん40年前に見上げたものであるはずもないが、そうか、この大きな幹や枝のどこかには、40年前にベンチで昼寝していたわたしの上で、日差しをさえぎってくれていたやつらもいる可能性があるんだな、と思った。モノリスは案外、足もとばかりでなく、わたしたちの上にもあるのかもしれない。下でも、上でも、わたしたちは自分たちに与えられた時間と空間を重層的に楽しみ、知り、考える要素に恵まれている。

 帰りの駅のホームでは、ぶらぶらしていると「こばやし」のお弁当屋さんの売店があった。大勢のお客さんをさばくのに大忙しだったおねえさんの手があくのを待って近づき、「わたしも40年前にあなたと同じ売店に(アルバイトとして)いたんだよ。古い駅舎の時代だけどね」と言うと、おねえさんの表情がいい感じでほころんだ。これも人生の重層性の味わいか。

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by pivot_weston | 2014-08-04 13:32 | ブログ

昆虫採集と土

 夏休み――と聞くと、いつも反射的によみがえる感触がある。先の記事に書いた「小」の池があった神社の森。村の中心集落から離れたところに家があったわたしは、朝の6時半からのラジオ体操に行くときにはいつもこの森のなかを抜けて集会場まで行って上級生にハンコを押してもらっていたのだが、その森のなかを通るときの、ランニングシャツから出た肩に触れる空気の感触、半ズボンから出た脚に触れる空気の感触。どんなに暑い夏でも、朝6時すぎのその森のなかの空気の感触は、ひんやりしていて、得も言われず心地よく、20代になって雑誌の編集作業で初めて「森林浴」という言葉を目にしたときにも、フィトンチッドがなにかはよくわからなかったけど、その感触だけはすぐに、あゝ、あれか、やっぱりいいんだよな――と東京のビルの編集室にいても実感することができた。

 いまでは、台風で樹木が折れるかなにかして、杉一色の、単調で、頭の上は暗いけど、目の高さはただまっすぐなその幹がならぶだけで、すかすかの、なんとも味気ない森になってしまっているけど、形状も、光を通す度合いも、さまざまな木の葉が目の高さまで、やさしく、密に、また複雑に視界をさえぎっていた雑木林の時代には、1本1本の個性ある木の形状や(葉に触れるとかぶれるような)特性までが、人のはいり込む余地やルートなどを細かく、また複雑に規定していて、近くの村や町はおろか、遠くの都会や別の地方、さらには海をわたって外国まで視界がひろがった大人の目で見ると、なんともちっぽけな神社の森なのに、年中、何度はいり込んで、何回探検しても、まだ子どもの心に「神秘」のイメージと「興味」を残す豊かさがあった。

 そして、そこを探検していると、無数に出くわしたのが昆虫だ。雑木林の地面は、青々とする季節を過ぎて枝の先の持ち場を離れた、サイズも形状もさまざまで、青々としていたころとはまた違ったかたちにめくれたり、ゆがんだりした茶色い葉っぱで埋まり、その一枚をめくると、下には、年々歳々、春夏秋冬の経過を経てできあがっていく腐葉土を住みかとする大小の昆虫たちがうごめいていた。

 そう、昆虫は土と切っても切れない関係にある(ほんとうはわたしたち人間もそうなのだが)。だから、ひとつ思うことがある。子どもたちの「夏休みの宿題」だって、時代とともに進化していいはずだ。いまの時代は、ものが地球規模で動くようになったから、サプライチェーン(原料生産→仕入れ→製品製造→販売の流れ)を重視しようとする方向へ動いている。ピッカピカのかっこいいスマートフォンを売っている会社でも、アフリカで悪いことをしている人たちが、悪いことをするお金を稼ぐために売っているものを買って、悪いことをしている人たちに協力しているのなら、正直にそれを言いなさいよ、うそついても確かめるからね、で、悪い人たちに協力している会社やうそついた会社には、お金を出してくれる人たちが減ると思うよ――という規則がアメリカではできている。

 ま、子どもの「夏休みの宿題」の場合は、悪いこととはおよそ関係ないが、このように、せっかく「ものの流れ」を大切にするところまで世のなかの文明が進化してきたのなら、子どもたちの「昆虫採集」だって、集めた昆虫がどのような流れのなかで(どのような土のなかで)生きているのか、また、生きてきたのかまで含めてまとめたら、子どもの自然理解はただの平板なレベルでとどまるのではなく、深く、立体的に形成され、それだけ大人になってから生かせる道もより豊かにふくらんでいくだろう。

 で、いつも前置きがはなはだ長くて申し訳ないのだが、おすすめしたいのが、つくば市の農業環境技術研究所の「農業環境インベントリー展示館」。いま東京スカイツリーでやっている、夏休みのイベントとして子どもたちに絶大な人気のある「大昆虫展」(お、今日と明日が「撮影会」らしい)なども、ここが裏方さんでやっている。専門の研究者のおにいさんやおじさんたちの説明を聞き、そのおにいさんやおじさんたちが困るくらいの質問をして、昆虫をその生活背景まで含めて採集して学校に持っていけば、先生たちをうならせる宿題ができるかもしれない。

 あらためて書いておくけど、土のなかで生きているのは昆虫だけではないということ。わたしたち人間も土のなかでできたものを食べて生きていて、いま世界中で大切なものとして認識され、奪い合いが起こっている「水」なども、土を通してできているということ。日本の水はおいしい、日本の食べ物はおいしいと言っても、それは土がいいからそうなっているだけで、おいしい水やおいしい食べ物ができる土を守っていかないと、いくら都会やどこかにピッカピカのおしゃれなレストランができても、おいしい飲み物や食べ物はなくなるということ。国土を守ることは大切だと言っても、武器やなにかで守るだけでは粗末な国土しか残らないということ。そう思うから、国会に手伝いに行っていたときには、いろんな省庁の人たちに声をかけて「土の勉強会」をしようとしたのに、文部科学省の人は「なんでわたしたちが土をやらなきゃいけないかわからない」だって。結局は彼らも勉強会に参加してくれたのだけど、よりにもよって文部科学省の人の口から出た言葉だっただけに、あの第一声はショックだったなあ。

 でも、秋篠宮殿下などは、ちゃんとそのあたりのことがおわかりになっているのだろう。今週、7月29日にわざわざご自身で「土壌モノリス(土壌標本)が見たい」とご希望なさって、先に紹介した農業環境インベントリー展示館をご視察に来られたらしい。最近は、テレビを見ていると「日本はすごい」の連呼が耳につくが、「もてなし」や「産業」はすべて末端、うわべのこと。いちばん根にある「日本のよさ」を認識することがそういうよさを守るうえでも不可欠だと思う。

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by pivot_weston | 2014-08-02 07:08 | ブログ