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「楽しい」の変質

 大晦日になった。今年も暮れに何度か「忘年会」やそれらしきものがあり、そのときになにより印象的だったのが、ある会で少なからぬ人が「楽しい」を口にしていたことだった。一夜明けてから「楽しかった」というメールまでいただいたのだが、実は、その言葉は会の進行中から耳にとまっていた。たぶん、58歳という中途半端な年齢のせいだろう。

 最初に、ある人が「今日はこんなに楽しい会を……」と口にしたのが聞こえたときには、まあ、その言葉だけを抜き出せば、そのような場では紋切り型の表現とも言えるから、紋切り型に言葉を交わしているだけかなと思えた。だが、わたしより年輩のその発話者の表情を見ていると、とても紋切り型に、つまり、ただ世辞を言っているだけのようには見えない。よく言う、口角泡を飛ばさんばかりの表情だ。

 そこで、中途半端さが割り込んできた。前でもうしろでもなく、先でもあとでもない、中途半端ということは要するに、前にもうしろにも、先にもあとにも視界がきくということでもある。その中途半端がゆえのよい眺望で見ると、「口角泡」の表情がいささかわびしい表情にも見える。背後に、自分も過ごしてきた若いころの、飲めや、歌えや、騒げやの「楽しい」宴が、中途半端に生々しい記憶の映像としてよみがえってくるからだ。

 そうか、この人にとってはこれが「楽しい」のだなと、またまた中途半端がゆえに妙に余裕のある姿勢でその座を見まわしてみたりもする。でも、そうするうちに、あれ、あの人も言った、あれ、また聞こえた、と、何度もその言葉を耳にとめていると、あ、違うよ、これは――という気になってきた。

 もちろん、肉体の運動量や声量や酒量やなにかの科学的指標で比較したら、わたしが参加した年輩者の宴は明らかに、30年も40年も前に参加していた「おー、今日は楽しくやろーぜーい!」の宴にはかなわない。でも、それではそれは単に「楽しい」という世辞を交わすだけの会なのだろうか。あるいは、かつてのように爆発的な科学的指標で「楽しい」を表現することができなくなった宴を、わびしく残り火を見つめるような目で慈しむ会なのだろうか。

 重層だな、と思った。剣道でも、柔道でも、茶道でも、昔から「道」のつくものをきわめた人たちの身のこなしは、かすかなものでも大きな意味を秘めてくると言われている。それと同じことが目の前のわたしたちの宴でも起こっているのだろうと思った。科学的指標に頼って内面に受けるものの大きさを測るのは、なんとも粗雑で、大雑把な姿勢だ。大きな声も出ないし、多くの酒も飲めないし、飲めや歌えもできないが、一のことから感じとるものは、俗に「多感」と言われる若い人より重層化した内面の持ち主のほうがはるかに多いだろう。そうか、わたしもそろそろスイッチの切り換えを求められているのだなと思い、そのあとは、いけないこと(盆暮れなく働かないと食べていけない)とは思いつつも、ついついいつにもなくただぼんやりと、過ぎていく時間を見送っていた。

 そして週が明け、お正月ということでいつも楽しみにしている韓国や台湾のドラマがないためにさらにぼんやりしていると、逆にお正月特番としてチバテレビが『ラブレイン』というドラマをやりだした。『ある愛の詩』か。ずいぶん古いネタをやるんだなあ……と思いながら、アリ・マッグローさんの顔なども思い出しつつ見はじめたところで、すぐに作中に引き込まれた。色合いからなにから、登場人物の距離感や息遣いのようなものまでが、わたしたちの大学時代にそっくりのような気がした。

 またまた重層化したもののお目覚めだ。入学式というもののなかったわたしたちの大学では、教室でのオリエンテーションから大学生活がスタートしたが、その日のうちに、いまとは違ってほとんど男ばかりだった新入生の群れのなかに、お、と思う人を見つけた。とたんに行動に出たのだが、よけいな気のまわりかたをするドラマのなかのイナくんと同じで、同じ下宿の新入生がそれではとばかりに5月の連休前後にオートバイに乗っけてくれてその人のお宅の前までつれていってくれたのに、宮城刑務所の近くにずらりとならんだ黒塗りの車に「へえ」と見とれるだけで、当のその人が出てきてくれてもなにも言えず、すごすごとそのまま帰宅し、下宿ではオートバイくんに「なにやってんだよ~」とあきれられた。

 その人と、それから5年がたち、あと1週間もたたないうちに東京に出るころになって、キャンパスかどこかで再会した。向こうはまじめに進級し、もう大学院にはいっていたのだったか。こちらは、気になる人の前に立ってもなにも言えない18歳から、街なかのパブで女子学生の一団を見かけると、すぐに野郎どもの先頭に立って「ねえねえ、いっしょに飲まない?」と声をかけに行く23歳の「学生くずれ」に変わり果てていた。だからすぐに「おれ、大学をやめることにしたんです。もうすぐ東京に出ます。ちょっとお茶でも飲みませんか」などと、5年前には間違っても言えなかったようなことをさらりと口にすると(そう、内心「あ、おれ、こんなこと言ってらあ」と思ったのだが)、意外なことに向こうも笑顔で応じてくれ、翌日の午後あたりに通りを見下ろす二階の喫茶店で待ち合わせたのだったか。

 意外や意外。ちゃんと話をしたのはそのときがはじめてだったけど、話しはじめてみるとどんどんそれがはずみ、2時間くらいあれこれと話し込んだだろうか。あ、こんなに時間をとってもらっていいのかなと思ったが、けっこう楽しそうな表情をしてくださっていたので、ま、いいか、と思ったのを覚えている。皮肉なものだな、一所懸命になっていた時期にはなにも言えなかったのに……とも、あとで思ったのだが、それはあくまで、23歳になっていたとはいえ、まだまだ若造の考えることの限界だ。重層化してみると、そこからなんだよ、人間関係なんて、どんなものであれ、そこからなんだよ、と思える。気楽に話をするところからスタートしなければ、お互いに相手を理解し、いい人間関係を築くことなどできるはずがない。俗に、若い人は「純情」「純粋」とも言われるが、そんなことはまったくのうそで、よけいな雑念やら邪念やらにまみれている。忘年会の「楽しい」と同じで、結局は重層化したものが動かぬものとして人生に残ってくる。いまの時代にもイナくんのような若者が大勢いるとしたら、いい人を見つける前に、いい人を逃さないためにも、まず気楽になる修行をしたほうがいい(といっても、これが、口で言うほど簡単ではないことはよくわかっているのだが)。

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by pivot_weston | 2013-12-31 05:32 | ブログ

またひとつの昔話(1)

 なつかしさやら、なにやら、いろんなものが去来する師走だ。

 31年前のこと。長女が生まれようとしていた。その前年に双子を死産で失っていたので、妻のおなかのなかの長女には気を遣っていたが、その将来にはあまり気を遣っているとは言えなかった。当時の若者バージョンのわたしは、双子を失った年に先輩の紹介でロマンス物の小説を1冊訳していたものだから、若者らしい浅墓さで、もう自分はフリーランスでやっていけると簡単に勘違いし、会社をやめて、失業保険で暮らしながら、来るはずもない注文が来るのを待っていた。

 そのころ、いまはあまり聞かない言葉になってしまったが「夫婦交換」の雑誌として知られていた『Swinger』という雑誌の編集部にいた翻訳学校の仲間から、人間社会が勝手に設定している男女の性別のあいだの曖昧模糊とした領域にいる人たちに関する医学の専門家の人たちの講演録のテープ起こしの仕事を10本以上頼まれたのは、単にふところだけでなく、この世を見る目を肥やすうえでもとてもためになったが、いま思い出すかぎり、その失業保険生活時代にやった仕事の記憶は、それくらいしかない。

 子どもが生まれたらお金がいる。それまでは、妻とふたりで段ボール箱をテーブル代わりにし、プリンの容器を茶碗代わりにするような暮らしをおもしろがって楽しんでいたが、内心では長子出産の予定日を秒読みするような気分で意識していた。だから、あるとき、新聞に出ていた3行の求人広告を見て、「ちょっと行ってくる」と言って、ある編集プロダクションの面接を受けに行った。

 ちょっと意外だった。「3行広告」から判断して、ちっちゃな会社かと思っていたのに、面接会場は日本出版クラブの広々とした一室で、面接をしてくれる人も4~5人、いやもっとならんでいただろうか。ちょっと緊張したが、そこは不遜が特権の若者時代だ。ちゃんと背広を着た人たちの姿をひそかな含み笑いでながめつつ、訊かれたことにしゃあしゃあと答え、無事合格。ほんと、当時は妻の出産による家計の変化に対応するための、当座しのぎの、ほんのいっときの就職のつもりだった(つまり、雇ってもらうところはどこでもよかった)し、時間的にふり返っても、まさに「ほんのいっときの就職」に過ぎなかったのだが、この就職がその後の人生に何十年もかかわりをもつようになるとは、そのときは考えてもみなかった。

 こんな表現をすると当時の社長や同僚のみなさんには申し訳ないような気もするが、「変な会社」だった。なにより、初出勤の日に、はじめて編集部の部屋に足を踏み入れたときの印象が鮮烈だった。能天気なわたしはいつもの調子で「おはよございま~す」と言ってはいっていこうとしたのだが、その瞬間にこちらに向けられた社員のみなさんの視線が尋常ではなかった。うっ、と息を飲み、な、なんだ、と思った。暗い、陰々とした空気でこちらを圧迫し、もの言うことを許さないとんでもない世界に足を踏み入れたような気分になった。

 わけは、じきにわかった。従業員20~30人ほどの(編集プロダクションとしては大手だったみたいだが)小さな会社のなかに組合があり、その組合と社長たちが激しく対立していた。そうとわかれば、なんでも表向き仲良くすることを是とする現代の若い人たちの世界と違い、若者同士がドグマやセクトという、一個の生物であることとはおよそ縁遠いもので殺し合いをしていた時代に学生時代をすごしたわたしは、あ、なんだ、そういうことか、とすぐに了解した。なにかするたびに、従業員側からは「こいつは社長が送り込んだ手先じゃないか」、社長の側からは「こいつは組合の連中に取り込まれたんじゃないか」というような目で見られるのは鬱陶しくてしかたなかったが、わたしは前記のような学生時代を送った結果、誰ともつるまないと決めていたので、どちらから吹く風もそれはそれでやり過ごし、「経験者優遇」の「経験」はただの「はったり」だけの間抜けな新米取材記者の役どころをやることにした。

 このときの社長が、社長とは言え、当時すでに有名になっていたノンフィクションライターのSさんなどといっしょにデビューした、れっきとしたライターで(そう。ほんとうに文章のうまい人で、新米取材記者はいつも原稿を見てもらいながら、どうしておれは社長みたいにすっきりした文章を書けないのだろう、頭が悪いのかな、などと悩んでいた)、編集部の社員にまかせない自分個人の仕事として「保岡さん」の本を書いていると聞かされた。誰、それ?――と思い、同僚の編集部員にたずねると、なんでも鹿児島のほうで徳田さんという人と壮絶な選挙戦を戦っている人だということだった。ふ~ん、である。当時は買収や動員が半ば選挙の常識のようになっていたから、そう聞いてもよくある選挙戦なのだろうとしか思わなかったが、教えてくれた人は、いやいや、そんなもんじゃない――というような言いかたをしたような気がする(新米取材記者としては、自分が「壮絶な選挙戦」の壮絶さより、そういう名前をまったく知らなかったことのほうがこたえたのだが)。

 結局1982年11月15日から1983年4月30日までしかいなかったこの会社時代でいちばん忘れがたいのは、なんといっても「編集部員全員一斉退社事件」だ。ある日、出勤したら、編集部に誰もいなかった。みんな取材にでも行ったのかなと思い、黙って自分の席について仕事を始めたが、いつまでたっても誰も来ないので、おずおずと腰を上げ、衝立の向こうにいた社長に「みんな、どしたんすか?」とたずねたら、振り返った社長が視線をこちらに向けずに「やめたんだよ」と言った。予想もしない言葉だった。「え、や、やめた? やめたって……」と言ったが、あとはなにをどう言えばいいのかわからなかった。わたし以外の編集部員が全員やめたら、どういうことになるのかがまったく想像もつかなかったのだ。

 でも、それはじきに思い知らされた。それまでの編集部員はわたしも含めて5~6人いただろうか。取材記事作成会社で、社員かなんだかわからないような人も出入りしていたから、もしかしたら正式には7~8人もいたのかもしれないが、そういう人たちが、それぞれ自分がいちばんだいじにしていた仕事はもっていったみたいだったが、あとの仕事はすべてわたしひとりに残して去っていた。もう四の五の言っていられない。朝の10時までにある雑誌の記事をあげたら、午後の3時には別の雑誌の締め切りが待っていて、夕方にはさらに別の雑誌の締め切り。自宅に帰るひまなどなくなって、毎日最後の締め切りを仕上げたらそのまま椅子のそばの床にごろんとなって、夜中の3時ごろには起きて、次の日の朝一番の締め切りの仕事をする、という日が何日くらい続いただろうか。今日は帰れる、と思った日に、午後9時ごろに電車に乗ったら、しごく当然な生理現象で眠ってしまい、気がついたら夜中に逆方向のとなりの駅にいて、かゆい、かゆい、と頭をかいていたら、いつのまにか近くのシートをフケで真っ白にしていて、まわりのお客さんになにかと勘違いされたみたいで、みんながわたしを避けて遠目に見ていた、なんてこともあり、その日も結局、会社泊まりになったのだが、かといって、夜中の3時ごろに新橋のリクルート社に原稿を届けに行くと、若い女性編集者たちが明々と照明をつけたオフィスでふつうに働いていて、「はい、どうも、おつかれさま」と平然と原稿を受け取るものだから、こちらも疲労をそう表に出すわけにもいかず、長女が生まれて妻が目黒の実家に戻ったころには、新橋からその目黒の家までタクシーを走らせながら、おれ、もしかしたらけっこういい暮らしをしてんのかもな、などと思ったりもしていた。

 悲惨な時代だ。でも、いまでは、次々と頭を切り換えながら数多くの仕事に対処する能力を養わせてくれた時代として、とても感謝している。それに、この時期がきっかけになって、退社後も社長、編集部員の双方から、その後の人生を支える仕事を紹介してもらえたので、その意味でもとても感謝している。

 どれくらいひとりでがんばってからだっただろうか、社長がほとんど毎日会社の床泊まりのわたしを見て、「このままでは、いくらなんでもあんまりだ」と言って、某有名通信社から男女3名の社員を入れてくれたのだが、その人たちも自分たちの会社を立ち上げるための仕事獲得がねらいで、わたしに対して親しげにしていながら、ある日突然3人そろっていなくなり、「いやあ、いったいどうなってんすかね」と社長とふたりであきれていたら、わたしにもある広告代理店から「来ないか」の話が来た。それまでにさんざん突然辞める人に苦しめられていたので、わたしはその話を社長に相談したら、ありがたいことに、社長が「ここまでやってくれたのだから、これ以上はなにも言えないよ。きみが行きたかったら行っていいよ」と言ってくれたので、誘ってくれたその広告代理店にお世話になることにしたのだが、そちらの会社は原宿のふつうの民家でやっているユニークな会社だと思って安心していたのに、こともあろうにわたしが入社したその日に渋谷駅の近くの、わたしのいちばん苦手な「ピカピカ」のオフィスビルに移り、副社長のとなりに席を用意してくれたのはよかったが、それ以外の、ただ大学を出て背広を着たというだけで社会人になったつもりの新しい同僚たちといっしょに昼飯を食いに行ったあたりから、もうどうにもがまんができなくなり、いろんなお歴々があいだにはいってくれてずいぶん時間をかけての仰々しい入社だったのに、その日1日出社しただけでやめてしまった。

 わたしがそういう「放し飼い」の本能を身に宿し、どうせ会社勤めは長くもたないとわかっていたからだろうか、結局また、妻と生まれたばかりの長女と3人で1日中アパートにいるようになってしばらくすると、まず「社長」から電話がかかってきて、「いま、どうしてる?」と訊かれた。「はは、結局無職ですよ」とかなんとか、笑いながら答えると、「じゃあ」ということで、大手出版社を紹介してくれた。わたしに苦労させたことを負い目に感じていてくれたのだろうか、たしか最初は「音羽」で、しばらくしてまた「紀尾井町」も紹介してくれたが、どちらも社長がからんでいる仕事ではなく、「わざわざおれに仕事を紹介してくれたのか。ありがたいもんやな」と思ったのを覚えている。

 とりわけ、後者のほうは、あるとき、呼ばれて行ったら「松本清張さんのデータの翻訳をしてくれ」と言われ、高さが50cmくらいありそうな資料の山を風呂敷包みかなにかでわたされた。また、あるときは、呼ばれて行ったら、ある小説の新人賞で海外からも英語の応募作を受け付けているから、その翻訳をやってくれと言われた。

 この仕事には、深い思い出がある。最初に引き受けた年に、最終選考に残った作品を翻訳していたら、海面の表現でdark duskyだったか、dusky darkだったか、重複した表現が出てきた。そんなことはひと目見ればわかる。通常の仕事だったら、迷わず重複をとって訳すところだ。だが、それはコンテストだった。それなら、わたしが候補作の欠点を直してしまったら、公平な選考ができなくなるではないか。そう思って、その2語を訳すのに朝まで悩み、結局「どす黒い鈍色の」という、重複をそのまま残した訳をつけた。そしたら、公開で行われていたその賞の最終選考のときに、壇上にならんだ選考員のひとりがそこに目をつけ、「この『どす黒い鈍色の』というところは表現が重複していますね。これは翻訳に問題がある」と言った。なにを、クソッ――だ。あんたは出版界の人間のくせに翻訳者がどういう思いで訳しているのかわからんのか、と思い、田中コミさんに指摘された「財布」の訳し間違いなどはすぐに「あちゃー、ごめんなさい」と反省したのだが、この点だけは納得がいかず、選考会後のパーティのときには、仲間の先輩翻訳者たちと「もう来年からは遠慮することはないですよ。あんなふうに言うのだから、おれたちがその気になったらどれだけのものをつくれるか見せてやりましょうよ。おれたちが応募者の味方をして欠点を直していったら、そんなもん、国内作なんかに負けるはずないじゃないですか」と話をし、それはそれほど確信があって言ったことではなかったのだが、現実はそのとおりになった。翌年からはわたしたちのチームが訳した海外からの応募作が3年連続くらいで大賞をとったのではなかったか。ただ、なんともわたしたちの職業の哀しいところで、こっけいでもあるのだが、そうなったらなったで、今度はスポンサーのほうがこのままでは売り上げにつながらないと判断したのか、海外からの作品募集を停止し、結局、わたしたちは仕事を失うことになったのだ。

 ……(2)に続く。

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by pivot_weston | 2013-12-25 08:51 | ブログ

またひとつの昔話(2)

 (1)より……。

 そんなことをやっていたころ、ちょっと意外だったが、先の会社で最初に集団退社した編集部員のひとりからも電話があり、「いま、どうしてる?」と訊かれた。はは、答えはまた「まあ、無職みたいなもんですよ」だ。そしたら、そちらは「一ツ橋」の雑誌のデータ翻訳の仕事をやんないか?――と言う。これもとてもありがたかった。毎週、少しずつ、政治家の疑惑追及の記事だったが、連載記事のデータの翻訳の仕事を頼まれ、それがえんえんと続いた。で、その仕事がある時期から明らかに変化した。今度からは製本された資料を送るから、その一部を訳してくれということで、送られてきたその資料を見ると、『ミカド』という昔のギルバート&サリバンという人たちのオペレッタに関する資料だった。浅薄なわたしは、なんでじゃろ――だ。資料の意図がまったくわからない。「いま」を争っている週刊誌がなんでこんな大昔の資料をデータにするのだろう、と不思議に思った。そう、そういえば、イギリスのエビニーザ・ハワードという伝説的な都市計画家の資料も送られてきたか。どちらもイギリスがらみだったから、そうか、今度はなにかイギリスにからむことをやっているのかと思ったが、それ以上のことはなにもわからず、ともあれ商売だし、インターネットなどはない時代だから、毎日のように新宿の紀伊国屋や神田の古本屋街に足をはこび、大昔のオペレッタや田園都市レッチワースの世界にひたっていた。

 そんな仕事をしばらく続けた末に、どういうタイミングでだったか、それが実は、猪瀬直樹さんという人の『ミカドの肖像』という作品のデータとして使われたんだよ、ということを教えられた。へえ、すごい本を書く人がいるんだなと、その分厚い本をわたされて思ったが、わたしとしては、そういう経緯でえんえんと「一ツ橋の仕事」と思って続けてきた仕事だったので、猪瀬さんについては、「そうか、あの雑誌のアンカーマンかなにかをしている人かな」というイメージができてしまった。また、わたしがそれとは別に関係していた翻訳出版の世界でも「アドバンスで書く」、つまり出版社に企画をわたし、それと引き換えに前金をもらって、それを元手にして作品を書く執筆家があたりまえになっていた時代だった。だから、そうか、日本にもアドバンスで書く作家が出てきたのか、と思い、その意味でもとても感心させられた。それに、いまの若い人たちからすると不思議に思えるかもしれないが、当時はまだ天皇のことについて書くことも一般の商業出版界ではどこかタブーのようにされていて、おお、そこに敢然と切り込んでいく人もいるんだな、という点にもいたく感心させられ、世のなかはだんだんこういう人が出てくることで自然なかたちに変わっていくのかもしれないな、とも思わされた。

 その本がじきに「大宅賞」をとり、新聞紙面などでも大々的に取り上げられるようになったが、「賞」に関しては、前述のように、すでに別の賞で舞台裏を経験していたので、まあまあ、それはよかったよかった、くらいにしか思わなかった。猪瀬さんに直接紹介していただいたのは、いつごろだっただろう。たしか、なにかの用事でお呼びがかかり、麻布の事務所へうかがったのが最初だったと思う(「アドバンスで書く」人と思ったところでも感心したが、その事務所ビルを見て、おお、こんなところにこんなビルをかまえて物を書く人も出てきたのか、とさらに感心させられたのだが)。

 当時のわたしはウォシュレットなんてものも使ったことがなく、その事務所でウォシュレットのトイレを見て、へえ、おもしろいな、と思ったものだから、つい実験的にボタンをピュッとやったのだが、実用の要求に迫られて押したのならともかく、実験的好奇心にかられてやったものだから、真正面から便器に向かっていて、(あとから考えるとしごくあたりまえのことだが)、押したとたんにピューッと、わたしの顔に向かって水が飛び出してきて、わ、わ、どうすりゃいいんだ、とあわてて立ち上がり、よしゃあいいのにまた同じボタンを押したものだから、実用時と異なり、ちゃんとはいたズボンの股間のあたりにその水をまともに受け、おまけに猪瀬事務所のトイレの床も水浸しにしてしまった。そりゃ、もうごまかせない。だから、会議室かどこか、みんながいたところへ戻るとすぐに、「イノセさあ~ん、あれ、ピュッと飛び出してくるんですね」とかなんとか言って「すんません、床をびちょびちょにしてしまった」と謝ると、猪瀬さんはびっしょり濡れたこちらの股間を物思わしげな目で見ながら「ばかだなあ。あたりまえだろう」と言って、あきれたようにふふんと笑ったのだったか。

 たぶん、それが初対面のときだったと思う。で、その後、『黒船の世紀』の企画に入ってくれと言われた。『ミカド』のときは、なにがなんだかわからないまま、顔も名前も目的も知らずにお手伝いしたのだが、『黒船』のときは最初からチームの一員として参加してくれと言われ、そのチームの顔合わせを箱根の旅館で合宿してやると聞かされ、その仕掛けの大仰さにも、また驚かされた。とても共感できる企画、というより、わたしがずっと思っていたことを猪瀬さんがかたちにしてくれたように思えた企画だった。わたしたちの若いころには、戦争責任論というのがにぎやかに闘わされていて、やれ天皇にあった、やれ軍部にあったと議論されていた。そりゃあ、たしかに、後ろ向きに、過去の事実を整理することだけが目的なら、それでいいかもしれない。でも、現代にいるわたしたちが戦争責任論を議論するのも、わたしたちの生きていく行為のひとつであり、単に過去を整理するだけでなく、過去を踏まえて、未来をそれと比べたらちょっとはましなものにするためだろう。それなら、天皇だ、軍部だとばかり言わず、(もちろん、当時の状況からして現実には無理だったとしても)原理として最終的に止めるべきはわたしたちひとりひとりの国民だったという方向へ議論の流れを向けたほうがよいと思っていて、猪瀬さんが戦前に大流行していたらしい「日米未来戦記」に目をつけ、戦争へ向かう指導者ではなく、戦争へ向かう時代状況や大衆を描き出そうとしていたのには大賛成だった。

 ただ、どうもわたしは生理が些事に向いているのか、このときもおかしなひとコマをいちばん鮮明に記憶している。当時、わたしは創刊間もなかった『エスクァイア』という雑誌の校正作業にも参加していて、斬新さを旨とし、全ページ大の写真を多用していたその雑誌のゲラをペラペラとめくっていると、あるとき、お、あれ、どっかで見た顔……と思わされるページにぶつかった。タバコをくゆらせる猪瀬さんの広告写真で、あ、なんだ、猪瀬さんはこういうこともできる人かと思わされたのだが、それで猪瀬さんが世間に自分を露出していることはわかっていた。そういう知識のベースがあったうえで、箱根でみんなで裸になり、どかどかとそれほど大きくもない浴槽に入っていると、いっしょに入っていたおじさんから「あれえ、あんた、どっかで見た顔だねえ」という声がかかった。あちゃ、どういう対応をするのだろう、とこちらも一瞬息を飲んだ。すると、猪瀬さん、そのおじさんのほうを見ることもなく、「うるせえなあ。違うよ、違う。別人だよ」とうるさそうに言い放った。おじさんのほうはそれでも「そうかなあ。どっかに出てなかった?」と、まだ内なる疑問と向かい合っていたが、猪瀬さんのほうは相変わらずそのおじさんの顔も見ずに「やめてくれよ。違うんだよ、別人」で押し通し、それを見ていたチームのメンバーのほうは、その、困って素知らぬ顔をする大将の姿がまたこっけいに見えたものだから、カッカッカと笑いたくなる気分を懸命に押しとどめていた。わたしも腹のなかでは、そうそう、作家はそんくらいじゃなきゃいけねーよ、などと思いながら、共感を増していった気がする。

 でも、この『黒船』のチームに、わたしは最後までいなかった。二度目の合宿が山梨の山中湖だか河口湖だかのほとりの某テレビ局の保養所であったとき、昼間のミーティングを終えて、夜、フランス帰りのアシスタントの女性とお酒を飲みながら話をしていたら、どういうことだったかは忘れたが、子育てのことでどうにもがまんならない衝突をして、血気盛んなそこそこに若かったころだから、こんなやつらといっしょに仕事をしていられるかという気になり、「もうおれは抜ける。あとは猪瀬さんによろしく言っといてくれ」と言い残して、その保養所を飛び出し、夜が明けたばかりの3時か4時ごろだったが、野っぱらのなかの広々とした道を、よし、こうなったら東京まででもどこまででも歩いて帰るぞ、と思って歩いていたら、どういうわけかそんなシチュエーションのなかにタクシーの空車が1台走ってきて、それに乗って新宿アルタ前まで帰った。

 30代なかばだったと思うが、いっときの怒りにまかせた稚拙な行動で、『黒船』の企画趣旨にとても共感できていたこともあって、あとあとまでこの行動は悔いたのだが、猪瀬さんからの連絡もなかったし(もちろん、ほんとうはデータマンのわたしから連絡をするのが筋だろうが)、もう猪瀬さんとのおつきあいもこれきりだろうと思い、四国の自宅でまた別の本の仕事をこつこつとやっていた。すると、それからしばらくたって、ある日、夜なかの3時ごろに電話が鳴った。もちろん、わたしにとっては通常の勤務時間内だが、電話が鳴ることはなかったので、こんな時間に誰だろうと思って受話器をとると、猪瀬さんの事務所の若いアシスタントの青年からで、「すみませ~ん」と、別にひそめなくてもいい声をひそめて、電話越しにも恐縮している姿が目に浮かぶような声で言う。「猪瀬が、朝の6時に週刊誌の連載記事の原稿の締め切りが迫っているのですが、それまでにデータを1本訳してくれないでしょうか」と言う。んな、無茶な。こっちだってやっていた仕事があった。だから、山梨での一件があったから、こちらもえらそうなことを言える立場ではなかったが、つい、それはちょっと、いくらなんでも無理だなあと断りかけたのだが、そこで、では猪瀬さんはほかにどうすればいいのかという疑問が浮かび、また、アシスタントの青年のいまにも震えだしそうな声も気になってきた。だから、「いいよ。送って。何時までに送り返せばいいの?」と訊いて、例の会社で鍛えられた能力ですぐに頭を切り換え、ロンドンの交通機関の記事かなにかを時間どおりに訳した。で、6時ごろになると、その青年が「どうもお世話になりました。こういう記事になりました」と言って、猪瀬さんの連載記事を送ってくれたのだが、それはちょっと意外な記事になっていた。

 あとは、おつきあいらしいおつきあいはなかった。こちらが、妻のがん発症という思いも寄らない事態に出くわし、そちらに気をとられてしまったこともあったかもしれない。次に思い出すのは、その妻がいったんがんの勢いを押し戻し、退院してきて、その闘病記も本にして、猪瀬さんにも書評を書いていただいたころになるか。わたしが本を書く人のなかでいちばん信奉しているのは昔から吉行淳之介さんだが、猪瀬さんのなかにも吉行さんに傾倒するものがあったらしく、吉行ファンなら誰もが何番手かにあげる作品『私の文学放浪』のまねごとのような作品を書いているのは知っていた。だから、データマンとしてのおつきあいはなくなっても、心情的には共感を深めていたのだが、あるとき、そんな猪瀬さんから『マガジン青春譜』という本が届いた。若いころの川端康成さんと大宅壮一さんの交流を描いたもので、それを妻のかたわらで、コタツにごろんとなって読みだすと、ふたりの故郷である大阪・茨木あたりの風景も交えたその書き出しがあまりにも素晴らしかったので、ちょっと興奮し、その段階で、これは素晴らしい、もう猪瀬さんは文学一本で行くべきだ、ぜひいい作品を残してほしい、というようなことを書いてファックスかなにかで送ったら、驚いたことに、その直後に「どうもありがとうございます」という、やはり感激口調の返事が返ってきたのだが、それが著者本人ではなく、担当の編集者からだったので、妻とふたりで「たぶん、担当編集者がつきっきりで、いまも事務所にいたのだろうね」と言って話をしたのを覚えている。

 その妻も、2000年に亡くなった。闘病中はその命を支えるためになりふりかまわず生きた5年間だったので、死後は荒れ野原のような光景が眼前に残されていて、そこからつかめる手がかりは片っ端からつかんで生きていくような暮らしになった。それで、2002年6月に猪瀬さんにも電話をかけ、「仕事なぁい?」と訊くと、じゃあ、来いよ、ということになり、大雨の夜だったが、6月7日の夜の10時少し前に麻布の事務所にうかがった。「上がってこいよ」と言われ、当時の仕事場だった3階まで上がっていくと、猪瀬さんはいかにも物書きのデスクらしく(座卓、座デスクだったが)、雑然といろんなものが積み上がったデスクの前にすわっていて、「おう、これから久米さんの番組に出るんだよ。いっしょに見ようよ」と言った。そう、荒れ野原をさまようのに懸命だったこちらはなにも知らなかったのだが、その日が政府の道路関係四公団民営化推進委員会の発足の日に当たっていて、その一員に選ばれた猪瀬さんのことも当時の久米宏さんのニュースステーションのなかで大きく取り上げられることになっていた。やがて、その言葉のとおり、デスクの前に取り付けられた当時としては大画面のテレビに猪瀬さんの顔が大写しになった。自分がテレビで大写しになっているのを本人が見ている姿を横で見るのも変なものやなあ、こらまた、えらいときに来合わせたものや、と思いながらも、わたしには、そのとき猪瀬さんの顔の角度が気になった。「ちぇっ、こんなにでっかく映ってやんの」とかなんとか、相変わらず猪瀬さんらしく、また、作家らしい、世間的に言えば行儀の悪い言葉は飛び出していたが、デスクの前のやや高いところに取り付けられたその画面を見上げる猪瀬さんの顔は満更でもなさそうにほほえんでいた。えらい人になるのかもしれない。でも、世間から見れば得体の知れない世界なのかもしれない物書きの世界から見れば、それがナンボのもんやねん、である。そんなことはええから、もっと、あんたにしか書けんもんを書きぃな、と内心では思ったのだが、口には出さず、どうやら横でわたしがテレビ画面のなかの猪瀬さんではなく、それを、少し顔を上に向けて、口もとをほころばせながら見ている自分の姿を見ていることには気づいていそうにない猪瀬さんの姿を、これはひとつの転換点のようなものになるのかもしれないな、と思いながら見ていた。

 作家は「上」を見るものではなく「下」を見るものだと思う。猪瀬さんはレトリックに天才的な冴えを見せる人だが、そのレトリックを単なる手段やレトリックのままに終わらせたら、やはりアンカーマンかコピーライターで終わってしまう。434万票を集めたと聞いたときには、かつて「日米未来戦記」の問題を指摘した人が、自分ですすんで新たな「日米未来戦記」を書こうとしているような印象を受けたが、それがこんなに早く破綻の日を迎え、はるか遠い昔にオーストリアのひとりのデザイナー志望の青年が自分のほの暗い背景から逃れるために突っ走ったような道をひた走ることもなくすんだのは、猪瀬さんにとってはかえってよかったのかもしれない。434万人の人は、戦後の日本人と同様にこの間のことをよく考え直してみる必要があると思う。

 それにしても、遠い昔のあの会社時代を消失点とする透視図法で見ると、皮肉を感じる。「社長」は保岡さんの本を書いていた。それと対立していた「編集部員」の側からのつながりで知り合った猪瀬さんのほうは徳田さんのことで壁に当たった(31年も経過してからだが)。徳田さんも、当初は親の無念もあり、日本医師会という鼻持ちならない組織に反旗をひるがえしてがんばっていた人なのに、娘さんもおっしゃるように、ほどほどのところで自制心を発揮することができなくなったのか。この世のなかには、その「ほどほどのところ」で立ちどまることを難しくさせるものがあるのかもしれない。いずれにせよ、遠い昔話。年をとるといろんなことがある。猪瀬さんには、もう「作家まがい」の相手などせず、ご自分の作家としての能力に自信をもって再起されることを期待したい。


【2014年8月8日の注記】
昨日届いた猪瀬直樹さんのメールマガジン[MM日本国の研究809]「断章 妻ゆり子の思い出(16)」を末尾まで読んだところで、わたしのこの記事に思い違いがあったことに気づきました。『ミカドの肖像』は、単行本になる前にまず週刊ポストに連載されていたのですね。そう言われれば、週刊誌を開いて右ページに斜めになった「ミカドの肖像」という太い明朝体のタイトルや挿絵が載っているのを見た記憶がよみがえってきましたが、やはり記憶力というのは当てにならないですね。単行本になったときの、あの厚みがなんといっても印象的だったので、つい、いきなり単行本を渡されたように思い込んでしまっていました。おわびいたします。しかし、やはりご家族のことを書く猪瀬さんの文章はいいですね。道路公団やなにかの本を送っていただいていたときには、申し訳ないことにまったく読む気になれなかったのですが、いまは奥さんの思い出の記が1週間の楽しみになっています。

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by pivot_weston | 2013-12-25 08:50 | ブログ

心地よい連環

 このところ、仕事が忙しくてなにもするひまがないものだから、つい頭が、そんな状況でもできること、つまり、机の前でいつか行ってみたいと思うところ、まあ、わたしくらいの年齢になると、それがすなわち終の住処さがしのようなものになるのだが、そんなことをする方向へエスケープした。

 前から「いいな」と思っているところがあった。いつか、仕事でGoogle Earthを使っていたときに、たまたま台湾の南端の岬の近くからフィリピンのほうの海を望む景色を見て、ああ、いいな、ここは――と思った。

 でも、旅行ならともかく、終の住処さがしとなると、やはり90mはいやだ。そう、近いうちに、この前フィリピンに来たような台風がもっと北にも来るようになるだろう。だから、海っぺりにいたら、あの疑似津波を起こしたような風をまともに食らうことになる。ウルトラライトに乗ってみたい気持ちはあるが、凧になって死のうとは思わない。だから、もう少し山影のほうがいいなと思い、またGoogle Earthのストリートビューで近くを見ていると、わあ、ここはいいな、住んでみたいなあ、と思うところが見つかった。地名は書かない。どうせ、以下の話から、わかる人にはすぐにわかるだろう。

 辺鄙な田舎の村の五差路だ。まんなかに大きな木がもっそりと葉を茂らせているところもいいが、Google Earthで見ると、そこの木陰におにいさんがひとりすわり、退屈そうにどこかを見ている姿が写っている。南国の、かんかん照りの午後の木陰――なかなかいい。でもなあ、日本語くらいしかまともにしゃべれないおじいさんがいきなり行って、村の人は受け入れてくれるだろうか、なんてことも考える。どれどれ、とその村のことを調べかけたところで、まずひとつ目の発見があった。

『海角七号』という映画があった。少し前にネット上でよく見かけたタイトルだが、内容は知らず、台湾の映画だということも知らなかった。ところが、それが台湾の映画だということはおろか、その映画のなかで主役のひとりとして描かれた「友子さん」のモデルになった人が、まさにその、わたしが、わあ、ここはいいな、と思った五差路に面した建物に住んでいたらしいことがわかった。

 なんだよ、それじゃあ、ここはGoogle Earthで見るかぎり、なんでもない辺鄙な田舎の村のように見えても、実際には映画を見た人たちががちゃがちゃと押し寄せてくるところになっているのかなと思うと、南国の老後を思い浮かべかけていた気持ちが萎えてきた。でも、そこで、思わぬ名前が目にとまった。

『海角七号』の「友子さん」は田中千絵さんが演じていたという。もう4年前になるか、ある日、BS日テレの人がチンさんの「吟品」に「田中千絵さんのインタビューを収録させてほしい」と言って電話をかけてきた。こちらはそう言われても誰かわからず、すぐに「台湾で有名な日本人の女優さんだよ」と反応したチンさんの話を、ふうんと聞いていた。

 で、その収録の日が来た。どうせ人手がたりないだろうと思い、出かけていって、インタビューの最中に吠えてほしくない犬の散歩でもして手伝おうとしていると、狭い裏通りをそろそろと走ってきた車が店の前で止まり、ドアが開いて、目の前にすらりとした長い脚が現れた。そう、最近の背の高い若い女の子の前に立つと、こちらの目の高さがその子の腰のあたりにあるような気がすることがままあるのだが、そのときもそんな気分になり、ほほう、この子がその台湾で有名になったという日本人の女優さんか、と思いながら、伏し目がちに微笑むきれいに整えた顔を見上げたものだ。

 それにしても、仕事の忙しさに追いつめられ、どうにも気持ちのはけ口がなくなって、仕事の画面を切り換えて終の住処を求める気持ちをひとりで伸び伸びと発散していたときに、たまたま見つけた、よその国の、なんでもない片田舎に見える村の中心広場の、古びた集合住宅が、あの子が演じた映画のモデルの人が住んでいたところだったとは。妙な偶然もあるものだ。

 でも、こうしたことができるのも台湾だからだ。韓国や中国でもいろんな地方を見てみたいと思うが、それはできない。かたや休戦中とはいえ、65年ほど前からまだ戦争中の国。もう一方は共産主義の国。屋根に全方位カメラをつけたGoogle Earthの車は、韓国ではソウルと釜山くらいしか走っておらず、中国のほうはまったく走っていない。欧州のほうでも、英仏伊などはほぼ網羅されているのに、やはり軍事機密にかかわるからか、ドイツは大都市を除いてほとんどストリートビューがなく(オーストリアはまったくない)、それと比べれば、まだロシアのほうがカバレッジが広いくらいだ。

 日本も軍事秘密などを守る法律が成立したみたいだから、これからは順次ストリートビューが廃止されていくのだろうか。やれやれ、国の誇りを取り戻すなんて掛け声はどこへやらで、いつのまにかまたGPS情報を一手に管理する国のポチになろうとしているようだ。ひとりの人間としては、軍事機密などより終の住処をさがせなくなることのほうが大問題だ。

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by pivot_weston | 2013-12-08 15:09 | ブログ