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テレビ第一世代の思い出

「キャロラインちゃん」がたいへんな人気らしい。行く先々でカメラをかまえているわたしと同年代のおじさん、おばさんたちを見ると、あゝ、みんなのなかでも同じようなことが起こっているのかな、と思う。

 たぶん、いろんなところでいろんな人たちが書き、伝えているのだろうが、わたしもこれまで半世紀以上を生きてきて、戦争に代表されるように、古い世代が自分で見たこと、聞いたことを語り伝えておくことは、のちのち妙な誤解を残さないようにするためにもとてもだいじなことだと思っているので、書いておこう。

 ご存じのように、冒頭の「キャロラインちゃん」は、わざと親しげに書いているわけではない。わたしたちにとっては、固有名詞だった。新聞でも、たしかテレビでも、弟の「ジョン坊や」とともに、そう報道されていたのである。だから、「キャロラインちゃん」より2歳上のわたしが四国の自宅で姉を話をするときにも、「坊や」なんて言葉を日常会話で使うことはなかったのに、

「へー、殺されたアメリカのケネディ大統領の子どもはキャロラインちゃんちゅーんか」
「おー、ジョン坊やといっしょにお父さんの机の下であそっびょるとこが新聞に載っとったのー」

 という具合になったのである。ちょうど、日本でもいまの皇太子が誕生してまもないころで、日本全国いたるところに「近所のナルちゃん」もいたと思う。

 まさか、暗殺事件の犯人が意図したわけではあるまいが、たまたま日米初の衛星放送実験の最初の映像があの事件の映像になってしまったことも、外国の政治家一家であるにもかかわらず、わたしたち日本のテレビ第一世代が「ケネディ大統領」や「ジャクリーン夫人」や「キャロラインちゃん」や「ジョン坊や」に親近感を覚えるようになったひとつの理由だと思う。さあアメリカのことが生で見えるぞ――と思って大勢の人が目を凝らしたときに、みんな共通の唯一のチャネルを通して伝わってきたのが、あの「教科書ビル」前の映像だったのである。

 それと、今回同年代の人たちの熱烈な歓迎ぶりを見ているうちに、そうだよな、無理もないよな――と思ったこともある。

 ふつう、いくら親しい友人でも、そのお父さんや叔父さんが亡くなったことを知り、お葬式に行ったりすることはあっても、亡くなる瞬間を見たりすることはない。でも、歴史のいたずらと言えるのか、わたしたち、当時テレビに夢中になっていた子どもたちは「キャロラインちゃん」のお父さんの死の現場にも、ロバート叔父さんの死の現場にも衛星放送ネットワークを介して立ち会ったのである。とくに、まだ小学校にはいったばかりで、世のなかのことがよくわかっておらず、身のまわりにも戦争の傷跡などのむごたらしい光景が少なくなかった時期に起こった「お父さん」の事件より、アメリカの西部劇ドラマやホームドラマを日本のテレビ番組よりたくさん見て成長し、中学校に進学したころに起こった「叔父さん」の事件の映像は、いきなりの事件に大混乱する人々の姿が至近距離でとらえられていたので、強烈な印象を残した(いま、ふと考えると、あの事件のあとで日本でも自分を英雄的に表現しようとした人が起こした事件が続いたが、ああいう事件を起こした人たちの脳裏にも、もしかしたら「キャロラインちゃん」のご家族の事件の映像が潜んでいたのかもしれない)。

 そうだよ、誰だって、いくら映像メディアを通して間接的にではあっても、誰かのお父さんの死の現場も叔父さんの死の現場も目撃したとすれば、特別なものをいだくようになるものだろう――熱狂している同世代の人たちの姿を見ていて、ついそう思った。

 わたしたちは、ある意味で恵まれた世代と言えるのかもしれない。日本では、もうひとつの強烈な記憶も再現されようとしている。昭和天皇が「だいじゅうはっかい、とうきょうオリンピアードの……」という印象的な言葉で開会を宣言した東京オリンピックだ(片田舎の少年だったわたしは、なんでもNHKのアナウンサーみたいにしゃべるのがいいのだろうと思っていたものだから、天皇が「はちかい」ではなく「はっかい」と言ったとたん、え、なんでや、うちのおじいちゃんみたいな言いかたをするんじゃの……と思ったが、あとで誰かがどこかで「天皇家はの、関東の人とは違うんじゃ。京都の人じゃきんのう」と話しているのを耳にして、関係はよくわからないが、ああ、そういうことか、と思ったものだった)。

「キャロラインちゃん」のお父さんの暗殺が1963年、東京オリンピックが1964年、「キャロラインちゃん」の叔父さんの暗殺が1968年と続く。

 醜く、悲惨な戦争から新しい時代へ移ろうとしていたころの時系列で、43歳で世界一の超大国の大統領になり、「国が国民のためになにをしてくれるかより、みなさん国民が国のためになにができるかを考えてくれ」と訴えていた「キャロラインちゃん」のお父さんの「かっこええ」姿は、当時わたしたちが夢中になっていたアメリカのテレビドラマの「正義の味方」の姿にも、東京オリンピックの開会式の入場行進のときの圧倒的に迫力のあったアメリカ代表団の姿にも、毎日毎日、次から次へと星条旗が上がるのを見ながら聴かされたアメリカ国歌の印象にも、なんの矛盾もなくつながっているように思えた。

 あのオリンピックのときにも、今回のように、舞台裏ではにぎやかな誘致合戦があったのかもしれない。とりわけ、当時の日本はまだ開発途上国だったので、決まったときの喜びは今回の比ではなく、誰かがガッツポーズもしていたのかもしれない。

 でも、どこか、オリンピックには時代の流れを感じてしまう。1964年の東京オリンピックって、そういうものだったのだろうか、とも考えさせられる。政治家か誰かの目線では、今回となにも変わらないものだったのかもしれないが、当時小学校3年生だったわたしには、もっとスポーツの意義や、平和の意義が強調され、あまり自国のことばかりを言わず、海外の選手にも称賛の目を向け、そこが武士道の国・日本のほかの国にはない特別なところとして、海外の選手などにも評価してもらえていたような記憶がある。

 もちろん、バレーボール、体操、レスリング、柔道、重量挙げなどで日本選手が大活躍し、わたしも同じ香川県出身の「鬼のダイマツ」が「ニチボー貝塚」を率いて決勝を戦うときは、親に「はよ寝え」と言われて布団にはいったものの、どうしても気になったからそっと障子にへばりつき、テレビから聞こえてくる声に耳を澄ました(あ、そうか、暗い側にいる人間の影は障子に映らんのやな、ということもこのときに学んだ)。

 でも、あのときも、こんなに「ニッポン」「ニッポン」と言っていただろうか、ということが気になる。あのときのわたしにとってのヒーロー、ヒロインをひとりに絞るのは難しい。水泳のドン・ショランダー。女子でも同じ「ドン」のオーストラリアのフレイザーがいた。陸上100mのボブ・ヘイズ、棒高跳びは丹羽清さんにばかり注目していたのに、気がついてみると、ハンセンとラインハルトという第二次世界大戦中の仇同士のえんえんと続く一騎打ちに夢中になっていた。400mでイギリスのエメリーが勝ったときには、思わず「よしっ、おれも!」と言って居間から台所(当時は「かまや」と言ったが)の土間を抜けて外へかけ出そうとしたものの、敷居に足がひっかかって裏庭にダイビングし、しばらくその場で転がりながらうなってから居間に戻ったら、姉に「アホか、おまえは」と簡潔に論評された。1万mにはオーストラリアのロン・クラークというエリート選手がいたが、最後の第4コーナーをまわったあたりからアナウンサーもよく知らなかったアメリカのミルズという選手が出てきて逆転勝利し、その選手が海兵隊の軍人で、インディアンの血を引いていて差別を受けていたと聞いて、ラストスパートで外側から先行していた選手を抜いてひとりだけ外のほうへ離れてゴールテープを切るそのミルズ選手の姿が、忘れられないものとして強く脳裏に焼きついた。

 1964年の東京オリンピックは世界的にも特別な大会だったと思う。次のメキシコシティでは、陸上200mで圧勝したトミー・スミス選手が表彰台で喜びを顕わにするのかと思ったら、うつむいたまま黒い手袋をはめた片手を星条旗に向けて突き上げ、ミュンヘンではイスラエルの選手団が皆殺しにされ、その影響で、モントリオールでは、のちにビートたけしさんの「コマネチ」のような笑いの種も残したものの、がちがちに警備された笑うに笑えない大会となり、モスクワでは日米が政治とは関係ないはずだった大会をボイコットし、その次のロサンゼルスも、ソ連が報復のボイコットをしたが、この大会で、才人ピーター・ユベロスさんが登場し、オリンピックというイベントの性格が180度に近いほどがらりと変わった。それまでは、たとえ建前だけにしても、理念を追求することを優先しているように見えたオリンピックが、あのユベロスさんの独特のキャラクターで、なんだ、みんな、所詮はお金がなきゃなにもできないんだから、もっと率直に、素直になろうよ、オリンピックをお金になる大会にしよう――という方向へ一気に大変身した(もしかすると、冷戦終結、ベルリンの壁崩壊の最大の立役者はユベロスさんだったのかもしれない)。

 まあ、人が率直になり、素直になるのは悪いことではない。でも、「キャロラインちゃん」のお父さんがシンボルとなった理想追求の時代に(ほんとうはベトナム戦争の首謀者の立場にいたわけだから、なにも知らない子どものとんでもない誤解だったのかもしれないが)、その理想を後続のどの大会よりもみごとに、なごやかに実現させた大会のように見えた前の東京大会を再現するのは、もう無理だろう。まだまだ「武士は食わねど……」の矜持が残り、本音はもちろん心のなかに抱きつつも、それを露骨に表現することはなく、外国から来てくれた人に敬意と好奇心をもって接した前の東京オリンピックを再現させるのは、いまの時代にできることではない。

 最近はときどき、歴史が変質していこうとしているような印象を受けることもある。とくに、その印象を強く受けるのは「中国報道」だ。反日デモが起きても、公害問題が起きても、爆弾事件が起きても、日本とは違う異質な国のような扱いをされているように思える。でも、そのたびにわたしは、子どものころに日本で何年にもわたってえんえんと続いた反米デモのことや、被爆者や水俣病の患者に対して裁判闘争の敵としか見ていないように見えた日本政府の姿勢を思い出す。日本の反米デモは、激しく、長期にわたっても、国民の側についた中国政府とは違い、日本政府がお金をもらうのと引き換えにアメリカ政府の側についていたので、アメリカ政府もたいして気にはしていなかった。今度の中国の太原市の共産党ビルの爆破事件のニュースを聞いたときも、そういや、日本でも東京・大手町の三菱重工ビル爆破事件というのがあったな、そういや、あの事件も根底には民族問題があったなと思い、中国が日本とそっくりの道筋を歩いて発展してこようとしているのを感じる。

 60年近くも人間の世界を生きてきて、自分自身もさんざん悪逆非道なことをしてきてみると、もう1964年の東京オリンピックのころのような理想の世界に戻るのは無理だろうと思う。あのオリンピックのあと、何度も何度もモグラたたきのように繰り返された世界の戦争を見て、国内でも差別やなにかがあることを知った。日本を独自の国にしようとした田中首相や大平首相のような政治家が次々と消されていくのも見た。半世紀前の四国の片田舎のガキは、ただ与えられる情報のなかで幻想をいだいただけだったのかもしれない。

 でも、前の東京大会で多くのことを学ばせてもらったわたしとしては、今度の大会を楽しく平和でにぎやかな大会にするにしても、あの円谷幸吉選手のことをなんらかのかたちで顕彰してあげるようなこともあってもいいのではないかと思っている。それに、もうひとり、前にもこのブログに書いたことがあるが、前の大会が終わって20年ほどがたったころ、たまたまよく飲みに行っていた新宿の飲み屋さんで、あの大会でほぼ全国の全国民の注目を一身に集めたかたとお会いしたことがあり、となりで飲んでいて「あ、……さんだ」とわかったときに、そのかたに「あのときはつらかったでしょう」と言葉をかけたら、思いもかけず、ぼろぼろと涙を流されたことがあった。ああいうかたにとっても、ぜひ穏やかに、楽しく見られる大会にしてもらいたいものだと思う。

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by pivot_weston | 2013-11-23 16:23 | ブログ

座標軸

 幻のかまぼこのことを考えていた。

 58年の人生で出会った食品のなかでいちばんすばらしい部類にはいる。その魅力をひと口で言うと「荒々しい」になるか。たいていの食品は本能全開でかぶりつくのをためらわせるひ弱さがあるが、このかまぼこは大丈夫だった。それどころか、武骨にこちらを無視しているように思えるところに、逆に、いくらでもかかってこいと言われているような気配も読み取れ、現にかかっていっても、過不足なくこちらの野性を受けとめてくれた。

 そのかまぼこが、いまは幻となっている。最初にそのかすかな変化を感じ取ったときに「なぜ?」と訊いたら「時代の流れで」という言葉が返ってきた。豊かになったと言われる時代で、多くの人がおいしいものをさがしているように見えるときに、その時代の流れがおいしいものを消している。

「座標軸」という言葉が頭に浮かぶ。このかまぼこも、そもそもは全国にあまたあった素朴な食べ物のひとつだったのだろう。全国各地で無数の「座標軸」が思い思いに感じ、考え、生活していた。教育というのは本来、そういう座標軸をそのまま保存しながら、なおかつその内部の充実を図るものだろう。ところが、教育という言葉自体がそのかたちだけを残して、内部が空洞化し、生きていくための薄っぺらな身過ぎ世過ぎの方便を伝授する行為と化している。自分を他人の座標軸に合わせて方便を獲得するのは教育の本質ではない。周辺で、あるいは付随して起こる現象だ。

 他人の座標軸に合わせ、自分が生きていくには誰の座標軸がいちばんいいかを考えながら育った子どもたちのあいだでは、学歴という形骸を身にまとえばまとうほど、その子が生来備えている独自の座標軸と内実のあいだの乖離が大きくなる。乖離しているものは、言ってみれば、そこにないも同然だから、実質的には、そういう人たちの内面は空洞化してくる。

 そこへ、グルメだの、食通だののおいしいもの情報が新たな「他人の座標軸」として与えられる。そして、他人の座標軸に合わせることを是として生きてきた人たちはまたその座標軸に飛びつき、どこまで実感が伴っているか怪しいグルメ文化をふくらませ、結果として、荒々しい食の本能をしっかりと受けとめられるだけの食の文化がなくなろうとしているのかもしれない(ついでに言えば、食の本能は性の本能とも結びつくので、性の文化にも同様の頽廃、いや、頽廃という表現を使うのもはばかられる空洞化が生じているのかもしれない)。

 ふと、母のことが頭に浮かんだ。昭和6年生まれ。どういう教育を受けたかはわからないが、なにごとも他人の座標軸を基準に行動し、戦争に突き進んだ時代の人たちはこういうものか、といつも考えさせられる。大正11年生まれの亡父も、明治生まれの祖父母も、自分の座標軸を頑固に、いや、頑固すぎるほどにもっていた人たちだったから、安易に時代のせいにしないほうがよいのだろうが、かまぼこの思い出ひとつにも、いまの時代の気配が読み取れるような気がしないでもない。

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by pivot_weston | 2013-11-13 15:16 | ブログ

思考のトリモチ

 久しぶりに朝まで飲んだ。

 夢を求めてキャナダへ旅立つ若者の歓送会。

 35年間慣れ親しんだ街の慣れ親しんだ店で(わたしごときがそんな言いかたをすると、最初にお世話になった故・店主には「10年早いわ」などと言われるのかもしれないが)、夜の7:30に待ち合わせ、35年前に20代半ばだった当方と30代半ばだった大先輩が、そのキャナダへ旅立つ若者をはさんでカウンターのいちばん奥に陣取り、次から次へと入れ代わり立ち代わりはいってくる、おもにクリエイティヴ分野のお店のなじみ客たちと話をし、窓の外が白んできて、その明るさが増してきて、もう「夜が明けた」というより「朝になった」と言ったほうがふさわしい時刻になってから腰を上げた。その間、飲んだ水割りは何杯だったか。ともかく、出るときに求められたのは3人で〆て1マンエン。半日近くもかけて、飲んで、食べて、頭に心地よい刺激を与えてくれる話もし、それでこの金額なのだから、元30代半ばの大先輩は表に出て、目になじみすぎるほどになじんでいるクヤクショ通りの交差点に立ったとき、思わず「いいな。安いな、あそこ」と大きな感嘆の声をもらし、内心、なにを言うちょるの、いまさら――と思わされてしまった。

 前日、某筋からちくま新書の伏木亨さん著『人間は脳で食べている』という本を読め――との指令をいただいたばかりだった。ものごとはたいてい関連したものがつながって生起する――というより、なにかを考えていると、周囲で生起することのなかからその思考のトリモチに関連したものが次々とつながってくっついてくるもので、そうなんだよな――と、お店のおいしい料理のことも思い出させられた。戦後のバラックそのままの歴史あるオープンキッチンで、現店主がかっこつけず、さりげなく、かつプラクティカルにつくってくれる料理が、出されるものすべておいしいのだ(近ごろのテレビでよく見かける、ドコソコのナニナニだからメッチャおいしい、口のなかでとろける、さっぱりしている――と言ったグルメ・料理番組などは、偽装表示文化と同じ平面にいる、およそおいしいものを味わう文化とは別世界のものだ)。

 ともあれ、マエストロ(師匠)のニューヨークサバイバル物語がおもしろかった。「生きたきゃ生きな」の文化のなかで、ネイティヴでもないのに自分のサバイバルツールである人一倍優れた音感を生かし、3日ほどで日本語の発音を完璧にマスターして戻ってくるサバイバーダンサーたちの話。伝統芸能の世界の内幕も、だいたい思っていたとおりで、国会に手伝いに行っていたときに感じた、この国が早く振り払ったほうがいい実体のないどんよりとした雲のことも思い出した。

 そういや、少し前に聞いたこんな話も思い出した。震災後、外国から応援に来た人が被災地を見ていたら、行政や支援団体の説明責任が十分に果たされていないように見えた。それで、いろんな人に話を聞いたのだが、文句を言う人はいなかった。なにより外国の人が驚いたのは、文句を言わない人たちのあいだに「日本はいい国だ。だから、なんでもちゃんとしている。震災のことでも行政や支援団体の人がちゃんとやってくれているはずだ」という共通の思い込みがあったこと。外国の人が見ていると、これは説明を求めないと……と思うことが多々あったのに、そういう状況だったから、まあ、みなさんがそれでいいのなら……と、国内向けの説明責任は問題にしないことにして、だけど、自分たちには説明責任を果たしてもらわないと困るので説明文書を要求し、その結果、東日本大震災も福島第一原発の事故も日本の災害や事故なのに、日本語の関係資料より英語の関係資料のほうが多くなった、という話。「マインドコントロール」という言葉を思い出させてくれる話でもある。

 これも、このごろのわたしの頭の思考のトリモチにくっついてきた話のひとつか。ともあれ、いわゆる「インテリの議論」がきらいなので、いつもはつい自分で心地よい時間の流れを壊してしまいがちなのに、昨夜はとくに意識して自分を抑制するわけでもなく、楽に心地よい時間を過ごすことができたいい一夜だった。

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by pivot_weston | 2013-11-09 15:04 | ブログ

ちょっと大人の朝

 わが家は日当たりがよい。

 天気のいい朝は、台所のなかに雑然と置かれたものが、なにもかも、視力の衰えた目には懐かしさすらおぼえるくらい、鮮明であたたかい陰影を描き出してくれる。

 わあ、明るい。さわやかな朝やなあ――そこまでは、ランニングシャツひとつで布団から起き出し、目をこすりながら「なんや、マバイ(まばゆい)なあ」とひとりごちていたころと変わらない。

 でも、ふと、ああ、相棒はもうこんな朝を見えんのやなあ、と思う。亡くなったときは、わたしより6歳上だったが、いまはこちらのほうが7歳年上になっていて、「還暦」なんて、自分には縁遠いように思えていたものも近づいている。

 長く生きてきた者の朝の感懐やな、相棒ももっと長生きが――と思いかける。

 でも、そこで、ホスピスでボランティアをしていたころに会った、23歳だか24歳だかで白血病で亡くなった女の子のことを思い出す。

 そうか、ああいう子もいる、相棒もそういう意味ではけっこうたくさんさわやかな朝を見られたほうなのかもな――と思い直す。

 でも、そこで、1985年の御巣鷹山や大震災やなにか、生まれて間もなく亡くなった子どもたちのいたできごとのことも思い出す(次女が保育園のゼロ歳児のクラスにはいれたのは、あの御巣鷹山の事故のあとだったので、どうしてもこういうときにはすぐにあの事故のことがよみがえる)。

 そうか、あの白血病の女の子も、ああいう子どもたちに比べれば――と、また思い直す。

 でも、そこで一気に人生を俯瞰するカメラを引く。

 あ、なんや、おれもそれほど余裕綽々にほかの人のことを考えられる身分ではないのやな、地球の表面に浮かんでは消えるうたかたのひとつや――と、またまた思い直す。

 ちょっと大人になったおじさんの朝はまわりくどい。

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by pivot_weston | 2013-11-05 09:02 | ブログ

あるうしろ姿

 このごろ、韓国ドラマを見ていると、よくよみがえってくる光景がある。

 若い男女のうしろ姿。夜、町はずれの坂道をのぼっていく姿で、わたしはそのふたりより少しあとを歩いていた。わたしにとっては(58歳になる現在までを通しても)珍しい、あとになってどうしてああいう人たちとつながりがあったのだろうと、不思議になるような人たちだった。

 大学で園芸部というサークルに所属していたので、まわりはどちらかというと土くさい友人たちが多かった(この表現が失礼に当たるとしたら、当時の同じサークルのみなさんにはご勘弁を願わなきゃ。わたしはいまだに、西新宿なんていうところに住みながら土の仕事をしているけど)。

 なのに、その「男女」のうちの「彼」のほうは、すっきりした東京出身の数学科の学生。進級もきちんとしていて、スリムで、知的で、おしゃれにも気を使っている気配がうかがえた。

 会ったのは、このブログでは何度も紹介している「小玉」。わたしは毎晩のようにそこへ通い、たまには、お金がなくても行きたくなったので、カウンターの上に1円玉を150枚くらい積み上げて「おばさん、お茶漬け、食べさせて」と息せき切ってお願いしたりしていた。

 その店に、ある晩、そのスリムで、知的で、おしゃれな彼がはいってきた。なんで、どういう経緯で親しくなったのかは忘れたが、いつのまにかその彼が、会うと「おー」と言い合い、こちらがあとではいっていくと、「なんだ、今日は遅かったね」と言ってくれるような、友だち扱いをしてくれるようになった。

 最初に会ったときから、その彼の背後の、カウンターの端っこのほうに、縮こまるようにしてすわっている女の人がいた。「なんでえ、なんでえ、いいなあ、いつも彼女がいっしょで」土くさくて、まったくモテず、まったく女っけのなかった学生の反応はそんなものである。でまた、無礼にも、そう言って彼の肩越しにその彼女のほうをのぞこうとするのだが、彼女のほうはまたまた恥ずかしそうに身を縮めるので、結局、何度も会っていたのに、彼女と面と向き合ったことはそんなになかったのではあるまいか(そうか、つきあっていると、男はあまり相手をほかの男に見せたくなくなり、女もあまり彼以外の男に気を配る気はしなくなるものなのかな、などと未知の世界を想像していたのだが)。

 あるとき、彼が街なかの焼き肉屋さんで友だちと会う、いっしょに来てほしいと言いだした。なんでおれなんかに、とも思ったが、友だちが飲み会に誘ってくれるのは悪いことではないので、いいよ、とふたつ返事でついていった。

 どうやら、その友だちが「密使」として彼の東京の実家へ行っていて、その報告を聞く場だったらしい。いっしょにテーブルを囲みながらも、まったく事情がわからないものだから、ひとりだけ黙々と豚足をかじったり、ビールを飲んだりしていると、「結婚」という言葉が聞こえてきた。彼は彼女と結婚しようと考えていたらしい。で、どうやら実家が反対しているので、ご両親を説得するための「密使」だったらしいこともわかってきた。

 豚足をがつがつしながら、ふぅん、やっぱり結婚って、そんなものか、たいへんだなあ、本人同士が好き合っていたらそれでいいじゃんか、まあ、反対しているご両親もそのうち軟化するだろう――などと、テレビのホームドラマのシーンなどを思い出しながら思っていた(なんといっても、わたしは自分が結婚するときも、妻から「ニューセキしよ」と言われ、「ああ、いいよ」と、それこそふたつ返事で答えておきながら、あとでひそかに、あれ、ニューセキって、ケッコンと同じ意味かなあ、などと頭をひねっていたほどの結婚教養ゼロの人間だったから)。

 と、突然、場が緊迫してきた。「おまえもご両親の気持ちをもっと考えてあげろよ」彼の友だちの声が大きくなり、怒気を帯びてきた。

 いきなりだった。まったく、いきなり。豚足がつがつ、ビールぐびぐび、のこちらが気配を察する間もなく、テーブルの左右にすわっていたそのふたりが立ち上がり、ビール瓶を手に持って殴り合いを始めた。おいおい、という言葉も出てこず、ぽかんとしていたら、店の人が制止してくれたのだったか(「成田闘争ナンバーツー」という客とも、こちらから見るとツーカーな感じで男っぽい話をする、なかなかにかっこいい店の人だったのだが)。

 最近、しきりによみがえってくる坂道の光景は、その晩のことではなかったか。彼はうなだれてとぼとぼと坂道のまんなかあたりを歩いていた。彼女は左のほうに少し離れて歩いていて、うしろを歩いていたわたしが顔を上げてふたりの姿を見た瞬間、ちらりと下からのぞき込むようにして彼のほうを見た。

 あっ、と思った。それまで「いいなあ、いいなあ、彼女がいていいなあ」と下卑たうらやましがりかたくらいしかしていなかったわたしにも、一瞬にしてそのふたりの関係がのみ込めたような気がした。そして、そんな気がしたとたん、これからこのふたりはどうなるのだろう、どんな人生を送ることになるのだろうと思い、関心はおもに彼女のほうへ移っていった。

 それからざっと35年。あの坂道以後、ふたりとは一度も会ったことがない。「これからこのふたりは……どんな人生を……」と思ったときには、遠い宇宙をながめるようにしか思い浮かべることのできなかった時間が、いつのまにかファクトとして固定化されている。われわれもずいぶん長い時間を歩いてきたのだなあと思うと同時に、いつの時代も、こうしてひとりひとりにこういう思いをいだかせながら進んでいるのだろうなとも思う。

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by pivot_weston | 2013-11-02 10:05 | ブログ