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素朴がいちばん

 このところ、オバマネタが多くなっているが、今日も一席。

 先のG8サミットのとき、北アイルランドの学校かどこかで演説をしている最中だったか、聴いている人からなにかひとこと言われたオバマさんがちょっと悲しそうに表情を曇らせてこう言ったことがあった。「ああ、ミシェルだろう。そうなんだ、彼女はわたしより演説がうまいからね」と。

 そう、先日のジョージタウン大学での気候変動対策演説にかぎらず、2月の一般教書演説などでも、力感あふれる演説で聴衆の気持ちをどんどん高揚させて引っ張り込んでいく名演説家のオバマさんでもかなわない力が、ミシェルさんの演説にはある(別に旦那さんのように力こぶを入れるわけではないので、「演説」とは言わず、「お話」と言ったほうがいいかもしれないが)。

 前に、シカゴで話をするのを聴いたときも、いやあ、伝わるものがある話をする人だな、と感心させられた(なるほど、確かに、うわさどおり旦那より一枚上かもしれない、とも思わされたが)。

 そんなミシェルさんが、旦那さんや娘さんたちといっしょに訪問していたセネガルの首都ダカールでもあいさつをしていて、またその言葉の力に引き込まれてしまった。

 なんだろう。やはり、言葉は素直で素朴なのがいちばんということか。旦那さんの芸風の「力感」を基準にすれば、遠い昔のドイツにもひとり極端なのがいたが、あんなのは劣等感にまみれた虚勢と姑息な作為のかたまりで、いくらがなり立てたところで、ただの雑音に過ぎない。北アイルランドでオバマさんの顔をよぎった「ちょっと悲しそう」な表情も、奥さんの話のもつ力の表れと言ってもいいかもしれない(そこにまた、元亭主族の一員としては、共感をおぼえてしまうのだけど)。

 もちろん、原稿を見ている。その原稿はスピーチライターが書いたものかもしれない。でも、旦那さんもいつもスピーチライターが書いたプリントアウトの原稿に自分で手書きで直しを入れているように、奥さんも同じようにしているだろうし、かりに入れていないにしても、口にする言葉は台本を読むだけでは力をもたない。自分のなかで消化できていない言葉は、聴く人には伝わらない。

 ちょっと大げさかもしれないが、ダカールでのミシェルさんのあいさつを聴いていたときには、もしかするとこの演説にはいまの世界がすべて語られているかもしれないな、とすら思えた。アメリカでも、アフリカでも、アラブでも、もしかするとイランやアフガニスタンでも、アジアでも、ラテンアメリカでも、多くの人の内にひそむ気持ちがあのあいさつに語られていたかもしれない。

「素直で素朴」は、つまりはすべての人が根源に共有するものだけを取り出すという姿勢でもあるだろうから。

 先の米中首脳会談のときに、中国はミシェルさんが来ないのを不満に思ったらしいが、ダカールやそこに滞在中にオバマ夫婦が訪れたゴレ島の歴史を理解したうえで、素直に、素朴に語るミシェルさんの話を聞けば、人にはそれぞれいちばん大切にしたいものがあるということを理解してあげたい気持ちになるかもしれない。日本で人気さえ集めればすべてがうまくいくように思っている政治家も、なぜ外国が自分たちを歓迎しないのかを理解するうえでは、格好の材料かもしれない。時代を否定し、他国を否定し、同盟国アメリカに連帯を求めても、そこにいるのはかつての冷戦時代のアメリカではなく、なにより世界の合衆国として時代の最先端にあって新しい社会の枠組みをつくり出そうとしている政権なのだから。早く目をさましたほうがいい。

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by pivot_weston | 2013-06-30 10:58 | ブログ

ニワトリさん

 また老母同居の息抜きをかねて、外国に帰る人を見送りに成田まで行ってきた。

 で、行きのリムジンバスに乗るとき。いまでは、もしかすると大気圏内の酸素分子の数より多く使われているのではないかと思えるほどよく使われている言葉「イケメン」の典型のような若者がバスの乗り口の前に立って切符や荷物を確認していた。見上げるばかり、というより、チビのおじさんからすると「見上げるしかない」長身で、名札を見ると「ジョン」くんとなっていた(ほんとは違うけど、個人情報保護のため、そうしときましょ)。

 わたしが見送っていこうとしている人の切符を見て、「お荷物は?」と訊き、ああ、あれとあれですね、と確認している。で、次にわたしの切符を見た。「お荷物は?」と訊かれても、こっちはナシ。ただの手ぶら。え? で?――とかすかな戸惑いが感じられたので、先に「見送りね」とことわった。

 そしたらジョンくん、名前を言われたのだと勘違いして、典型イケメンのまま大まじめな顔をして「ああ、ニワトリさんですね」だって。笑った、笑った。いやいや、一所懸命にアタフタと仕事をしているジョンくんの前では、いくらなんでも悪いからがまんして、バスに乗ってすわったとたん、見送っていく人とふたりで大笑いして、それから小一時間、ならぬ小二時間ほど、少したっては思い出し、少したっては思い出ししながら、イエローストーンの間欠泉のように、何度も何度も繰り返しアハハ、ワハハ、ガハハの声を噴き出した。

 いや、日々忍従のときを過ごしているおじさんにとっては、最高殊勲者のようなジョンくん。見送っていく人が調子にのって「ガハハ、チキンさんだ」と大笑いするのを聞いたときには、カリフォルニアの海っぺりの崖の手前で肝試しレースをした赤ジャン青年にあこがれた世代だから、内心、ムッとしないでもなかったが、まあ、許そ、許そ、ジョンくんの言葉だもの。

 で、見送って、帰りのリムジンバスに乗ろうとしたら、またまじめそうな荷物係の青年が立っている。前にその係の青年がじょうずに英語でお客さんを案内しているのを見かけていたから、「いつも大変だね」と声をかけたら、「ぼく、台湾なんです」と意外なことを言う。「え、日本語、じょうずだね」と言うと、今度は「いや、子どものころに日本に来て、こっちで育ちましたから」とわけを説明してくれる。で、さらには「これからまた台湾の大学へ受験に行くんです」と、胸をふくらませながら将来の話までしてくれた。

 だから、バスに乗ると、立って見送るその彼が真横に見える席にすわり、バスが出るときに、軽く会釈をして、まあ縁だと思い、ちょっと手も振った。マニュアルどおり頭を下げる彼の顔がわずかにゆるむのが見えたような気がする。こういうときのちょっとしたひとことやちょっとした人の仕草が、あれくらいの若い時分にはエネルギーになることがあるんだよな、と自分の若いころを思い出したのも、いい息抜きになった。

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by pivot_weston | 2013-06-28 18:18 | ブログ

ため息

 またしてもため息の出る思い。

 オバマさんが気候変動対策について一大演説をぶち上げていた。ほんとうならあれ、日本がやるはずだった。ブッシュ政権時代のアメリカなんて、世界最大の炭素排出国のくせに、経済界から圧力をかけられたら言いなりになって、中国なみに京都議定書の約束をすることも拒否し、国内では、バイオエタノールなんていうものでごまかして、環境に配慮しているようなポーズをとりながら先行きの見えない経済対策に終始していた。それが、火曜日のオバマさんの演説では、「ほら、コペンハーゲンの会議では、みんな2020年に向けて炭素汚染を減らしていこうと言ってたじゃないか」と言っている。流れが流れなら、日本がぶち上げていてもよかったセリフだ。東京都も、ひとつの都市としては世界で初めて排出権取引制度を導入している。オリンピックなんていう、古き良き時代の思い出にすがるような後ろ向きの政策ではなく、世界のどこの国もやっていないことで勝負するきわめて前向きな政策だった。あの調子で世界の気候変動対策を先頭に立ってぐいぐいと引っ張っていれば、いまにも沈みそうなキリバスやどこかを始めとして、周辺国からの信頼や尊敬も勝ち取ることができていただろう。

 それなのに、いまでは、いっときデトロイトの自動車ビッグスリーという心臓までが止まりかけていたアメリカが息を吹き返し、21世紀の世界で日本がとれそうだった気候変動対策のリーダーシップまで奪い取ろうとしている。アメリカの大統領が世界に向かって「気候変動対策をしようじゃないか」と大声で呼びかけるなんて、数年前までは考えられなかったことだ(ビル・クリントンさんはずっとその方向で動いてきているが)。

 で、その21世紀の世界のリーダーシップを握れそうだった日本はどうしているか。どういうわけか、ダメ大国に堕していたアメリカに気に入られようとしている。ものごとを作り直すときにはたいてい「スクラップ・アンド・ビルド」が求められ、「スクラップ」のプロセスに耐えられない人は「ビルド」のプロセスに到達できない。だから、かつて岸信介さんという人などがお金でアメリカに売り渡していた主権を回復し、「スクラップ」のプロセスに挑戦しようとしていたら、ほら見ろ、だいじな同盟国アメリカとの関係がぼろぼろになっているじゃないか、と(きわめてもっともなことなのだろうが)そのお孫さんたちが言いだして、またアメリカ追従・主権献上政策に切り替えようとした。

 でも、その結果はどうなったか。先のG8サミットは、見ているこちらまでが悲しくなるような惨状だった。遠くから見ていると、まるで、これは米ロ首脳会談か、それとも米欧首脳会談かと思わされるようなありさまで、将来的に見ると、お互いに主権をもって対等に向き合うのがいちばんではないかと思えるアメリカのこの国に対する姿勢がますますあからさまの度を強めているようにも見えた。

 G8のなかでも、アメリカと一体不可分の関係にあるカナダは別格。とすると、残りは米ロ英仏独伊日の7か国。それなのに、アメリカはロシアや英仏独伊との会議ばかりを設けていた。外交関係を考えるときには、自意識過剰に陥るのは禁物で、いつでも全体を広く見渡す視野が求められるだろうが、それでも、なんや、日本はのけものにされているのかなと思わされるような光景だった。

 しかも、メルマガ購読者のみなさんには先にお知らせしたが、ホワイトハウスは情報整理の面でも日本を別格(カナダの別格とは別の意味の別格)扱いするような姿勢を見せている。オバマさんがどこかの国の首脳と会談や電話会談をすると、たいていその内容をWebサイトのStatements & Releases(声明&発表)のフォルダで発表している。シンガポール、ブルネイ、ペルーといったTPP交渉参加国首脳を始め、危機的なシリア情勢などにからんで緊密な連携をとっているトルコのエルドアン首相や湾岸諸国の首脳との会談や電話会談の内容も、中国の習さんや韓国の朴さんが訪米したときの会談内容もすべてこのフォルダで発表されている。2月に安倍さんが「オバマ2期目政権が最初に迎える外国首脳」として訪米したときの会談内容もこのフォルダで発表されている。だが、前にも書いたように、その発表内容があまりにもTPPの実務文書のような体を成していたので、どうしたのだろう、と思っていたら、今度、G8の前に日本のメディアが「安倍さんはオバマさんとしっかりと事前協議をしているので」みたいなことを言っていた。そこで、どれどれ、では公式発表はどうなっているのだろうと思って調べてみたが、それがなかった。だから、どうなっているのだろう、まさか、いくらなんでも日本の政府とマスコミがいっしょになってうそをつくことなんてあるのかなと思いながらもう一度調べ直してみると、あった。でも、そのありかたが異様だった。Statements & Releasesのフォルダではなく、Speeches & Remarks(演説&あいさつ)のフォルダだ。オバマさんが習さんと会談した5日後、G8サミットの5日前の6月12日に電話会談をしたとある。でも、そういう発表がSpeeches & Remarksフォルダに納められているのを見たことは記憶になかったので、念のため、今年にはいってからのオバマさんと各国首脳との電話会談の発表を調べ直してみたが、案の定、ほかの発表はすべてStatements & Releasesのフォルダに納められていて、安倍さんとの電話会談の発表だけがSpeeches & Remarksフォルダに納められていた。なんだろう、これまでにも、ありゃりゃと思うようなミスをしたことのあるホワイトハウスだけに、今回もそういうミスのひとつかなと思ってフォローしているが、いまのところ、まだ修正された形跡はない(要するに、まるで日本だけがよその国とは別扱いされているような印象で、その別扱いの印象があまりよろしくないのだ)。

 では、表面でアメリカとの関係改善をアピールしている日本政府の政策がG8でどのように扱われていたのかというと、ホワイトハウスのG8関連の発表文書を見るかぎり、ほとんど日本の存在感は感じられない。日本のメディアは「アベノミクス」「アベノミクス」と言って騒いでいるが、そんな表現はどこを見ても出てこず、わずかに「アメリカ、ヨーロッパ、日本がそれぞれ取り組んでいる金融緩和策」のような表現が出てくるだけだ。だから、素人の勘違いなのかもしれないが、正直なところ、けっこう惨めな気分になった。かつて子ども手当を支給しようとしたときには、「ばらまき」「ばらまき」という批判が国内全体で巻き起こった。でも、今回、日銀が銀行や投資家を相手に「異次元」の「ばらまき」を行い、しかもその多くをアメリカの投資家たちに吸い取らせて差し上げるようなまねまでしたのに、自分たちが知らないうちに背負わされている借金がどんどんふくらんでいる国民からはあまり批判が起こらないどころか、ぼろもうけをさせてあげたアメリカからも嫌悪感のようにすら感じられるものを示されている。

 信じられないような状況が起きている。それなのに、日本のメディアはそういう現実を伝えようとしていないように思える。日本がどんどん孤立しているこの危機的な状況を伝えないで、実際には空回りを繰り返している政策を糊塗しているような政府に同調していたら、日本のメディアはもう報道機関とは言えず、宣伝機関と考えたほうがよさそうな気もする。

 今年の初めに、アメリカはこの6月末で退任するドニロン国家安全保障担当大統領補佐官がニューヨークのアジア協会で講演を行い、「太平洋へのリバランス」「アジア重視」の姿勢を明確にした。7月に次回交渉のあるTPPの交渉参加国とも、次々と首脳をホワイトハウスへ招いて協議を重ねてきた。ところが、G8では、TPP交渉参加国の日本とカナダが蚊帳の外に置かれ、環太平洋に対抗して環大西洋で始められるT-TIPの本格交渉開始が宣言された。もしかすると、そんななかで日欧貿易交渉の開始も発表されたのは、アジアという、誰が見てもこれから世界における存在感や重要性を増してくることが間違いない地域において、周辺諸国と宥和してリーダーシップをとろうとしない日本の国民の先行きを考えての思いやりではないかとすら思えてくる。

 世界の主要国のなかで自国の侵略の歴史を受け入れるのを拒否している国はない。なにも国にかぎらず、どんな組織でもそうだろうが、自分たちの負の側面や負の歴史を堂々と受け入れられない人はリーダーになれない。なにかでちょっと頭にきたときに、つい同級生を小突いてしまった子がクラスの委員長になろうとしたときに、誰かに「先生、その子は同級生を小突いたんですよ」と言われ、一所懸命に言い訳をしたり自分の正当性を主張したりしていたら、みんなはその子を「おお、やっぱりおれたちのリーダーだ。たいしたもんや」と思うだろうか。この世のなかにすべてが正しい人なんてひとりもいない。それでも、みんな、その世のなかを少しでもよい方向へ変えていこうとしている――そういう基本コンセプトをもたないと、21世紀の世界のリーダーにはなれない。負の歴史も謝る潔さにつながれば、リーダーシップのひとつの要素になる。現在の、心配になるほど現実との乖離を繰り返している政権が高い支持率を保っているのも、もしかするとこの国の教師(大人)まかせの優等生教育のなかでリーダーが養成されてこなかったことを物語っているのかもしれない。

 これからの世界では、ディベートのできない国は置いていかれる。最近も、またユニークなときにユニークな発言をする鳩山さんがそんな発言をして物議を醸しているようだが、相手の主張を「なるほど。一理ある」と受けるのはディベートの常套手段だ。相手の主張を堂々と受けとめて、そのうえで相手が納得するような反論を返せる人(国)でなければ、正々堂々とした議論に勝てないし、ほんとうのリーダーとは言えない。領土も、いま守ればいいというものではない。これから何十年も、できれば何百年も先の子孫の代まで守っていこうと思えば、相手の主張にいちいちハリネズミのように反応し、同じ主張を繰り返すだけの狭量で持続不可能な姿勢はあらためなければなるまい。普天間の「抑止力」発言のときには、あちゃ~と思わされたが、前にアメリカの制裁網をかいくぐっていきなりイランを訪問したときも、あゝ、この人は世界のなかで日本ができることを考えている人だなと思わされたが、今回も論争の相手の懐を少し広げさせるような効果はあったのではあるまいか。政府も、表向きは批判しているにしても、長い目で見ると、ひそかに感謝しなければならないときが来るかもしれない。

 ともかく、先に書いたG8の状況やアメリカ政府の姿勢やTPPのことなどを考えると、いまの政府はなにかをやればやるほど現実から乖離していくような傾向を見せていて、とても心配な状態のように見える。自民党内でも小泉進次郎さんという次代のリーダーが養成されているようだが、リーダーの心得を学ぶなら、まずなによりも身近な自国の経験として、菅さんや野田さんの経験に学んでもらいたい。国が破局的な混乱に陥ったときに、国民のやり場のない怒りや不安を甘んじて受けとめるのは、リーダーが、なにをするか以前に、まず基本的にしなければならないことだ。対立党だから、表面ではいつまでも否定するのかもしれないが、きわめていい手本だから、心の底ではぜひあの経験を教訓としていただきたい。こんなふうになったのも、メディアや広告代理店などが絶対にしてはいけない縁故採用などを繰り返してきた結果かもしれない。本来なら新しい発想や視点を生み出すべきそういう組織からまったく新しい発想や視点が生まれてきていない。「鈍牛」「鈍牛」と揶揄されながら大局的見地から第一次尖閣危機を救ったマサヨッサンの時代がなつかしい(あのときは、日中両国の首脳が、立場上口先で言っている「国益」ではなく、国民の生活の安寧、つまり、ほんとうの「国益」をリーダー同士の相互理解のうえで優先したのであり、だから、今日の日本もあるのだが)。

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by pivot_weston | 2013-06-28 07:44 | ブログ

ショウ・アンド・テル

 1985年にハリウッドのマイケル・J・フォックスがバック・トゥしたザ・フューチャーが2015年、つまり2年後に迫っているのだという。シカゴのアルゴンヌ国立研究所のドン・ヒルブランドさんがそんなネタを皮切りに「交通のフューチャー」を語り、最後にはフライング・ヴィークル(実際には「ヴィエークル」と発音する人が多いが)の話をして皮切りのネタに合わせた話の結びかたをしていた。

 なかなか楽しい。ほんとうに1時間あまり、機関銃のようにしゃべりまくっていた。で、考えた。近ごろはまた、日本でも小学校から英語教育をしよう、ということになっているらしい。となるとまた、英語よりも日本語、あるいは、いくら英語を習っても話すことがないのでは話にならない、といういつもの議論が蒸し返されている。なんか、「不毛」のにおいがする。

「ショウ・アンド・テル」がいいような気がする。世界の小学校教育では、多くの国が取り入れている授業だと思う。たとえば、クラスの誰かが家から大きな錆びた釘を1本持ってきて、みんなの前に出て「ぼくは釘を持ってきました」と言って見せる(「ショウ」だ)。みんなは「なぁ~んや、ただの釘か。それがどしたんや」と言って軽蔑のまなざしを向ける。そこからが「テル」で、見せた子は次に「ばかにすな。これは、わが家ではだいじなだいじな釘なんや。うちは、カギ(錠前)なんかつけるのはめんどくさい。そう、とうちゃんが言うてた。(「ほんまは、つける金がないだけやろがー」という声が聞いている生徒のあいだから上がる)うるさいっ! だからと言うて、この釘のだいじさが減るわけではない。いや、カギをつける金がなければないほど、この釘はだいじな一本になる。つまり、これはうちのカギなんや。木の戸の隅にキリで穴をあけて差してある。(「ほー、原始的な家じゃのー」と、また茶化す声)うるさいっ! 便利なカギじゃ。おまえらは、家に帰ってカギをあけるのに何秒かかる? おれは1秒もかからんぞ……」

 たとえば、そんなふうに話が進んでいったとする。教室の前に立って話をしている子が持っているのはたった1本の釘だが、そこからいろんな話が発展し、黙って聞いている生徒たちの頭のなかでも、(へえ、そうか、釘がカギになるんか)(曲がらんのかな)(そんなん、泥棒が来てもわかるんとちゃうやろか)(「木の戸の隅」って、どの隅じゃろ)と、いろんな思考が展開される。「話すこと」をたくさんつくっていく訓練、聞く訓練、考える訓練になる。そういう訓練がよくできているな、ということを冒頭のヒルブランドさんの話を聞いているうちに感じた。

 いまでは、テレビCMでもさかんに流れているので、塾の批判などをしたらはじき飛ばされるのかもしれないが、わたしは大学時代に塾の先生というオプションを目の前にしたとき、受験技術という子どもの技術で生計を立てていくのはなんとなく情けない気がした。いまもその思いは変わらない。いつも書いているように、現代でも人類はまだたったひとつの真理にも到達していない。人間の世界は新しい世代の新しい理解や思考を待っている。それなのに、子どもたちに現代の人間世界の大人たちのとりあえずの「知識らしきもの」をかぶせていったら、せっかく多くの人たちが待ち望んでいる新しい思考をみすみす圧殺することになりはしないだろうか。

 だから、塾のような形態で生計を立てていかなければいけない人たちがいるとしたら、そんな、とりあえずの「知識らしきもの」を押しつける時間ではなく、「ショウ・アンド・テル」の時間に変えていったらどうなのだろう。子どもたちのことだ。きっと「話すこと」なんて無限に見つけられると思う。そして、みんなが「話すこと」をたくさん見つけて大人になれば、それを話す手段が日本語だろうが、英語だろうが、そんなものは必要に応じて、適当に使って話すようになるのではあるまいか。人と人が会ったらHello!と言わなければならないような英語の授業、Nice to meet you.と言わなければならないような英語の授業、あれが大きらい。だから、いまでも英語スピーカーの人と会っても、最初は「どうも」としか言わない(言えない)。コミュニケーションは自由なもの。ふわふわとした人間の内面と内面のあいだでするもの。コミュニケーション能力のある子どもを育てたければ、子どもを自由にするのがいちばんだと思う。

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by pivot_weston | 2013-06-25 13:54 | ブログ

選挙の声

 暑い時期の選挙はまさに「閉口」だ。神経を集中して仕事をしているときにあのうるさい拡声器の声が来ると、そのたびに戸を閉めたくなる。

 わたしも2年前に一度、そういう運動に加担し、出陣式のときにボソボソと拡声器越しにしゃべったことがあるので、もうなにも言える立場ではなくなったのかもしれないが、あの「よろしくお願いします」の声は、子どものころから不思議でならない(それでもまあ、当時は野良に出て働く人が大勢いたので、それほど極端に違和感は感じなかったのだが)。中学校で生徒会の選挙に出たときも、あの言葉は意識して一度も使わなかったと思う。海のヘドロが問題になり、スモッグが問題になり、騒音も問題にされだした時代。いずれああいう言葉の連呼は選挙から姿を消すと思っていたが、40年たってもまだ繰り返されている。

 20年ほど前、中野区の東中野というところの住宅地のど真ん中に住んでいたころにも、なんの選挙だったか忘れたが、選挙があった。住んでいたのは、表にそのあたりでは広めの駐車場のあるアパートの1階で、わたしはその入口の台所を仕事場にしていた。子どもたちが帰ってくると、「ただいまあ」とわきを通り過ぎて、奥の部屋へ行く。

 その日はちょうど締め切り。お昼ごろには仕上げなきゃいけない仕事がなかなか進まず、カリカリしていた。と思ったら、いきなり表から大音量で「……のみなさま」という声が聞こえてきて、うわっ、なんで、と思った。どうやら選挙カーが無音のまま住宅地のなかの道を走ってきて、少々開けたアパートの駐車場を見つけると、ここはいいとばかりに車を止めて、一気に拡声器の声をあげたらしい。締め切りなどなく、のんびりとテレビを見ているときだったとしてもカチンと来ていただろうが、そうではなかったものだから、カチンと来かたも並大抵ではなかった。

 カリカリがキリキリになった。候補者の善人ぶった能天気な語り口がますます怒りを誘う。それでも最初は辛抱しようとした。抗議などをしているひまはなかったし、そういうことをして頭や内面のコンディションを乱されるのもいやだった。でも、やまない。5分たってもやまない。信じられないことに、10分たってもやまなかった。これはもう黙っている問題じゃないと思って出ていった。

 こういうときは感情的になっちゃダメだし、上記のように、自分の内面のコンディションを自分から乱すようなことはしたくないという気持ちもはたらいた。だから、止めた選挙カーの前に立って演説をする候補者のわきに立っていた運動員に「ちょっと、ここは住宅地ですよ」というあたりから話しかけたと思う。向こうは、演説をしていたらアパートのなかから人が出てきて、近づいてきたものだから、支援者と勘違いし、「ありがとうございます」とか言っている。だから、はっきりと意図がわかるように「迷惑ですよ」と言った。

 選挙に出ている人だ。たとえ表向きにせよ、世のなかをよくしようとしている人だろう。それに、聞きたくなくても聞こえていた演説のなかでは「庶民のため」「みなさんのため」みたいなことをしきりに言っていた。だから、首にタオルを巻いて仕事をしていた庶民の「迷惑」のひとことを聞けば、「あちゃ~、すみません」くらいのひとことは返ってくるのかと思っていた。

 漫画だった。あとは腹の立つ漫画だった。意に染まぬことを言われたものだから、向こうはとたんになにかの政治団体のいやがらせと勘違いして、「いや、わたしたちは選挙の主張としてここで……」「いや、言論の自由は……」みたいなことを言いだし、マイクを持っていた候補者もそれを口に当てたまま反論に加わってきて、キーキーとヒステリックな声が住宅地にこだました。だから、しまった、逆効果になってしまったか、と思いながらも、それならそれでなんとか早く静めなければという思いも手伝い、「よく考えてください。ここは住宅地です。夜勤明けで寝ている人もいるし、みんな静かに生活をしているところなんです。それを乱して、なにが庶民のためなのですか?」のように話を持っていったが、もう戦時中の弾圧を受けていた人になったような気分になっているのか、マイクを持って耳障りな声をあげる候補者の目は、常軌を逸していた。

 最後には「あなたがたは庶民の生活を阻害し、庶民が生きていくのを難しくしているんですよ」と言ったのだったか。ほんとうは「あなたがたこそ庶民を利用し、庶民を殺そうとしている張本人ではないか」と言いたかったが、そこまで言うのはせめてもの理性で思いとどまった。でも、カツカツ生きている身で、その手段である仕事の締め切りを守るのを妨害されていた身としては、それはほんとうに、うそ偽りのない思いだった。

 あの時期よりは、ずいぶん候補者や運動員の意識も変わってきているようだ。わたしが手を貸したときにも、そういう方面への気配りは行われていたみたいだった。しかし、それでも完全にはなくならない。どうしてだろう。政治家の主張というのは、生活をしている庶民のじゃまをしても頭ごなしに聞かせなければならないほど立派なこと、重要なことなのだろうか。会社で言えば、有権者が社長あるいは株主で、政治家は従業員なのではないのか。いい仕事をしてくれる従業員は、それはもちろん立派だし、貴重なのだが、株主の静穏な暮らしをじゃまして、文句を言われたら「うるさいな。おれたちの仕事のほうが重要なんだ」と反論する従業員がいたら、どう思うだろう。選挙の手伝いをしたときも、地域の人とお宅の前などで静かに1対1で話を聞かせてもらったときがいちばんよかった。

 国会に手伝いに行っていたときも、毎日毎日、朝から晩まで首相官邸の前で拡声器越しにがなっている団体がいたが、あれ、世界の基準から見たらかなり異様なのではないのか。国の恥のように思える行為をどうして誰も止められないのか、不思議でしかたなかった。もう21世紀なのだから、拡声器の使用は駅前とかなんとかだけにとどめ、公園などにスピーカーズコーナーを設けるような対策もとって、みんなの日常生活は静穏に過ごせるようにして、誰も政治のために暮らしをじゃまされたりしないようにしたほうがいい。うるさくしないと選挙に行かない有権者が多いのなら、わたしたちがその現実を受けとめればいいだけの話で、誰かがパターナリズム的配慮をする問題ではない。

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by pivot_weston | 2013-06-22 10:32 | ブログ

印象的なひと幕

 またちらりと、印象的なひと幕が。

 ドイツを訪問していたオバマさんがメルケルさんの首相府で共同記者会見をしたときの動画。世界をちょっと驚かせたタリバンのカタールへの出張所設置(米軍のアフガン撤退後の交渉用のもの)の話やなにか、オバマさんがひとしきり話をし、記者団との質疑応答になった。2人目の記者の質問にメルケルさんも答え終えたとき、オバマさんがイヤホンをしている耳のほうを指さしながら、記者団のほうへ向かってにこっと笑った。見ている側はなにがなんだかわけがわからない。なにしてんだろう、なんの合図だろう、と思いながら見ていると、となりでメルケルさんもオバマさんがほほ笑みかけたほうとオバマさんの顔をきょろきょろと見比べながら、え、なぁに? なに、なに?――とやっている(57歳のおじさんから見ると、ちょっとかわいらしかったのだが)。

 そこでカメラが引くと、オバマさんがほほ笑みかけたほうに3人目の質問者、ロイターのジェフ・メイスンが立っていた。いつもホワイトハウスの報道官会見で最前列の向かって左寄りの席にすわっている男だ。いつもの報道官会見のときの彼の質問は、マイクも遠いので、わたしにはよく聞き取れないのだが、このときは首脳会談のあとの共同記者会見らしく、ちゃんと立って、マイクも自分で持ち、メモを見ながらゆっくりと話してくれたので、はっきりと聞き取れた。シリアの反政府軍に兵器も供与することになったけど、どんな兵器を誰にあげるの? プーチンさんは政府軍のほうにつくと言っているのに、うまくいくの?――と訊いている。

 と思ったら、メモのページをめくってひと呼吸置いたところで、ふたたび話をはじめたジェフの言葉が急に聞き取れなくなった。ぐじゃらぐじゃらとなにか言うと、メルケルさんが両手を左右にひろげて肩をすくめた。ああ――いきなりの変化だったので、わたしもとっさにはついていけなかったが、大学時代には第二外国語にドイツ語をとっていたので、彼が急にドイツ語にスイッチをしたのに気づいた。同時通訳のほうもいきなりの変化に虚をつかれていたのか、こちらが、あ、なんだ、ドイツ語をしゃべりだしたのか、と思ったあたりでようやく同時通訳の声がかぶってきて、そのドイツ語が聞こえなくなった。

 で、彼の質問が終わったところで、返答をしようとしたオバマさんが「先に言っとくけど、ジェフ、すごいね、きみのドイツ語」と言い、にわかにまじめな話に切り換えるのは気が引けたのか、少し次の言葉を言い淀んで、また「メルケルさんもちゃんとわかったと言ってるよ」と(横へ向いて確認したわけでもないのに)サービスのひとことをつけたして、最近よく見せる、くしゃっとした子どものような笑顔になった。

 こりゃこりゃ、ジェフ・メイスンはもともとフランクフルトでロイターに採用された人だから、メルケルさんにも通じるドイツ語を話すのはあたりまえでしょうが――なのだが、ともあれ、それでその場はまた一段とリラックスしてきて、オバマさんの話がますます友だちと話をしているようにわかりやすくなってきた。で、その調子で、そうなんだよ、プーチンさんはアサド政権以外にまかせたら収拾がつかなくなっちまうぞ、と言うんだよ――と悩ましそうに説明していく。

 それで、頭の鈍いわたしにもようやくわかったが、ジェフは最初からオバマさんに途中でドイツ語にスイッチすることを伝えていたのだ。だから、彼が質問をはじめる前にオバマさんが、ほら、ちゃんとしてるからな――と、イヤホンをした耳のほうを指さしていたのだ。話していることはシリア国民や誰かの生死のかかったいたってまじめなこと。でも、そこにちょいといたずら心を混ぜる。政治の風景も、ああいう感じなら悪くない。

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by pivot_weston | 2013-06-21 17:32 | ブログ

ゾルの分散質粒子

 また新しい世界に挑戦中。消耗する。でも、してみると自分の触覚のなかで休眠状態に陥っていたものがいかにたくさんあったかがよくわかる。

 新しい世界は右も左もわからないから、自分の触覚をはたらかせられるだけはたらかせて、足もとに小さな木の実が1個ぽとりと落ちただけでもパッと飛び退くような状態で進んでいく。でも、それを2度、3度、10度、20度と繰り返していると、音がしても「ああ、木の実か」と思い、たいていはそれで間違いはないのだが、もしかすると、たまには昔のわが家の「ポットン」くん、つまり、住み込みのヘビさんかなにかかもしれないのに、決めつけで進んでいく。そして、踏み込む回数が100度、200度と重なれば、それだけ「たまには」の回数も比例して増えていくわけで、年経るおじさんは、いつまでも自分は木の実にだけ囲まれて平和に暮らしていると思い込んでいても、実際には、そこらじゅう「ポットン」くんだらけのなかで暮らしているかもしれない(「ポットン」くんたちの名誉のために書いておくと、ふつう「住み込みのヘビ」さんたちは人間に危害をおよぼさないので、ときどき、夜寝ているときに脚のほうや首筋のあたりがひんやりするのや、彼らが、それはそれは迫力のある、太古の爬虫類の時代を思わせる大きな口をあけて、射すくめられたネズミをひと呑みにする光景などに慣れてくれば、なんでもないのだが)。

 ともあれ、そんな思いも寄らぬ光景が、新しい世界に踏み込むと鮮やかに見えてくる。いや、鮮やかに見えてくるならまだ休眠中だった触覚の感度はそれほど落ちていなかったわけで、対応も早いのだが、もともとまわりの同業の職人さんたちと比較しても感度が悪いんじゃないかと思えていたわたしの触覚の場合は、なんとなく周囲の光景が自分の思い込んでいたそれとはまったく違うことに気づいて、お、いかん、このままでは生きていけなくなると思うところまではよくても、ぬるりと通り抜けていく「ポットン」くんの感触をキャッチしても、はは、なんや、「ポットン」か――とのどかにかまえて、脳にまでは信号を送らないことがある。もともと体や頭の構造が細かな仕事をやるのには向いていない超大雑把、というより、のどかな構造になっているのかもしれないが、生まれてから経過してきた時間が60年近くにも達し、目の前に開けている生きていくためのオプションが限られているいまの状況では、さあ、じゃ、どこかの無人島へでも――というわけにもいかない。だから、せっせと寝とぼけている触覚やトンチンカンなはたらきをする触覚の横っつらをひっぱたきながら、ああ、もうあたしにはここまでしかできまへん――というところまで消耗だけは一人前にする。

 でも、これがわたしなりの世のなかへの参画のしかただと思う。人間は、頭の機能や体の機能だけで世のなかに参画するものではない。それだけなら、設計図を描けばいつでも素晴らしい社会をつくれるわけで、実際には、そんなに単純なものではないから、頭や体の機能のほかに気持ちや感情やなんたらかんたらまでまといつかせてラックに突っ込んでいくラグビー選手のように世のなかに取っ組んでいくことで、ゾルのなかの分散質粒子のようにもぞもぞと動いて、全体として、ま、いまの世のなかはこれくらいがせいいっぱいか、と思えるような状態をかたちづくっていくのだと思う。

 いまの日本は少し「頭や体の機能だけ」の絵空事の世界に近づきすぎているのかもしれない。先日、NHKで紹介されていた中国の地方の土地開発の実態はなつかしかった。住民と役所が正面からぶつかっていて、まるで成田闘争の時代みたいだった。去年の反日デモもまるで昔の日本の反米デモを見ているみたいだったし、その後に持ち上がった大気汚染の問題も、いまだに水俣病やカネミ油症などの問題に合理的に取り組めていない日本の40年前を思い出させるようだった。トルコの反政府デモも、樺美智子さんが亡くなったのが東京オリンピックの4年前だったことを考えれば、やはり人間の世界では同じようなことがあるときには同じような現象が起こるものなのかな、と思わされる。まあ、そう考えると、触覚が休眠状態に陥っているのは、なにもわたしだけの問題ではない、とも言えるかもしれないのだが。

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by pivot_weston | 2013-06-20 22:17 | ブログ

街の底で

 人生うまくいかないときはなにをやってもうまくいかない――とよく言われる。そうだな、と思う。

 でも、その一方で、このブログでは何度か紹介しているが、ロバート・フルガムさんのエッセイ集『「~かもね」は人生の素敵な知恵』に書いてあるように、「頂点にいるつもりでいたら、気がついたらどん底にいて、どん底にいるつもりでいたら、気がついたら頂点にいる。人生、そういうもの」(要旨)という言葉にも、ほんと、まったくそう、と思う。

 25歳のクリスマスイヴはまったく最低だった。東京に出て2年間で5つほど職を転々とし、4つめの勤務先の社長に絶妙なタイミングでクビにしてもらえたものだから、やっと5つめで翻訳業界の片隅にもぐり込めたと思っていたら、思いも寄らぬ栄養失調になってしまって、しかたなくまたその業界をいったん飛び出して、神田の社長ひとりの出版社で雇ってもらったころ。しゃあない、これも流れとあきらめて、よし、こうなったらもう編集者で行くぞ、と腹を決め、60人以上の著者を担当させてもらい、毎日首都圏一円を飛びまわっていた。はずむ体は心もはずませるもので、大学をやめるときに「まあ見てな、きっとひとかどの人間になってやるから」と約束していた彼女にも「もぐり込んだぞ」と電話をしたら、「どら、んじゃあ、イヴに現場を見に行ってやる」ということになっていた。

 ルンルンの出勤。そしたら、いきなりご乱心で理路不整然の社長に大きなはさみを突きつけられて「クビだ」。ちぇっ、もぐり込み成功の報告がクビの報告になっちまったかあ、と思いながら彼女を迎えに行った上野駅では、人っ子ひとりおらず、「今日は大雪で電車は全部止まっているよ」と言われ、わーっ、なんだろ、おれの人生――と思いながら崖下の暗い木造アパートに帰った。で、まあ、その流れが影響したのだろうけど、2日後には酔っぱらって飲み屋さんの2階から転落し、頭を切って救急車ではこばれた。わーっ、わーっ、ほんま、なんだろ、おれの人生――だ。

 と思ったら、そんなザマで頭に包帯をぐるぐる巻きにして暗いアパートでひとり年越しじゃあんまりだよ、と思って、こっちから電話をかけて見舞いにきてもらった人がとなりにいて、てっきり無理に来てもらったと思っていたのに、実はそうでもなかったことがわかり、1週間後には頭に包帯をぐるぐる巻きにしたまま能天気に師走の街をふたりで歩きながら結婚の話をしていて、年が明けると同時に、それまでは「優秀な人ばかりの会社で、おれなんかとってくれるはずがない」と思っていた会社の求人に「よ~し、こうなったらここはイッパツ」と思って作文を送って応募したら、ま、「うちは良家の子女ばかりなんだよ。きみみたいな人をとるのは初めて」と言われたのには、ちょっとキョトンとしたが、どうにかとってもらえ、それから数年間は、あれがこれにつながり、これがそれにつながり……という調子で、ほんと、自分でも見ているのが楽しくなるほど人生が開けてきた。

 だから、ほんと、フルガムさんの言葉は、そう、そう、ほんとそう、と思いながら訳した。

 でも、これは自分ひとりでできることじゃない。自分でできるのは、逆転の発想か。ふたつめの仕事を簡単にやめたとき、大学を中退するときに学部長に言われた「もう変わるのはなしだよ」という言葉も思い出し、いかんなあ、なにをやっても長続きしない人間だなあ、と思いながらも、生きていくためのお金が尽きてきて、もうこれしかないと思って実家に電話をかけたら「おまえもとうとうそこまで落ちたか」と涙された。ますます落ち込む言葉。でも、友だちの部屋で夜を明かし、始発の電車が動きだしたところで当時住んでいた市ヶ谷の駅まで帰り、靖国通りを歩きだしたら、まったく思いもかけない現象が起こった。右側は自衛隊の駐屯地の高い崖。左側は、いまでは「高い」という形容は当たらないだろうが、当時は「高い」と思えたビルの列。あ、どん底や、おれ、街の底におる――と思った。そしたら、どういうわけか急に反対方向に視界が開けてきて、なんや、それならなんもかまうことはないやんか、なんでも自分にできることを力いっぱいやればええだけや、人生、なんか単純になったな――と思った。

 だから、それから5分ほど歩いてアパートに帰ったときには、もうにこにこしながらカーテンをあけ、目の前にそびえる高い崖を仰いだのを記憶している。流れが反転するところまではいかなくても、ああ、いまのおれはどん底やなあ、と思えたときも、ついつい下ばかり見ているから暗く沈むのであって、上を見たら、どん底にいる人は頂点にいる人より広い視界が開けているものではあるまいか。そういう逆転の発想があってもいい。

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by pivot_weston | 2013-06-19 16:48 | ブログ

懐中電灯の思い出

 嵐の日の話ではない。嵐の季節のささやかな光の話。

 妻が乳がん骨転移を発症し、「あと3か月」と言われ、一か八かで試みた手術も失敗し、脊椎が骨折していたものだから、もう「(角度にして)1度も体を起こせない」という制約のなかで来る日も来る日もベッドに寝たまま血液検査に表れる薬の効果を待っているしかなくなったころ、あれ!?――と大発見をしたような気分になって、妻のベッドの向きを変えてもらったことがあった。

 4人部屋。患者はみんな頭を窓のほうへ向けて寝ていた。歩ける患者さんや体を起こせる患者さんはそれでもいいかもしれないが、「1度も」の制約つきの妻の場合は、それでは、明るいことは明るくても、窓の外が見えない。患者の気持ちは病状に影響してくる。ただ明るいだけでも暗いよりはましかもしれないが、大きな窓一面に広がる青空が見えるなら見えたほうが、気持ちは外へ向かってもっと大きく広がるだろう。そう思ったから、妻の気持ちをできるだけ外向きにして、病気の勢いを押し戻す方向へ広げることができればと思い、看護師さんに相談したら、「あら、いいですよ」とすぐに向きを変えてくれた。

「わあ、見える」
「これはいい」

 妻は頭を枕に載せたまま、目だけを足のほうへ向け、満足そうにそう言った。

 次の日、わたしが病室に行ってカーテンをあけると、すぐに妻が仰向くようにしてわたしを見上げ、「おとうさん、山が見えるよ」と言った。痛みがあっても、「あと3か月」と言われても、つねにまわりの人のことを気遣っていた妻だ。その日はわたしが来たら、わたしのアイデアの効果があったことを伝えようと待ち構えていたことがすぐにわかった。

 でも、そう言われて、ベッドのわきにしゃがみ、目の高さを妻と同じにしてみると、窓枠の下辺から、ほんの米粒ほどの山頂がのぞいているだけだった。山だとわかっていないと、山かどうかもわからないほどだ。だから、つい「なんだ、あれっぽっちか」と言うと、妻がすぐに「でも、ずっとベッドに寝ているほうからしたら大きいんだよ」と言い、そうか、やっぱりおれはばかやな、自由に立って動きまわれる自分を基準にしてはいけないんやな、と反省した。

 以来、ベッドの高さを高くしてもらったり、幸いにして薬の効果が表れてきて、ほんの数度くらいはベッドを起こせるようになったものだから、いろいろと知恵を絞って寝たままの妻の視界をなんとか広げる方法を考える毎日になった。

 わたしは運転免許を持っていないので、病院には毎日バスやタクシーなどで通っていた。田舎の乗り合いバスだ。いまでは廃止されているが、当時からすでに一家に数台の自家用車があたりまえになっていたので、ほかには乗客がほとんどおらず、毎日貸切バスのような状態で、顔なじみになった運転手さんと世間話をしながら通っていた。で、ある日、帰りのバスに乗って、窓から病院のほうをふり返ったとき、あ、そうか、とひらめいた。

 妻の病室は4階。いまではもう新しい建物が建って、その病室も道路からは見えなくなっているみたいだが、当時は道路わきに空地もあって、ほんの1秒程度だが、走るバスの窓から妻の病室の窓がよく見えた。

 懐中電灯なら、1秒でも十分ではないか、と思った。この場合、考えていたのは妻のことだけではなかった。家に帰ると毎日、母親のいなくなった3人の子どもたちがとろんとした表情で待っていた。よく母親と話をしていた子どもたちだ。それがわたしの夢だった。わたしの子ども時代には、いつも誰かが入院し、だから母も働きに行くしかなく、小学校の下校時には、田んぼで家族が待っている同級生たちとひとり、またひとりと別れ、最後にはひとりで真っ暗なわが家にたどりつく毎日を送っていたので、大学生のころから、おれはなんとか家でできる仕事がしたいなと思っていた。

 妻はそんなわたしの夢をまさにそのまま実現してくれた人でもあった。家や、車や、家具や、そういうものに気持ちを向けるひまがあったら、貧乏でもいいから、その分、家族に気持ちを向けてみんなで仲良くやっていける家庭にしたいと思っていて、それをそっくりそのまま実現してくれた人だった。もっとも、わたしのほうは、自分で望んでいたくせに、うまくそこに加われない。妻は自分もそういう家庭で育っていたから自然とわたしの望むような家庭をつくってくれたけど、それを夢見ていたわたしのほうは、慣れていないものだからやさしい父親なんてとてもできず、怖い頑固なおやじをやりながら、妻がつくってくれた家庭に混ぜてもらっていた。

 その妻が、ある日突然、いなくなった。そりゃあ、子どもたちはとろんとするわな、と思った。でも、だからといって、上に書いたような塩梅だから、わたしが急に妻の穴埋めをすることもできない。食べていくためには仕事もしなければならないし、どうしたらいいんだろう、どうしたらいいんだろう、と思いながら、10月、11月、12月、1月、2月、3月とずるずる来ていたときの発見だった。

 思い立つと、すぐに懐中電灯をふたつ買い、ひとつを病室の妻に持たせ、もうひとつはいっしょに面会につれていったときに子どもたちに持たせた。もう妻は病院周辺の町が見下ろせるところまで上体を起こせるようになっていた。だから、病室にいるあいだに「いい? ほら、あそこ、あのへんをバスが通るからね。そのときにバスのなかからチカチカするから、おかあさんのほうもやって」そう言って、いっしょに来ていた子どもたちをつれて帰りのバスに乗った。

 当然、それはもうわが家の貸切バス。子どもたちは立ち上がって窓にへばりついていたのだったか。うまくいくかどうかもわからず、あっという間に空地のわきを過ぎて、「なんや、見えへんかったなあ」と子どもたちがまたとろんとするところも想像しかけたが、そんな想像をしているうちに、「あ、見えた!」「見えた!」「あれっちゃうん」という歓声ががらんとした車内に響きわたった。

 よかった、よかった、と思った。次の日に病室に行くと、妻もバスのなかからのチカチカが見えたらしく、興奮していた。ほんの1秒、あるかないかのあいだのこと。でも、それで、病室のベッドの上で動けなかった妻と、家でとろんとして心に空白をかかえていた子どもたちのどちらにも、たとえ1秒程度でも沸き立つ時間ができた。しかも、わたしたちがそういうことをしていることがわかると、貸切バスの運転手さんも、「え、ほんならちょっと止まろか。ここらがええかいな」とか言いながら公共のバスを止めて1秒を数秒、あるいは数十秒に延ばしてくれるし、どうやら病室のほうでも、「どれどれ、どこにバスが見えるん?」という騒ぎが起きていたらしく、次の日にわたしが行くと、思いも寄らぬ人が「見えたよ、懐中電灯の光」と言ってくれたこともあった。

 わたしはわたしで、そのチカチカポイントを通過したバスがしばらく海沿いの道を走るときに、興奮してにぎやかになった子どもたちをよそに、いつも西の空に沈む太陽を見ていて、雲がかかっていると少し胸をどきどきさせ、走っているうちにその雲が晴れたら、よしっ、よしっ、と内心で力こぶをつくりながら、なんの根拠もない祈りの時間にひたっていた。

 子どもたちは、ストレッチャーでの「散歩」(もちろん、実際に散歩するのは患者本人ではなく、わたしたち家族だけなのだが)が許されると、うれしそうに母親の乗ったストレッチャーを押して病院中へ妻の世界をひろげてくれたし、ずいぶん力になってくれた。なつかしい時代。どこの家にもある山や谷のひとつなのだろうけど、やはり父親だから、子どもたちには、よくぞああいう時代を乗り越えて大人になってくれたものだと思う。

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by pivot_weston | 2013-06-18 18:27 | ブログ

アスタ・マニャーナ

 好きな言葉だ。1968年のメキシコシティオリンピックのときに初めて耳にしてから、日本語で「明日、間に合わ~な」と言っているようなその音と意味がとても気に入っている。よく指摘されることだけど、この国では、電車が1分遅れただけでも「ご迷惑をおかけしまして……」のアナウンスが流れる(地方の駅はそうでもないような気もするけど)。自分の気持ちがそれと同じようなモードに入っていると思ったときには、この言葉を、自然に思い出さなくても、意識的に記憶のなかから引っ張り出してくることもある。

 たぶん、性分が「そっち系」なのだろう。暑い日なかはぶどう棚の下に出した縁台の上で昼寝をしながら育ったから「シエスタ」もいい。どんくさい風習だろうけど、そのどんくささが、いっしょに生活している人への共感や過ぎていく時間のはかなさの認識のようなものをどこからともなく全身に忍び込ませてくれるような気もする。逆に、合理的に時刻という座標軸の上で物事を整理し、つねに抽象的な概念を意識しながら生活するようになると、頭のなかで意識する活動の量や密度は高まるのかもしれないが、首から下で体感する時間や経験の密度は低下するような気がする。

 だから、年をとったら、どちらかというとそちらの密度が高まるような暮らしをしたいと思っていた。ある時期、亡くなった大先輩の篠原勝さんが頻繁に山へドライヴにつれていってくれていたことがあった。未熟な若輩者のこちらは、仕事場を出ても頭が抽象的な概念にまみれていて、肉体のセンサーの一部がそれに引きずられてオフになっていた。でも、すっかり環境と同化しながら仕事をするという難業を成し遂げていた篠原さんは、ほんのかすかに、そよと通り過ぎる風にも「お、いいね」と遠くの風景を見やりながら反応する。最初は、抽象的な概念にばかり敏感になっていたこちらは、反射的に遠くへ向けられた篠原さんの視線の先に「いいね」の主体をさがしていた。でも、何度も何度もドライヴにおともさせていただき、そういう体験を重ねているうちに、篠原さんがいきなりこちらへ向いて「わかりました、いまの?」と言っても、「ああ、いい風ですね」と、ピューピュー吹く無骨でわかりやすい風ではなく、幽玄の風の感触を同時に共有できるようになり、そのうち、「お」「ああ」「ね」「ええ」という会話でもその共有を確認できるようになった。

 その時期、奥の庭の掃除をしようとしていたのだったか、家の棟の角の、生け垣との間隔が狭まったところを通り抜けて裏庭から奥の庭へ行こうとしたとき、あっ、と思った。生け垣と棟の間隔はそこで50cmもないくらいに狭まっていた。子どものころには、その棟の角に父の部屋があり、観音開きの窓の内側に父の机が置いてあったので、よくその観音開きの窓をあけ、窓敷居にすわって、なにをするでもなく、風に揺らぐ生け垣の葉を見ながら長い時間を過ごしたところだったが、大人になってからは、通ることはよく通っても、そこで立ちどまることなどなかった。でも、篠原さんに鍛えてもらったおかげか、そのときは一瞬にして、ほんとうに吹いているか吹いていないか程度のかすかな風、というより空気の流れを感じとることができた。だから、その後は、奥の庭の掃除などという野暮な用事などはなくても、仕事をしていて、お、そろそろそういう時刻かなと思うと、そこへ行って、父の打ったコンクリートの上にすわり、なにをするでもなく、ぼーっとひとりで時間を過ごすようになった。

 待ちの時間だった。それまでのわたしは、なんでも自分から取りに行こうとしていたことに気づかされた。子どものころには、そういう時間もけっこうあったはずなのに、いつのまにか、じんわりと汗ばむ午後にじっと自然が差し向けてくれる恵みを待ったりせず、自分からブンブン扇風機の風を起こしたり、リモコンボタンをワンプッシュしてクーラーの人工の冷風を呼び込んだりするようになっていた。たしかに、扇風機やクーラーのほうがその「涼しさ」はわかりやすい。でも、それは、そうしてしばしの待ちの時間を過ごしたのちに訪れる「そよとする瞬間」を体験してみると、どこか自分が自分の頭のなかの抽象的な概念で補っている「涼しさ」、言ってみれば、ある種「妄想の涼しさ」であるようにも思えてきたし、なんと言っても、四の五の関係なく、その待ちの時間の末に訪れる涼しさは、とにかく涼しいのだ。待つことによって、かすかな空気の流れが通過するたびにかさこそと音を立てる生け垣の葉にも目が向くし、わたしの掃除が行き届かないものだから荒れ果てていたが、その荒れ果てたなかに伸びてきていた草の葉の色つやがまたみごとに美しいことにも気がつく。

 だいじなのはこれだよ、と思った。この地球という天体の地べたの上に生まれてきて、客観的にはどういうものかよくわからないが、わたしたちが勝手につくっている時間という概念のなかで「生きる」という行為をさせてもらっている。それなら、固定観念まみれの人間界のなかで、やれ、大きなものをつくった、やれ、すごいことをしたと言って騒ぐより、まずわたしたちがしないともったいないのはこれだよな、と思った。いまではもう、誰も人工的な暮らしをまったく無視して生きていくことはできないのだろうが、地球の上に生まれてきた生き物としての基本を見失いそうになったら、じっと木陰にしゃがんで無為の時間を過ごしてみるのもいいと思う。

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by pivot_weston | 2013-06-17 17:12 | ブログ