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「朝生」の功績

 今月の「朝まで生テレビ」はおもしろかった。若い人たちが出て、知性と礼節に満ちた議論を展開していた。だからつい、最初から(1987年に放送が始まったころから)聞きたかったのはこういう議論だよな、という気分になりかけていたが、途中で、なにやらひとり物足りなさを感じていらだっていたのか、司会の田原さんがいつもの要領でそんな議論にがつんと大声をかぶせたところで、ちょっと、あ、そうか、と気づかされるところがあり、してみると、意識はとたんにそのみごとな議論から離れ、田原さんやテレビ朝日の番組スタッフのみなさんのやってきたことの大きさへ向かっていった。

 番組のなかでも、年配者の議論の拙さや生産性のなさを指摘するような言葉が飛び出していたような気がする。そして、それはしごくそのとおりだとも思うが、そういう方向へ思いが向いてみると、冷静に知的な議論を進めていた若い人たちに、きみたちも自分たちの立っているところがどうしてそんなに気楽で平坦なところになったかを理解しておく必要があるよ、と思った。

 あの番組の最初のころの放送では、今月の放送のようにパネリストたちが平坦な地面にならんで立っているようなことはなかった。天皇、差別、右翼……当時はまだ、番組が意欲的に取り上げるそういうテーマのひとつひとつにタブーがあり、パネリストとパネリストのあいだに、目に見えない山がそびえていたり、深い溝がぱっくりと口を開いていたりして、パネリスト同士が息を飲み、目を据えて、気配をはかりながら議論をするような緊迫した場面がけっこうあったような気がする。

 タブーは虚像を生む。虚像ができると、それを担う側にも、敵視する側にも、建設的で知的な議論には必要のないよけいな気配りが求められ、ときに、その煩わしさに耐えかねた人たちのなかに、ショートを起こし、激昂口調になる人がいる。でも、これは次の時代への過渡期なんだよな、乗り越えなきゃいけない段階なんだよな、と思いながら、田原さんの勇気と素朴な好奇心に感服しつつ、そんな光景を見せていただいていた。

 現に、わたしなどにとっては子どものころからタブーのように思えていた世界の人たちも、そうして明るい照明のなかに出てきて話をしてもらうと、なんのことはない、ほとんどの人はふつうの、素朴に自分の思うことを考え、考えたことに従って生きているだけの人のように見えてきて、そういう人たちが肩肘張ることなく、自由に議論して総意を形成していくのがいいんだよな、とも思えてきた。もちろん、そういう人は「虚像」を煩わしく思っているわけで、「虚像」が生まれていることをこれ幸いと利用し、「虚像」を身にまとうことにご自分の存立の基盤を求めている人は、明るい照明を浴びれば浴びるほど、その人の主張ではなく、主張を支える人間性のほうに共感できる要素が薄らいでいったものだが。

 だから、これはなにも田原さんやテレビ朝日の番組関係者のみなさんだけの功績でもなく、番組に出て、むっとする思いやかっとなることも経験しながら、息を飲み、次の時代につながる時間を過ごしてくれたパネリストのみなさんの功績でもあり、また、そういう番組をじっと見守ってきたわたしたち視聴者の側にも、少しは功を認めてもらってもよいことなのだろう。

 ともかく、そういう時間があって、いまの時間がある。だから、みごとに知的で冷静な議論のできる若いパネリストのみなさんにも、ただ年配者の議論の拙さや不合理さや生産性のなさを笑ったり敬遠したりして、いまの平坦な地面の上で伸び伸びと議論を交わすだけでなく、どうして自分たちの足もとが平坦になったかにも、少しは思いをいたしてもらいたい気がした。人が時間の流れのなかで積み重ねてきたものは貴重だ。それを忘れてしまったら、また一気に時代を逆行する結果にもなりかねない。

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by pivot_weston | 2013-04-28 15:39 | ブログ

謝ることの意味

 もうひと昔以上前の話になるが、妻が亡くなる半年ほど前、息子が問題行動を起こしていたことがわかったことがあった。妻が、女の勘か、母親の勘か、どちらか知らないが、ちょっとしたところに表れた変化を目ざとくキャッチして、「そうに違いない」と言いだして、本人を問い詰めたところ、わかったことだった。

 これは、こたえた。その5年前に、実感としては、ある日突然、と言ってもいいような感覚で「あと3か月」の可能性を宣告されてから、いったんは日常生活にほとんど支障がないところまで押し戻していた妻の病状も、2年ほどが経過すると、峠を越えるように、それまでの上り勾配が鈍ってきて、やがてそこに、もしかするとこれは下り勾配なのではないかと思える傾向もきざしてきて、それでも最初は自分たちのなかではさまざまな口実を見つけてきて懸命に打ち消していたそれが客観的に打ち消しがたいものになり、ずしりずしりと日を追うごとに心と体に重くのしかかってきて、どうするか、どうすればいいのか、と考えているうちに、とうとう、それまでは心のなかで最後の拠りどころとしていた「致命的な臓器への転移がない」という事実まで打ち破られたころだった。

 もう身動きができないほど体じゅうのあちこちに、ひとつ、またひとつと鉛のおもりを縛りつけられてきたのに、そこへまた、新たに別の種類のおもりがのしかかってきたような気分だった。子どもというのは残酷なことをするなあ、と思った。でも、息子の内面も想像がついた。多感な時期を迎えていたのに、両親は前方に強い強い不安を感じながら上記のような峠道を下りたくないと思いながらずるずると下っていた。鉛のおもりはわたしたちの心身だけでなく、家全体にものしかかり、本来なら、そこに帰ると好き勝手なことをして、好き勝手にテレビを見て、好き勝手にグーグーと眠れることを前提に、外でなにくれとなくもやもやしたものを発散できる時期に、その前提となる安心できる世界で息のつまる思いを強いられていた。

 だから、いいかげんな亭主は、それまでのしかかっていた鉛のおもりの重さに耐えきれなくなっていたこともあって、この状況で息子にこれ以上を期待するのは酷だろう、見て見ぬふりをするのもひとつの手ではないか、いまは両親にバレていないと思って問題行動を続けている息子も、いずれ、ときがたったら、そこから抜け出すのではないか、と思い、妻にそんな提案をしかけた。すると、ベッドに腰かけてうつむいていた妻が、急に目を血走らせて顔を上げ、わたしの言葉など聞こえていないようすで、語気を強め、ひとりごとを言うように「このままじゃいけない!」と言って、わたしの話をさえぎった。

 息子にも息子の思いがあれば、妻にも妻の思いがある。もちろん、妻もわたしも「もう時間がない」という現実など、お互いに口にして確認したりはしていなかったが、わたしはもちろん、妻も自分が直面していたその現実と日々向き合っていたのはよくわかっており、その言葉を聞くと、そうか、わかった、と思った。もう息子に対してできる教育の機会は限られている。そんなときに、いくら斟酌してもらってもよさそうな事情があるにしても、してはいけないことをしている息子。それを放置して、もう怒ることもどうすることもできない別の世界に行くことはできない。親として、最後にできることをしておかなければならない、という強い気持ちが伝わってきた。

 だから、こちらも考えて、ひとつ提案をした。息子の問題行動は、まだそれに気づいた妻とわたしにしかわかっていなかった。でも、それによって被害を受けていた人はいた。だから、その人はまだ無自覚にしても、ともかくこちらから、ふたりで、息子もつれて謝りに行こう、と言った。謝りに行って、息子の前に立ち、これまで被害を受けてきた人に頭を下げよう。ふだん自分の前では偉そうにしている両親が、自分の目の前で深々と頭を下げるうしろ姿。それをしっかりと息子の網膜と記憶に焼きつけておこう、それがわれわれに両親として最後にできることではないか、と話し合った。

 ほんとうは、妻に対しては酷な提案だった。そもそも5年前に乳がん骨転移で脊椎全体に転移がひろがっている状態で病気が発覚した妻は、完全に脊椎が骨折していると言ってもよい状態で、そういうことでもなければ、逆に、妻が誰かにおじぎしようとしても、わたしがすぐに横から「お、こらこら」と、彼女が礼を尽くそうとするのを制止していた。でも、ここまで追いつめられていたら、「このままじゃいけない!」のひとことにこもった妻の気持ちも覚悟も十分に理解でき、それは病状の温存より優先すべきことだと判断した。

 1月か2月の、路上に雪が残る日だった。ふたりで息子をつれて相手の人の家まで行き、暗い土間に立って、息子をうしろに立たせ、ふたりで「どうも申し訳ありませんでした」と頭を下げた。これでもか、これでもか、と思うくらい頭を下げながら、背後に立っていた息子に、ええか、忘れるなよ、この両親の姿を忘れるなよと、伝わるかどうか知れない気持ちを心のなかで語りかけた。被害に気づいていなかった相手の人は、自分が怒る前に謝りに来たわたしたちに驚いて、怒るどころか、かえって好意的に相手をしてくださったが、わたしたちがなにより気にしていたのは、わたしたちが伝えようとしたものが息子にしっかりと伝わったかどうかだった。

 謝ることは、自分を貶めることではない。謝ったら自尊心が傷つくように思うのは、謝る気持ちのない人のなかで起こる心的現象であって、謝罪というのは誇りがあるからする行為だと思う。

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by pivot_weston | 2013-04-27 15:52 | ブログ

犯罪と自意識

 さすがはアメリカのメディアだなと思った。

 ほかにも同じようなものがいくつかあると思うが、たまたま目にしたのは『ウォールストリートジャーナル』の記事

 捜査当局が容疑者兄弟を特定して銃撃戦が発生したのが19日。この記事は、それから3日のあいだに書き上げ、しかも翻訳というプロセスも経たものだ。さすがに情報収集能力はすごいなと思わされる。

 容疑者兄弟の過ごしてきた世界がぼんやりと見えてくる。キルギスで日本人人質事件が発生したのが1999年。その時期に、この兄弟はキルギスにいて、第二次チェチェン紛争(1999~2009年)の激化するチェチェンやそのとなりのダゲスタンに移り、行く先々で、アチチ、アチチ、という思いをするようにして動きまわったあげくに、まるで別世界のようなボストンの大学町にたどりついている。

 だから、チェチェン人を強制的にキルギスに移住させたスターリンはひどい、とも言える。だから、チェチェンやキルギスで活動しているイスラム過激派やテログループと呼ばれる人たちとのつながりもあったのではないかということも疑われる。

 でも、捜査当局などがそういう視点でこの事件を見るのはしかたがないにしても、結局のところ、わたしたち一市民がこのような事件でいちばん考えなければならないのはやはり「自意識」の問題だと思う。テロリストだ、テログループと関係があったのだ、と言って事件を彼岸視していたら、いつまでたってもこの種の事件は繰り返されるだろう。とくに、兄のタマルラン容疑者の生い立ちを想像していると、連合赤軍の森恒夫、オウム真理教の麻原彰晃、アルカイーダのオサマ・ビン・ラディンなどの姿にたぶり、さらには、ナチのヒトラーの姿までが重なってくる。みな、自意識のコントロールを誤った人たちだ。動物的な粗暴犯の犯罪を除けば、犯罪の多くはその自意識のコントロールミスによって生じていると思われる。

 暴力的な世界のなかでボクシングという格闘で相手を倒すことによって自意識を満たすことをおぼえたタマルラン容疑者。でも、(キルギスやチェチェンと比べると)うそのように平和なアメリカにたどりついたら、こんなノホホンとした平和な連中に負けるわけがない、おれの力を見せてやる、と思っていたのに、逆に、世界がはるかに大きく広がったことによって、自分では倒せない相手がいるという現実を思い知らされる。そういうときに、まあまあ、一杯飲めよ、おまえのボクシングはたいしたもんだ、でも、世のなかには上には上がいるものさ、と言ってだらしなく「飲んでくだをまく」だらしないおじさんがそばにひとりでもいて、そういう世界に引っ張り込んでもらえていたら、彼も見知らぬ他人の命を奪ったりせず、ボストンの町のどこかの酒場で「おれだって昔はエンパイアステートくらいある相手をたたきのめしたものよ」と言って力こぶをつくって見せるたわいもない酔っぱらいのおっさんになれていたかもしれなかった。

 先に書いた森、麻原、ビン・ラディン、ヒトラー、みんなそう。若いうちに誰もが自分のなかにもっている自意識という風船から、プッ、プッ、プッとほどよく空気を抜くコツをおぼえていたら、周囲の世界と無理なく調和してやっていけたかもしれないのに、その空気穴を見つけられず、また、周囲もつくってやれなかったばかりに、風船のなかにぶくぶくと自意識をため込んで、そのあげくに、爆発的に放出した人たちばかりだ。麻原の罪が断罪されるのは当然にしても、その劣等感や世のなかに対する敵意のもとをつくった、つまり、麻原の自意識の風船の空気穴をセメントでふさぐようなまねをしたと思われるチッソ水俣工場の人たちが厚生省の職員などといっしょになって、自分の行為の結果になど責任をとらず、外見上、「罪のないまじめなサラリーマン」として一生を過ごしてきたのを見ると、今回のボストン爆破事件でも、わたしたちはほんとうにこれを一部の特異なテロリストと呼ばれる連中の犯罪としてかたづけてよいのか、もっとわが身の暮らしに引き寄せて考える必要があるのではないのか、と思う。「差別」も、「いじめ」も、「体罰」も、ただ理屈で考えて悪いから悪いのではないと思う。いずれは現実にわたしたちの命や暮らしに影響をおよぼしてくる可能性があるから真剣に考えなければならないのであり、学校での教育の第一の目的も、人類の既知の知見を詰め込んでそれだけ思考に自由度のない子どもたちを育てることではなく、ひとりひとりの自意識をじょうずに育んでやることにあるのではないかと思うことがある。

 当面、人間の浅知恵に過ぎないと思われる理屈で構築された社会などをめざしてはいけない。飲んでくだをまくだらしない世界こそが貴重なのだ、とだらしないおじさんは思う。

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by pivot_weston | 2013-04-26 14:13 | ブログ

中間世代のリレー

 世代の責任として、書いておいたほうがよいのかな、あるいは、書いておかなきゃいけないのかな、と思うことがあるので、書いておこう。

 改憲論議がひろがっているらしい。いまはまだ、その間口をひろげるかどうかを議論している段階らしいが、焦点になっているその日本国憲法と57年つきあってきたひとりの国民として、大勢の人が憲法のことを議論するのは悪いことではないと思う。また、そこで大勢の人が変えたほうがいいという意見で一致するのであれば、変えるのも、民主主義の原理としてはなんの問題もないと思う。少し前にはやった言葉で言えば、すべてはわたしたちひとりひとりの選択主の「自己責任」の問題であり、いちおう、結果に責任を持ちさえすれば、ひとりひとりがなにを選択しようと自由、というのが民主主義の建前のはずである(いや、責任をとらなくてもとらざるをえない、とも言えるとは思うが)。

 焦点はやはり9条ということになるのか。子どものころから何度も何度も議論を聞かされてきた。

 わたしくらいの世代の人たちのなかには、同じような経験をされてこられたかたが少なくないと思う。家の仏間で遊んでいるときは、いつも軍服姿の伯父さんの写真が見下ろしていた(少し上の世代のかたのなかには、おとうさんの写真だったかたもいらっしゃるかもしれないし、少しあとの世代のかたのなかには、おじいさんの写真だったかたもいらっしゃるかもしれない)。

 出発点は威勢がよかった。なんといっても、3人の兵士を育てた祖母のもとで育てられていた。先日、乗せていただいた熊本出身のタクシー運転手さんは「あんなの、ほんとはとんでもねえやつだったんだ。大勢の兵隊を死なせやがって」と罵っていたが、もちろん、そんな話を聞く半世紀以上も前のわたしは、首都東京を見たり、国家を俯瞰したりすることはおろか、3人の息子たちが戦う戦地も見たことがなかったのに、ただ当時の社会システムのひとつの歯車に与えられた役目として、国家のために体を張って戦う若者を育てる姿勢が染みついていて、次男を南方で失っても、まだその染みついたものをぬぐうことのできなかった祖母から、架空の「乃木将軍」をモデルに勇ましく生きる姿勢を植えつけられていた。

 迷いが生じたのは、これまでにも「兵士たちの戦争」をはじめ、何度か触れてきたが、『魚住少尉命中』というテレビドラマを見たとき。人間魚雷回天に乗って敵をめがけて突っ込んでいく21歳の中尾彬さん演じる「魚住少尉」の最期の人生の空間とそこでの回想が綴られたものだった。そうか、死ぬときはああいうプロセスを乗り越えなければならないのか、と思った。すでにそのときにそのプロセスを乗り越えていた、インドネシアのアンボイナ島で撃墜された伯父さんのことも考えた。そのドラマを見るまでの伯父さんの存在は、墓石に刻まれた「烈」の字などにも影響されて、言ってみれば「誰もが持ち上げる立派な人」。でも、ほんとうは魚住少尉のような時間を過ごしていたのかもしれないんだな、と思うと、実は、みんなに便利な語り草として利用されているだけで、単に自分の人生を奪われた人ではないのか、とも思えてきた。

 そして、学校で習った9条。そら、あったほうがええと思った。日本のテレビドラマでは、『魚住少尉命中』のように戦場の兵士のおびえや痛惜を描いていたものはあまりなかったような気がするが、アメリカのテレビドラマの『コンバット』には、勝者の余裕か、兵士たちの内面の動揺が率直に描かれていた。だから、そのころには、通学するわたしたちの頭の上をベトナムや沖縄へ向かう爆撃機が飛んでいても、もう戦争はしたらいかん、なにがあってもしたらいかん、9条はだいじや、と思うようになっていた。

 でも、大人になると、またいろんなものの見かたが変わってきた。わたしたちは高度経済成長期の申し子だ。鉄工所に勤務して一家の家計を支えていた母親の「賞与」が、毎年毎年おもしろくなるくらい増えていった。日活やどこかで額に汗して働く若者たちの青春映画もたくさんつくられ、東京オリンピックというひとつの大きなエポックもただただ胸躍る気分で経験した。だけど、そもそも鉄工所の景気がよくなったのはなぜだったのか、『コンバット』をはじめ、テレビをつけたらアメリカのドラマばかりをやっていたのはなぜだったのか、登下校するわたしたちの頭上をアメリカ軍の爆撃機が飛んでいたのはなぜだったのか、といったことを考えた。

 なにやら胸ふくらませてくれる「経済大国」という呼び名より、ほんとうは、その一方でよく耳にしていた「エコノミックアニマル」「属国」「植民地」という呼び名のほうが現実をよく反映しているのではないのかという気もしてきた。そりゃ、そうだ。国はどこの国もそれぞれいちおう国境の内側で自己完結することになっている。理屈だけで考えれば、当然、この国もアメリカの人や韓国の人や台湾の人や中国の人と同じように、かりに世界がまだ武力を必要とする時代であるのなら、それを自分たちで負担しなければならないことくらいは小学生でもわかる。そんなことは、いちいち大の大人が大上段にふりかざして述べるようなことでもない。だから、まあ、いずれは、この国もアメリカの傘の下から独立し、小学生でもわかる常識に従わなければならなくなる日が来るのかなとも思いだした。

 ただ、そこまでは、あくまで55年体制の発足の年に生まれた戦後っ子が頭のなかで考えていたこと、つまり「理屈」だ。わたしが虚をつかれたのは、戦争体験者や戦場体験者のかたの話を聞く機会が増えてからだった。

 戦後、シベリア、というか、中央アジアのカラガンダの炭田に抑留され、復員後に結核をはじめ、さまざまな肉体の不調と闘った父は、満州時代のことや、月を映したバイカル湖の湖面や海鳴り(湖鳴り、と言うべきかもしれないが)のことを除けば、「コサックのほうがひどかった。白系はそうでもなかったんじゃ」と、ぽつりともらしたひとことくらいしかわたしに語らなかった。同じようにバイカル湖の近くに抑留され、大工仕事をさせられていたもうひとりの伯父さんも、わたしに当時のことを語ってくれることはなかった。だから、子どものころはあまり戦争の現実を肌で感じることはなかったのだが、大人になって、一家を代表して親類やご近所とのつきあいをしていると、むごたらしかったことで知られるビルマのインパール作戦に従軍していたおじさんをはじめ、いろいろな人から話を聞く機会ができ、そのときにやや驚いたのが、みな戦友たちとのむごたらしい日々をなつかしそうに語りながらも、「では次は」という話になると、きっぱりと口をそろえて「絶対にしたらいかん」「あなな(あんな)もんは絶対にしたらいかん」と言ったことだった。中国戦線にいた妻の父にも、一度「絶対にしちゃダメ」と形相を変えて言われたことがある。

 要するに、いまは戦争を知らない人たちが頭あるいは理屈だけで考えて、ああだこうだと議論しているが、世のなかには理屈だけでは割り切れないことがあるということも衆知の事実であり、9条は、一見すると上品そうな大学教授や新聞記者みたいな人ばかりが支持しているだけのように思われるかもしれないが、実は、高級軍人や高級官僚のように、いつも奥のほうの安全なところに引っ込んでいて、表に出てくるときだけ胸を張っていた連中ではなく、実際に泥んこの戦闘の現場で国を背負って戦ってきた人たちの「理屈ではない思い」によって積極的に支持されていた側面があったことも、若い人たちにはぜひ頭に入れて判断を下していただきたいと思う。最初に書いたように、国の判断は国民の総意。だから、その結果はどうなろうと、わたしもそれについていくしかない。でも、戦争世代とIT世代の中間にいる者として、国のためにリレーしておくべきものはリレーしておかないといけないと思い、書いてみることにした(まあ、いま聞こえてくる議論があまりにも机上の議論のようにしか聞こえないからでもあるのだが。そしてまた、いま議論の先頭に立っている人が、この国の主権を金で外国に譲り渡した張本人のお孫さんに当たることにも疑問を感じてのことだが)。

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by pivot_weston | 2013-04-20 16:08 | ブログ

無限たけのこニョキニョキ

 架空のたけのこの話(正確なたけのこの原理はまったく知らないので、悪しからず)。

 その昔、チグリス・ユーフラテスというたけのこの皮の内側からエジプトという皮がはえてきて、パレスチナやイスラエルという皮がはえてきて、ギリシアという皮がはえてきて、ローマという皮がはえてきて、立派なつやつやの皮に成長したころ、その内側の奥のほうで「野蛮人」「ド田舎」と言われていたゲルマン人とかサクソン人とかいう人たちは、鼻の下に泥でもつけて上のほうを見上げ、「くそっ、いまに見とれ」と思いながら縮こまっていた(あ、わたし自身ももとは「ド田舎」の人間なので、これがばかにする表現ではないこと、話をわかりやすくするために使っている表現であることはご理解ください)。

 そのうち、その、奥のほうで縮こまっていた北の人たちではないけど、ローマという皮の端っこのほうにいて、アフリカのほうの、強い日差しやなにかにも耐えられる、つまりそれだけ身体能力の高い人たちと混ざることで、逆に身体能力の劣る人たちのつやつやのひ弱な皮から差別されていたスペインやポルトガルという皮が、本体をがっちりとつつみこんでいたローマの皮から見ると、あれれ、あれれ、という方向へ伸びひろがりだした。

 奥で縮こまって「野蛮人」と呼ばれていた北の人たちは、それを遠目にながめ、「これだ!」と思った。その、変則的な方向へ伸びひろがりだしたスペインやポルトガルの皮と同じ手法を使えば、そのとき、たけのこの外側をがっちりとつつみ、ふんぞり返っていたローマの皮を見返してやれると思った。で、わたしにもおぼえがあるが、「田舎の人間のド根性」で、上品そうにしてふんぞり返っている連中を横目にがんばりだした。

 ニョキニョキ。それまで内側で縮こまっていたイギリスやフランスやオランダの皮が伸びてきた。ふり返ると、つやつやしていたローマの皮は、いつのまにかひからびて、ささくれだって、ぺらぺらしていた。今度のイギリスやフランスやオランダの皮は、まるい地球をすっぽりつつみ込むようにしてひろがった。もう盤石、のように見えたけど、それでもまだ、長い「野蛮人」時代を過ごしてきた人たちには、自分たちには自然の恵みがないという根深い劣等感があった。

 そこで、自分たちの勢力維持、自己防衛のために多用しだしたのが、はるか遠くの植民地とつながるための証文の経済、今日の株式やなにかにつながる、言ってみれば抽象的な経済だ。蜘蛛の巣のように地球を縛る証文をつくっておけば、もう昔のようにばかにされることはない、「わが世の春」はいつまでも続くと思っていた。

 ローマのころよりはるかに太さの増したたけのこ。しかも、その外側をがっちりとつつむ西ヨーロッパの皮。でも、成長というのは「ひろがり」と同時に「分散」「分裂」という現象も不可分・不分明に伴う。で、ある時期から、アメリカというわけのわからない土地の人間が、西ヨーロッパの金持ちたちと同じようなかっこうをしてぽつぽつとパリやロンドンに出没するようになった。

 とたんに、かつては「野蛮人」と呼ばれていた西ヨーロッパの人たちが、自分たちの立場を守るためにそのアメリカから来た人たちを「田舎もん」「ヤンキー」と言ってさげすむようになった。当然、さげすまれたアメリカ人のなかでも、かつてさげすまれていたゲルマン人やサクソン人のなかで起こったのと同じ現象が起こる。なにくそ、と思い、いろんな面でいまの中国の人たちと同じように顰蹙を買いながらもアメリカ人は「超大国」と呼ばれる地位を築いてきた。

 さて、そういう西半球のたけのこの歴史を頭に入れて、いまの東アジアのようすをながめてみると、あれ、いまいちばん可能性を秘めているのはまったく意外な国ではないのか、という見かたもできるな、ということに思いがいたる。歴史上、大きく伸びたたけのこの皮は、つねにそれまでばかにされ、小さく縮こまっていた。確かなことはよくわからない。でも、そんな見かたもできるな、と思っただけ。よかったら、「ジャパン・アズ・フロンティア」も合わせてどうぞ。

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by pivot_weston | 2013-04-19 15:27 | ブログ

ラフティング人生

 まわりにも同じような人がいたみたいだが、このところずっとすっきりしない状態が続いていた。体も不調だったが、お正月から続いていたやたらに忙しい毎日が一段落すると、さて、これからどうなるのか、どうしていったらいいのか――という迷いも加わり、もやもや、もやもや。でも、自営業はコロラド川の川下り、ラフティングみたいなもの。目の前にグランドキャニオンの断崖が立ちはだかり、水面が波立ってスプラッシュしているときはバランスをとるのに夢中で、一転してただ流れにまかせておけばよい平らな川面に出ると、ついつい気持ちが張りをなくして虚無感や虚脱感などに忍び込まれたりするものだが、せっかくのんびりできるときにまで荒れた川面を求めていたのではばかばかしいから、そういうときはボートの上でお日さまの恵みを体中に浴びながらおへそを出して昼寝でもしていたほうがいい……と思っていたら、お、ほら、もう次の断崖絶壁が見えてきて、またゴボゴボと川面が泡立ちはじめている。いいね、自営業は。若い人も、いつまでもあなたまかせに4月になったらスーツに着替えて生きかたを変えたりせずに、一本の道を生きていったらいいのに(経験のない人を雇って研修を受けさせるという日本の新卒一括採用システムは経済的にきわめて無駄が多いシステムだと思う)。

 というところで(なんの関係もないが)最近注目しているのが女子プロ野球。あれはすごい。テレビで解説していた吉村禎章さんもレベルの高さに驚いていた。とくにサウスディオーネというチームでショートを守っている厚ヶ瀬という選手の守備はいい。

 高校を卒業し、大学進学が決まり、さて、やることがなくなったなと思っていた時期に、友だちとぷらぷらと春の高校野球の県大会を見に行ったことがあるが、そのときにちょうど、ときどき甲子園に出ていた志度商業という学校の試合があって、試合が始まるときに、小柄な選手がショートのポジションについた。おゝ、あの子、ちっちゃいなあ、と思いながら見ていたら、プレーボール前の送球練習で、一塁手がころがした球をその子が一塁に投げ返した。あ、山なり。つい、自分がショートを守ったときに、一塁まで投げるのをまるで遠投みたいに感じたときの、その距離感を思い出した。と思ったら、あら、その子が山なりに放ったボールが一塁手の手前で地面につきそうになってから、グーンと伸びて一塁手のミットでいい音を立てた。

「えっ、いまのなに!?」

 いっしょにいた友だちに問いかけても、その友だちは野球をやっていたわけでも、好きなわけでもないので、春のぽかぽか陽気のなかでぽかぽかしている。代わって、スタンドの近くの席にいた男の人ふたりづれの会話が聞こえてきた。

「おい、あれがクマノらしいぞ」
「1年生か。春の大会に出てもええのか?」

 そんな会話。それで、「いまのなに!?」と思った球の秘密がわかった。注目の選手なのだ。その男の人たちはうちの近所の人だったのか、わたしが小学生のころから地域のソフトボール大会や野球大会で会っていた同い年のSくんの名前を出し、「あのSものう、あと5cm身長があったら、あのクマノみたいにプロに行けるのに」と、その、わたしが最初に「ちっちゃいなあ」と思った高校1年生のプロ入りを予想、というか、決めてかかっていた。のちに、中央大学に進み、社会人の日本楽器時代にはロサンゼルスオリンピックの代表チームのキャプテンとして金メダルをとり、その後、入団した阪急ブレーブスでも新人王をとった熊野輝光選手の高校時代だ。

 先の、女子プロ野球の厚ヶ瀬選手の一塁への送球を見たとき、その、熊野選手が高校時代に見せた、あの送球を思い出した。捕球も、もしかするといま甲子園に出てくる遊撃手の男の子よりしっかりとかたちができているかもしれない。

 その女子プロ野球が20日と21日に神宮球場で試合をやるという。スーパーバイザーもかつての大スター、太田幸司さん。なんとなく、もやもや、ではなく、うずうずする話ではある。

 男の野球は、どういうわけかおもしろくなくなった。先の高校野球でも、ひとりの将来有望な男の子に800球近い球を投げさせていた監督がいたけど、太田幸司さんといういい例もあるのに、いつまでもあんなことをしているからだろう。野球の「球を投げる」という行為は、ずっと野球を続けている専門家のあいだで議論しているからよくわからないのだろうが、明らかに日常的な行為ではなく、腕のなかにたいへんな血流を起こす異常な行為。それを短期間のあいだに未成年の男の子に800回近くもさせる指導者。高校生のチームでは、監督も高校生にするというルールをつくればいい。もう日本も兵隊さんばかりをつくればいい時代は終わっている。むしろ、いまはいいマネジャーがたくさん求められる時代。高校野球の監督を高校生にするのは悪くないと思うのだが(高校生たちの自由奔放な発想を見てみたい)。

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by pivot_weston | 2013-04-18 14:51 | ブログ

音楽三昧

 どういうわけか思い出したので、YouTubeでジョン・デンバーを聴いた。いまはこういう聴かせてもらいかたをすると、必然的に「見た」の要素も加わってくるのがまたありがたい(昔は、LPレコードを聴いても聴いても、動いているジョン・デンバーの姿なんて一度も見たことがなかったが)。

 そうか、ジョン・デンバーもボブ・ディランと同じドイツ系だったのか……と思いながら見ていると、たしかに、若いころは丸眼鏡とストレートなブロンドばかりが印象に残っていたが、なるほど、その髪にウェーヴがかかってきた時期の姿に『コンバット』のドイツ軍の軍服を着せたところを想像すると、そういう感じかな、と思えてきたのが新発見。

 でも、それ以上に感じたのが、なんでこういう素朴な歌がなくなったのだろう、ということ(聴いたのは『Annie's Song(緑の風のアニー)』と『Take Me Home, Country Roads(故郷に帰りたい)』)。

 はじめてジョン・デンバーの歌を聴いたときには、曲の印象があまりにも素朴でシンプルだったので、古くからあった歌を、声のいいジョン・デンバーがうたいなおしているだけだろうと思い込んでいた。ありそうでない曲。「ありそう」だから、オリジナリティに乏しいように思えそうだが、案外、その人の内面がいちばん正直に出る曲、つまりオリジナリティに富んだ曲というのは、そういうものなのかもしれない。

 こういう流れになってくると、わたしの場合、次に聴きたくなるのはだいたいアレと決まっている。40年以上ひとりでうたっている曲。でも、YouTubeでジョン・デンバーを検索していたら、そのデュオのほうから先に写真で出てきてくれたものだから、この日はパス。で、これも久しぶりだったが、蔡琴さんの『恰似你的溫柔(Just Like Your Tenderness)』を聴きはじめた。

 蔡琴さんの歌もいいが、YouTubeで聴くこの歌でいちばん好きなのは、会場に集まった人たちがいっしょに声を出してうたっているときの顔。いつ見ても、何度見ても、ひとりひとりの顔がとても胸を打つ。

 ……と思いながら聴き入っていたら、おや、となりの母親の部屋から『蘇州夜曲』が聴こえてきた(わたしはイヤホンで聴いているので、こちらの音が向こうに影響を与えたわけではない)。あれもいい曲。オフコースの小田さんがカバーすると言っていたが、もうやったのだろうか。いくら小田さんの声でも、やはり、はま子さんの『蘇州夜曲』に代わるのは難しいだろう。

 そういや、ビギンのことがよみがえってきた。その昔、夜なかにガチャガチャ、ギンギン、ドカドカとやっていた「イカ天」という番組に出てきて、しーんと静まり返ったスタジオにあの声が響きわたったときには、それはそれは、雑念が一度に吹き飛ぶような衝撃をおぼえた。ひときわ静かで、ひときわ明確な歌声がいちばん衝撃を与えるというところにも、なにかの真理が隠れているのだろうが、そのビギンの人たちが、次に見かけたときには、『ティーチ・ユア・チルドレン』をやると言いだした。それだけでも、おゝ、やっぱりあんたたちは見込んだだけのことはあるよ――と、内心主観のかたまりになったが、はじまったら、それがまたまた……。

 デイヴィッド・クロスビー、スティーヴン・スティルス、グラハム・ナッシュ、ニール・ヤングのスーパーグループCSN&Yのアルバムにライヴ録音ではいっていた曲。大学時代の下宿で、それこそ何度も何度も何度も聴いていた。はじまったら、そのアルバムそっくりそのままの声。しかも、そう、わたしと同じアルバムを、わたしと同じように何度も何度も何度も聴いていた人はよくご存じのとおり、途中でグラハム・ナッシュか誰かが、かわいらしい女の子みたいな声でふふんと笑うところがあるのだが、何度も何度も何度もそれを聴き、わたしの脳裏に、もうそこまでが曲の一部のようにレコーディングされていたその部分にさしかかったときには、ほんと、思わず「おーっ!」と声をもらし、近くにいた妻に「すごいよ、こいつらっ!」と叫んでしまった。その笑いまで、声質も、タイミングも、すべてそっくりそのまま、ビギンの人たちは再現してくれたのだ。

 再現は模倣。その一面だけを見れば、オリジナリティではない。でも、あそこまで静かな熱情を表現するというのは、やはりそれはそれで、オリジナリティ以外のなにものでもなかったような気がする。

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by pivot_weston | 2013-04-15 23:25 | 音楽

不思議な構図

 相変わらず不思議な現象が起きている。

 3日ほど前、アメリカの大統領夫人のミシェルさんがシカゴで目に涙を浮かべて演説をしていた。1月に旦那さんの2期目の就任式にシカゴからホワイトハウスまで来て演奏をしてくれたハイスクールのマーチングバンドの女の子が、シカゴへ戻ったあと、学校の帰りに友だちといっしょに歩いていただけで、街のギャングに敵対グループと間違われて撃ち殺された。だから、就任式のひと月あとの一般教書演説のときには、その少女のご両親を銃犯罪の被害者の代表みたいなかたちで連邦議会議事堂へ招待することになった。だから、もうこんなばかげたことはなくしましょうよ――というシカゴ育ちのミシェルさんの演説。

 ワシントンでは、相変わらず共和党が金持ち増税を認めず、予算編成が危なっかしい手間のかかるプロセスになっているが、ホワイトハウスもだからといって妥協せず、あくまで中間層の保護や雇用増につながる予算を押し通そうとしている。

 一方、日本では、政府と日銀がいっしょになって、物価を上げると言っている。先日、タクシーに乗ったら、運転手さんが「年金生活者はどうすりゃいいんだ?」と声を張り上げた。まさしく、国民年金などは、そもそも物価が多少上がろうが、下がろうが、親子同居なんてものが非現実的になりつつある現代においては、食べていけるはずのない額しか出ていない。生活保護にしても、人の生産活動の上前をはねて生きているようなマスコミの人たちは、すぐに不正受給者の話を出してきて、支給額を絞るほうに加担するが(そのわりに、不正受給者が減ったという話はあまり聞かないような気がするが)、それでは、生活保護や国民年金の受給者はみな不正をはたらいている人なのか。

 日本がシカゴでないのはなぜだろう。農村では、毎日田んぼに出てそこを耕していた人たち、都会では、商店街の八百屋さんや魚屋さんやなに屋さんが地域社会(neighborhood)を守ってきたからではないのか。そういう人たちが国民年金を納めてきた。マスコミの人や政治家がもらい、使っているようなふわふわした地に足のついていない金ではなく、わたしたちの生存に不可欠な食品の生産や、その食品のサプライチェーンの末端で顧客と向き合って得てきた金だ。大勢でグルになって集団の力学に依存するような生きかたを選ばず、ひとりひとりでこの国や地域社会を支え、守ってきた人たちだ。その人たちが、その現役としての役割を終了したあとに、月々5万円だか6万円だかの年金支給額で(どうやって暮らしているのかよくわからないが)ささやかに暮らしているときに、さあ、物価を上げるぞ、と目の色を変えて息巻く人たちの姿を見ると、なんだか浅ましく、いささか古めかしい表現になるが、「この恩知らずめ」という言葉まで頭をよぎるが、そのせいか、その姿は「日米同盟」を強調するご本人たちの弁とは裏腹に、国民が飢えているときに、さあ、ワシントンを火の海にするぞ、と息巻く北の世間知らずの三世の坊やの姿とだぶってしまう。

 ともかく、このところの世界で起こっていることは複雑怪奇。どうやら、今回の北の挑発騒動で(まあ、このまま収まればの話だが)いちばん実利を得ているのが日本ではないかと見られるところも、喜んでいいのかどうなのか。

 対岸、ならびに北の向こうからその情勢を見守る中国の新主席は、見てくれ同様おっとりした性格なのか、あまり自分からは動かないみたいだが、5月のマレーシアの総選挙で政権交代が起こり、華人系の影響力の強い政権ができれば、となりのシンガポールと合わせて、TPPにも参加せずとも間口を確保できると見ているのか、まあ、あの国にとっては内政が最大の課題ということもあって、おっとりかまえている。

 結果的に、いまわたしたちのまわりで起きている状況はマスコミの人たちが伝えるように単純なものではなく、少し大げさに言えば、日本のアメリカ化が起ころうとしているのか、日本の北朝鮮化が起ころうとしているのか、少々判断のつきかねるところもあるように思える。わたしとしては、やはり日本は日本化するのがいちばんいいと思うのだが(そうだ、消費税を上げよう。「消費税引き上げ反対」は、これまで庶民の味方をするスローガンのようにして叫ばれてきたが、あれは実は、一律5パーセントの負担ですむ金持ちを利するもの。軽減税率を導入して、あとは引き上げるのがフェアだと思う。「恩」に報いる仕組みをつくるのがいい(北の坊やの名前の一字を何度も使うのは抵抗があるのだが))。

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by pivot_weston | 2013-04-13 13:58 | ブログ

瀬戸大橋・回想

 昨日は、Googleの検索画面を開いたら、ありゃ、このロゴ――と、深層とまで言ったら少し大げさになるが、ま、中間層あたりの心理をつかれた。瀬戸大橋開通25周年なのだという。

 最初に話を聞いたのは小学校の3年生か4年生くらいのころだったか。え、瀬戸内海に橋をかけるんかいな、と驚きながらも、それまではウサギとかぐや姫さんくらいしか住んでいないと思っていた月にまで行って石を持って帰ってくるところまでのぼりつめる人類のハイパーテンション時代の一少年として、本州とつながり、手塚治虫さんの鉄腕アトムの未来都市の時代が来る日を心待ちにした時期もあった。

 でも、高校を卒業するまでには実現せず、遠足、修学旅行、なんのときにも船に乗り、大学受験に行くときも、予讃線が高松の駅に着いたら、なにがなんだかわけがわからなかったけど、まわりの人が荷物を両腕にかかえてなりふりかまわず一目散にかけだしたので、いっしょに小走りになり、連絡船に乗り込んで、紫雲丸が沈んだあたりの凪いだ海面を見て、おむすび形の大槌、小槌の島も見るともなく視野におさめながら、左右に一面にひろがる海の向こうをめざした(まあ、とはいえ対岸がぼんやりと見えるわけだから、長江のある中国の人は「川」と呼んだ、ということもいつも思い出しながらだったが)。

 で、大学にはいり、瀬戸内海の汚染を考え、三陸の津波を考え、原発を考え(わたしたちの大学時代は女川原発の反対運動が行われていたころだった)、いろいろ考えているうちに、まあ、人間は不便でも、不便というのは現実を教えてくれるものだから、それはそれでもええのとちゃうやろか、と思うようになった。第一、わたしたちが暮らしのなかでいつもどこかでひとつの大きな壁のように感じていた海に大きな橋をかけたところで、それが耐用年数を迎えたときにどうするのか、とも思った。

 ともあれ、それはそれとして、自分のことに一所懸命になってその橋のこともほとんど忘れていたころ、テレビかなにかで瀬戸大橋ができたと聞いた。へえ、ほんとうにできたんや、あの橋――と思った。でもなあ……すっきりしないことがたくさんあった。

 その年の夏、妻と3人の子どもといっしょに帰省した。初めて乗る、これに乗ったらそのまま四国のわが町まで行けるという「瀬戸大橋線」の特急の車両のいちばんうしろの座席だった。岡山側の海沿いの町、児島までの車窓の景色は、連絡船時代の宇野線に乗っていたころとそれほど変わらなかった。

 東京育ちの妻や子どもたちは、背景のない前景だけを見ているようなもので、田園風景のなかを走っていく列車のなかで楽しそうにしていたが、すっきりしないことがたくさんあったわたしは、妻に「もうすぐ瀬戸大橋だよ」と言われても、ふんっ、そっぽを向いててやろうかな、なんてことも考えていた。

 で、その橋。青い空と青い海が車両のまわり一面にひろがった。開業半年もたたない列車の女性の車内アナウンスもはずんだ声で、いよいよこれから瀬戸大橋ですよ、と伝える。その声が、ひとこと言ったとき、最後尾の座席の前方にならんでいた乗客の頭がいっせいに右へ向いた。そして、ひとしきり案内があって、またひとこと言うと、またその頭がみないっせいに左へ向いた。

 不覚にも、胸が熱くなった。そのときに前方の席に乗っていた乗客のみなさんがみんな四国あるいは四国出身の人かどうかなんて知らない。でも、その、何十人もの頭がいっせいに右へ向き、左へ向いた動きに、それまでの四国の人たちの思い、本州とつながったことの喜びがあふれているような気がして、うるんできた目を隠すために、妻や子どもたちからそっぽを向いた。わたしなどは、四国の片隅のあぶれ者、ひねくれ者にすぎないのに、どや、四国の人間の気持ちがわかるか、と思い切り怒鳴りたくなる衝動もおぼえた。

 聞くと、兄弟のように育ったいとこのひとりがその橋の一部をつくっていたこともわかった。完成した橋に、どんどん好意的な感情が湧いてきた時期だ。その数年後に東京から実家に引っ越し、東京の仕事を四国の池のほとりでやるというスタイルの暮らしを始めたときも、もちろんその橋の完成が前提にあった。

 でも、そういう時期は長く続かなかった。まず、下を走る鉄道のほうはともかく、上の道路のほうは、わたしの周辺では、走ったと言う人がほとんどいなかった。料金が高いのだという。たしかに、運転免許を持たないわたしも、一度、東京から最終の新幹線で岡山まで帰り、その先の瀬戸大橋線の電車はないけど、その夜のうちにしなければならない仕事があって、かつてはできなかった岡山から四国へのタクシー帰りをしたことがあったけど、距離だけでも高い運賃のうえに片道たった15分の橋の往復の「渡り賃」が1万円加算され、こりゃさすがに誰も使わんわな、と身に染みて感じたこともあった。

 それでも、せっかくできたものを使わんでどうする、と思い、わざわざ家族でいっしょに岡山まで行き、天満屋のバスターミナルから四国へ渡るバスに乗り、途中の与島に降りたときには、途中の島がただの足場にされただけだということも感じたし、折悪しく電車に乗っているときに台風の接近が重なり、橋の途中で緊急停止したまま何十分か橋とともに揺れたときには、また耐用年数のことを考え、はるか下方の海面や島を見ながら、そのときには、ここから落ちる人がいるんだな、などということも想像した。

 それに、なによりいやになったのは、使っている人たちの感動の低下だった。もちろん、誰だって、毎日使っているものに毎日感動などしていられない。それはわかっていても、最近では、橋にさしかかっても、まぶしいからと言って車窓にカーテンを引き、携帯電話かなにかばかり見ている人たちを見ると、あのとき、四国の人たちにいだくことができた強い共感のようなものはまったくいだけなくなった。

 わたし自身についても、橋ができてから「東京の仕事を四国でやる」スタイルに挑戦した自分と、それより10年以上も前からそのスタイルに挑戦してみごとにご自分のスタイルをつくりあげていた翻訳家の先輩、故・篠原勝さんとの違いを考えさせられた。篠原さんの口にする言葉は、ひとことひとこと深い味わいがあった。できるようになったからやる、なんていうのは甘いんだよ――ということもよく考えさせられた。

 これからあの橋がどうなっていくのかはわからない。ただ、単なる観光客誘致の材料にされたり、空気のように利用されたりするだけで、たいして愛情を注がれることもなく、耐用年数を迎えることだけは回避したほうがよいのではないかと思う。瀬戸大橋も原発と同じ。問題のある人工の構築物だけど、つくってしまった以上はみんながせいぜい愛情を注いでよく知ることが大切だと思う。それがわたしたちにとってのいちばんの安全保障策であり、わたしたちの営みの起承転結にずれを生じない方法だと思う。

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by pivot_weston | 2013-04-11 15:25 | ブログ

「ダイ」「タイ」

 相変わらず韓国のドラマを見ている(台湾のドラマも見ていると、なにやらスロベニアでの体験を思い出しておもしろいのだが)。

 で、見ているときにちょっと気になって、吉川弘文館『日本史年表・地図』を取り出して、ペクチェ(百済)、シルラ(新羅)、コグリョ(高句麗)の地理上の配置を確認したのだが、たしか、この3国の版図はさまざまに変化していたはずなので、最初に開いた地図の前の状態も出ているかなと思い、1ページめくり返したら、「縄文文化遺跡の分布」という日本の地図が出てきて、岡山の玉野市の「田井」という遺跡の名前が目にはいった。

 そのとたんに、先の3国のことは忘れ、頭のなかでバチバチバチと新たな回路がつながった。わたしの実家は讃岐の国の西のほうの「中田井」という地区にある。同じ小学校区内には、古川、本大、吉岡という地区があり、運動会のリレーやソフトボール大会で争っていたときには、みなそれぞれや、おれたちはあいつらとは違う、ということしか頭になかった(たぶん、わたしの頭がそれほど上等にできていないからでもあるのだろうが)。

 その一方で、となりの小学校区になるのか、ともかく少し離れたところに「比地大」という鉄道の駅があり、高校生のころには、進学の季節になると「おまえ、志望校どこ?」「おれ、比地大」なんていう冗談も言い合っていた。

 すべてが頭のなかでは別々に存在していた地名。ところが、大人になって、父がライフワークとして取り組んでいた大西家のルーツ探しの話を聞いていて、その「比地大」駅があるとなりの小学校区のほうに本流になるかたのお宅があるという話になり、そのあたりの地図をひろげていたときだ。なにげなくそこに印刷された地名を目で追っているうちに、ふと、子どものころにはまったく別物、まったく関係のない地名としか思っていなかったわが家のあたりの「中田井」という地名ととなりの「本大」という地名がつながった。それぞれ読みは「ナカダイ」「モトダイ」という。だから、このように両者をカタカナで表記する機会があれば、いくら頭の鈍いわたしでも子どものころに気がつくことができたかもしれないが、ともあれ、そのときはじめて、「あれ、このナカダイのダイとモトダイのダイって、おんなじなんとちゃうん?」と父にたずねたのだったか。たしか、父は「おお、そうかもしれんのう」くらいの返事だったと思うが、そうなると、「大」という字のつながりはどこかで薄々意識していたのかもしれないが、すぐにその地図に載っていた「比地大」のことにも思いがいたり、「あ、そしたら、ヒジダイのダイもおんなじちゃうん? これ、「ダイ」という言葉には、なんぞ意味があるんかいな?」という方向へ思考が発展していった。

 その思考の流れが、昨日その「田井」という目にしたときに、一気によみがえってきた。もちろん、知り合いの「田井さん」、同級生の「田井くん」、先輩の「田井さん」、いろんな「タイさん」のこともよみがえってきたが、昨日はたまたまペクチェやシルラの地図を見ていたこともあるのだろうが、その思考の流れが「邪馬台国」の「台」につながった。これは、どうやら歴史文書の『魏志倭人伝』には「邪馬壱国」と記されているらしく、「ヤマイコク」と呼ぶという説もあるらしいが、その一方で、「台」「臺」といった一連の漢字はtower、terrace、lookoutといった意味があり、えらい人がいるところを表すものだったため、日本を「倭」と呼んでいたように、周辺諸国をひどく見下すような名前で呼んでいた当時の中国王朝が「臺」の文字を使わずに「壱」の文字に置き換えたという解釈もあるらしいので、とりあえず昨日の思考の流れのなかでは「壱」の文字のほうは無視させていただいた(まあ、「ヤマイコク」と読むという話を聞いたときには、そういや、日本海側には、イマリ、イキ、イワミ、イズモと、「イ」で始まる地名が多いよなとも思ったのだが)。

 で、昨日はその積年の疑問である「ナカダイ」「モトダイ」「ヒジダイ」の「ダイ」が岡山・玉野の「タイ」という地名を介して「ヤマタイコク」につながった勢いで「台湾」にもつながった。この地名も、何年か前に渋谷の学校まで台湾語を習いに行ったときには「ダイワン」と読むと教わった。音としては「ターユワン」みたいな音が起源ではないかと言われているらしいが、これらの「タイ」「ダイ」の言葉に、現代人の思考のなかからは完全に消えてしまっている、なにやらわたしたちの原初の概念が共通して埋め込まれているとしたらおもしろいのに……とつい考えてしまった昨夜だった(だから、だからこそ、自治体の合併などのさいに、現代人の浅薄な発想で根っこのちぎれた地名をつけるのは絶対にやめてほしいと思う)。

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by pivot_weston | 2013-04-10 12:50 | ブログ