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母親と息子

 スーパーまで買い物に行って、道を歩いていたら、かたわらのバス停にKさんが立っていた。近所のおばあさん。会うと決まって、真っ先に出る言葉がある。

「息子が……」ほら来た。あいさつもそこそこにそう言うと、あとは「……わたしのことを責めてばっかりで……」と続く。いつもその繰り返し。失業、離婚……いろんなことがあったみたいだ。

 でも、「それはたいへんですね」とか「いくらいろんなことがあっても、それはいかんですね」とか言って相談に乗ることはできない。事情は違うが、わが家も息子が母親と仲が悪いのはまったく同じだからだ。だから、「まあまあ、うちもおんなじですよ」と言うしかないのだが、いくら言っても、Kさんはただ聞いてもらいたい一心になるくらい状況が深刻なのか、こちらの言葉などまるで聞こえていないようすで、またすぐに同じ訴えを繰り返す。

 親子の関係というのは、夫婦の関係以上に、はたから見えにくいかもしれない。わたしの場合、起源は6歳のころにさかのぼる。幼稚園で潮干狩りに行き、高い堤防のわきでひとりで貝を掘っていたら、急に目の前に母親が現れ、こちらを見下ろして、にこにことわざとらしい笑顔で「今日はいっぱい掘って帰ろうな」と言った。

 とたんに、全身に鳥肌が立つほどぞっとした。きしょくの悪い(気持ちの悪い)人だな、とも思った。

 このときのわたしの内面の反応は、その後、ずっと謎だった。別に、たえず母親のすることにぞっとしていたわけではなく、祖父母が亡くなり、中学生になったころには、どうして自分はあのとき母親の言葉にああいう反応をしたのだろう(もちろん、違和感や不信感や嫌悪感を顕わにしたわけではなかったので、母親のほうは気づいていなかったのだが)と考えるようになっていた。

 でも、その謎は、解けてみるとなんでもなかった。別に特殊な事情があったからではない。大学生のころだったか、あるとき、その時期らしくいろんなことを考えていたときに、ふと、幼いころ、砂利道を走ってバスを追いかけていたことがあったのを思い出した。あれ、そういやそういうことがあったな、と思い、いつのころの記憶かさぐってみると、2歳のころの記憶だった。シベリア(中央アジア)抑留帰りの父が結核を発症して入院したからだったのか、母親が外へ働きに行くようになったときだ。砂埃の立つ砂利道をおぼつかない足で走りながら、ひと足先にバス停に行っていて、いままさにバスに乗り込もうとしている母親を大声で呼び、背後から誰かに制止されていた。

 してみると、謎は単純だった。あの潮干狩りのときに感じた違和感や不信感や嫌悪感は、2歳のころから6歳のころまで母親教から祖母教に改宗していた期間の産物だったのだ。もしかすると、そこに旧教の教祖への恨みのようなものも交じっていたかもしれないが、そういや、二宮金次郎や乃木将軍を手本とし、だらけて帰宅してランドセルを投げ出したわたしを玄関先で「こらーっ! もっぺんそこで気をつけをして、『オオニシヒロシっ! ただいま帰りましたっ!』と言えっ!」と叱って仕込んでくれていた祖母なら、たとえ母親と同じシチュエーションに置かれても、間違ってもありきたりなやさしい言葉などはかけたりしなかっただろう。

 ともあれ、世間では「マザーコンプレックス」という言葉が通俗受けする一面的な意味でしか使われなくなっているので書きにくいが、みなそれぞれに異なる生い立ちを経て成人していく人間の子の個体が親の個体に対していだいていく、原義で言うところの「コンプレックス」、すなわち複雑で錯綜とした思いや認識は、このようにその暮らしの変転とともに形成されていく。Kさんも、もとはと言えば外国出身のかた。息子さんのなかにも、失業や離婚だけでなく、それ以外のいろんな変転とともに形成されてきたものがあり、そのやり場に困っているのかもしれない。

 え、わたしのほう? これはもう、前記のような回想と理解を経て、いったんやさしい気持ちになったうえで、あらためて、大人の視点で母親を見ていて、湧いてきたもの。いまの母親を見ていると、たぶんこれからの若い人たちのなかには、年老いた親と暮らすときに苦労する人が大勢いるだろうな、とも思うが、親の場合に悩ましいのは、しんどいところが見えても、それを批判ばかりしていればいいというものではなく、自分もそれと同じものを宿しているかもしれない恐怖と闘わなければならない点。だからいつも、あ~あ、あ~あと、ため息をつきながら文句を言っている(向こうも同じかもしれないが)。Kさんの場合、話をしているかぎり、そんなに困った人のようには思えないが、それもま、家族の空間にはいってみないとわからないことか。

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by pivot_weston | 2013-03-31 12:49 | ブログ

変化の意味

 夜なかに田原さんの番組をちらりと見たら、「どうしてソニーやパナソニックはGoogleやAppleみたいなことができないのだろう?」「大勢の人の生活のスタイルを変えるようなことをしなきゃいけないのに、いいものをつくろうとばかり(すでにある製品の質を高めようとばかり)している」みたいなことを言っていた。

 少しおかしくなった。

 世のなか全体が変化しようとしていないのに、あるいは変化することを常態として受け入れようとしていないのに、ソニーやパナソニックの人にだけ変化のアイデアを求めても無理というものだろう。子どもが生まれたら、塾に通わせ、いい学校に入れて、いい会社に入れて……たとえばそんなふうに考えるのは親心としてあたりまえ――と考えるのは、果たして自然の原理にかなっているだろうか。

 科学教の信者のつもりのわたしはいつも、物質の基本構造がまだ解明されていない以上、残念ながら、わたしたち人類はまだこの宇宙の真理にひとつも到達していないと考えることにしている。世界は新たに生まれてくる子どもたちの新しい知恵、アイデアを求めている。古い世代では到達することができなかった真理に到達してくれるような若者が出てくることを待っている。それなのに、学校では、これは「正解」、これは「間違っている」ということを教えている。真理がひとつも解明されていないはずなのに、「正解」があるかのような教育を行っている。これは、言ってみれば、大人がこれまでに人類が到達した不完全な知恵で子どもを洗脳する一種のマインドコントロールのようなものであり、そういう教育を受けて多くの「正解」を答えられるように仕込まれれば仕込まれるほど、その子がまだ重大なミッシングリンクのある人類の知の世界に新しい世代の独創性を吹き込める可能性は絶望的に低くなる。そうして仕込まれた(俗に「優秀」と言われる)人たちがソニーやパナソニックに入れば入るほど集団の競争力は落ちてくるのがあたりまえだし、極端に言えば、なんのために新しい世代を生み出しているのか、という疑問すら湧いてくるかもしれない。

 今日は昨日と違うもの、明日も今日とは違うもの――そんなふうに、ものごとは変化するのがあたりまえとする意識が国民の気持ちのなかに根づいてこそ、新しいものを生み出せる土壌ができてくると思う。そして、寄らば大樹式の発想なんて、この世のなかから跡形もなく吹き飛んで、人が大成功したり、大失敗したり、それでもまた再挑戦して成功したりするのがふつうの世のなかを運営していかなければならなくなると、そこに生じるすきまを埋めるために、ひとりひとりのなかに儀式としての思いやりではないボランティア精神も生まれてくるだろう。

 いまの世のなかは「アベノミクス」大はやりだが、安倍さんの「経済は気持ちしだい」という考えはよくわかっても、「取り戻す」という発想はまったく理解できない。過去に戻るなら、この国を自殺に追い込むようなものだ。この国を21世紀にも世界に対して発言力や存在感のある国として持続させていきたいと思うなら、もっともっと、なんでも自由にし、変化を当然とする国、俗に「劣等生」と呼ばれる子どもの考えもきちんと聞いて、話をし、大人の考えを押しつけるのではなく、両者のあいだでよりベターと思える方向を見出していけるような議論のある国にしていかないといけないだろう。

 わたしも時間があるときは寝ころがったまま動かない人間だから、変化するのは億劫なのだが、これからはとにかく、自由に変化し、またそうして自由に変化する人たちを受け入れられるようにならないといけないのだと思っている。

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by pivot_weston | 2013-03-30 08:12 | ブログ

たった4日違いか

 わたしなどが書くのはどうかとも思ったが、これまで児玉さんのことも、実家の近所の幼友だちのことも、かかわりがあってシンパシーをいだいていたかたが亡くなったときは、その人生を顕彰するつもりでそのかたのことに触れてきたので、坂口良子さんのことも、ほんの少しつぶやいておこう。

 朝、テレビで亡くなったことを知ったときは、わたしのなかでも少し、いきなりなにかがパタンと閉じたような気分に襲われた。

「雪の日の思い出」の続きだと思って読んでいただきたい。

 いまのテレビ東京の建物は大きくなっているのかもしれないが、わたしが妻とおじゃましたときは(NHKなどにくらべると)小さな建物で、たしか、呼んでくださった草野さんの番組を収録していたスタジオは、入口をはいってすぐのところにあったと思う。そこでの収録が終わり、帰りの車が来るまでどこにいたらいいのかなと思いながら、妻とふたりでスタジオから入口のロビーのようなところへ出ていくと、そこの椅子に、ゲストとして出てくださっていた坂口さんたちがすわって話をしていた。

 そのかたわらで、妻とふたりで、どこにいたらいいのかな、とやっていると、その場にすわっていたかたのなかでおひとりだけ、こちらを見上げて、あの、いつもの笑顔で目を細めてくださったが(もちろん、それまでわたしたちと向かい合ってさんざんわたしたちの話を聞いてくださっていたわけだから、特別なことではないのだが)、さ、みなさん、車が来ましたよ、ということになってみんながいっせいに腰を上げたのだったか、帰りぎわには少し、食事療法のことだったか、なんの話だったか、正確な内容はもう思い出せないが、立ち話をして、「だよね」「だよね」ということになり、最後には「とにかく、元気を出していきましょう」「そうだ、それがいちばん」ということになって、こぶしをつくって、またあの笑顔を浮かべてくださった。

 高校生のころからアイドルとしてテレビで見ていた人。そんな人が、そのころには苦労をなさっているとお聞きしていたが、あまりにも自然に相手をしてくださったので、おお、この人はいいな、この人は違うな、と思い、以後、妻とのあいだでは「良子ちゃん」「良子ちゃん」ということになっていた。

 高校生のころのアイドルだから、上にせよ、下にせよ、自分とは歳が違うだろうと思い込んでいたが、今朝調べてみたら、わたしと生まれた日が4日しか違わない人だったのか。テレビから聞こえてくるこれまでの人生をお聞きし、北海道の余市から出てこられたころのことを想像していると、もう少し生きられたらな、とも思うが、ずいぶんがんばってこられたかただろうから、がんばって生きてこられたその人生を、たいしたものだ、と称揚したほうがいいのだろう。たいしたものだ。片隅の一ファンとして、自分が生きているあいだにああいう女優さんがいてくださってよかった。

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by pivot_weston | 2013-03-29 17:00 | ブログ

押し出される恐怖

 なぜかわからないが、昨日思い出したことをひとつ。誰もが30代の半ばくらいで迎えると思われる人生の曲がり角の話。

 わたしにとっての「30代の半ば」、つまり、いまから20年ほど前に、ちょっと怖くなったことがあった。

 いまでは近所の高層ビルのボス、つまり東京都全体のボスになっちゃった人のもとでデータの翻訳をしていたころのこと。ある日、そのボスのアシスタントをしていた若い女の子と新宿で飲み、帰る段になって「おれは東中野。きみはどこ?」とたずねたら「世田谷」と言うので、地図上の角度にして45度ほどの開きがあるまったく別の方向だったのに、なぜか「じゃ、いっしょにタクシーで帰ろうか」ということになったときのこと。なんの話をしていたかも、わたしがなにを言ったときだったかも思い出せないが、タクシーが大久保を抜けて東中野の坂をのぼりだしたあたりで、なにか言ったとき、その子が「へえ~、さすがあ~、深いですね~」と感心したように言った。

 とたんに、えっ!?――と思い、胸が1回、ドキンと鼓動を打つほどの衝撃を受けた。「人生もう長くない」を意識した瞬間とまで言えば、少し大げさになるかもしれないが、それに近い恐怖感のようなものが、胸のなかを駆け抜けていったような気がする。

 頭では、「さすがあ~、深いですね~」なんて言われたら、「そら、アタボーよ。てめえらみたいなネンネとは違わーな」くらいに受け答えするオプションがあることはわかっていた。でも、というより、だからこそ、自分の内面で起きた上記のような反応が、とっさにはよくわからなかったのだが、そうか、押し出されようとしていることへの恐怖感か、と思ったものだから、その場ではすぐに「おいおい、そんな、おれを先へ押し出すようなことを言うなよ」と返事をしておいた。

 若いころは、誰だってペーペーだ。海抜ゼロメートル地帯で素っ裸でいる状態にたとえられるかもしれないが、それならそれで、なにもかまうことはないから、頭も体も思う存分にはたらくだけはたらかせて仕事をすればいい。それで、結果的に「ばか」「あほ」「間抜け」「とっとと荷物をまとめて田舎に帰りやがれ」と言われても、そらまあ、なんと、ひどいことをおっしゃりますなあ、とは思いつつも、しばらく地べたですねてから、また立ち上がったときには、自分では海抜ゼロメートル地帯にいる意識しかないし、まわりの人もそう思ってくれているわけだから、またそれまでと同じことができるし、同じことをやればいいわけだ。

 だから、ついついこの海抜ゼロメートル地帯から出発する「若者時代」には、無我夢中になっていろんなことに取り組むために、自分の内外で時間というはかないものが過ぎていっていることすら忘れてしまいがちになる。前記のエピソードがあったときのわたしも、すぐにタクシーのなかで、あれ、あれ、おれ、いまいくつだっけ?――と自分の年齢を確認したのをおぼえている(たしか、36歳のときだったと思うが)。

 この世のものは、抽象的なものまで含めて、すべて自然物なのかもしれない。人間は生きていくための方便として、そのひとつひとつに勝手な価値観をまぶして、高いだの低いだのと言っているが、客観的に、あるいは全体的に見れば、ある属性が上に上がっているように見えたら、その裏側では、別の属性が下に下がっていっていて、結局のところ、すべてはどんなときにも変わらず、つねに最後にわたしたちが還っていく地べたのレベルにあるのかもしれない。だから、「深いですね~」なんて、なにかの価値観のラベルを貼られても、それはつまり、こちらを尊重しているように見えて、実はあなたの一面しか見ていませんよ、裏側までは見ていませんよという無関心の表れでもあるのだから、そういう時期が来たら、そういう評価でふんぞり返るのはまったくの見当違いで、あとはせっせと、世のなかにしがみつくようにして、自分に貼られたそのラベルの基準を満たして認めてもらいながら生きていくしかなくなるような一面があるのだろう。

 ふむ。書いてみてもわからない。なんでこんなことを思い出したのだろう。

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by pivot_weston | 2013-03-27 10:04 | ブログ

「夢」も「希望」も「感動」も

 数日前の朝、部屋から出てきた母が「あなに手ぇ、あげるもんかの(あんなに手を上げるものかな)?」と言った。

 なんのこっちゃ。

 背後のテレビを見ると、高校野球の開会式をやっていた。入場行進。相変わらず足なみをそろえ、手のふりかたもそろえているが、その手のふりかたが異様なくらいに大きかったらしい。

「はは、この国は北朝鮮とそっくりじゃ」だから、そう答えた。

 部員が9人しかおらず、ひとりでもけがをしたら0-9の負けになるから、それを防ぐための臨時部員ではあったが、わたしが昭和48年(1973年)の春の県高校野球大会の開会式に出たのは、もう40年も前のことになるか。大会第1試合を戦う2校だけの開会式。上記のようなわけなので長髪のままで、しばらく練習に参加して練習試合にも一度同行していたが、これといって決まった自分のユニフォームがあるわけでもなく、その日、ベンチで着替えて帽子をかぶろうとしたら、もってきた帽子が合わない。長髪のせいだったかもしれないが、もともと頭でっかちで、1年生の春にしばらく入部していたときも、合うヘルメットがなく、布の帽子のまま、硬球のバックホームの守備練習のときの3塁ランナー役をやらされたりしていたから、3年生になるのを間近に控えていたこのときも、ちぇっ、またかよ、と思いながら、ベンチでごそごそとほかの帽子をさがしていた。ほかの9人の部員はすでに、甲子園の決勝戦のあとの表彰式のときのように、これから試合をする相手チームの部員とともに、マウンドをはさんで1塁側、3塁側に分かれて整列していた。それなのに、長髪・無帽だけどユニフォームを着たのがひとり、ベンチでごそごそしていたものだから、試合のアンパイアを務める人が走ってきて、「お~い、はよせ~よ~」と促した。

「いやあ、その~、合う帽子がないんですが」

 そう答えると、「ばか」「消えろ」「開会式のあいだ、どっかへ行ってろ」とかなんとか言われるかと思ったが、意外なことにそのアンパイアさんが「まあ、ええわ。そのままならべ」とか言って、「帽子くらい、のうても(なくても)ええじゃろ」とかなんとか、ぶつぶつ言いながらホームプレートのほうへ戻っていった。

 そう、だから、今年の甲子園大会にも出ているような高校球児たちが3塁ベースのほうからピッチャーズマウンドを越えて1塁ベースのほうまで1列にならんでいたその列の端っこに、長髪・無帽のまま立った。

 かっこ悪い思いもしたが、ときは学生運動の時代を超えて、風変わりがもてはやされるようになっていた時代。東京オリンピックの整然とした選手団の行進にも疑問符がつけられ、学校の運動会の行進で校長先生が立っている朝礼台の前を通過するときにやらされていた「ハイル、ヒトラー!」式のあいさつもようやく異様視されるようになり、とりやめになっていた。だから、ま、「無帽」はないかもしれないが、「長髪」については、いずれじきに、これが当たり前の時代が来るだろうと思い、形式にこだわらなかったアンパイアさんのことを、たいした人やなあ、と感心もしていた。

 でも、それから40年。いっとき、スポーツ刈りまでは、ま、いいだろうということになり、そういう選手がふえた時期もあったが、いまはまた昔に戻っているように思える。スポーツ刈りくらいなら、わたしのように半端な長髪・無帽の臨時部員を待たなくても、わたしたちより1年先輩の、甲子園に出場したチームの主将で、のちに早稲田大学でもマスクをかぶった人がすでにしていた。

 坊主頭で、一所懸命に球を追いかける子どもを「さわやか」「純真」と言い、「感動」「夢」「希望」といった言葉もつけたす。これ、ほんとうにひとりひとりの子どもをちゃんと見ていることになるのだろうか。たとえば、夫婦関係などにも同じような姿勢をもちこむ男の人がいたとしたら、奥さんから「あなた、ちっともわたしのことを見てくれていないのね」と言われ、執行猶予期間が切れたあかつきには、熟年離婚を言い渡されてもしかたがないのではあるまいか。

 大人たちが勝手に、家ではわが子から「ったくヨー、るっせーんだよ」とか言われながら、さわやかで純真な高校生たちがいいと思い、そういう虚構の世界をつくり上げ、子どもたちに強いているだけではないのか。そして、それをナントカ新聞やカントカ新聞が商売の種に利用して、さらにあおる。子どもたちのほうとしても、それは都合がいい。表面だけ合わせておけば、実像は見られずにすむわけだから、そんなに楽なことはない。というわけで、虚構の世界を演じてくれる子どもで満足する大人と、それを利用して自己実現をはかろうとする子どもが共同でつくりあげているのが、いまの甲子園の世界なのではないのか。それがどこか、北朝鮮に似ている。

 先のWBCでも、Wスチールがどうとかこうとか言われているが、あんなのはほんのちょっとした呼吸でやるものなので、高校野球のように大ざっぱなレベルではともかく、あのレベルの野球では、ああなるのもしかたのないことだと思う(たぶん、2塁ランナーがプエルトリコのあのすごいキャッチャーにやられただけのことだろう)。あの試合は、そこまで見なくても、日本の選手が打者一巡するあいだに、ある選手の振りを見たときに、あ、これはやられたな、と思った。その前の、アメリカに渡ってからの2試合の強化試合を見たときにいやな予感がしていたが、本戦になってその選手の振りを見たら、まったく自分の世界しか見ていない振りになっていた。

 国際マッチは、野球でも、サッカーでも、なんでも、疑似戦争だ。守らなければならない平和の時代に、わたしたちが本能として宿している闘争本能のガス抜きをするスポーツの試合の究極の場だ。戦争となれば、勝つ、相手を倒す、というシンプルな目的に全神経を集中し、そこから少しでもそれることは排除しなければならない。そうでないと、自分はともかく、仲間までがそのちょっとした自分の気の緩みで命を落とすことになるかもしれない。おれは強打者、おれは小技師なんて、そんな役割も関係ない。目の前の状況を見て、必要なことをする。とてもシンプルな世界で、第1回と第2回には、とても大きな看板を背負いながら、あの場になるとそういうことができたイチロー選手のような人がいたが、今回は、そういう意味で臨戦態勢になっていた選手が少なかったような気もするのだが、そういうのももしかすると、儀式としての高校野球となにか関係があるのではないかという気もしてくる。

 儀式は、それを受け継いでいるコミュニティのなかだけで通用するもの。別の儀式を受け継いでいる、たとえば外国の人などとコミュニケーションをして生きていくためには、儀式という外殻にとらわれず、自分もまわりの人も、ちゃんとその人のありのままの姿を見て、自然に、シンプルに思考する姿勢を養っておかなければならない。そういう意味で、もうTPPの時代でもあるし、シロウトの子どもを商売の種にするのはいいかげんやめたほうがいいのではないかと、ナントカ新聞さんやカントカ新聞さんなどに対しては思う。

 第一、昨日あたりも試合を見ていたら、バッターボックスに立ってちらちらと横目でキャッチャーのかまえている位置を盗み見ようとしている子の姿がとても目につく。開会式の選手宣誓で「正々堂々と」と誓っているのではないのか。誓いなんて、そんなものは破ってもいいのだというのも、形式で成り立っている社会のひとつの特徴と言えるかもしれないが、そういう姿勢も世界では通用しない。たとえば、夜中のサンフランシスコ国際空港あたりにたむろしているギャングのみなさんも、怖いし、悪いことを考えているのかもしれないが、彼らの存在を正視し(つまり、彼らの存在を認め)、警戒し、スキを見せなければ襲ってきたりはしない。

 基本的に、野球に「夢」や「感動」はいらない。「さわやかさ」もいらない。英語では、野球のことを「national pastime」という。フランス語の「passe-temps」、言ってみれば「ひまつぶし」だ。失礼な、野球をひまつぶしとはなんだ――とおっしゃるかたもいるかもしれないが、誰かのひまつぶしにしてもらえることの栄誉、してもらうことのたいへんさは、テレビの世界で大人気の吉本の芸人のみなさんに聞けばよくわかるだろうし、震災で避難生活を続けている人たちにとっても、pastimeがどんなに貴重でありがたいものか、宣誓をする子どもたちが考えて言葉を選んでくれるようになったらいいと思っている。

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by pivot_weston | 2013-03-25 07:05 | スポーツ

朝の太公望、気分

 朝、ちょっと休憩するときに神経にやさしいテレビ番組をさがしていたら、釣りの番組をやっていた。

 見ているうちに、待てよ、と思えてきた。テレビだからしかたがないのかもしれないが、「当たり」ばかりが続く。釣りの楽しみのひとつはあの、ぼーっと浮きをながめている時間なのではないか、もしかするとこういう番組は釣り好きをふやすためにやっているのであって、すでに釣り好きになっている人のためにやっているのではないのかもしれない、もしかしたら逆に、30分でも何分でも、ただ静かな水面に浮かんだ浮きを映すだけで、なんのナレーションも入れず、ただし、かすかな自然の物音はひろいながら、最後にピクンッと浮きがもぐるシーンで終わるような番組があったらおもしろいのではないか、いや、やはり暖かい春の日差しや頬をなでるやさしい風の感触がないから、そういうのはダメかなと、また例によってマイノリティの思考へとはいっていった。

 わたしは「ため池県」の人間だから、釣り体験のほとんどは海釣りでも川釣りでもなく、池釣り。なんでも定規で線を引き、コンクリートで固めてしまえば、自分たちの暮らしの質が高まっているように思っている人たちのせいで、いまでは近づきたくもない丸裸のただの水たまりになってしまったが、同じようにちんけな水たまりは水たまりでも、その周辺に無数の変化と無数の自然の営みがうかがえ、そもそもその水たまりの表面の裏側にも、水深はたった1メートルかそこらでも、誰にもうかがい知ることのできない神秘の世界が存在していた昔の池釣りは楽しかった。理科の授業で習った音速や波動の原理も、すべては池の世界で体感的に学習できていたような気がする。

 なんてことを考え、寝転がった池の土手の草むらの感触や、ズックの足をすべらせた池のほとりの粘土の感触や、木陰になった鏡のような池面のなんともいえない深い色合いを思い出していたら、自称「漁師」の祖父がよくつくってくれたフナの刺身を思い出した。

 淡水魚は泥臭いと言い、そう言うのが、どこまで実感と確信をもって言っているのか、まるで池のまわりをコンクリートでかためる行為のように、一種の儀式のように多くの人のあいだに広まった現代では、やはりマイノリティの感想だろうし、それはそれでいいのだが、家庭の中性洗剤やなにかに毒される前のフナの、それも、裏の池でとってきて、裏庭の水槽か濠(わが家の裏庭にあった小さな池)に入れておいたものを、裏庭の縁台の上に出したまな板の上で、祖父が料ったものを(わたしの実家のほうでは「料理する」ことを「料る」と言う)、皿に移す前に横からつまんで食べたときの新鮮そのものの食感は、いまでもそうそう味わえるものではない。「泥臭い」のかもしれないが、わたしはもともと泥臭い世界で育った泥臭い人間だし、海臭い人の食べる海臭い魚もその海臭さが好きだし、羊の肉も、鹿肉も、猪の肉も、牛肉も、すべてその臭みがあるほうが好きなので、あのころの食体験はいまも大切にしている(言ってみれば、無臭で人工的な味つけのあとしか感じられない食べ物こそ、ただ腹につめるだけのものとしか思えない)。

 そのころ、刺身とともに大好きだったフナの料理に「テッポー」というのがあった。「てっぱい」ともいう。味噌味で、味つけが少しきつめのところがひとつの特徴でもある料理だと思うが、これがいい感じで内臓を刺激し、白米へ向かう食欲を引き出してくれる。白米とこれがあれば、あとはなにもいらん、とも言えるもので、十数年前、子どもたちが村のお祭りに出るというので、わたしもいやいや参加していたら、「ちょうさ」という山車をかつぐ合間の休憩のときに社殿でこれが出て、もう酒のこともスシのこともすべて忘れ、ひたすら、大勢でつついていたこの「テッポー」を(そのときは、もうフナがとれないということで、サバでつくっていたが)、ケースごとひとりで食べたくなったのを覚えている。

 日本がすっかり変貌をとげてから、久しぶりに「池の世界」を思い出したのは、アメリカ人のトムさんがオハイオのウォレンという町の実家までつれていってくれ、「子どものころはここでよく遊んだんだよ」と言って、実家の裏の川へつれていってくれたとき。「フナのテッポー」を思い出したのも、スロベニアのテルメ・チャティーシュという温泉保養所でブロンドのポローニャと、臭い臭い、だからおいしい鹿肉を、また味わい深いワインといっしょに味わったとき。やはり人生は、無色無臭になるより、どんな色や、どんなにおいでもいいから、味わいに個性があり、またそれが深く刻まれるほうがいい。

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by pivot_weston | 2013-03-24 21:08 | ブログ

渋谷東急、下北沢……

 渋谷東急の地上改札口がなくなったと思ったら、今度は下北沢の地上駅もなくなったらしい。

 犯人は行政か時代か、よく知らないが、どんどん人の思い出をはぎ取っていくな、と思わないでもない。下北沢の駅は、30年続けてきたいまの商売のいとぐちをつかんだ場所。渋谷東急の改札は、結婚前の亡妻と何度か待ち合わせた場所。いくつもならんだ改札口から吐き出されてくる群衆を見ていると、ひとり、ピョンコピョンコとスキップをするようにして近づいてくる人影があり、見ると、よしゃあいいのに、あたしお化粧してますよというように化粧をした、のちの妻だった。いまのわたしなら、あれ、この人、おれと会うのがうれしいのかな、と気がついたかもしれないが、当時は、これこれ、おジョーさん、あたしなんざに近づくもんじゃござんせんぜ、というスタンスで生きていたものだから、変わった人だなあ、この人は、と思い、それが、いま思うと、心を開くきっかけのひとつになったのかもしれない、とも思う。

 ともあれ、下北沢の地上駅を消滅に追い込んだ「あかずの踏切」現象は、その踏切周辺の住民とそこより郊外の住民の葛藤だ。妻と結婚して最初に住んだ武蔵小金井にも、駅のホームの新宿側の先端と接して小金井街道の踏切があり、ホームと接しているものだから、立川方面から来る上りの電車がホームに入る前からピンポンピンポンが始まり、ホームに停車しているあいだもピンポンピンポン、で、その電車が出て、やっとピンポンピンポンが終わるかなと思ったら、出ていく上り電車の背後に下り電車が入ってきて、またピンポンピンポン――なんてことがたえずだったから、北口のアパートから南口の長女の保育園までの送り迎えのときに、絶望的な思いやら、今日はラッキー!――の思いやらをしていた。

 そのとき、踏切の前に立って、行き交う電車をにらみつけながら、ピンポンピンポンの音を聞いているうちに、そうか、これは小金井の人間ともっと郊外の人間の闘いなんやな、と思ったことがあった。もとは、武蔵野の野に甲武鉄道が通った。小金井の人は自由に小金井街道を行き交って生活をしていて、たまに煙をあげて来る汽車を、ま、いいよ、と通してあげていた。ところが、時代が進み、東京のスプロール現象で立川、八王子のほうにも東京へ通勤する人の家が建ち、その人の数が電車をぎゅうぎゅうの満員にするほどにふくらんでくると、逆に、電車を利用する人たちのほうが優勢になり、たまに踏切事故を起こしたりすると、なんと迷惑な、と目くじらを立てられるようになった。

 小金井に住んでいたころにビートたけしさんがはやらせた「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という言葉も頭に浮かんだ。そうか、「あかずの踏切」は、郊外に住む人たちの「赤信号、みんなで渡れば怖くない」現象なんだな、と思った。だから郊外の連中はずるいんだ、などとは、わたしも武蔵小金井という郊外に住んでいたわけだから、当然、言えなかったわけだが、でも、暮らしのなかで大勢の人の流れに埋没し、その流れのなかで自分の暮らしの合理性や利便性ばかり考えていると、不合理に人の自由を奪っていることもあるのだな、とは思った。

 そのころだったか、渋谷の会社に勤めていたとき、ちょうどいまくらいの春の入学・入社シーズンだったが、新宿で胸がひしゃげるくらいのぎゅう詰めの山手線に乗ったら、途中、原宿でまた人が乗ってきたとき、車両のなかほどにいたおじさん(と思しき人(もちろん、姿は見えない))がいきなり大声で「帰れー! イナカモーン!」と怒鳴ったことがあった。なるほどな、と思った。同じように人間として、あるいは日本人として生まれてきながら、東京ローカルで生まれた人たちは、たまに持ち上げられることはあっても、みんなが盆暮れに帰省するときには「田舎がない」と言われ、じいちゃん、とうちゃんが死んでも高い相続税で引っ越しを余儀なくされ、「やっぱりここは自分が生まれ育った土地だから」と言う自由も不当に奪われているよう気がしてくるかもしれない。そう思ったから、そのおじさんの声と言葉は、それから10年ほどがたって四国の実家に転居するときもずっと耳の奥に残っていて、おれは東京を道具みたいに利用するのはやめよ、と思っていたけど、また舞い戻ってしまった。なんとも難儀な人の人生、カンニンや。

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by pivot_weston | 2013-03-23 21:12 | ブログ

原発停電報道

 3月18日の午後7時ごろ、東京電力の第一原発で停電が起きた。

 11時ごろだったか、わたしもTwitterでその発生を知り、たぶん多くの人と同じように「たいへんなことにならなければいいが」と思ったものだから、すぐに背後のテレビをつけ、にぎやかなバラエティ番組らしきものの音が聞こえているのに気づいたら、すぐにその時間にニュースをやっていそうな局にチャンネルを切り換えながら仕事を続けた。

 停電、というから、たぶんケーブルかなにかの問題だろうと思い、もちろん、ケーブルといっても原発のケーブルだから、わが家で延長コードをつなぎなおすような調子にはいかないだろうが、ともかく、問題が特定されれば、そのうち復旧するだろうと思いつつも、2年前のあのカタストロフの記憶がまだまだ鮮明に残っていたので、なにがあるかわからないな、もし4号機の使用済み燃料がまた露出するようなことがあったら、風しだいでは、10分かそこらで東京の上空に大量の放射性物質が飛来することになるか、ま、でも、わたしも57、同居の母も81だから、わが家に関してはジタバタすることもないか、などと考えながら、背後のテレビから聞こえてくる音声のなかから、そうした思考の流れを左右する「停電の原因」を伝える声が聞こえてくるのを頭のなかのセンサーでさぐりつつ、Twitterも頻繁にチェックしながら、仕事を続けていた。

 ない。聞こえない。あ、やっとやった、原発の停電のニュースだ、と思ってどこかのチャンネルのニュースの画面をふり返っても、Twitterで拡散されていた情報くらいしか伝えず、すぐに終わり、また能天気なニュースに切り換わっていく。

 夜型生活者。朝までその状態。たしか、7時ごろまではずっとテレビをつけっぱなしにして追える範囲でテレビのニュースを追ったのだったか。それでも、トップ、あるいはそれに近い扱いをしたのはNHKくらいで、それもとくに長く時間をとるわけではなかったのではなかったか(民放のニュースのなかには、朝になってもやらない局もあった)。

 で、当面4日くらいは冷却水の温度が上昇しても大丈夫のようなことを言っていたので、いつものようにひと眠りして、目がさめたら、テレビのニュースがしきりに東電の発表の遅さを問題にしていた。

 おいおい、東電の発表も遅かったかもしれないけど、ひと晩、神経をふた手に分断するような思いをして仕事をしたわたしにとっては、なんかそれとは違う印象が残っているんだけどな、と思った。間違いなく、わたしたちの知りたい気持ちをブロックしていたのは、テレビ局だった。だって、東電が新しい情報を流してくんないんだもん、と言うなら、もうテレビ局はみんな「東電広報部」あるいは「政府広報部」に名前を変えたほうがいい。あとから考えても、あの時点で伝えられることはいっぱいあった。

 しかも、朝になってからのテレビのニュースキャスターとやらの言い草にもまいった。「2年たってもいまだに不安定なことが露呈しました」みたいなことを言う。彼らは東電に対して、この2年間なにをしてきたのかと言うが、ではいったい、彼らはこの2年間、なにをしてきたのかと激しく腹が立ってきた。停電が起きたら危険になる状態はまだまだ続く。もしかしたら、この先何十年も続くかもしれない(もともと事故前の原発もそうだったと言えるわけだが)。そんなことは、あの屋根が吹き飛んだ日に決まったことではないか。なのに、「2年たってもいまだに」原子力発電のことを学ばず、なにがあってもいつでもすぐに誰かが救ってくれると思っているかのような甘ったれたニュースを続けている。それでも、それが一般の人というなら、まだわかる。事実を一般の人に伝えなければならないマスコミの連中がそんなことを言っている。いったい彼らは2年前のあのカタストロフをなんと認識しているのか――と、またカリカリ。

 で、今度はネズミが見つかったら、なんだ、ネズミ対策すらとっていなかったのか、みたいなことを言って、鼻で笑いながら東電を批判している。いまでは、2年前のように東電総タタキではなく、「現場で働いているみなさんには感謝していますが」という断りのようなものを入れての批判が多くなっているが、では、なぜ感謝しなければならないのか。彼らが置かれているのはどういう環境なのか。ネズミを笑う人はそういう環境に置かれている彼らを笑っているにも等しいと言えるのではあるまいか。ネズミを笑う前に、そういうものをぴしゃりと遮断できる都会のきれいなオフィスで働いているわけではない彼らの状況にも思いをはせてあげる必要があるのではないか(ましてや、まさに国家の命運をかけて働いている彼らのもらう月給が、中間搾取者が大勢はいっているからかなにか知らないが、たった20万ということも言われているのに。総理大臣でも誰でも、そういう状況がわかっていて、心があるのなら、すぐに中間搾取構造を排除するなり、どんぶり勘定でしか考えていない自分の給料のなかからいくらかでも削って、たしてあげたりすればいいのに、そういうこともしない。国家のために身を挺して働いている人たちの待遇を考えない国家は、守るべき国民に戦車の大砲を向けた解放軍と変わらない)。

 そもそも、停電の原因となるケーブルや配電盤の劣化、不具合は、ネズミの侵入でもわかるように、時間がたったから起こるもの。だから、あの停電も「2年たってもいまだに」ではなく、「2年たったから起こった」と伝えるのが正しいと思う。

 わたしも、個人的にこれまでいろんないきさつがあったから、東電の官僚体質、よらば大樹体質は大きらい。でもね、いまは大津の事件の背景にあった風土や体質が国全体で浮かび上がっているのだと思う。マスコミも政府もほんとうに「いじめ」がいけないと思うなら、自分たちがその主犯格になるようなことはしないほうがよい(人気取りはいじめ現象とオーバーラップすることが多い)。ともあれ、テレビでも茶番じみた自己批判番組をやっているけど、あんなものではほんとうの批判にならないと思うし、ものごとはできるだけ正しく批判しなければならないと思うので、書いておきます。あ、テレビ局の背後にいるスポンサー企業の体質も考えなければいけないのかもしれないけどね。

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by pivot_weston | 2013-03-22 21:15 | ブログ

ある光景

 オバマさんがイスラエルに行ったらしい。

 シリア情勢。イラク開戦10周年。イラン核開発疑惑。エジプト情勢。ベンガジ米国領事館襲撃事件。ロンドンオリンピック前のブルガリアでのレバノン・ヒズボラの犯行とされるテロ。それに、今度のアルジェリアの事件……まるでそこらじゅうで活火山が噴火を繰り返しているように見える中東のど真ん中に、細く、ちぎれてしまいそうに存在している異空間イスラエル。

 でも、オバマさんがエアフォースワンから降りてくるところから始まる動画を見ていると、明るい日差し、乾いた風景、みんなのズボンや背広をぱたぱたと揺らす風……どれをとってもいかにも中東で、日本とも、ヨーロッパとも、アメリカとも、中国とも明らかに違い、新聞ばかりを見ていると、宗教だか民族だかのためにけんかばかりしているように思えるイスラエルの人も、そのために組んでいるアメリカやヨーロッパや日本の人とは違い、けんかしている相手の中東のイスラム諸国の人たちと世界をともにする仲間なんだなということがよくわかる。

 オバマさんが降りたのはイスラエル中部の、その途中でちぎれてしまいそうな領土の、ちぎれてしまいそうなところにあるベングリオン空港。昔の名前をロッド空港という。かりにタイムマシンがあって、41年近く時間をさかのぼっていたら、オバマさんの歓迎式典を行っていたその空港の空港ビルのなかで、日本人の岡本公三さんたちが銃を乱射して、その場に居合わせた26人を殺していたわけだ。

 日本にいると、いまも中東はその当時となにも変わらないように思える。争い、人殺しばかりを繰り返しており、もしかするとほんとうは、誰かのくだらない経済的利益のために繰り返させられているだけなのかもしれない。

 絶対的「善」の立場に立てる人はひとりもなく、すべての人が「悪」を背負って生きている(もちろん、日本でもどこでも、人の世界はすべてそうだと思うが、中東はそれがよりティピカルに表れている地域だ)。オバマさんと、出迎えたペレスさん、ネタニヤフさんも、そのひとり、というか、そのなかでも、一方では「指導者」と言われ、他方では「悪の権化」と言われている代表格たちだ。

 その人たちが、空港に用意された小学校の朝礼台のようなところに上がって椅子にすわり、ひとりひとりあいさつをした。お、と思ったのは、そのあいさつが終わり、「朝礼台」から降りようとしたとき。どんなときでも人の性格というのは出るもので、向かって右端にいたネタニヤフさんはさっさとオバマさんを促して降りようとする。でも、左のほうに置かれた椅子にすわっていた高齢のペレスさんは、それについていけない。よぼよぼと立ち上がり、よぼよぼと歩きだした。あ~あ、ペレスさん、かわいそう――と思ったそのとき、右に目を移すと、ネタニヤフさんに促されていたオバマさんが足をとめ、ペレスさんのほうへ向いて、高齢の先輩が来るのを待っていた。そして、ペレスさんが来ると、その肩に手をまわし、3人でいっしょに「朝礼台」の階段を降りだした。オバマさんが主賓なのだから、オバマさんが先頭に立って降りるものなのかもしれないが、結果的にオバマさんはペレスさんとネタニヤフさんのうしろに立ち、ふたりの肩をかかえるようにして降りていった。

 ほんと、わたしが近所のおじさんと話をしているときのような、ごくごく自然なふるまい、気遣い。これからの政治に求められるのは、ああいう姿勢だよな、と思った。かりにみんながいろんなくだらないしがらみをきっぱりと抜きにすることができ、あのアラファトさんも生きてあの場にいたら、きっと4人のおじさんたちのなごやかな一団ができていたのだろうな、とも思った。

 ま、なにげなくかっこいいふるまいを見せたオバマさんも、そのあとで乗った愛車のリムジン「ビースト(Beast)」が高速道路でエンコしちゃって、なんともかっこ悪いところを見せちゃったみたいだが、それも人間、人間。ともあれ、わたしたちが、すぐにまなじりを決するようなタイプの人の、結果的にはなにももたらさない主張に左右されず、なにを大切にしなきゃいけないかを思い出させてもらった光景だった。

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by pivot_weston | 2013-03-21 20:45 | ブログ

ある僥倖

 いまごろ書くのもなんだが、久しぶりに「命の実感」のようなものを思い出す機会があった。

 なんでもない、事務的な言葉を交わす場。

 向こうがなにかを言ってくれ、こちらがそれに答える。

 もしかすると、大昔には、そういう場面でもオリジナリティのある、というか、オリジナルであるしかなかったインタラクションが交わされていたのかもしれないが、今日では、そういう場面になると、どちらの当事者の脳裏にもプレイするロール、つまり役割のイメージが浮かび、多くの場合、両者はそのイメージの枠の内側で言葉を発したり、身振り手振りを繰り出したりする。そして、相互にイメージの枠からはみ出すことなく、その内側でその場のインタラクションをすませることができれば、それでよしとする。

 たぶん、ときどき、なんのそつもなく暮らしているように見える人が「なんだか生きている実感がない」というような言葉をこぼしているのを見かけるのも、その人がそのような暗黙のうちのロールプレイングゲームを忠実にこなしているばかりに、あらゆる場面でロールの枠から出ることがなく、結果的に、自分以外の他者と直接接触する機会を失っているからではないだろうか。

 わたしはあまり枠におさまるのが得意なほうではない(というか、へそ曲がりなものだから、いつでもわざと枠からはみ出そうとしてしまうほうだ)が、それでも、自分ひとりが枠からはみ出しても相手の人がそれに応じてくれないと、荒涼とした荒野にちょこんと頭を突き出すようなもので、おもしろくないし、人間の文化というのは長年のあいだに実に重層的に構築されているもので、ロールの枠からはみ出したコミュニケーションにもちゃんと応答のパターンのようなものができていて、ちょこんと突き出した頭に「はい、よくできました」とばかりにそのお決まりのパターンのキャップをかぶせるような応答をされることがふつうなので、へそ曲がりにあちこちでわざとちょこっと枠を突き破っても、結果的には、なんとも生産性のない荒涼としたコミュニケーションの手ごたえしか残らないことが多い。

 でも、冒頭の「機会」には、違った。

 交わしているのは、あくまで事務的な言葉。でも、相手の返す言葉や態度に、こちらの内面をはかり、うかがって揺れ動く波動のようなものが感じとれる。そうなると、こちらも事務的な言葉を返しつつ、相手の内面をはかり、息遣いや、その深さもうかがいながらコミュニケーションを進めていく。

 ずいぶん久しぶりだな、こんな感覚――と思った。もしかすると、もう10年以上、なかったかもしれない。たとえてみると、新鮮なスターフルーツをかじっているような感覚に似ているか。ああいう感覚がどこでもかしこでも味わえるような世のなかになると、人生って、こんなにおもしろいものはない、と言えるようなものになるのだろうが、なぜか世のなかは「進歩」の名のもとに、ジューシーな生の人と人の触感を失っていく方向へ向かっているように思える。

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by pivot_weston | 2013-03-19 21:37 | ブログ