<   2012年 09月 ( 18 )   > この月の画像一覧


5年ぶりにしたこと

 このブログに長らくちょこちょこと顔を出していただいていた「吟品」のチンさんが、とうとう引っ越した。

 23年だか何年だか前、この国に最初の日本語学校ブームが起きていたころ、台湾の高校を出てやってきたひとりの少女が、いろんなことに遭遇しながらも、自分で店を持ち、家を持ち、華やかな一時期も体験して、ある程度の齢を重ねたところで、「夢を持つ」とかなんとか、そんな単純な思考ルートを超えたところで、いろいろな考えを持って目の前の日々を暮らし、現実と折り合いをつけ、その結果、またいろいろな考えをいだいていた。

 そんなチンさんが、またその、23年だか何年だかの歳月を経て、台湾に戻って3歳になった息子くんとふたりの暮らしを築いていこうとするのは、通俗的に考えれば、さまざまな形容ができることなのだろうが、おそらくチンさんは、たとえ途中経過にしても、自分の人生に対してそういう総括のしかたはしない人だろうから、そんな形容や規定のしかたはどうでもいいことなのだろう。

 ただひとつ、今日思ったこと。遠くで見ていると、旅立ち(あるいは里帰り)の前のチェックインカウンターの前で、チンさんがひとりで重量オーバーが判明した預け荷物の梱包を解いて、汗をかきながら、荷物を出し、別の荷物にしまい、また梱包しなおしてしいた。そのかたわらでは、息子くんがチェックインカウンターの上にちょこんとすわり、うつむいてスマートフォンのドクターマリオのゲームに見入っていた。

 おゝ、チンさんもいいかあちゃんになったなあ――なんの根拠もなく、そう思った。

 これからふたりが、今日いっしょに飛行機に乗ったTJとともに、どんな人生を繰り広げていくのか、見ものだ。西新宿に帰ってから、すっかり暗くなった、かつて台湾から上京した少女の人生の記念碑のかたわらにあるカレー屋でビールを飲みながら、そんなことを考えた。

 で、そのあと、5年ぶりにおじさんがやったこと。

 喫茶店に行き、久しぶりにきついタバコを吸い、濃いコーヒーを飲んだ。

 うまい。なんとも言えず、うまい。

 人との大らかな接しかた、プリミティヴな感情の表出のしかた……誰かに人生の幅を広げてもらったあとというのは、こういうものかもしれない。

[PR]

by pivot_weston | 2012-09-27 21:00 | ブログ

ボーダーレスの時代へ

 もめごとは断絶のきっかけになる一方で、相互理解への第一歩にもなるというが、そのとおり、いま問題になっている尖閣のことも、落ち着いて調べていくと多彩な人間模様が浮かび上がってくるおもしろい歴史が見えてくる。

 中国が主張する「尖閣」に対する領有権の原点に関する考えかたは、1996年10月18日付の『人民日報』の記事とされるこの文章に要約されているのだろうか。

 しかし、大昔の航海記に島の名前が出てきて、いまの沖縄の人たちが自分たちの島に帰るときに、ある島が見えてきたら、うちに帰ったと喜んでいるから、その手前までは、地図の上で反対側にある国のものだと言うのでは、別に日本人だからというわけではなく、やはり根拠とするにはあまりにも弱いような気がする。

 この『人民日報』の記事では、明の時代から話を書き起こしている。前から現代の中華人民共和国が歴史上のどの中国王朝の継承国として領土を主張しているのかと思っていたが、この記事から類推すると、中華人民共和国は明や清の継承国と理解してよいのだろうか。

 明の時代には、東シナ海あたりは倭寇の支配下に置かれていた。「倭寇」というと、「倭」の「寇」だから、日本人の支配下にあったのかと思われそうだが、実際の倭寇は、失礼な表現になるかもしれないが、現在でいう日中韓朝のあぶれ者たちの混成軍であり、前期(13~15世紀)は日韓朝のあぶれた人たちがほとんどで、活動領域も朝鮮半島に近い海域だったらしいが、後期(15~16世紀)になると、中国人が中心になり、活動領域もまさに現代の尖閣諸島などを含む海域のほうへ移っていったという。

 では、やはり尖閣は中国の支配下にあったのか、と思うが、「倭寇」はあくまで混成軍であり、しかもあくまで海賊であり、明は逆に、自分たちの国からあぶれた人たちがやっていたと思われるこの海賊をきらい、貿易を申し込んできた日本に、貿易を認めるのと引き換えに退治を依頼しようとしたりする一方で、国民に海に出ることを禁止する「海禁政策」を行っていて、場合によっては、海に近づくことさえ禁止していたという。

 ある人に、その点を指摘し、明は海を国外と認識していたのですよと言うと、いや、違う、明にはたしか強大な海軍があったはずだ、と言われた。それで、調べてみたら、これがまたおもしろい。

 中国はワインをつくるのも現在の本場フランスなどより早かったという話だが、「大航海」もスペインやポルトガルより早くから始めていたらしい。明の時代の早い時期(1400年前後)に鄭和さんという人がいて、もうそのころには、その人が中心になってアフリカまで航海していたという(今日の中国のアフリカへの影響力伸長にもルーツがあったというわけか)。

 でも、この鄭和さんという人がまたおもしろい。いまの雲南省の出身で、それだけでもやや非主流のにおいが漂ってくるが、もとをただせば、中央アジアのイスラム圏から元代のモンゴルを経由して入ってきた人で、イスラム教徒で、本名は「ムハンマド・ハッジ」といったのだという。いいなあ。人間の織り成す歴史はおもしろい。

 日本は、争いに終始し、乱れた世のなかに辟易して、鎖国政策をとり、氷河に削られたスイスのU字谷の村のように、表面的な単一民族化を図ってきた国。対照的に、中国は鎖国政策を打ち出しても、そんなのはただの政策、つまり統治者たちの希望にすぎず、現実には自由に動く人の流れをコントロールすることなどできず、大昔から、現代の日本がめざしている「国際社会」だったわけだ。

 ただ、そういうわけで、鄭さんが大きな船で航海したのはおもに南方の南シナ海やインド洋で、琉球近海にはあまり関係なかったらしい。

 ではやはり、明の時代の尖閣付近は、明にきらわれた海賊たちの横行する世界だったのかと思うが、鄭和さんより200年ほどあとの、明の末期(日本の徳川時代初期くらい)になると、この地域に深く関係する人のなかに、もうひとりの鄭さんが登場する。

 近代の国民党の蒋介石さんと同じような経緯をたどって大陸から台湾に渡って政権を樹立した鄭成功さんという人。いまの台湾の漢民族系の人たちからすると、始祖のような存在の人だ。ただ、この人の経歴もまたおもしろく、おかあさんは日本人で、幼いころは日本の長崎で過ごしていたという。そして、この人も政権を樹立したのはオランダが占拠してゼーランジャ城を建てていた台湾南部の台南のほうで、尖閣とは反対側に当たる。

 で、その時期に尖閣のあたりを誰が統治していたのかというと、ヨーロッパの国も候補に上がってくる。当時、しばらく、尖閣に近い台湾北部はスペインが占領していた。石垣島などに面した三貂角の岬も、当時スペインの人たちが「サンチアゴ」と呼んでいたので、スペインが去ったあとで、音が似ているその名前がついたのだという。もしかすると、世界中で尖閣に関する「そもそも論」を戦わせることになれば、スペインも領有権をめぐる話し合いに入ってくる資格があるのかもしれない(そして、もしかすると、海賊を除けば、尖閣を領土らしい領土として最初に支配したのはスペインだった可能性もあるのかもしれない)。

 さて、それでは「日本」はどこで出てくるのか。この時代までは、日本は出てこない。もしかすると、遣隋使や遣唐使の時代、あるいは、先の明の国に頼まれて海賊の取り締まりをしながら明と貿易をしていた時代に「ヤマトンチュー」の人たちと尖閣諸島とのつながりがあったのでは、とも思うが、そういう事実は、まだわたしの狭い視界のなかには見えてきていない。

 無理もない。地図を見れば誰の目にも明らかなように、いまの日本のおもな部分を構成する「ヤマトンチュー」の国は、尖閣とははるかに海で隔てられていて、つながりようがない。日本が尖閣の海域と領土としてのつながりをもてるようになったのは、「琉球処分」をして現在の沖縄を強制的に版図に組み入れてからのことだろう。

 だから、「そもそも論」を戦わせると、「ヤマト」の国はたいへん分が悪い。第一、日本で使っている「尖閣諸島」という名前からして、20世紀になってから、それもイギリス海軍の水路誌にあった表現を翻訳してつけた名前であって、日本には、中国が使っている「釣魚嶼」のような古い名前はない。

 要するに、前にも書いたが、これらの島々は、「そもそも論」を展開していくと、中国のものでも「ヤマト」のものでもなく、台湾のものか沖縄のものか、つまり、小琉のものか大琉のものか、というところへ行き着く。

 地形図を見ると、尖閣諸島は沖縄とは別の列に属していて、台湾につながる島だということがわかる。でも、人はいちいち地形図を見て暮らしているわけではないので、地形図の上では台湾につらなるこの島々を、日本列島につらなる沖縄の人たちがおもに自分たちの島として利用していたことは十分に考えられる。

 日本が実効支配しているのは、その沖縄(琉球)を強引に国土に編入したあと、下関条約、ポツダム宣言、サンフランシスコ講和条約などを経るうちに、いつのまにか(いや、実際には、どこかで誰かと誰かがこそこそと話はしていたのだろうが)そういう流れになったからだ。しかも、その流れのなかには、わたしたちが高校生のころの歴史の授業では、「時間がなくなった」という理由でさーっと流すようにしか教えてもらえなかった近代史のなかで、ほとんどどういうものかもろくに教えてもらえなかった「カイロ宣言」というものも出てくる。

 現代の中華人民共和国はこのカイロ宣言も尖閣領有の根拠にしており、そうなると、アメリカのローズベルトさんやイギリスのチャーチルさんといっしょにこの宣言を出した蒋介石さんも中華人民共和国のルーツのひとりということになり、中華人民共和国は中華民国の継承国でもあるということになり、いろいろと厄介なことになりそうだが、それだけではなく、いま日本が頼りにしようとしているアメリカを中国も頼りにすることになるという、さらに複雑な状況も生じてくる。

 パールハーバーを攻撃され、日本の膨張主義と戦ってきたローズベルトさんは、とにかくその日本の膨張した部分をすべて剥ぎ取るのに熱心で、気乗りのしないチャーチルさんも巻き込んで、蒋介石さんといっしょにカイロ宣言を出した。ところが、その勢いで1945年に日本の降伏を勝ち取ったと思ったら、日本に対する怨念の強かったローズベルトさんが共産党と仲良くして日本包囲網をつくれよと応援していた蒋介石さんが言うことを聞かず、まだ共産党と戦争を続けて、結局、1949年にはかつての鄭成功さんのように、混乱のなかでぽっかりとできていた空白地帯の台湾に移ってしまった。

 しかも、ソ連も加わって新しい冷戦の対立軸が浮かび上がってくると、1950年に朝鮮戦争が始まり、日本がたえず引き合いに出すサンフランシスコ講和条約はそういう雰囲気のなかで1951年に締結されたが、そのときには、アメリカの大統領はローズベルトさんからトルーマンさんに代わっていて、状況も人心も変化していたことから、中国が尖閣領有権のひとつの根拠としているカイロ宣言のころとは、いろんな取り決めの周辺、あるいはいろんな取り決めと取り決めのあいだのファジーな部分のベクトルが変化していた。

 ……と、ざっとふり返ると、そんな具合らしいので、この歴史のもつれをほどいて、すっきり解決するというのはきわめて難しい。最終的には、日中の問題というより、いまでは呼び戻しようもないアメリカの政治家個人の「了見」の問題になるような気がしないでもないが、それにしても、国土の片隅を暮らしの場として生活しているひとりの市民のレベルから言うと、封建的な明や清の継承国のようなことを言い、戦争していた中華民国の継承国であるようなことまで言う中国と琉球処分をした日本の両国政府のいがみ合いというのは、なにやら頭ごなしで、ひとりひとりの人間を愚弄しているように思えて、見ていてあまり気持ちのいいものではない。これを機会に、日中両国の人が、しばし間を置いて、台湾や沖縄(琉球)の歴史を静かにふり返り、検証するような機会があっても悪くない。沖縄の人は、普天間問題でも日本という国に都合よく利用されていることがよくわかったのだから、それくらいの主張はしてもいい。

 それと、中国の領有権の主張の背景には、『人民日報』の記事にも出てくる「冊封」の歴史が影を落としている。昔の中国は、言ってみれば今日の国連が果たしているような役割のひとつを果たしており、周囲の国は、中国のときの王朝に貢ぎ物をすることによってひとつの国として認めもらうという習わしがあった。琉球も中国と冊封関係にあった、だから、沖縄も尖閣も中国のものだという主張が現代においても正当なものだとしたら、冊封関係にあったその他の国々、つまり、韓国や北朝鮮や日本もみんな中国のものということになる。そんな主張が国連で独立国を承認するようになった現代においても通じると考えるのは、明らかな時代錯誤だろうし、そうした封建的制度を打ち破るために登場したはずの中華人民共和国の基本理念にも反するのではないか。

 また、中国の歴史にひとつの定則があることも忘れてはいけないだろう。日本が長く同じ国としてやってくるあいだ、中国は何度も王朝が変わった。大きな版図を獲得する国が現れても、その国がさらなる膨張をめざすたびに崩壊を繰り返してきたからだ。これは、例外のない歴史上の定則であり、版図の拡大をもくろむひまがあれば、自国の国内をもっと住みやすい現代的国際社会にする努力をしたほうがよいだろう。

 現代は、国民が村境の山しか見えない狭い視野のなかで暮らし、政府が地図の上でそんな人たちの暮らす国土を勝手にやりとりしていた時代とは違う。国民のほうが政府より広い視野をもつことができる時代だ。新しい時代には、国と国の問題の新しい解決方法があってもいい。中国の国名にもある「人民」が、実体のないただの暮らしの装置にすぎない国のために振りまわされるような時代は、もう過去のものにしたほうがよい。そういう意味では、今回の尖閣問題もボーダーレスの世界へ向かうひとつのエポックと位置づけてもいいかもしれない。

[PR]

by pivot_weston | 2012-09-26 11:52 | ブログ

ときどきよみがえる歌

 笑ってしまった。

 お、こうしちゃおれん、動こ――と思ったら、頭のなかにある歌がよみがえってきた。

 で、その歌のことを書こうと思ったけど、なにも調べずに書いたらいかんだろう、と思い、検索したら、なんのことはない、前に自分が書いていた記事がひっかかってきた。

 高石ともやさんがうたっていた『もしも平和になったなら』

 書いた3年前とは、多少心のアングルが違っているけど、ま、ともかく、子どもたちが元気よく、胸張って、野越え山越え歩いていくような雰囲気の歌。

 今回はズルして、リンク先の記事を参照していただくとして、さ、さっさと出かけよう。

[PR]

by pivot_weston | 2012-09-22 06:43 | ブログ

The End of an Era

 いまから12年前、ある人が人生を閉じるにあたって最後に言った言葉は「ありがとう」だったが(いや、実際にはそのあとでもっとおもしろい言葉をひとことだけ残してくれたのだが、それは近しい人でないとニュアンスがわかりにくいので、ここでは省略)、その前に、意識をとる判断をするときに口にしたのは「もうおしまいにしよう」という言葉だった。

 それだけを書くと、ただ単に、ふぅん、なるほどね、人生がおしまいになるから「もうおしまいにしよう」か、と思われそうだが、ずっといっしょに生きてきて、そばについていた者からすると、どこやら、ほんの少し意外な思いにもかられる言葉だった。そうか、「おしまいに」する、ということは、こちらから見ると、モルヒネの影響もあって意識が薄らぎ、せん妄状態になって理路を超越した言葉を口走るようになっていたが、実際には、本人のぼやけ、かすんでいく(と思われていた)生命の空間のなかでは、まだ周囲にいる人たちとの関係をどうしようかと考え、そこをどういう世界にしたいかを考えていたのだな、と思った。ずっとこちらが見守る一方の関係になっていたように思えていたのに、せん妄状態になってもまだ、こちらの背なかに心を向けてくれていたのだな、とも思った。

 ともあれ、生まれてから死ぬまで、ひとつづきになっているように思えるわたしたちの人生も、実際にはいくつかの「時代」に分かれ、始まりはもしかするとそれほど意識せずに通過するものなのかもしれないが、そのつど終わりを迎えながら、そこでまだ余力があれば、また立ち上がり、自分の意思をひとつの流れに沿って周囲に向けていく、というようにして構築していく面があるのかもしれない。

 そういう意味では、また今日、ひとつのThe End of an Eraを迎える。「もうおしまいにしよう」の言葉を聞いてからは、何度か自分なりにEraの概念を念頭にいだいても、満足に完走できないことが続いていたが、今度のレースは12年ぶりに完走できるレースになりそうだ。

 ロンドン五輪でも、藤原新選手のマラソンレースに注目していた。あの人も、自分の意思でレースを構築している。結果は、遅れだしてからの内面の調整がうまくいかなかった面もあるのだろうが、ボロボロの惨敗に終わってしまったけど、だからといって、意思のある者にとっては、「惨敗」という評価はおろか、「ネバーギブアップ」という励ましの言葉にしたって、世俗的な価値観をあてはめられているだけで、本人が内面で感じているものとは、多かれ少なかれ乖離したものではあるまいか。

 ひとりひとりの人生のレースもそういうものだと思う。誰が人生でもくろむレースにしても、社会通念や世俗的な価値観をあてはめられると、「なにやってるの、この人?」「とんでもないやっちゃ」「情けないなあ」という評価が飛んでくる。一般には、そういう世間の価値観のなかで称揚される人生を構築するのがよいことのように思われているのかもしれないが、それでは自分の人生の貴重な時間を世間の価値観にゆだねているだけで、自分の命を生きていることにはならないだろうし、わたしが12年前に見送った人と同じように、誰だってひとりでぽつんと自分の人生を閉じるときに、結果的になにが残るの?――という気がしないでもない。

 幸いにして、今回のわたしのレースでも、意思を理解してくれていると思える人はひとりもいなかったが、自分のなかでは、よかった、いくらかなりとも自分が生きていた意味があったのではないか、と思える手ごたえは、はっきりとつかめている。藤原選手は45位だったみたいだが、たとえビリに終わった選手でも、いや、途中棄権した選手でも、想定される世間の評価とは関係なく、その人の自分の人生として、やったと思え、また現実に周囲の誰かにとってプラスになるものを残している可能性はあるわけだ。通俗や世間にゆだねた人生は、たとえレースでトップになった人の人生でも、ただ多くの人のpastimeの材料になるだけで、場合によっては、ただすでにあるものをなぞるだけのものにしかならず、それで満足して死んでいく人がいるとしたら、多少切ない思いがしないでもない。

 他人が自分の人生に物差しを当ててはかるような評価などどうでもいい。そんなものより、たとえ周囲から見れば紆余曲折してわけのわからない道筋のように見えても、場面場面で自分なりに感じて、考えて、判断しながらまた次のページへ向かっていこうと思う。

[PR]

by pivot_weston | 2012-09-20 07:59 | ブログ

父性の影

 K6の日のG3のつぶやき。

 今回の尖閣問題で渦中にいる人には、いずれも「父性の影」のようなものが感じられる。父親がいた人、いなかった人、いなくなった人……事情はそれぞれだが、みなそれぞれ父親に対して強いコンプレックス(複雑に錯綜する思い)があり、みな、どういうわけか、結果としては「強い父親像」のようなものにひかれている人ばかりのように見える。

 いまはそんな悠長なことを考えている場合ではないのかもしれないが、さりとて、こんな危険な状況になっても自分にはなにもできることがないような気がしたので、つい、そんな悠長なことを考えてみたくなった。

「強い父親像」なんてものは、父親を知らない子どもがいだくものだと思う。いや、かりに、ほんとうに「強い父親」なんてものを知っている子どもがいたとしても、その子は同時に父親のダメな面や弱った面やどうしようもない面も知っているものではあるまいか。

 スポーツ界でもときどきこの手の人が人気を博し、リーダーとして慕われることがあるみたいだが、今回の尖閣騒動の展開を見ていると、やはりわたしたちは、現実にはいるはずもない「強い父親」像のようなものを追い求めているような人たちを支持するときには、少し慎重になる必要があるのではないかと思う(別に、だからおとうさんのいない人はダメだと言っているのではない。そういう人にも、近辺にいるダメおやじをたくさん見て、ぜひとも正しい父親像をいだいていただきたいと思う)。

 もともと、父親は強い存在でも、かっこいい存在でも、頼もしい存在でもない。父親の存在意義は、そんな存在であることを示すことではなく、人間の「情けなさ」「みっともなさ」「でたらめさ」などを教え、伝えることにあると言ったほうがよい。それでも、父親がさも強い人間みたいに語られることがあるのは、愛情があるからこそ、ときとしてぎりぎりのところで、無様な姿をさらしながらも、せめてもの「強さ」や「かっこよさ」や「頼もしさ」を見せることがあるからであり、それは、いくら強くても、かっこよくても、頼もしくても、あくまで「せめてもの」ものであり、だからこそ深い味わいが出てくる。そしてまた、その「せめてもの」に対する理解のある人で、まわりの人や相手の人の「せめてもの」も斟酌できる人であれば、お互いに配慮や気遣いを示し、なにごとにも平和的な解決の道を見出していくことができる。

 今日、おもに考えたのは、日中間に「棚上げ合意は存在しない」と発言したという民主党の前原誠司さんのことだ。石原さんや猪瀬さんのことは、いまさら考えるまでもない。

 前原さんとは、国会に手伝いに行っていたころ、何度か気をゆるめてもいい場面でお会いしたことがある。テレビの画面に映っているときの虚勢を張っているような表情はなく、とてもソフトで、さらに言えば、少しひ弱にも見える表情をのぞかせていた。それで、生い立ちを調べさせてもらって、あゝ、なるほど、そういうことか、と思った。

 いまの時代は、テレビを始めとする画像メディアが発達したせいで、表面的にかっこいい父親や立派な父親や強い父親を求める傾向が強く、そんな傾向が昂じた結果かどうかは知らないが、わたしの次女も含め、ダメおやじならそんなのいらない、とばかりに、ひとりで子育てをする女の人もふえている。でもね、今回のことでもよくおわかりのとおり、わたしたちの平和な世のなかにとって必要なのは、実はダメおやじ、根っこにいくらかなりとも愛情のあるダメおやじの姿を子どもたちに見せておくことなのだよ、みんなうわっつらの表の顔より無様でも深い味わいに目を向けたほうがいいと申し上げておきたい。

 K6の日のG3のつぶやきだ。

[PR]

by pivot_weston | 2012-09-17 21:36 | ブログ

政治と現実の乖離

 わたしたちくらい以上の年代の人たちには、同じような印象をいだいている人が大勢いるのではあるまいか。

 中国の「反日デモ」を見ていると、昔の日本の学生運動を思い出す。あれも、言ってみれば「反米デモ」であり(現に「反米デモ」として行われた「反米デモ」も数多くとあったと思うが)、やっていた人たちは、表向きはいろいろと小難しいことを言っていたが、背景には、つまるところ、西洋人を「鬼畜」と教えられ、さんざん空襲で追い立てられ、その挙句に原爆まで落とされた戦争期の怨念のようなものがはたらいていたと思う(白人の人を「あの毛唐が」と言っていた学生もけっこういた)。皮肉にも、あのころの学生運動のタテカン(立て看板)には、「造反有理」のように、その憎悪の対象であるアメリカと正面から対峙していた中国のスローガンも掲げられていた。

 いま、中国国内にいる日本人は、当時日本にいたアメリカ人と同じようにたいへんだろうが、現象としては、ある意味では自然なことが起きているのかもしれない。現代の日本国内でも、犯罪被害者の会のような人たちの心情は同情を集める。社会的な正義の議論と父母を始めとする身内が命を落としたことから湧いてくる感情は、また別だ。いつかは、どこかでは吐き出さないとおさまりのつかないものなのかもしれない。そういう意味では、70年ほど前にこのアジアに凝縮されたものが、まず半世紀近く前に日本で吐き出されて解放され、さらにその奥の中国に凝縮されていたものが、いま、波状的に吐き出されて解放されようとしているのかもしれない(どこの国が正しかったとか、間違っていたとかいう話ではなく、国家と人のあいだで生じたストレスの発散現象と言ってもいいかもしれない)。

 そういう意味では、いまわたしたちが参考にすべきは、あのころのあの「にっくき米帝」の態度、ふるまいなのかもしれない。ヘルメットをかぶり、角棒を持った日本の学生たちが手拭いをマスク代わりにして顔を隠して暴れまわっていたころも、「米帝」そのものはそんな日本の若者のストレス発散活動にいちいち反応はしていなかったように思う。そして、もしかするとあれは密かな戦術だったのかもしれないが、テレビでは来る日も来る日もアメリカのテレビ番組が流され、CMも多くは白人の人をモデルに取り上げ、ひとりひとりの暮らしの現場では、徐々に日本人とアメリカ人の融合が進んでいた。

 いまも、わたしが住む新宿などには、中国の人が多く住み、いっしょに語らい、いっしょに税金を納めて、たいした違和感もなく生活をしている。いまから20年ほど前、まだ中国の人が「かちかち山」の泥の舟を連想させるボロボロの舟に鈴なりになり、尖閣諸島やどこかの近くを通って大挙して密入国してきていたころには、確かにわたしなども違和感を感じることが少なくなかった。でも、いまは、中国の人と話をしていても、日本の若い人を見るときほど首をかしげたくなることは多くない。みないっしょに、いろんな日々の不満をこぼし合いながら税金を納め、都知事の給料を負担している仲間だ(2010年12月末の在日中国人の居住者数は東京都が16万4201人でもっとも多く、次が5万6095人の神奈川県らしいから、東京都知事というのは日本の地方自治体の首長のなかでいちばん中国の人に養ってもらっている首長と言ってもいいのかもしれない)。

 暮らしの現場での日本人と中国人の融合は、前回の「反日デモ」のときよりも、前々回の「反日デモ」のときよりも、ちびりちびりとではあるが、確実に進んでいると思う。そういう、ひとりひとりの市民の営みの結果としてできつつあるムードを、なぜ不連続な動きで壊さなければならないのかと思う。しかも、誰よりも中国の人に支えてもらっている人が壊そうとする。

 やはり、大阪の橋下さんなどが言うように、日本も早く大阪都構想を実現し、道州制を導入し、地方分権を進めていく必要があるように思う。日本の経済や権力は東京に集中しすぎている。不自然な集中が起こると、そこには遊びの余地が生じ、実社会の現場とは乖離した抽象論の横行が許されるようになり、総体として見れば「なぜ?」と思うような判断が下されるようになる。日本各地の自治体がそれぞれに主体性をもって、社会の現実に根差した切実な判断を下すようになれば、それだけ国全体の活力も増し、よりわたしたちの暮らしの現実に違和感のない判断が下されるようになるのではあるまいか。外交面から見ても、地方分権はわたしたちの緊急の課題なのかもしれない。

[PR]

by pivot_weston | 2012-09-17 09:59 | ブログ

ノスタルジーは建設的か

 世のなかの流れは、いつもよくわからない。

 国を代表するわけでもない人がいつのまにかアメリカへ行き、アメリカの人となにやら相談をして、国には事前になんの相談もなしに、国境の島をひとつの自治体のものにすると発表し、騒ぎを引き起こす。主権国家の政治家なら、本来は政府とこっそり相談し、自治体のものにするならするで、こっそりそうしておけばよいことくらいはわかっていそうなものなのに、そんな、相変わらずアメリカの属国のようなまねをして、いたずらに海外在住の自国民に損害や恐怖を与えるようなことをする。そして、そういうことをする人になにがしかの支持が集まるということは、まだこの国が健全な主権国家としての態を成していないということか。

 原発もそう。「反原発」の気運が盛り上がっているというが、いつまでたっても抽象的な「原発は危険だから反対」という声が聞こえてくるだけで、たとえば、前に紹介した一般電気事業供給約款料金算定規則という経産省の省令を変えることを求めるような声は聞こえてこない。わたしは、お金のことはよくわからないが、この規則のなかでは、核燃料が使用済みのものも含めて「資産」として計上されることになっている。「再処理」「高速増殖炉」の実現を想定してのことだろうが、その高速増殖炉は動燃が設立されてから半世紀近くがたっても、いまだに完成していない。なにやら「八ツ場ダム」を思い出すが、そんな、半世紀近くたっても完成しないようなものを想定して、いまだに原発の収支計算が行われている。それなら、砂上の楼閣、というより宙に浮いた楼閣とも言える原発が群を抜いてコストの安い発電手段になるのはあたりまえのように思えるが、違うのだろうか。こういう規則があるのなら、いま大量の使用済み核燃料がプールされていると言われる福島第一原発の4号機は「資産の山」ということになりそうな気がするが、あゝ、なるほど、確かにあそこは資産の山だなと感じる人が、果たしてどれくらいいるだろう。大阪の橋下さんのグループのアドバイザーをしている古賀さんあたりも、いくらかなりとも「反原発」にシフトするのなら、出身省庁の省令の見直しを提案していったらよいのではないかと思うが、そういう動きもいまのところは目にとまらない。

 ただ、とてもわかりやすいこともある。自民党総裁選挙のメディアの報道だ。昨日あたりは、午後6時前後にテレビを見ていると、地上波放送のすべての主要チャンネルが同時にやっていた。国会に手伝いに行っていたときから、新聞・放送のメディアの現場の取材記者のかたから、「上のほうはみんな自民党」とは聞いていた。なるほどな、と思う展開だ。民主主義は意思表示をする人ひとりひとりがその意思表示に対して応分の責任を負担してはじめて成り立つもの。昔のように「見ざる」「言わざる」「聞かざる」の姿勢で政治のブラックボックスにまかせて、票と引き換えに平和で豊かな暮らしを手に入れられることを期待したくなるのは人情なのかもしれないが、わたしたちを取り巻く世界は当時とすっかり変わっていて、ノスタルジーを追い求めていてもいい結果が得られるとは思えないのだが、どうなのだろう。

[PR]

by pivot_weston | 2012-09-16 09:23 | ブログ

東アジアの新時代へ

 尖閣が微妙な局面に陥っている。

 どうにかことがこれ以上荒立たずに推移すれば、もうこんなことをあとの世代に残さないために、これを機会に日中合同歴史考証委員会のようなものをつくって(「東アジア合同」でもいいかもしれないが)、放置しておくといつまでももめごとの原因になる線引きをはっきりさせておいたほうがいい。いまなら、日本も、中国も、韓国も、みなそれほど国力が低下しておらず、あとに不満を残さないような議論ができるのではあるまいか。そういう意味では、これこそ東アジア新時代のスタート点して乗り越えなければならない段階と言え、ここさえ乗り越えることができれば、時代は明るいほうへ進んでいくのかもしれない。

 中国が「尖閣は中国固有の領土」と言っているのは、いつの時代を想定してのことなのか。少なくとも、日本が琉球を強制的に版図に組み入れた「琉球処分」以前の時代を想定しているとしか思えない。そうなると、150年も時代を逆戻りさせなければならないことになり、そういう方式でどんどん「そもそも論」を展開していけば、そもそも中国という国も日本という国もなくなってしまう(ま、いくら「そもそも論」を展開していっても、琉球が中国の友好国だったことはあっても、領土だったことは一度もないと思うが。ほら、こういうことひとつを考えてみても、「中国」という国そのものは近代になってはじめて生まれた国だから、いつの時代のなんという王朝を想定して考えたらいいのかがわからなくなってしまう)。

 中国の人たちも、みんな苦労して、がんばって今日を築いてきたのだろうが、そうしてがんばっている姿がほかの国から見えていたこともあって、ある意味、近代史のなかでは、世界から甘やかされてきた。早くから核兵器を開発してまわりの国が静観するしかない状況をつくった過去の中国の政治家の功績だったと言えるかもしれないし、過ちだったと見ることもできるかもしれない。

 日本は、近代史のなかで、少なくとも表向きは「部落差別」のようなものは是とするものではないという意識を身につけてきた。それに対して、中国のほうは、国内が安定していなかったこともあって、まだそういう近代的市民意識のようなものを身につけることができていないのではあるまいか。

 わたしたちが学校の授業で使っている歴史地図を見ても、「匈奴」「鮮卑」「夷」のような文字が躍っていて、わたしたちの国も「倭」、つまり「チビの国」ということになっている。「中華思想」と言われるゆえんなのかもしれないが、こういうものは、かつての暗愚な時代には、どこの国にも、どこの社会にもあった。やっぱり誰だって自分たちのことが大切なものだから、まわりにいるよくわからない人たちのことは下に見ようとしたり、敵視しようとしたりする。でも、ヨーロッパの「蛮族」から這い上がったイギリスやフランスやドイツの人たちの例を見てもわかるように、歴史というのは、つねに辺境にあって地べたから見る視点をもった側に味方するもので、いちおう、かつて「チビの国」と見られていたわたしたちのほうでは、そういう前近代的な狭い了見はおおむね払拭してきている。それに対して、尖閣は琉球の一部だったから中国のものだ、台湾の一部だったから中国のものだ、と言い、琉球も台湾もわがもののように考えるスタンスをとっている中国の側には、まだそういう前近代的意識が払拭できていないのではないかとしか思えない。琉球はもちろん、台湾だって、「そもそも論」で言えば、中国のものではない(なにも国民党政府と共産党政府の対立のことを言っているのではなく、本来、台湾もチベットやウイグルやモンゴルなどと同じで、というより、そういう陸続きの地域以上に独自性のあった地域で、中国よりむしろフィリピンにつながっている地域と考えることもできる)。

 そういう前近代的な意識を中国の人が早く払拭してくれることを期待して、近代の歴史について考えると、Wikipediaの「日清戦争」の項に興味深い地図が掲載されている。19世紀のドイツの地図製作者Von A. Petermannさんの作だ。Petermannさんは1822~1878年に生きた人なので、GPSも飛行機も新幹線もない時代にいったいどうやってこれだけの地図をつくったのかと思うが、左下の隅に「1891」と改訂年が記されているので、その時点のものだとしても、日本が台湾を割譲した日清戦争(1894~1895年)以前につくられたものということになる。そして、この地図では、いま問題になっている尖閣諸島がどこの国に区分けされているかを見てみるといい。

 わたしの家も、自然災害やなにか、いろんな歴史の経緯のなかで所有地を失ってきた。「そもそも論」を展開しても行き着くところがないことはよくわかっている。どんな問題でも、目の前の現実を踏まえずに解決できるものはない。今回の騒動は、両国の人たちの意識のあいだに齟齬があることをわかっていながら何十年間も問題を放置してきた人たちのひとりが確たる戦略もなしに引き起こしたもので、だから終息するまでに少し時間がかかるかもしれないが、とにかく、いまは日本が先進国らしい度量を見せ、中国が早く国民の意識の近代化を図るべきときだと思う(このところの報道を見ていると、噂に聞いていたとおり、ほんとうに中国の指導部の人たちはひ弱なのだということがよくわかるが、なんとかがんばって指導者らしい冷静さを発揮してもらいたいものだと思う)。

[PR]

by pivot_weston | 2012-09-15 09:38 | ブログ

15年目の喜び

 最近あった、うれしいこと。

 ある生保会社のルーキーのSくんが、いつも首にタオルを巻いて仕事をしているわたしの自宅にしきりに顔を出してくれる。年金型保険の勧誘だ。かつては農業を始めとする一次基幹産業の人たちの年金制度で、呼び名もその実質にふさわしかった国民年金制度も、いまでは厚生年金制度からこぼれて受け皿を失った人たちを受け入れ、すっかり「失業者年金制度」のようになって破綻確実と言われている。どこやら、集団で生きようとする人たちの心根が表れているような気がして、そんな人たちには一顧をお願いしたい気もないではないが、そんなことを言っていても現実は変わらないだろうと思うから、わたしも積み立てておかなきゃいけないかなとは思いつつも、それよりなにより、目の前の暮らしをなんとかしなきゃいけないので、わが家の狭い玄関口に立ってきらきらと目を輝かせているSくんには、「ひまなときに来てくれるのはいいけど、おれは金がないから、仕事としては無駄足になるぞ。気晴らしとか、息抜きとか、そういうつもりで来るならいつでもおいで」と言っていた。

 そのSくんが、またやってきた。ちょうどお昼どきだったので、じゃあ、いつもメシを食っているところへ行こうか、と言って、いっしょにチンさんのお店へ行った。

 するとSくん、席についたところで、「実はこういうものを……」と言って意外なものを取り出してきた。四国の乾いた空気のなかで見慣れていたもの。15年前に出した亡き妻の闘病記『妻をガンから取り戻した記録』だ。

 おゝ、まだおれに対して営業する気か――と思ったが、虚をつかれると、なつかしさというのは増幅されるものらしく、つい、ぱらぱらとそのなつかしい本をめくってみると、あっちのページにも、こっちのページにも、いっぱいアカ線が引いてある。「なんだよ、こんなに一所懸命に読んでくれた人の本をどこかの古本屋で……」みたいなことを言って、ちょいとカマをかけてみると、「いや、この線はぼくが入れました」と真顔で言ってくる。

 なんか、うれしくなった。

 発売直後に版元のダイヤモンド社が「闘病記物」からの撤退を決めたので、初版の部数以上に売れることはなかったが、その部数は完売し、担当の編集者のかたから聞いた話によると、あの年の日本エッセイストクラブ賞の最終選考に残り、大佛次郎賞でもいいところまで行ったということだった。テーマがテーマだけに、また書けばいいというようなものでもないし、命もかかっていたので、わたしたちの気持ちのこもりかたもほかの訳書などとはくらべものにならず、評価されていること、わたしたちの言葉に真剣に目を向けてくれている人たちがいることがわかると、いつもジンとくる。

 わたしの人生も、いずれそう遠くないうちにとぎれる。いま、目を輝かせて世のなかへ飛び出していこうとしている若者がいるなら、その若者になにかをリレーしていくのも悪いことではないだろう、と思い、ま、トロいおっさん、ということになるのかもしれないが、月々2万円ばかりの年金がもらえる契約をしてしまった。リレーするものを彼が生かしてくれればいいのだが。

[PR]

by pivot_weston | 2012-09-14 16:35 | ブログ

それぞれの秋

 2年前の秋、首相官邸のはす向かいくらいにある内閣府の建物の北に面した一室で、会議に参加した議員や識者の背後やわきに控え、発言のひとことひとことに注意を集中し、必要とあれば間髪をいれずに動きまわる人たちがいた。「行政刷新会議」の名のもとに、各省庁や民間企業から集まってきた人たち。蓮舫大臣の号令一下、政治家や識者の意思や意識の流れを読んで、まるで資料が念力でその人たちの手に吸い寄せられていくように、資料をさがし、選び、つくっていた。

 このブログでは、いつも官僚さんの悪口ばかりを書いているし、現に、わたしたちの日常言語が通じそうにないいやな官僚さんもたくさん見てきたが、この人たちは好きだった。

 バランスがいい。構成がいい。わたしが手伝っていた議員の事務所に来たときに先客がいると、議員の会議室の閉まったドアの前で待つ。背が高くて、がっしりとした民間企業からの出向の人。小柄で眼鏡をかけ、どこかまだかわいらしい坊やのように見える経済産業省からの出向の人。やはり小柄で眼鏡をかけているが、なにやら子どものころの遊び仲間のグループにひとりはいた曲者じみた雰囲気を漂わせている国土交通省からの出向の人。いつも腕組みをして哲学的憂いの表情を浮かべているような印象のある財務省からの出向の人。そして、そういう集団のいちばん前に、誰とでもそつなく会話ができる中肉中背で少しおむすび形の体形の厚生労働省からの出向の人が立っていて、やせていて、ひと目見ると少し頼りない気もするが、実は年長ということもあって、その集団をしっかりと束ねている警察庁からの出向の人がいた。NHKのEテレの「パッコロリン」の3きょうだいにたとえると失礼かもしれないが、ともかく、そんな感じで、人間味も愛嬌もあり、いつもお会いするたびに、この人たちはこのままドラマにできるのではないだろうか、と内心で思っていた人たちだ。

 あるとき、また内閣府の暑い部屋で会議をしていたら、さらにそこへ、きわめつきが登場した。政治家たちに求められた資料をかかえて、壁ぎわにすわっていたわたしの前をよぎっていった、スラックスをはいた女性官僚。美人、なのだが、やはりその味のあるグループの一員らしく、髪がおっ立っている。こらっ、昨夜は帰らずにどこかの折り畳み椅子で寝ただろう――と言いたくなるようにおっ立っている。なのに、でまた、美人なのに、そんなことはまったく気にせず、てきぱきと動いたら、またすぐに控えの椅子にすわり、議員や識者の言葉や仕草や気配に集中しているあたりがかっこいい。ひょーっ、役所にもかっこいーおねーさんがいるんだなあ――そう思った。

 その人たちが、また仲良しだった。お互いのやりとりをわきで拝見していてもほほえましかった。それはそうかもしれない。朝となく、昼となく、夜となく、深夜となく、みんな同じ職場で働きまわっていたのだから。

 昨日、ちょっと思い出し、そのうちのおひとりに電話をかけた。

 へえ、官僚とはそういうものなのか――と、あらためて感心した。おひとりを除いて、もう、みんなそこにはいないのだという。しかも、3人は東京にもおらず、全国に散らばって新しい任務に取り組んでいるのだという。なかには、「行政刷新会議」でやっていたことと反対のことをしている人もいるらしい。命令が下れば動く。それが彼らの掟だから、そうなってもしかたはないのだろう。

 この不良のおじさんが親しみを感じたのと逆に、謹厳実直な世界にいる彼らもこの不良のおじさんの不良かげんに親しみを感じてくれたのか、わたしが国会の手伝いをやめることになったとき、彼らだけが「じゃ、送別会をやりましょう」と言ってくれ、「新宿ゴールデン街」につれてってくださいよ、と言ってきた。でも、それも、とても楽しみにしていたのに、震災が起きてしまって、お流れになっていた。

 そんな彼らの代表が「OB・OG会にご参加ください!」だって。うれしいこともあるものだ。

[PR]

by pivot_weston | 2012-09-12 15:45 | ブログ