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ウツとホーベン

 昨夜のNHKスペシャルで「新型うつ」の話をやっていた。

 かなり前から予測されていた現象だ。

 戦後、わたしたちは焼け跡やドロドロの地べたから豊かさをめざして生きてきた。いまからふり返ると、まだ本質は原始時代と変わらなかったと言ってもいいかもしれない。外見はひもじく、貧しくても、内面は動物・人間としてとても健全だったわけだ。

 でも、豊かさがほしかった。それを手に入れるには、教育を受けるのがよさそうだった。教育を受け、大学へ行き、企業や役所にはいって安定した俸給生活を営む。それが、誰にも門戸を開いた豊かさへの道のように思えた。

 教育は方便と化した。豊かさを手に入れるための手段となり、本来の、自然界や人間の心の闇をより深く模索する行為ではなくなった。

 本来、教育は答えの出ない現実を教えるものなのに、方便と化した教育では、どんどん「正解」が濫造された。方便としての「正解」は、つまるところ、人を縛る「枠」にしかならない。学校や家庭で教えられる無数の抽象的な概念を通して無数の「枠」を頭に植えつけられた子どもたちは、その「枠」だけを考え、「枠」と「枠」の組み合わせやなにかだけで生きていけると勘違いしてしまった。

 でも、そう、お酒の升をいっぱいならべたときも、升と升のあいだにすきまができるように、「枠」だけで育った子どもたちの心には、あちこちに無数のすきまができている(かりに、すきまができないように升を整然と縦横にならべたとしても、そのときは、ただ升が中心付近に集まっただけのことで、外側はがらがらだろう)。生きていると、当然、そのすきまをつかれる。なんといっても、わたしたちは基本的に、戦後のドサクサ期だろうが、現代のIT時代だろうが、いつ時代でも、ひとりひとりが独立してこの「枠」なんてもののない、また、「枠」なんてものに押し込めようのない宇宙に生きているのだから。

「枠」で育ち、「枠」でかたまり、それでうまくいったと思っている人たちは、またその不自然さを顧みずに、自分の子どもたちにも「枠」を押しつけようとする。結果的に、わたしたちの人間世界は、人間世界とはいうものの、びっしりと細胞がならんでいた潤いのある生体組織がひからびて細胞と細胞のあいだにすきまがあいてくるように、ぼろぼろでごわごわでひからびた、とても生き物の組織とは言えないようなものに変化しつつあるのではあるまいか。

 前から書いている「新卒一括採用」のような「枠」もそう。その結果としてできあがっている官僚組織のような「枠」もそう。政治家と補助金や道路用地買収費などの経済的実体の不明な金の受益者がつるんで構成していた自民党政権時代の政治の「枠」もそう。人間は楽をしたいものだろうが、だからといって、みんなが楽のできそうな「枠」にはいって生きるようになったら、あくまでわたしたちはひとりひとり別々に、この誰にも理解のできない宇宙に生きている身なのだから、「枠」と「枠」のすきまに落ちる人たちが出てくる。そして、その傾向が進み、ひからびた組織がますますひからびて、すきまだらけになったら、その分、すきまに落ちる人たちの数もふえてくるだろう。

 やっぱり、子どもたちは、幼いうちに、地べたや草っぱらの上で、大人がそばについたりせず、子どもたちだけで遊ばせておかなければならないのだと思う。そうして、足の裏や風の当たる頬などで得体の知れない宇宙の実感をつかんでおけば、あとは、方便は方便として受けとめられるようになるのではないかと思っている。

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by pivot_weston | 2012-04-30 12:48 | ブログ

優越感と劣等感

 よく言われることだろうが、これはコインの裏表のようなもの、あるいは、船の喫水線の上と下のようなものとも言えるだろうか。

 コインのように一体化していると同時に、船の喫水線の上と下のように、上のほう(優越感)が大きくなればなるほど、下のほう(劣等感)も大きくなる。

 誰かやなにかに対して引け目や不安をいだいている人は、誰かかなにか、自分のほうが優越していると思える対象をさがして、自分の心の沈み込みや揺れ動きをおさめようとする。

 自然なこと。でも、そんなことばかりしていると疲れる。それに、沈んだら浮かび上がろうとし、浮かんでいるのに沈んだところが目にはいったら、とたんにそこをカバーしようとしたりしていると、心や頭のリソースがそんな、どこまで人生にとって実質的な意味をもつかわからないことに奪われて、だんだん静止している時間が少なくなり、バランスを保つのも難しくなって、そんな人を見ているのに疲れたまわりの人との接点も見出せなくなる。

 大昔のように地べたに押さえつけられたままで絶望的だった時代と違い、現代の自由な時代は、自由でいいのだが、別の面から見ると、ふわふわしていて落ち着きどころを見つけるのが難しい。

 なにも宙に高くそびえる必要はない。なにも底知れぬ海に深く沈む必要もない。海から上がってはだしで地べたを踏んだほうが自分の人生はより確かに実感できると思うのだが、それでも最近は、地べたをはだしで生きるのがかっこ悪いのかなんなのか、あくまで海に舟を漕ぎ出して、なんとか宙に高くそびえようとしている人が多いように思える。

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by pivot_weston | 2012-04-28 23:30 | ブログ

カネやんになったイチローくん

 このところ、毎日、ネットで日本人メジャーリーガーのプレーをフォローしている。

 日本球界でつねにレギュラーを張っていた人たちが4月も終わろうかというこの時期に通算3安打とか5安打とかでもがいているのを見ると、なにやらわがことのように思えてきて力がはいり、「今日は?」「今日は?」と、ついつい毎日見ている。そのレベルではないが、スーパースター、イチローくんも数日前までは「安打」の欄に「0」や「1」がならび、なんや、もうひとつやなあ、と思わされていたが、ここへ来てマルチ安打の日が続き、ようやく昨日、また3安打して打率を3割にのせた……と、低空飛行の日々から上昇へと向かう選手の内面を想像しながら数字を目で追っていると、先日のダルビッシュ投手のデビュー戦を思い出した。

 日米のメディアが大注目のダルビッシュ投手がいきなり先頭打者を歩かせたけど、次の打者は三振にとり、これで少しは落ち着くかなと思ったところで、イチローくんが現れ、その落ち着きかけた膝もとあたりをガツンといった(決してそんなに軽々と打ったようには見えなかったが)。で、その後もガツン、またガツン。イチローくんがいつにもまして真剣な表情でダルビッシュくんのデビューを打ち砕いていたのが印象に残った。

 そうなると、わたしたちの世代としてはどうしても、まだ家にテレビもなかったころ、立教大学を出たニュースターを4打席ともきりきり舞いさせた金田正一さんのことが脳裏によみがえる。別に、とくに言うほどの符合ではないが、そういや、金田さんは享栄商業、イチローくんは愛工大名電で、どちらも愛知県の出身だ。

 イチローくんも金田さんのように「こいつは仕込んだらなアカン」と思ってダルビッシュくんを打ち砕いたのだろうか。

 いや、たぶん、そういう気持ちとは、方向性は同じでも、内容は微妙に違っていただろう。というか、われわれ昭和のガキどもが金田さんにそう思い込まされていただけで、もしかすると金田さんの内面も似たようなものではなかったのかと、いまさらながらに思うのだが、少なくともわたしの目には、あの日のイチローくんは、「ダルビッシュのため」とかなんとか、そんなふうに彼のことは意識せず、だけど根底では意識して、「今日は自分の最高のパフォーマンスを出さなきゃ」「ワンプレー、ワンプレー、ともかく集中していくぞ」と思っていたように見えた。

 熱い選手だ。浪花節風のキャラクターを売り物にする選手は少なからずいるが、イチローくんも、気合いがはいるときにはそういう選手の比ではないくらい気合いがはいる人だと思う。

 WBCのときもそうだった。それに、去年のいまごろも、そうだったのではないかと勝手に思っている。いつもスロースターター気味のイチローくんが妙に春から打ちまくっていた。あ、はいってるんだ――と思った。ワールドカップチャンピオンになった「なでしこ」にかぎらず、去年は日本人選手で、あ、いや、日本人で気合いのはいらない人はそんなにいなかっただろう。

 一野球ファンの勝手な想像。でも、イチローくんはそういうことを前面に押し出してプレーしていく人ではない。かたちではなく、ほんとうの気持ちがだいじだと思っているのかどうかは知らないが、燃えたぎる気持ちも内側でだけ燃焼させ、よしっ、今年は行くぞー、と思っていたのではあるまいか。

 イチローくんには、それが自分にとってどれだけ大きなギャンブルになるかもわかっていたと思う。シーズン200安打を10年連続――それが(もちろん、プレーするときはつねにチームプレーを心がけているだろうが、そこで最高のプレーができるように自分の能力を高めておくモティベーションとして)自分にとって大きな大きな目標だ。

 10年間、自分をつねにコントロールして、そんな、常人ではとてもできないようなことを続けてきた彼には、それがどれだけ危険なことかもわかっていたと思う。でも、「今年は別だ」「ここでやらなきゃ、いつやる」という気持ちもあったのではないかと想像している。

 案の定、さすがのイチローくんも、あくまで人間は人間だから、春から思いのたけを注ぎ込んで爆走したら、燃料が切れてしまった。あとさきのことを考えずに自分のすべてを吐き出すのは、つねに自分をコントロールしてきた彼にとっては不慣れなことだっただろうから、その後は修正しようとしてもうまくいかなかったのではあるまいか。それくらい、気合いがはいったときにはエネルギーが出てしまう人だとも感じている。

 記録はとぎれてしまったけど、まあいいか。自分の国がああいう状態になったのだから、みんなのことを考えれば、自分の記録はまあいいだろう――そんなふうに思っているのではないかと、去年の彼のプレーを見ていて、ずっと思っていた。

 そんな彼を、米国のメディアは「もう年だ」「衰えてきた」と言っているらしい。日本人なら、それまでの毎年200安打した10年間にもまして「やっぱりイチローはすごい」と思える1年だったような気がするのだが、これは一野球狂の思い入れがすぎるというものだろうか。とってつけたようなことをしてはいけないが、イチローくんの去年は、空港に帰ったときに、みんなが黙ってスタンディングオベーションしてもいいくらいの1年だったよな、とひそかに思っている。

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by pivot_weston | 2012-04-27 09:52 | スポーツ

農作物、農耕地中の放射性物質長期モニタリングデータ

 すでにご存じのかたもいらっしゃるだろうが、昨日、霞が関に行き、表題のようなデータがWeb上に公表されていることを教えてもらってきた(それにしても、霞が関は拡声器がうるさい。あと、やっぱり人が多すぎるし、だからなのか、なにかに汲々としているように見える人や、逆に、ロボットのように人間的な感覚をすべて麻痺させているように見える虚ろな表情の人も多すぎる。それに、節電のために一部の照明を消していて室内が暗いのはいいのだけど、わたしたちのような異分子がその暗い室内にはいっていったときの、あの、なんだなんだ、こいつらなんだ、とでもいうように、デスクに向かってうつむいたまま、床を這いずりまわらせるようにして視線をあたり一面にめぐらせるようなリアクションはなんとかならないものか(行くたびにああいうリアクションに出くわすから、たぶん霞が関に共通したものなのだろうが)。まあ、地方から陳情かなにかに来られたかたが大勢いらっしゃるせいもあるのだろうが(でまた、喫茶店にはいったら、ちょっと意外なかたが、やはりなにかの陳情に来られたのだろうが、となりのテーブルでお話をしているのも見かけたが)、やはり、現代人の感覚であの光景を見ると、こら人を半分、いや、3分の1くらいに減らしたほうがいいのではないか、と思ってしまう。いやいや、わたしたちがお会いしたかたは、あの役所街では出色の、ご自身のほうでそんな人減らしを考えているかたで、職員でごった返す食堂でお話をしていても、とてもおもしろく、ついついまわりががらんとしてくるまでお話をしてしまったのだけど)。

 で、本題。

 とりあえず「原子力発電所事故等による土壌・農作物の放射能汚染に関する情報ポータル」のページあたりに行っていただくのがいいのだろうか。でも、ここは項目が多くて、いちいち読むのも面倒なので、わたしが前から知りたかったデータが掲載されているページまでご案内すると、次の「農環研における放射能モニタリングの研究について (リンク集)」のページから「農作物や農耕地土壌中の放射性物質長期モニタリング」のページへ進んでいただきたい。

 やはり、わたしたちは子どものころ、今回の福島原発事故後と変わらない環境のなかで生活していたらしい。で、白米や玄麦中のセシウムが少しずつ減ってきて、検出限界に近づいたころ、また福島原発事故が起こったというわけか(おや、ストロンチウムのほうは2000年を過ぎてから上昇に転じているように見える。なぜだろう)。

 で、軽薄なわたしなどは、さっそく、ほら見ろ、だから過敏に騒ぐことはないんだ、と思ってしまう。でも、お話をうかがった専門家のかたは「2度目」というところに着目していた。なるほど。やはり、専門家の話はちゃんと聞かなければならない。

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by pivot_weston | 2012-04-26 07:58 | ブログ

副首都構想、大賛成

 ふだんは雑誌なんて買わないが、電車の中吊り広告でリチウムイオン電池の特集記事の見出しを見かけたので、『WEDGE』という雑誌を買った。そしたら、軍事アナリストの小川和久さんに談話取材した記事も掲載されていて、見出しが「東日本大震災の反省踏まえ 副首都構想を推進すべし」となっていた。

 いまごろ、こういう人がこんなことを言っているということは、国はまだ、水面下でもこういう動きをしていないということか。だとしたら、ただ給料をもらうだけの公務員稼業もいいかげんにしたほうがいい、と申し上げたい。こんなことは、去年5月9日の「岡山ブント論」にも書いたように、あの震災を体験したら、直後から動きだしていなければならないこと、震災から1年もたったいまごろは、もう現実化へ向けて動きだしていなければならないことだ。分都、あるいは首都移転となると、地価が変動したりなにかしてたいへんなことになる、と言って尻込みしている場合ではない。日本の首都・東京も国際都市。崩壊したら日本がつぶれるだけではなく、世界中に多大な影響が出る(それは日本人のわたしが思っているだけのことで、実際には、いつのまにか大地震で崩壊しても世界にほとんど影響の出ない都市になっているとしたら、それはまたそれでなんとも寂しいことだが)。人間の集団でも、自分の責任を果たせない人はそこにいる資格がないのと同じで、国の集団である世界でも、自分たちの責任を果たせない国はそこにいる資格がない。震災対応で忙しくて、という言い訳が通じる話でもない。大地震を引き起こす地殻のプレートは、あ、そう、じゃあ地震を起こすのを少し待っとくわ、なんてことは言ってくれない。あれだけの大災害を体験しながら、まだこの国は惰眠からさめようとしないのだろうか。

 わたし(56歳)くらいの年代の人なら、その惰眠の一部始終を見てきたと思う。わたしも、いま思えば瞬間的にではあったが、仙台で地震や津波を研究していた人たちの世界のへりのあたりをかすめて生きてきたので、学問の世界が警告を発していても、自民党時代の政治家や地域の有力者たちがいっしょになって、いいんだ、いいんだ、そんなのはただ学者が言っているだけのことで、現実には起こらない、と言ってその警告を無視するのを見てきた。原発についても、少なからぬ人が反対していた(わが家の子どもたちには申し訳ないが、実はわたしも、青年の青い心で、あんなものをつくるのならもうこれから生まれてくる子どもたちに未来はないのだから、子どもはつくるまいと思っていた(現実には、動物的本能に負けて、3人もつくっちゃったのだが))のに、自民党の政治家や地域の有力者たちがブルドーザーで押しつぶすようにして反対の声を押しのけ、次々とつくってきた。当然その背後には、自分たちの目の前の暮らしの安寧を考えるだけで、「先生さま」に従うだけだった官僚たちもいただろう。なにもかもが、この世界はおろか、地球や宇宙の現実を無視して、狭い視野でただ目の前の身過ぎ世過ぎをうまくやろうとするだけの無責任体制だったと思う。

 もうそこから脱して、きちんと現実を見つめ、(相手が宇宙や地球のことなので十分に果たせるかどうかはともかく)責任をもつ国にならなければならない。そうしないと、世界から人を集められるだけの魅力もできないし、経済も上向かない。身勝手に環境を破壊するばかりでは人間は生きていけない、子々孫々まで人間が生きていけるようにするためには二酸化炭素の排出にも気をつけなきゃ、と本気で思っているのなら、首都の機能だって地球の現実に合わせて再構築し、地震国の持続可能な社会のモデルを示していかなければならない。

 前にも書いたことがあるけど、わたしたちが若いころには、この国では、学問の世界はどこか「絵空事」「お遊び」のように思われていたフシがある。でも、わたしが見てきた範囲では、(政治に取り込まれていない)学者のみなさんのほうが(「変わり者」「堅物」などと言われようが)、選挙の票ほしさに右往左往するような政治家よりはるかに筋が通っていて、この国のことや国民のことも真剣に考えていたように思う。学問は余裕があるから手慰みにやっていることではない。本来、国家という統合システムのひとつのコンポーネントとして、他のコンポーネントと自由にインタラクションさせながら、有機的に機能させていくべきものだ。政治家も官僚も、もう今日安楽に暮らせればいい、というような甘えた姿勢は排除し、大きな視野で責任ある仕事をしてもらいたい。

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by pivot_weston | 2012-04-25 06:37 | ブログ

政府省庁の職場でもDV対策に乗り出した米国(メルマガ配送予告)

 週刊メールマガジン『米国政府情報』(右のバナー)第43号「政府省庁の職場でもDV対策に乗り出した米国」は、本日13:30配送予定です。

 オバマさんが全米大学バスケットボール選手権の女子の部で4年ぶりに優勝したテネシー大学のコーチに大統領自由勲章をあげることにしたみたいです。なにも、コネティカット大学と張り合って何度もテネシー大学を優勝に導いてきたその手腕だけが評価されたわけではなく、ご自身がアルツハイマー病の初期症状を発症しながら、それを公表し、明るく、強く、フェアに闘いながら生きている点も評価されたみたいです。

 その発表を読んだとき、ふと、「原則を大切にする国」という言葉が頭に浮かびました。

 子どものころは、西部劇にも、ケネディ大統領の演説にも、米国のものにはいろんなところに、フェアの精神をはじめ、さまざまな原則が盛り込まれていました。しかし、その一方で、わたしたちアジア人に対するものも含めて、さまざまな差別があることが見えてきて、ベトナムでも大勢の人を殺しているのが見えてくると、あ、なんだ、米国は日本より進んだ国ではなく、新興の成り上がりの遅れた国なのか、だから声高に原則を叫ばなきゃいけないのだなと思うようになったものです。

 でも、それから半世紀ほど生きてきて、現状を見るとどうなのでしょう。

 わたしたちは、米国とは違って長い歴史のなかで「和」の精神を養い、争いごとのきらいな、より進んだ国になっていると思っていました。しかし、それはただ日本全体で親方・米国から「日本」という公共事業を受注して、あとは学校で「かしこい」と言われた子や「かしこい」と言われる家の子あたりに「いい」と言われる大学にはいらせ、「いい」と言われる企業や官庁に就職させ、ただの事務員として国や社会を管理させてきて、みんなで「役人根性」のようなものを共有してきたのがそう見えていただけではないのかとも思えます。

 考えてみれば、日本の国民だって、その多くは65年ほど前に米軍によって解放された身。キング牧師たちの平和な闘いを、わたしなどは遅れた国のこととして、かわいそうに思いながら見ていたけど、わたしたちはなにもせずにプレゼントされた「解放」を実質的なものにするためになにをしてきたのでしょう。実はなにもしてこなかったために、差別もなにも、実質は65年前のまま残っていて、わたしたちはいまでも「平和」や「自由」の裃をはおっているだけではないかという気もします。

 世のなかが活気を帯び、よその人から見ても魅力的な世界になっていくには、対流が必要でしょう。いろんな問題、いろんな不正や腐敗があるにしても、オバマさんはその、より健全な社会には当然あるはずの対流現象のなかで、下から上へ上がってきた存在でしょう。日本の「どじょう」さんもそうかもしれませんが、そのあたりにちっとも注目が集まらないあたりにも、この国がかかえる深刻な問題が隠れているような気がします。去年の「なでしこ」のように、どんどん世のなかに対流を起こす人たちが出てきてほしいものです。

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シノワーズの家具

 2日続けての「家具」ネタです。

 昨日もお伝えしたように、「吟品」のチンさんが故郷・台湾に引っ越すことになり、西新宿7丁目時代からお店のなかに集めてきたシノワーズ(中華風)の家具・調度品類(下の写真参照)を整理しようとしています。引っ越すのは7月ごろになりそうなので、まだしばらく時間はあるでしょうが、ご希望のかたがいらっしゃったら、「吟品」の問い合わせフォームからお問い合わせください。


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by pivot_weston | 2012-04-21 07:10 | ブログ

キースの家具

 長くお世話になってきた「吟品」のチンさんが息子のエレンくんを故郷・台湾のイマージョンスクール(immersion school)に入れるために引っ越すことになった。

 そんなこんなで、頼まれてイギリスのWharfside Group of Companiesという家具屋さんに連絡をとっていたら、ここがなかなかいい対応をしてくれる。ロンドン・イーストエンドのハックニーの家具職人からかぞえて3代目のあるじ、Jonathan Stewartさんではないが、Keithくんという人がiPhoneからもすばやくメールを返してくれる。

 結局、チンさんのほうの商談は不成立に終わったが、あまりにいい対応をしてくれたので、じゃあ、日本でもあんたたちのことを紹介しておいてあげるよ、と書いたものだから、紹介しておくとしよう。

 写真を見てもなかなかいい感じの家具だけど、Jonathanさんはそうとうに誇りをもって家具づくりに取り組んでいるみたいだ。スカンジナヴィア、オランダ、ドイツ、オーストリアと組んでいるというのは、素材の関係だろうか。このAye meeting room chairという椅子、4脚を輸入するとしたら、ざっと75万円ほどらしい。ご興味のあるかたは、どうぞ。

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by pivot_weston | 2012-04-20 08:29 | ブログ

原発再稼働、ひとつの視点

 にぎやかな「原発再稼働」論議であまり聞こえてこないことを書いておきたい。

 福島で起こっていることが、福井でも起こっている。

 東京(関東)で起こっていることが、大阪(近畿)でも起こっている。

 この2行の上と下の地名はそれぞれワンセットだが、どちらの組み合わせにも共通していることがある。福島は関東、つまり東京電力の管内ではなく、福井も近畿、つまり関西電力の管内ではない。それなのに、福島も福井も何十年も前から関東や近畿の人たちの生活を支える電力供給基地にされてきて、そのあげくに福島で事故が起こると、福井も「危ない」「危ない」と言われ、これまでよその地域の危険を負担し、その地域の一部となって形成してきた経済を「勝手に再開するな」と言われて停止させられている。

 1970年代なら、都市が自分たちの勝手で田舎を利用するだけ利用する構図も許されたかもしれない。だが、2012年に生きるわたしたちも、その構図をそのままにしておいていいのだろうか。今後の「原発」のありかたを考えるときには、ただ自分たちの「安全」「危険」を考えるだけでなく、こういう点にも考慮が必要だ。

 このブログでは前から書いていること。原発で出る放射性物質は電力利用者の排泄物だ。東京がある関東も、大阪がある関西も、なにかあると今回の福島のようになる危険な施設をよその地域に押しつけ、発生した電力は利用するだけ利用し(しかも、東京や大阪は大株主として危険な運営を続けてきた電力会社の運営にも責任を負っていたのに)、事故が起こると、みなただの消費者然、被害者然とし、なかにはまったく関係のないガレキまで、危ない、排泄物がついているかもしれないと言って受け入れを拒否するところまで出てきて、これまで自分たちの暮らしの危険を陰で負担してくれていた地域に生きていくための仕事がなくなろうとしても、そんなことより自分たちの身の安全のほうが大切だと叫ぶ。かりに危ないものが付着しているとしても、それはあなたの排泄物なのだよ、と言いたくなる。人体の排泄物に置き換えると、いまわたしたちのしようとしていることがよくわかる。

 これが戦後政治の現実だ。いまのヒステリックな「原発再稼働反対」の動きは、施設を設置するときの大都市の身勝手な姿勢が、廃止する局面で逆映しになったものにすぎず、まったく昭和そのもののように感じる。

 もちろん、原発立地地域は危険を負担する代わりにもらうものをもらってきた。でも、それで補償できる危険だったとしたら、福島に同情する報道はいらない。福島に同情する報道が1年たっても繰り返されているのを見ると、そんなもので補償できる危険ではないことはわかったのだろう。それでも、国が被災地の人に頭を下げているところは見かけても、関東・関西の統治者や報道関係者が立地地域の人たちに頭を下げているところは見かけない(滋賀と京都の知事は、おとといの声明に立地県への「感謝」を盛り込んだみたいだが)。災害時には、たいてい自分にふりかかる責任から巧みに逃れようとする人がいる。今回の震災では、国を除く統治者とマスコミがみないっせいにそちらへ振れ、立地責任者が陰にすっこんだことが、なにより内政を停滞させる原因になっている。

 わが身が大切なのは誰だって同じ。でも、自分が理不尽な負担をかけていた人たちが生きていくのが難しくなっているとなれば、少しくらいわが身の安全ばかり叫ぶのを控える人が出てきてもおかしくないのではないだろうか。それなのに、まだテレビのニュースあたりでは、滋賀や京都が「被害地元」になることがたいへんなことのように報道されている。近畿が近畿の電力発生施設で事故が起きたときに「被害地元」になるのはあたりまえのことではないのか。順序から言えば、電力を利用するわけでもないのに施設の危険性を負担している地域が「被害地元」であることを問題にするほうが先ではないかと思うが、その立地地域の人たちが、言いたいことがあっても、顔をぼかしてもらい、しかも言葉まで濁しているのを見ると、暗澹とした気分になる。

 わたしは、国民の多くがほんとうにもう原発はいらないと考えているのなら、原発を再稼働しながら、政府が原発完全廃止までのロードマップを作成し、そのロードマップに従って段階的に廃止していくのがいいと思う。都市の住民がそれまでの危険も負担するのはいやだ、立地地域の住民が明日食べる仕事がなくなっても、危険なものは危険なのだからすぐに廃止すべきだと言うなら、これまで立地地域が生み出してきたエネルギーで建設された都市もすべて破壊し、チャラにすればいいと思う。筋を通すとすれば、そういうことになる。

 おとといあたり、そんなことをいろいろと考えているうちに、そうか、福島の浜通り一帯は、地元の人が同意してくれれば東京都が買って飛び地にしたらどうだろうと思っていたら、なんとも皮肉なことに、その東京都の知事さんが別のところを買うと言いだした。目線の先に見ているものが人間かどうかがよくわかる。国土を確保するのはだいじなことだろうが、そんなことは国土の第一責任者たる国家がやればいいこと。老眼になると近くのものが見えなくなるのかもしれないが、いま目の前に自分が負担すべき責任があるときに、遠くのことで問題提起をするのは、自らの責任をごまかそうとする行為ととられてもしかたない。国家が道を過つのは、自らにふりかかる責任を受けとめる胆力もないずるい統治者がウケねらいに走るときだ。

 マスコミではしきりに「絆」や「つながること」の意味が喧伝されている。でも、それが、自分が「いい人」として被災地の人とつながることだけを意味し、みんなで新しい明日へ向かって生きていくために原発立地地域の人たちといましばらくの危険を分かち合うことは意味しないとしたら、それはいったいなんなのか、とも思う。大地震が起こったら危険な原発を動かしてひとときの甘い生活にひたってきたのは、なにも3年前に政権を受け継いだ民主党政権だけの問題ではなく、遠い昔からこの国の国民全員が総意としてやってきたこと。今回、民主党の人たちは誰よりも身に染みてよくわかったと思うが、統治者は過去にも責任をもたなければならない。過去を切り離してウケのいいことばかり言うのは責任ある統治者とは言わない。もっと多くの国民がこの国の歩いてきた道を現実として踏まえる視点をもたないと、ものごとはなにも解決しないと思うのだが。

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by pivot_weston | 2012-04-19 06:15 | ブログ

米伯の双発エンジンで一体化へ向かう米州(メルマガ配送予告)

 週刊メールマガジン『米国政府情報』(右のバナー)第42号「米伯の双発エンジンで一体化へ向かう米州」は、本日13:30配送予定です。

 先週「あ、またまた、なんでこの時期に? アホッちゃうか」というような受けとめかたをされた鳩山元首相のイラン訪問ですが、あれは、もしかすると元イラン大使の孫崎享さんあたりの助言も受けて、もしかすると誰かと誰かが大ダヌキになったりしての、かなり慎重に図られたものだったのでしょうか。

 イランも、先に米国と電撃交渉した北朝鮮みたいに、6か国協議に参加しましたが、あちらの6か国協議には、日本ははいっていません。英、仏、露、中、米の国連安保理常任理事国5か国とドイツをプラスした「P5+1」で、日本は希望してもその輪に入れてもらえないらしいです。EIAの2011年1~9月の「イラン産原油の輸出先」のグラフを見ると、中国を除けば、いずれもイラン産原油の輸入が止まっても日本ほど大きな影響を受けそうにない国ばかりで、交渉相手のイランと、途中でついアタマに来て、気軽に「んじゃあ、封鎖!」「あ、いいよ」なんて売り言葉に買い言葉を飛び交わせる可能性もありそうでしたが、そうなると、いまの原発停止の流れもあるから、日本はたいへんなことになるというので、表面的にはあんな感じだったけど、実はみんなでつるんでなにかをやってきたのかもしれません。

 まあ、その場合には、実際の成果は絶対に表に出ないでしょうから、よくわかりませんが、かりにそうだとすると、「なんであの人を外交担当の最高顧問に?」なんて言われていた鳩山さんのあのキャラクター、過去が、米国をケムに巻くにはぴったりだったのかもしれません。

 ま、あくまで想像にすぎませんが、北朝鮮と抜き打ち交渉されたり、ドイツは混ぜても日本は混ぜなかったりして、米国に好き勝手をされていたら、エネルギー政策を建て直さなくちゃならないこちらの国がめちゃくちゃになるから、それくらいのことをやってくれていたら、少しはホッとできるのでしょうがね。

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