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国会見聞記(14)

(これは不定期連載でお届けしている記事です。流れがわかりにくい場合は、右の「カテゴリ」の「国会見聞記」をクリックし、前の記事を参照してください。)

 彼の秘書をしているあいだにいちばん「やっててよかった」と思えたことは、とてもささやかなことだった。おそらく、長く秘書をやっておられるかたなら、何度も処理してこられたことだろう。

 彼の選挙区内に、ひとりの若者がいた。すでに結婚していて、お子さんも生まれていた。当然、靖国参拝を希望したときのわたしの父のように、奥さんのご両親も孫の顔を見に来たがった。でも、それまではそれが実現していなかった。奥さんが中国出身のかただったからだ。ご両親がお住まいの近くの日本領事館に日本への渡航ビザを申請したのに、いつまでたってもそのビザがおりなかった。そこで、その若者が「なんとかなりませんか」と言って、彼の事務所へ連絡をとってきていた。

 前任の秘書さんから引き継いだ何十件もの案件のひとつだ。キャビネットにびっしりとならんだファイルを片っ端からのぞき、そのひとつひとつに、いまできることを少しずつやってはまた次のファイルへ移るということを繰り返しているうちに、この案件にぶつかった。

 ファイルに記載されていた携帯電話の番号に電話をかけると、少し鼻にかかったような、やや間延びのした若者の声が聞こえてきた。なにやら頼りなさそうにも聞こえるし、どこか気持ちの焦点がぼやけているようにも聞こえる。正直に言って、このときにわたしが受けた印象は、すぐに「ほいきた」と応じたくなるものではなかった。あとになってみるとたいへん失礼な話なのだが、ご本人が「義父母さん」とおっしゃっているかたが、実はそうではない可能性だってあるのではないか、場合によったら、国会議員を利用してなにかをしようとしている可能性だってあるのではないか、とすら考えた。

 でも、ともあれ、前任者から代わったのでもう一度話を聞かせてほしいと言い、あらためて事実関係を確認してみた。前述のとおり、単純な話だ。中国在住の義父母さんご夫婦が、日本で結婚して出産した娘や孫やその家族に会いたいと思って最寄りの日本領事館に日本への渡航ビザの発給を申請したが、発給してもらえなかった、というだけの話。日本というぜいたくな国に住み、ビザのややこしい国には行ったことのなかったわたしには「なんで?」としか思えない。

 たしか、中国の人が日本へ来るには「貯金証明」のようなものが求められると聞いていたので、そのあたりに問題があるのかなと思い、あまりあからさまに訊いては失礼かと思いつつも、それとなく会話のなかでそのあたりのことをさぐってみたが、どうやらそういう問題でもなさそうだった。

 でも、その若者は「お金を払わなかったのがいけなかったのでしょうか」と言って、「悔しいんです」という言葉を何度か繰り返した。人間、得体の知れないもののことを語るときは、言葉があいまいになる。そして、聞き手の側にその背景を類推してあいまいさを埋めるだけの知識がない場合には、話の趣旨が伝わらない。なにか、いろいろと説明をしてくれていたが、こちらには、まだ中国でのビザ発給の手続きがなにもわかっていなかったので、その「説明」も十分に理解できず、最初の電話のあとでは、「なんのお金だろう?」という疑問と「悔しい」という若者の気持ちだけが頭に残った。

 処理しなければならない案件は何十件。この案件にだけかかりきりになっていれば、おそらく翌日にはもう道が開けていたのだろうが、申し訳ないことに、そこまで確認すると、あとはいったん置いて、ほかの案件の「いまできること」をかたづけ、そうしてファイルを1ラウンドすると、またこの若者に連絡をとるというかたちで、その若者と知識も準備も不足した進展のない会話をあと1回か2回は繰り返しただろうか。

 あるとき、またそんな会話をして電話を切ると、事務所の女性秘書が「その人、大丈夫ですか?」とたずねてきた。もしかすると、(こちらの事務所の業務をかく乱しようとする)選挙の敵陣営のまわし者かもしれないから、相手にしないほうがよいのではないかと言うのだ。なるほど、可能性はすべて想定しておかなければならない。最初に電話で話をしたときに受けた印象を思い出し、何度か電話で話をするうちに頭のなかにできかけていた「純粋に妻やわが子をその父母兼祖父母と会わせたい、義父母をその娘や孫と会わせたいと思っている若者」のイメージを意図的にかき消してみたが、そうして注意をしてくれた女性秘書から「ね、そうですよね?」と問いかけられた議員の彼までが顔をしかめて「おう、そんなやつ、わしは知らんで。ほっといたほうがええんとちゃうかあ」と言うのを聞くと、なんか、ちょっと違うのではないか、という気がしてきた。

 前任者の秘書さんがいったん受理していた案件だ。相談者との対話も、わたしが行う前に1度ならず行われていた形跡があった。それをどうして、いまになって不審がるのか、というところが、まずよくわからなかった。それに、この案件を処理したところで、こちらにどういうマイナスがあるのだろう、というところもよくわからなかった(もちろん、「義父母さん」が実はそうではなかった場合には、いろいろと問題があったのだろうが、「進展のない会話」を繰り返したのも、ひとつにはそのあたりの感触を確認するためで、そのころにはもう、どうやらそういう可能性はなさそうだと判断していた)。国民の問題を処理する国会議員の事務所が、妙な警戒心からその業務を過度に萎縮していたらどうなるか、ということも考えた。もしかすると、なんらかのリスクがあるのかもしれないが、多少のリスクは覚悟して、堂々と選挙民の申し出と向き合っていかなければならないのではないか、ということも考えた。

 そこで、事務所を出たときに、外から携帯電話で外務省のビザの担当者に連絡をとってみた。問題の核心は、わかってみるとなんでもなかった。中国からのビザ発給の仕組みをご存じのかたには、よくおわかりだろう。中国では、ビザの発給を申請するときに、発給機関である日本の領事館などと申請者とのあいだに別の中国側の機関が介在する。ひとつと特定された機関ではなく、複数あり、そういう機関のなかに、手数料かなにか、名目は知らないが、ビザを発給してもらいたいならこれだけよこせ、と法外な金銭を要求するところがあるらしいのだ。

 電話に出てくれた外務省の担当者のかたは、いかにも行政マンらしく、そういう卑俗的な表現は使わなかったが、それでも明確に、そういう趣旨のことを言い、「いろんなことがあるらしいので、なにかありましたら、すぐに連絡をください」と言った。どこがどうだからと言うのは難しいが、なんとなく、おう、いいね、この外務省の人、と思わされる対応だった。「なにか」があってこちらが連絡をしたら、外務省ないしは現地の領事館がどういう措置をとるかは言わなかったが、そうとなれば、こちらがやるべきことは、相談者の若者に、面倒だろうがもう一度義父母さんにビザ発給の申請を出すように連絡してもらい、その義父母さんのお名前などの情報を外務省の担当者に連絡して現地の日本領事館に伝えてもらうことだけだった。

 そして、そのやるべきことをやると(その間のその外務省のかたの対応もとてもうれしくなるようなものだったが)、なんでもない、すぐにビザはおりた。相談者の若者からそれを知らせる電話がかかってきたときには、最初に「やや間延び」がしているように感じたその声が、ふわあっととろけそうな声になっていた。おそらく、最初にわたしがその若者の人となりを的確に想像することができなかったのは、わたし自身に素朴さが欠けていたからだろう。これだけいろんな思惑が複雑に絡み合う現代においても、あそこまで素朴な気持ちを保存している若者がいることを想定していなかったからだろう。「おお、それはよかったですね」と何度言っても、そのたびにまた礼の言葉を繰り返し、なかなか電話を切れなかった。

 わたしは別に、特別なことをしたわけではない。ちょこちょこと電話をかけ、相談者と外務省の担当者のあいだにはいって連絡をとっただけだ。でも、それで、たったひとりかもしれないが、選挙区の若者が、まぎれもなく、電話をなかなか切れないほど喜んでくれていた。だからといって、中国の日本領事館の周辺にいる中間搾取機関の利益は減らしたかもしれないが、その若者に不公平に便宜を供与したわけでもなく、ほかの日本国民に不公平に負担をかけたわけでもない。電話の向こうでいつまでもはずむ若者の声を聞きながら、要はこういうことを積み重ねていくことではないか、ということを強く感じさせられた。

 その若者の喜びようは、彼や女性秘書にはあまり伝えなかった。顔をしかめて「おう、そんなやつ、わしは知らんで。ほっといたほうがええんとちゃうかあ」と言うような人間には、伝えようという気が起こらなかった。

 それでも、しばらくすると、その若者から事務所に封書が届いた。礼の文面とともに、ビザのおりた義父母さんが若者の家まで来て、みんなで彼のお子さん、つまり、義父母さんのお孫さんを囲んで楽しいひとときを過ごしているようすを撮影した写真が何枚もはいっていた。それは、まず女性秘書が受け取って、わたしのほうへまわしてくれたものだったが、彼女はなかを見ようとしていなかった。

 ささやかな暮らしを営む選挙民のひとりが暮らしのなかで問題にぶつかって、国会議員の事務所に連絡をとってきた。若者にとっては、相談する国会議員が民主党の議員だろうが何党の議員だろうが、そんなことはどうでもよかったはずだ。自分の当然と思える願いを妨げるものが国と国のあいだにある。だから、国会議員のところに相談した。ところが、その国会議員の事務所のほうでは、支持者や有力者がなにか言ってくると、はいはい、ほいほいと話に応じるくせに、「ささやかな暮らしを営む選挙民のひとり」からの相談となると、その背後にあるものを疑い、「ほっといたほうがええんとちゃうかあ」と言う。その構図を頭のなかに思い描くと、本来なら国民のことを思って政治をするべき政治家が、自分たちの利益や都合のほうへばかり顔を向け、一般の国民がないがしろにされているような気がして、なにやらいたたまれない思いがした。

 だから、その日は、帰るときに、わざと、わたしのデスクの上にこれ見よがしにその封書にはいっていた便箋と写真をひろげたまま帰宅した。それでも、思ったとおり、翌日に出勤したときには、誰もそれを見た形跡はなく、誰もその手紙のことを聞こうともせず、相談をもちかけてきていた若者の希望が満たされたかどうかを気にする会話すらなかったので、わたしはもう黙ってその封書をしまった。

 国会議員の秘書をやってみて、わたしはつくづく政治の現場には向いていない人間なのだろうとは感じた。でも、あの若者が中国の中間搾取機関に申請をブロックされたときに悔しさを感じたように、わたしも、喜びのはじける彼の手紙に、事務所の誰も見向きもしようとしなかったときに、強い悔しさや憤りを感じた。

 政治の現場に向かないわたしから見ると、どんなに大きな予算をつけることより、まず第一には、ひとりひとりのささやかな気持ちに応えることを積み重ねていくことのほうがだいじではないかと思うのだが。

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by pivot_weston | 2012-03-31 18:21 | 国会見聞記

チビ太のアタマ

 ゲットした。

 四国の香川県に多いまんまるいお山がふたつならんでいるようにも見える。妖艶な熟女のお尻のようにも見える。

 でも、これ、チビ太のアタマ。正真正銘、チビ太のアタマ。

 BNN新社刊『DESIGN BASICS』の打ち上げ会があった。

 娘のようにかわいいエディター、ミズ・イシイと、あとはおじさん翻訳者の二階堂行彦さん、小川晃夫さん、それにわたし。

 新宿駅東口のミズ・イシイ御用達の居酒屋で腹ごしらえをしたあと、昔の都電道を歩いてゴールデン街のナオちゃんのお店「ナベサン」へ。

 ありゃ、きれいになった!――と驚きながらトイレから出ると、いつものんびり飲んでいるラピュタ阿佐ヶ谷の才谷さんが帰ろうとしている。

 ありゃ、もうお帰り?――と驚きながら、ひとり残ったほかのお客さんの背後を爪先だってすり抜けてカウンターの奥の席にすわった。

 よもよも、よもよも……娘とおじさん3人の会話が続く。

 ふと、となりにすわった小川さんの目が光った。「ナガタニさん」とナオちゃんが言ったときだ。

 世間知らず、漫画知らずのわたしには、にわかにはピンとこなかったが、その「ひとり残ったほかのお客さん」は、誰あろう、鬼才・赤塚不二夫画伯のブレーンと言われた長谷邦夫画伯だった。

 翻訳の話をしていたときは、娘とおじさんふたりの会話にとろんと加わっていた小川さんの言葉が、にわかにシャープにとがりだした。

「ボク、バカボンのパパみたいになりたかったんですよ」「もーれつア太郎はねえ……」矢継ぎ早にたたみかける小川さんの言葉に長谷画伯もエナジャイズされ、ナオちゃんが出してきた茶色い紙にウナギイヌを描きだした。

 で、ついでに語ってくれたのが、チビ太のアタマ誕生秘話で、ついでに描いてくれたのがその妖艶な熟女のお尻、のようにも見えるチビ太のアタマ。

 実は、あのアタマ、小学生のころによく描いていたアタマだった。だから、小川さんがウナギイヌを貴重な貴重なお宝のようにいただいたあと、わたしもそのチビ太のアタマをそろりと手を出していただいた。

 で、いまは、そう、ひとりの部屋でニタニタと口もとに抑えても浮かんでくる笑いを浮かべながら、その熟女のお尻を見つめている。

 ひひ、タレント・タモさんの誕生秘話といい、おもしろかった、おもしろかった。あんな楽しい一夜の入口を設けてくださったミズ・イシイ、ありがとう。先にひとりで帰ったけど、ちゃんとうちまでたどりつけたかなあ。

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by pivot_weston | 2012-03-29 18:39 | ブログ

道のおもしろさ

 久しぶりに吉祥寺に行き、水辺で育った人間にはなんとも落ち着く池のほとりを歩いたら、帰りに、あゝ、なんだ、と、6年前に一時期を過ごした街があるのを思い出し、急きょ電車を降りて歩いてみた。

 そうそう、早稲田通りからくねくねした道をはいっていくと、6年前の夏、まだソージツの白いユニフォームを着て甲子園のマウンドでハンカチを使っていた斉藤佑ちゃんの姿が映し出されていたテレビのわきで、「お、今年のソージツはいいねえ」と店主のおじさんと話をしたラーメン屋があり、たしか、わたしたちの商売にとっては貴重な文房具屋さんがあったはずのひっそりとした日大通りをわたると、いかにも井伏鱒二さんたちが住んだ街らしい図書館があり、そこの角を曲がると、ちらちらと、いまではすっかりなつかしい存在になった街の本屋さんや古本屋さんがある道に出て、小さなお鮨屋さんがぽつりぽつりとあり、一段低くなった中華屋さんの店内を右手に見て、墓地のわきの、かすかな上り坂をのぼっていくと、駅に着く。

 あゝ、やれやれ。目に映る景色はそんなに変わっていないように見えるけど、見ているこちらの体のなかが、その老化現象のひとつのヘルニアの痛みにさいなまれ、足取りには、6年前にはこんなじゃなかったよな、と思える違いがありありで、ため息がもれる。

 でも、疲れた、ひと息つきたい――という気持ちは、かつて、ひと息もふた息もついていた街の記憶をよみがえらせ、あ、そうそう、駅前の、この中杉通りの向かいのスーパーの陰に、たしか、わたしたちの世代の神経にはやさしいカフェがあったよな、と思い出し、寄ってみた。そう、窓際件壁際にひとつ、ブランコになった席のあるカフェ。6年前のある日には、そこにかけたら、となりで日本人の女の子がフランス人の男の子にフランス語を教えてもらっていたよなあ――などということまで思い出しながら、せっかくここへ来たのだからと、向かいのタバコ屋で買った、ふだんならわたしの体には少々きつめになっているおいしいタバコを、しっかりと味わって帰ってきたのでありました(健康と長寿を愛するみなさん、失礼!)。

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by pivot_weston | 2012-03-28 14:48 | ブログ

景気回復へのあみだくじをたどる(メルマガ配送予告)

 週刊メールマガジン『米国政府情報』第39号「景気回復へのあみだくじをたどる」は、本日13:30配送予定です。

 いまはソウルに来ているらしいオバマさんですが、先週も、水曜日と木曜日の2日間でネヴァダ、ニューメキシコ、オクラホマ、オハイオをまわって、海外原油に依存せず、環境の時代にも適合した新しいエネルギー政策を説いてまわっていたみたいですね(小型原子炉の開発もそのポートフォリオに含まれているみたいですが)。

 今週の「オバマ大統領の発言ひろい読み」では、演説のなかのちょっとおもしろい場面をとり上げてみました。

 個人的には、昨夜Liveで流れていたホワイトハウスの家庭菜園でのミシェル夫人の全米の子どもたちとの種まき風景もなかなかおもしろかったですが、それは、ま、来週号のどこかでとり上げることができるかどうか……。

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国会見聞記(13)

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 もう1度は「靖国」にからむ体験だ。

 各都道府県の戦没者の遺族会のみなさんが靖国神社の参拝に来られたときに、国会議員がごいっしょして、あいさつをする。いまではすっかり国会議員の人気取りのイベントみたいになっているが、おそらく、終戦からまもないころには、そうではない、自然な思いの合流のようなものもあったのだろう。

 このときも、彼は前日の夕方、「代わりにあいさつしてくれるか。文章を書いてって、読み上げてくれたらええんや」と言って地元かどこかへ帰っていった。俗に言う「革新系」出身議員は苦手なのだろう。最後に「おれの身内にも戦争に行った人はおるんやけどな」と言って、ふん、と笑ったところに、そのあたりの内面が表れていたが、これはわたしにとってもさまざまな思いの去来する仕事だった。

 過去に靖国神社へ行ったことは1度だけあった。長女、次女に続いて長男が生まれたときだ。すでに何度も東京に来ていた父が、また上京してきたとき、妻が「おとうさんが東京見物をしたいんだって」と言った。そんな、観光名所などにはまったく興味がないはずの父だったので、意外に思ってそばにいた父のほうを見ると、顔をそむけたまま「わしもいっぺん東京見物がしとなっての」とつぶやくように言った。どこか照れくさそうな態度にも見えた。

「東京見物? どこ行きたいの?」ときくと、父より先に妻が「靖国神社だって」と言って、わたしの顔を下からのぞき込んだ。「ヤスクニィ?」まったく思いも寄らぬ返答に、ついそんな声をあげてしまった。

 第2話にも書いたように、シベリア抑留帰りで(実際には中央アジアのカラガンダの炭田で石炭を掘らされていた)、本棚にマルクスレーニン主義の教科書をならべていた父だ。「な、なんで靖国に?」と問い返すと、顔をそむけたまま「わしもいっぺん行てみとなっての」と、やはりどこか照れくさそうな、そしてまた、どこかうれしそうな顔で、静かに言った。

 そこまで聞くと、もうあとは問い返さなかった。父は三男。長兄もシベリア抑留を経て復員していたが、次兄は兵庫県の川西の飛行場から、西宮かどこかにお住まいだった彼女の家の上空を旋回して「アディオス」を言ってから熊本か鹿児島の連隊に移り、そのあと南方へ行って、インドネシアのアンボイナ島から飛び立った直後に撃墜されていた。

 子どものころ、わが家の墓地のいちばん取りつきの、いちばん新しくてきれいな墓石がその「兵隊のおっちゃん」のお墓だと教えられ、だれかにその側面に刻まれているアンボイナ云々の話を読んで聞かされていた。家の座敷でも、毎朝目がさめたときも、昼間にそこで遊んでいるときも、夜眠るときも、鴨居の上から軍服姿でわたしたちを見下ろしていた(修正された写真だったのだろうが)端正な顔立ちのおっちゃんだ。早世した人にはたいていジェイムズ・ディーン現象のようなものも起こり、近所の誰もが、あの人は偉かった、かしこかった、男前だった、強かったと言って持ち上げていたおっちゃんでもあった。

 当然、子どもたちのあいだではヒーローになる。だらだらと「平和な時代の子ども」をやっていると、乃木将軍を崇拝する祖母から「こらっ! 兵隊のおっちゃんはなあ……」と言われてその模範的な人物像を吹き込まれていたし、お墓参りの季節が来ると、姉と「兵隊のおっちゃんのお墓はわたしがやる」「いや、ぼくがやる」と言って、いちばんきれいなヒーローの墓掃除役を争っていた。だから、わが家に来てまもないテレビでドイツ映画の『橋』やドラマ『魚住少尉命中』を見て人間が死ぬというのはどういうことかを考えさせられたときも、真っ先に頭に浮かんだのは「兵隊のおっちゃん」のことだった。

 その後、遠足で行った観光地のお寺にずらりとならんだ「傷病兵」の人たちを見て、父の部屋の壁に貼ってあった満州の地図を見て、本棚にならんだマルクスレーニン主義の教科書を見て、テレビドラマの『コンバット』をまねて畑の畝と畝のあいだで匍匐前進をしながら戦争ごっこをして、小学校からの下校時には、はるか上空をベトナム(実際には沖縄だったかもしれないが)の方向へ向かって飛んでいく米軍の爆撃機を見上げ、毎日のようにテレビのニュースに映し出される「北爆」の映像を見て、反戦運動を見て、学生運動を見て育った末に、結局は戦争にまつわることはすべて拒絶するような大人になっていたが、それでもやはり「兵隊のおっちゃん」は「兵隊のおっちゃん」だった。

 だから、最初に父が靖国神社に行きたがっていると聞いたときは驚いたが、すぐに、そうか、やはり父のような人でも靖国の神殿に兵隊のおっちゃんの影を求めたくなるものなのか、と思った。いや、もしかすると、父の脳裏には、満州やシベリアでともに過ごした戦友たちの顔も浮かんでいたかもしれない。

 ともあれ、そうしてわたしもはじめて、靖国の大鳥居をくぐった。そして、神殿の前で、父よりややうしろに立ち、まだどこか照れくさそうにしながらも、しばしの合掌のあいだ、じっと自分の内面に浮かび来るものと向き合っているように見えた父の背なかを見ていた。

「おれの身内にも戦争に行った人はおるんやけどな」と言って、ふん、と笑った彼も、それならそれで、遺族会の人たちの前で、そういう自分を素直に表現すればいいのにと思ったが、彼はもう地元かどこかへ帰っていた。だから、その夜も、アパートに帰るまで、そうした父の思い出やなにかをよみがえってくるままに思い返し、机に向かうと、頭のなかでまだ見ぬ遺族会の人たちを実家の近所のおじさんやおばさんに見立てて、ひとつ違いで同じ時代の同じ日本の田舎で育ってきた彼がその人たちに語りかけるところも想像しながら、あいさつ文を書いた。

 彼と同県の国会議員は5、6人いただろうか。いろいろなことを思い返していると、眠る間がなくなったので、そのまま早朝の指定された時刻より少し早めに靖国神社に行くと、最初は誰もいなかったが、そのうち、ほかの議員の秘書らしき人がぽつり、ぽつりと現れ、議員本人たちも現れ、するとじきに遺族会の人たちが到着し、記念撮影となった。

 いっしょにならんだ自民党議員たちは目が血走っていた。よし、いまに見てろ――の思いがあったのかもしれない。ちょうど尖閣沖の漁船衝突事件が起きたころだ。政府はその漁船の船長を逮捕したあと、勾留期限が来る前に釈放した那覇地検の判断を追認していた。ずいぶん議論、というか、批判を呼んだ事件だ。だが、わたしはこのとき、背後でなにがあったかは知らないが、表面を見るかぎり、政府の対応はパーフェクトではないかと思っていた。

 前にもこのブログに書いたことだ。中国側でも、裏でなにがあったかは知らない。でも、表面を見るかぎり、あれは無法者の漁船の船長が日本の海上保安庁の船から警告を受けながら、逃げるどころか、逆に向かってきて、体当たりをした事件だった。わたしはそれを最初に聞いたとき、わが家の庭に隣家の子どもが入ってきて、となりとの境に植わっている木の枝を勝手に折ったシチュエーションにたとえられるのではないかと思った。

 日本は自民党政権時代には前例のない「逮捕」という強硬かつドライな対応をとっていた。領土問題が存在しないという立場をとるのであれば、自然なことだ。となりの子どもが黙って庭に入ってきて、木の枝を折ったら、「こらっ!」とつかまえて、「もうするなよ」と諭して帰す。そんなところだろう。その子をわが家の座敷牢に閉じ込めて法的手続きをとったら大人げないだろうし、家のあるじ自らがその子の襟首をつかんでとなりの家にねじ込んでも、なにやらモンスターペアレントじみてくる。問題の木が完全にわが家のものだと思うなら、あとはなにを言われようが、知らん顔をしていればよかったのだ。

 ところが、意外なことに、国内では、政府の対応は手ぬるい、弱腰だ、中国に譲歩した、という批判が巻き起こった。はじめて「逮捕」というきっぱりとした手続きをとられた中国が仰天し、へたな対応をしたら国内から突き上げられることを恐れてオタオタしていたのに、日本の世論は前例のない強硬な措置をとった日本政府のほうを弱腰だと批判し、それまで一度も「逮捕」という手続きをとったことのなかった自民党の議員までが、弱腰だ、那覇地検の判断にまかせていたなんて、そんなことはありえないし、許されないと言って批判していた。いまでは超大国になった中国政府が揺らぐと世界情勢にも影響するので、結果的にはそれでよかったのかもしれないが、なんだか、日本国内で政府批判の声が大きくなればなるほど、日本のほうから領土問題の存在を裏づけ、ひとつ間違えると沈みかけていた中国指導部を救っているようにも見えた。

 その後のレアアースの輸出制限にしても、ほんとうに中国は報復措置としてああいうことをしたのだろうか。わたしが中国国内の行政情報を読んだかぎりでは、あの時期、中国のレアアース鉱山はまだ前近代的な状態にあり、たいへんな環境破壊を引き起こし、各地の鉱山周辺でデモや暴動が起こりそうになっていた。そこで、中国政府は一部の鉱山を閉鎖して、鉱山の淘汰と設備の近代化を図ろうとしていた。もちろん、尖閣の事件が発生したあとは、多少は日本に意地悪をしたい気持ちもあったのかもしれないが、それなら日本だけを対象に輸出を制限してきそうなものなのに、最近も日米などからWTOに訴えられたように、世界中の取引先を相手に輸出を制限し、しかもその措置をいまも続けている(いや、続けざるをえないのかもしれないが)。

 日本の国内世論を見ながら、どうしてこんなふうになるのだろうと思っていたら、そのうち、こともあろうに、民主党のなかからも政府の対応を批判する声が上がってきた。民主党の議員までが世論の動きを気にして、あの政府の対応はいかん、と言いだしたときには、これでは政党政治にならないな、と思った。政党政治のもとでは、たとえボスが間違ったことをしても、とりあえず各党は一枚岩でいないと、選挙と国会というシステムを通してディベートをしている国民の議論がぐちゃぐちゃになる。それなのに、「いい子」になりたいのかなんなのか、もしかすると、党に対する十分な理解もなく、ただ当時の世間のムードでこの党から出れば当選できそうだという思惑だけで選挙に当選してきた人もいたのかもしれないが、与党の議員なら悪者になるときにはならなければならないのに、多くの人に批判されるととたんにその批判をしている人たちの側にまわる人がいて、ほんとうにこんな人たちが国政をやっていて大丈夫なのだろうかという気もしてきた。

 そういう時期だったので、この靖国参拝のときも、当然のごとく、最初にあいさつに立った自民党議員たちはこぞってマスコミと同じ論調で政府の対応を批判した。それは、まあいい。目の前で「あんな対応をしていたら、この国がおかしくなります」と言って遺族会のみなさんに語りかけられても、先にも書いたように、現実を前へ進めなければならない与党には、批判を受けとめる役目もあるのだから、それはいい。

 ところが、である。そうして、自分たちが政権を独占していたときの対応を棚に上げて民主党政権の対応をけなす議員がひとり、ふたりとあいさつをしたあと、はじめて民主党議員があいさつに立ったときだ。最初にあいさつに立ったのは、エリートの代名詞のような大学を出て、エリートの代名詞のような役所にいた元官僚議員だ。その議員が、あいさつを始めるや、「いや、ほんとうに申し訳ないと思っています。この問題については、わたしもいまお話しになった自民党の先生がたとまったく同じ意見です」と言って、遺族会の人たちに頭を下げた。

 おい、こら、待てよ――だ。エリートと言われる人のことも、十把一からげにして語ってはいけないのだろうが、このときは、エリートと言われる人に国政をまかせることの弊害や危険性を強く感じた。彼らは子どものころからずっと「いい子」で来ているのだろうから、怒られることにも慣れていないのだろうし、怒られそうになったら巧みにかわすすべも身につけてきているのだろう。

 わたしが代理を務めていた彼は高卒で、どうもだいじなときにいなくなるのは困ったものだったが、そんなエリート議員を「あいつは優秀なんや」「選挙も強いんや」と言って仰ぎ見るような姿勢をとっていたのは、少し不憫だった。

 政権交代を実現し、変革を誓った議員なら、変革は当然、多くの反発を伴うものなのだから、また当選しようなどという気持ちは捨てて、とにかくこの一期だけにかけて邁進してもいいはずなのに、あの時期くらいから、政府のやっていることをマスコミや誰かに批判されると、とたんに「いやいや、ぼくは違うんですよ」「わたしは違うんですよ」と言って、自分だけ「いい子」になろうとする議員がめだってきたような気がする(あ、その点、菅さんは、国民がやり場のない不満や怒りをかかえた時期に、嫌われ、けなされ、憎まれながら、原子力保安院をはじめ、自民党時代にできあがった組織を指揮して、ほかには代わる勇気のある人のいない役職をよくぼろぼろになるまで務めたと思うが)。

 ともあれ、そう、彼の番、つまり、わたしがメッセージを代読する番が来ると、最初に書いたような気持ちで書いたメッセージを読み上げた。多くの人を前にして、マイクをもって文章を読み上げるのは勝手の違うことだったが、読み始めるときには、戦没者への思いなどそっちのけで人気取りの批判と言い訳に終始したそれまでの議員たちの話で目をつり上げている人が少なからずいた遺族会の人たちも、読み終えたときには、わたしの実家の近所のおじさんやおばさんのような顔つきになってくれていたように思うし、「くそっ」とでも言いたげに、おもしろくなさそうな顔をしていた自民党議員たちの顔も印象的だった。

 そんなひと幕。これも貴重な経験ではあったと思う。

 ちなみに、「靖国参拝」については、あとで、先のエリート議員とまったく同じ経歴をもつ民主党の別の若手エリート議員から、得意そうに、けろっとした顔で「わたしは参拝すべし、のほうですからね」と言われたこともある。それならそれでいいだろうが、だいじなのはそういうことじゃないだろう、と思った。かつては「すべし」を主張していた人も、「すべきではない」と主張していた人も、ともに同じできごとを乗り越えてきていた人たちだった。表面では対立し、批判し合っていても、根っこには同じような経験をかかえていて、その後の人生やなにかの違いから、その経験に対しても違う反応を示していた。つまり、どちらも同じ日本人の戦争というものに対する嘘偽りのない反応だったと思う。だから、次代の日本を担う若手議員は、算数の方程式を解くような調子で、けろっとどちらかに決めてよしとするのではなく、どちらの道へ進むにしても、まずは同じ戦争という経験に対して日本人が示したさまざまな反応をひととおり包含し、総合し、次の時代への歩みを決めるべきではないかと思う。先人の人生の重みを受けとめることがなにより先に求められることだろう。

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by pivot_weston | 2012-03-24 06:36 | 国会見聞記

落ち着く場所

 昨夜は伸び伸び。さあ、少なくとも今夜ひと晩はなにも考えずに眠ろう、という気持ちがあったからだろうか、いつものようにチンさんの「吟品」で食事をして、そのあと、みんなで話をしているときに、ふと、なつかしい光景がよみがえってきた。

 その場にいたのは、チンさんのほか、チンさんのおかあさんと上海出身のカクさん、そしてその3人のあいだでチンさんのご子息の3歳のエレンくんがタブレットでチップ&デールを見ていた。

 飛び交っていたのは、カクさんの母語である中国語。チンさんとおかあさんがふたりのときに使うダイギー(台湾語)はカクさんにわからないので、カクさんに合わせている。エレンくんも、まだ理解度に難があるとはいえ、こと言語に関してはユニバーサルだ。ころころところがっているものを見ると、「イー、アール、サン、……」とかぞえてみたり、「ワン、トゥー、スリー、……」とかぞえてみたり、「いち、にい、さん、……」とかぞえてみたりしている(「ジッ、ルン、サー、……」とかぞえているところは、まだ見たことがないが)。

 ついていけないのは、わたしだけ。みんなのにぎやかな会話の端々に出てくる「メイヨー」とか「プーヤオ」とか、そんな断片も断片くらいしかわからない。なのに、なんとなくその場にいる。エレンくんが生まれて、台湾にいたおかあさんが来て、お店の公用語がダイギーか中国語になってからでも、もう3年たつ。なのに、毎晩、なんとなくその場にいる。なんでだろう、と思ったときに、その光景はよみがえってきた。

 半世紀ほど前、わたしもエレンくんと同じようなポジションにいた。家族の誰かが入院すると、母の実家にあずけられた。わたしは姉とのふたりきょうだいだが、そうなると、その家のふたりのいとこといっしょになって、4人きょうだいの末っ子になる。あとの3人はみな1年違いでならんでいるが、わたしだけはその3人の最後尾のいとことのあいだに1年あいていて、なにをやっても「おまえはまあ……」と、子どもに子ども扱いされることになり、みんなで食事をしていても、「長男」のいとこから順に「ごっつぉさん」「すんだー」「行てくらいなあー」と言って、3人は次々と茶碗をきれいにして飛び出していくのだが、わたしだけはそんなに早く食べられずに食卓の端っこでのそのそと食べていて、食べ終わっても、そのときにはもう、先に飛び出した3人がどこで遊んでいるのか、突きとめようもなかったので、ひとりだけ残って、新聞なんかを読んでいたりした。

 すると、「お、なんや、おまえは遊びに行とらんのか」と言って、大人の誰かに声をかけられる。「なんや、そんなら、こっち来たらええが」と言って、大人たちが集まって話をしていた祖父母の部屋に呼ばれたりした。

 そこにいるのは、大人ばかり。まだテレビ草創期の当時だ。同じ市のなかでも村が違うと言葉が違い、母の実家の人たちの会話のなかには、耳慣れない言葉もいろいろと交じってきた。でも、それを聞くともなく聞きながら、みんなのあいだで新聞をひろげて、それに目を落としていた。たまに「おまえ、そなに新聞ばっかり見て、おもっしょいんか(おもしろいのか)」「おまえ、それが読めるんか」と言って声をかけられるのだが、おおむねみんな、あいだにいるわたしのことは無視して話をしてくれていた。

 ああ、だから落ち着くのかな――と、昨夜の「吟品」では思った。みんながにぎやかに話をしているなかに、ひとりだけ異分子としてぽつんといる。そんなシチュエーションが、わたしにとってはいちばん居心地がいいのかもしれない。

 チンさんの対応も変わってきた。5年前に、はじめておじゃましだしたころは、台湾から友人が遊びに来ると、わたしにとっては、まだほんとうにチンプンカンプンだったダイギーオンリーになり、「おまえ、そなに新聞ばっかり見て、おもっしょいんか」の声もかからず、どういうところなんだろうな、ここは?――と思うこともあったのだが、最近では、気を遣って、話の節々でその内容を日本語で解説してくれるようになっている。

 おもしろいものだ、人間の内面になにかが刻印されていくメカニズムも、また、そうして刻印された人間が見せる行動も、また、時間を積み重ねるということも。

 でも、鴨長明さんではないが、人生、というか、この世のものはひとつとして、ひとつところにとどまっていることも、ときもない。まあ、これも生きて味わえたひとつの感懐としてわたしという命のモービルの記憶装置にストックして吹いてくる風にさらしていけばいいのだろうが、そんな感懐をいだきながら帰宅して、そのままPCをつけることもなく久しぶりにひと晩ぐっすり眠り、目がさめたら、おやおや、ゲンパツの仕事で、文章におかしいところがあるから修正せよ、との指示が来ている。なんや、そんなことなら締め切りをもっと長く設定せよ、とも思うが、まあまあ、うたかた、うたかた、ゆく河の流れにのっかっていくとしよう。

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by pivot_weston | 2012-03-17 09:16 | ブログ

ひと息、ふた息

 先週末、ときどき仕事をくれる翻訳会社から、技術翻訳の仕事が1件はいってきた。

 貧乏だから、ぜいたくを言っていてはいけないのだが、毎度のことながら、「技術」となると、にわかには盛り上がらないことは盛り上がらない(もっとも、スロースターターというのか、いつもやりだすと、そんな「技術」の世界もおもしろくなり、軽薄なのだろうが、われこそはその世界の代弁者みたいな気分になって、ひとつ終わるたびに、なにやらともに暮らした人と別れるような名残惜しさを感じてしまうのだが)。

 今回も、「やって」と言われ、内容も訊かずに「あいよ」と答え、あとはそれ以外の定常的な仕事の流れに身をまかせていた。

 でも、はいってきたのはそんなに時間をもらえる仕事ではなかった。1日もたつと、もう納期が気になってきた。で、とりあえず印刷された原文をのぞくだけのぞいてみた。

 あぎゃ、原発だ! 原子力発電所に関するドキュメントじゃないか。

 こりゃ、事故対応にも関係があるのでは――とひとり決めし、一気に体内にアドレナリンをたぎらせた。(この表現も、考えてみるとおもしろい。1980年代だったか、誰かの下訳かなにかの仕事であるアメリカの小説の原文を読みだしたら、最初のページにadrenalineという言葉が出てきた。なんじゃ、これ? ふつうの小説のはずやけどなあ、なんで生物の本みたいな言葉が出てくるんじゃろ?――と、アメリカじゃすでにそれが流行語になっていたのも知らずに高校時代の授業を思い出しながら不思議がったものだが、いまじゃ、日本でもその言葉が「ハッスル」の跡継ぎみたいになり、少年少女諸君までが便利に使うようになっている。そういう時代の流れを俯瞰できるところも、翻訳という商売のおもしろいところだが。)

 ともあれ、「そうとうたまってる」状態だったのか、原文をひと目見たとたん、一気に視界が原発の仕事だけに絞られ、大事な仏像の仕事をもらった彫刻師のように、その原文に向かうときにも、息を整えて、そっと歩み寄ろうとするような姿勢になった。だいたい、30年もひとつの仕事をやってきたら、客観的な評価はともかく、自分なりの「会心」は何度か経験しているもので、そのときの感覚も、なんとなく頭や体に残っている。おっしゃ、やるぞ、現場ではみんながんばってる。おれも後方からできることをやんなきゃ――と思うと、おのずとこの仕事でも、自分の頭や体をなんとかその感覚が生まれる方向へもっていかないとと思い、あわてて息が乱れた状態で原文をめくろうとした手も、いや、待てよ、まだ早い、最初のかみ合わせが肝腎だと思い、止めてみたりする。軽薄というかなんというか。

 思えば去年の震災直後の、まだ母が上京してきて同居する前、こんなお国のピンチには、わたしのように、たまたまいろんなめぐり合わせが重なって、世のなかのショートストップみたいなポジションにいる人間こそ、なんかしなきゃ、と思い、政府の人に「行けと言われたら、いつでも福島へ行きますよ」と手をあげていた。で、「担当者に伝えておきます」という返事もいただいていたのだが、その後はなんの音沙汰もなし。なんだ、おれだってまだ、できることはいろいろとあるんだけどな――と気持ちをくすぶらせていた(まあ、母が上京してからのことを思い返すと、声がかからなかったことに感謝しなきゃいけないのだが)。

 以前、国会に手伝いに行っていたころ、なにかで「人事」になったとき、いろんな議員が議員会館のなかを走りまわっていて、秘書の人に「どうしたんですか?」ときいたら、「まあ、みんな本能なんでしょうね。こういうことになったら血が騒ぐのでしょう」と言われたことがあったが、そういう本能は政治家だけのものかもしれないけど、わたしたちにも、やはり騒ぐものはあるということだろう。

 しかし、昨日から今日にかけては19ページなんて、そんな、いくつのとき以来だろうと思うような量をこなし、そう、思ったとおり、ピークはうまくつくれたのだけど、あ、いまはすっかり出がらしだ。年齢というのは、アドちゃんが出るときに違いを感じさせるものではなく、枯渇したときに、しみじみとその違いを思い知らせてくれるものなのだろう。

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by pivot_weston | 2012-03-16 18:41 | ブログ

国会見聞記(12)

(これは不定期連載でお届けしている記事です。流れがわかりにくい場合は、右の「カテゴリ」の「国会見聞記」をクリックし、前の記事を参照してください。)

 彼の秘書をしていたあいだには、2度ほど、政治的に印象深い体験をさせてもらった。

 1度は、予算にからむ体験だ。

 彼は、党内の会議にあまり出ない議員だった。わたしも、たまに国会に行って、彼の活動を通して政治の世界をのぞいているうちは、そこでどれくらいの会議が開かれているかを知らなかったので、そんなものか、そんなものでいいのだろうか、と思っていた。

 だが、秘書になり、そこに腰を据えてみると、とんでもなかった。

 考えてみれば、しごくあたりまえのことだ。

 現体制がいいかどうかはともかくとして、日本の政治(行政)は長い歴史のなかでわたしたちの暮らしの要請に合わせて1府12省庁の管轄に分けて管理されるようになっていた(いまは復興庁も追加されている)。だから、当然、それに対応して政策の議論や立法化をしなければならない民主党の内部にも、省庁の数だけ「部門会議」というものが設けられている。それだけでもけっこうな数で、全部が同時に開かれたらえらいことになりそうだが、実際の政治の問題はそんな大ざっぱなくくりでは話し合いにならないので、どの部門会議の下にも各部門の個別の問題を扱うワーキングチームがいくつもつくられていて、さらに、そんな縦割りでは複雑に入り組んだ現実の問題に対応できないということで、複数の部門にまたがる問題を扱う部門横断的なプロジェクトチームという合議組織も問題ごとにつくられている。つまり、民主党のなかでは、つねにその13×α+αのチームが同時並行で会議を開いていたのだ(これをもっと公開してやればよいと思うのだが、あまり見られたくないことがあるのか(わたしが出席した印象では、なさそうだったが)メディアは閉め出して開かれることが多かった)。

 それでもまあ、国会閉会中なら、昼間の時間があいているので、わりあいのんびりと開くことができる。でも、国会開会中となると、党内の議論に使える時間は朝と夜しかない。だから、おのずと朝の8時ごろから5つも6つもの会議が同時並行して開かれることになる。

 議員のほうも(参議院議員のほうはともかく、「代議士」と言われる衆議院議員のほうは)、それぞれあらゆる分野の問題を内包する地域の代表として永田町に来ているわけだから、「ぼくはこの問題がやりたい」「わたしはこの問題が専門」と言ってひとつの問題にだけ集中しているわけにはいかず、いくら専門とかけ離れていても、地元から「なんとかして~」という悲鳴があがれば、専門以外の会議にも出なければならない。

 結果的に、彼らは同じ時間帯に開かれる会議をふたつも3つもかけもちし、ひとつの会議で言うべきことを言ったら、また別の会議室に移り、そちらでも言うべきことを言うというように飛びまわることになる。

 そこで問題になるのが、それらの会議が開かれる会議室の場所だ。

 この連載の前半でも紹介したように、国会議員会館は「衆議院第一」「衆議院第二」「参議院」の3つに分かれていて、その3つが(建物の中心と中心の間隔で言えば)50mほどの間隔でならんでいる。だから、たとえば、端と端の「衆議院第一」と「参議院」で同時に開かれる会議にどちらにも出席し、どちらでも意見を言わなければならない議員は、それぞれの会議について何分ごろにどういう話になるかを予想し、そのうえでまずどちらか一方に出席し、そこで意見を言ったら、すぐにもうひとつの会議の場所へ向かい、その移動中にも、会館改築時に地下の連絡通路に新設された動く歩道の上で駆け足をしながら携帯電話で移動先の会議のようすをうかがわなければならなくなったりする。

 へえ、なんだ、みんなすごいじゃん、国会議員が仕事をしてないなんてウソだな、なんだ、国会のなかはまるでスポーツジムみたいじゃないか――秘書になったばかりのころは、動く歩道の上に立って、次々と追い越していく議員たちの背なかをぼんやりと見ながら、そんなことを思っていた。それが、国会内のいつわらざる光景、一面だった。

 ところが、彼は違った。なんだ、こういうことなら、彼ももっと会議に出席しなければならないのではないかと思ったが、そうはしていなかった。

 最初は、なぜだろう、と思った。これは出たほうがいいのではないかと思う会議がある日にも、「ちょっと地元で人と会うので」と言って東京に来ないわけを説明されると、国会議員が国会内の会議に出席せずに会う人というのはどういう人なのだろう、とも思ってしまう。でも、そのうち(あくまで推測だが)もしかすると逃げているのではないか、という気もしてきた。人前に出る人には、往々にしてありがちなことだが、彼も基本的には気の弱い人だ。民主党にかぎらず、国会議員のなかには、弁舌さわやかなエリートが多い。そこへ行くと、彼はお国訛りもまったく抜けず、知識や論理的な展開力にもやや難がある。だから、もしかすると、ちょっと気おくれして逃げているのではないかと感じたのだが、そうであれば逆に、どんどん出るべきじゃないか、とも思った。なにもびくびくしている必要はない。国会議員は国民の代表であって、いろんな国民のなかから選ばれた人が国会を構成するのがいちばんいい。彼には、とりわけ民主党に多いエリート議員とは違う、エリートには理解できない国民の気持ちを代弁することができる。そういう意味では、掃いて捨てるほどいるエリート議員より希少価値があるのだから、むしろそんな自分の存在意義を意識し、どんどん会議に出て発言をすればいいと思ったのだが、どうやら彼にはそういう気持ちはなさそうだった。

 そうして彼が地元かどこか、東京以外にいたある日、夕方になって、第一次産業のある部門の業界団体の代表としてロビイ活動をしている人が事務所にはいってきた。そのかたとお会いするのは、それが2度目か3度目だったか。いつもは努めて紳士的な態度をとっているその人が、その日は少し血相が変わっていて、口から飛び出した言葉にも、かすかな怒気が感じられた。

 民主党内で予算配分の話し合いが行われていて、第一次産業のほかの部門にはある程度の予算が配分されているのに、自分たちの部門には配分されていない、このままでは全国の従事者がたいへんなことになる、なんとかしてほしい、と言う。

 わたしも民主党の政策を少しは勉強していて、自民党時代の第一次産業への補助金を欧州式に従事者への直接支払いのかたちに変更しようとしていることは知っていた。で、その人に見せられるまま、党内会議の予算配分の資料を見ていくと、たしかに、ほかの部門には直接支払いの予算が割り当てられているのに、そのかたが代表してロビイ活動をしている部門にだけは、その予算が盛り込まれていなかった。

「あら、なんで?」というのが第一印象。予算と言っても、まだ細かいところまでは考えず、言ってみれば、来年使う塩をどこかからどさっともってきて、こっちはまあこれくらい、そっちはまあそれくらいと、手で大ざっぱに取り分けた段階だ。だから、その最初のたたき台の資料を作成した農水省か財務省かの担当者がうっかりその部門の予算を落としてしまったのかなと思った(でも、いま思い返すと、そんなはずはない。あの資料にしたって、ひとりが作っていたわけではないだろう。おそらく、省内の各部門の希望を総合して作成していたのだろうから、あんな、ひとつの産業の核となる予算がたまたま抜け落ちるなんてことはないだろう。だから、いま思えば、なにか意図のあるものだったのかもしれないが、真相はよくわからない)。

 その人は、翌日に関連部門の会議があるので、その会議に出席してこの点を指摘してほしいと言う。わたしも、それはしないといけないと思った。ほかの一次産業の従事者には直接支払いの支援をして、その部門の人にだけは支援しないというのは、どう考えてもおかしい。

 ところが、彼のほうは、その日も東京にはおらず、翌日も出てくることにはなっていなかった。会議に出るのは秘書でもいいが、秘書は会議のなかで発言権がない。どうすればいいのか、と考えた末、「文書を出すか」と思った。

 紙っぺらを一枚出したところで、「はいはい、どうも、承りました」で終わってしまうのではないかとも思ったが、こちらはまったくの門外漢から秘書になったばかりで、人脈もなにもないわけだから、それ以外にできることはなさそうだった。

 どうやら先のロビイストのかたは彼の携帯電話の番号も知っていたらしく、しばらくすると、地元かどこかにいた彼から電話がかかってきて「来たやろ」と言う。「どうしよ」とたずねると、「代わりに会議に出て、発言してくれるか」と言う。お、こらこら、それはできない相談だよ、とは思ったが、「じゃあ、文書を出しとこか」と言った。

 力がはいった。それまで30年間の自営業者のあいだも、自分や家族の暮らしを背負って文章を書いてきたし、読んでくれる不特定多数のかたのことも考えながら書いてきたつもりだったが、このときは、まあ、大げさに言うと、日本全国のある産業に従事しているみなさん全員の暮らしを背負って文章を書いている気分になった。ただ、そうして気合いがはいった分だけ頭のなかもよく整理されたのか、自宅に帰って書きはじめると、ほとんどなんの苦もなく、一気に書けた。読み返してみても、なかなか政治的な発言の文書らしい力もこもったものになり、言わんとすることもストレートに伝わるものになっていた。

 そして、翌日には、問題の会議が開かれる会議室に行き、会議がはじまってしまうと秘書はなにもできなくなるので、はじまる前に座長さんのところまで行き、「すみません。うちの先生は地元で用事があって来られないんですが、こういう文書をつくりましたので、よろしくお願いします」と言ってその予算措置を求める文章を書いた紙をわたした。座長さんは、そういうことがそんなによくあることではないのか、ちょっ戸惑って「え、え、それはどう処理すればいいんですか」と問い返してきたが、さらさらと文面を目で追ったところで趣旨を理解してくれたらしく、「あ、そうですか。わかりました」と言ってその文書を受けとってくれた。

 まあ、できるのはそこまでだ。わたし自身も、議員本人が出席せずに文書だけを出すのでは迫力がないし、ひとつの産業の核となる補助金がまるまる抜けているのだから、会議中にほかの議員からも同様の予算措置を求める発言があるのではないかと思ったので、あとはその会議の進行を壁ぎわの秘書の席からじっと見守っていた。で、結局、どの議員からもその予算措置を求める発言が出ないまま会議が終わろうとしたとき、急に座長さんが「その前に、××議員のほうからこういう文書をいただいております。読みあげます」と言って読みだした。おいおい、だ。その座長さんは、わたしが書いた文書を読み終えたあと、「これは重要なご指摘ですから、こちらのほうでも検討させていただきます」と言って、会議をしめくくった。

 驚いたのは、その次にそのワーキングチームの会議が開かれたときだ。新たに修正された予算配分案が作成されていて、それを見ると、なんと、その部門に5××億の予算がついていた(「××」のところの数字は忘れたし、その後、予算審議が煮詰まる過程で変化したので、ここではこの表現にさせていただく)。あら――だ。こんなに簡単に500億もの金が動くのか、と思った。もちろん、最初に書いたような民主党の基本政策があったので、まったく予定外の予算ではなかったはずで、だから、こちらで掘り出した予算とは言えないだろうが、これは彼の功績としてアピールできるな――とは思った。

 ロビイストのかたも安心してくれた。もちろん、こちらが安心してもらいたかったのは、ロビイストのかたではなく、現場の従事者のかたがただったのだが、このときにはロビイストの存在をちょっと見直した。それに、こういうことがあって、議員会館のなかでよく見かけるそのロビイストさんのようすに注目していると、彼はただ強引に議員に利益の配分を迫るのでなく、国会議員会館に常駐して、関係のある会議にほとんど出席し、議員の話もよく聞き、資料も細かいところまでよく読み込んでいるようすだった。

 国会に必要なしかけと言えるかもしれない。誰もなにも言わなければ、国家予算は議員や官僚の恣意で決まる。それでは、いかに賢明で炯眼の議員や官僚が担当しても、ほんとうにそのときそのときの日本の国情に即した予算配分にするのは難しい。だから、国家予算を必要とする人たちがあちこちでかたまりになって声をあげる。そこでアンフェアなことがあってはいけないが、どんなにドスのきいた声だろうがなんだろうが、みんながそれぞれフェアに声をあげた結果として予算が決まっていくのであれば、それがいちばんいいのだろう。

 ディベートだ。いまではよく耳にするようになった言葉だが、わたしが1981年にアルクという会社にいたころ、社長が「よし、これからディベートというものをはやらせるぞ!」と言いだし、「英語道」の松本道弘さんの指導を仰いで、切れ者の女性編集者が編集したビデオ教材を売り出したときには、まだ「ディベート」と言っても「なんのこっちゃ」という顔しかされなかった。

 大勢の人が集団で生活していくうえで必要になる合理的解決策を絞り込む作業だ。どちらが正しいかを決める議論ではない。この世のなか、なにが正しいかを争っていたら、みなばらばらで、きりがなくなる。どの人の「正しい」も、集団全体には当てはまらないし、当てはめてはいけない。人がかかえている事情はみな異なる。価値観も違う。では、集団の意思を決めるときにどうするか?――ということで考え出されたのがディベートであり、この場合、とりあえず、なにが正しいか、なにが間違っているか、という判断はさておく。そうしてともかく、相対立する命題をふたつ立て、それぞれの命題を割り当てられた者同士が、論理の整合性だけを守って互いの論を闘わせていく。そうすれば、たぶん、結果だけを見ると多少意外なものになることもあるかもしれないが、いろんな価値観をもった人たちの集団としての意思はよりフェアに決定することができるだろうということで行われている作業であり、裁判の仕組みなどもそうした考えにもとづいていると思うが、日本の場合にはまだ、誰が正しいか、なにが正しいか、というやや依存心の強い姿勢を抜け出せない風土があるので、政治にしてもなんにしても、合理的な策をすぱっと打ち出すのが苦手なのだろう。

 国家予算の配分は、国内のあちこちから国庫にスポットライトを当ててみて、その結果としてバランスよく決めていくのがよいのだろうが、ロビイストもそういうスポットライトを当てる装置のひとつであり、なくてはならない装置と言えるのかもしれない。

 のちに、議員会館内のある喫茶店にはいっていったとき、柱の陰の席でじっと会議の資料らしきものに読みふけっている人がいた。よく見ると、顔をしかめた例のロビイストさんだった。だから、「あ、どうも」と声をかけたら、いつもロビイスト然としているその人の顔に、一瞬、あ、しまった、というような、ちょっと恥ずかしそうな表情がよぎった。ほんの一瞬のこと。でも、わたしはその一瞬で、あ、なんや、この人もおれとおんなじことをしているんやな、という親近感のようなものをいだいた。

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by pivot_weston | 2012-03-11 07:36 | 国会見聞記

原発関連情報サービス事業の入札情報

 こんな事業の入札公告が出たみたいです。

1. 平成24年度原子力安全規制情報広聴・広報事業(緊急時携帯端末情報発信等事業)
2. 平成24年度原子力安全規制情報広聴・広報事業(福島第一原子力発電所事故による原子力災害コールセンターの設置)

 1は、2月22日に公告されている「平成24年度原子力安全規制情報広聴・広報事業(福島第一原子力発電所事故による福島県被災住民向け電話相談窓口の設置)」の携帯端末バージョンかな。ただ、仕様書を読むと、平成19年の中越沖地震のあとから準備をはじめていたみたいなので、今回の震災時に効力を発揮しなかったように思われるのはちょっと残念(整備するなら、全国の原発について整備したほうがいいと思うのだけど)。

 2は、昨年の12月2日に公告されている「平成23年度原子力安全規制情報広聴・広報事業委託費(東日本大震災に伴う原子力発電所事故による緊急事態応急対策の実施に係るコールセンターの設置)」の事業実施期間が3月31日までだから、それを続行するための事業なのかな。

 ともあれ、現代は災害時にも通信回線が機能すると想定していい時代になってきたということか。

 そこで、古い世代が思うことをひとつ。

 これまでにも何度か書いたことがあるけど、34年前の宮城県沖地震のあとでは、安否確認などを目的とする電話が殺到し、当時の電話回線がパンクし、はじめて災害時の近代的通信システムとの向き合いかたが問われたと思う。あのとき、わたしたちは「大地震のときはあわてて電話をしようとしちゃダメ。ほんとうに連絡を必要としている人たちがいるのだから、そういう人たちのために電話回線を生かしておくために、『大丈夫?』『うん、そっちは?』程度の連絡だったら、しばらくがまんしよう」と教わった。

 それでも、神戸のときも、その教訓は生かされず、また電話回線がパンクして、重要な連絡がとれなくなった時間帯があった。

 それが、時代が進み、もうそんなことは気にせず、心配なとき、不安なときは、じゃんじゃん連絡をしていい――という時代が来たということなら、それでいいのかもしれない。でも、今度の震災発災直後に「想定外」という表現がずいぶん批判されていたけど、わたしたちはなにごとにも「想定」なしには具体的な対策をとれない。「想定」の外まで対策をとることが必要だと思うのであれば、わたしたちが若かったころのまだ暗愚な時代のように、なにかあったときには自分の欲望や衝動を抑える必要があるということを心の片隅にとどめておくことも必要なことではないかと思う。

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by pivot_weston | 2012-03-10 15:54 | ブログ

食の終焉

 今年はどん詰まりになる前に確定申告をしてきた。事務手続きが大の苦手なので、いつもこれが終わると、ほっとする。これで、今年もこちらがやるべき事務手続きは終わった。

 役所に課税の基準となるデータを与えたわけだから、あとは役所がそれにもとづいて課税額を計算し、こちらはその額をがんばって働いて払うだけだ。いや、払えないときは役所に電話をかけて「すんません、払えません」と言う面倒な手続きがまだ残っているかもしれないし、近ごろでは、そう言ったら、なにか勘違いしている若い役人が「おー、そーくるかーあ」と妙に威勢のいい声をあげたりすることがあるので、まだまだ神経にさわることがなくなったわけではないのだが、まあ、それでもそれは苦手な事務とは違うので、わたしとしてはそんなに苦にならない。

 というわけで、ちょっと一服して、数日前にダイヤモンド社の編集者の笠井さんが送ってくださった『食の終焉』(ポール・ロバーツ著、神保哲生訳)という本を開いた。

 お、びっしり。アメリカ人ジャーナリストの書く本は、この文章にファクトがすきまなく詰まったようなびっしり感がいい。

 いまのわたしたちの「食」の安全性や量的確保がいかに危険な綱渡りをしているような状況にあるかを、綿密な取材にもとづいて描き出している本だ(まあ、量的確保のほうはともかく、安全性のほうは、別にいまにはじまったことではなく、いまのわたしたちがそういう危険性を認識できるようになったというだけのことなのだろうが)。

 そう、聞くところによると、日本のメディアではあまり報道されなくなったが、台湾のほうでは最近も、ぽつぽつと鳥インフルエンザが(鳥の世界で)発生しているらしい。そんな危険性も詳細に報告されていて、わたしたちに考える材料をいろいろと提供してくれる本なのだが、わたしとしては、個人的に、あの映画『エデンの東』のレタス輸送列車が立ち往生しているシーンなんかを思い出させてくれる冒頭の書き出しが気に入って読みだしている。

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