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放蕩息子の改心

 母親が気腫性腎盂腎炎という病気を発症している。

 糖尿病の恐ろしさを感じる。

 糖尿病とはどんな病気?――ときかれると、「血糖値が高くなる病気」という答えが頭に浮かぶだろうか。

 その結果として、わたしたちが直面する現象にはどんなものがあるか?――と考えると、たとえば「脚が腐って切断しなければならなくなる」とか、そういう回答が頭に浮かぶだろうか。

 それだけでも十分に恐ろしい現象に違いはないが、まだあれだけでは糖尿病の恐ろしさは十分に表現されていたわけではなかったのかと、いま感じている。

 だれでもそうなのかもしれないが、病気というのは、直面するといつも自分のそれまでの認識や勉強の不足を思い知らされる。

 母が前記の病気を発症して、はじめて、(きちんと考えてみればあたりまえのことではあるのだが)糖尿病の本質がよくわかったような気がする。

 たとえば、リトマス試験紙。酸性の液体を垂らすと赤く、アルカリ性の液体を垂らすと青く変色する。リトマスという染料をしみこませていないただの「ろ紙」は、どちらの液体を垂らしても、ふつうは濡れるだけで色が変わったりはしないのだろう。それが、リトマスをしみこませることによって、液体を一滴垂らしただけでさあっと全体の色が変化する性質をもってしまう。

 たとえば、その紙の性質の変化のように、人間の体に、なにかあったときに一気にその全体に変化を起こさせる土壌をつくるのが糖尿病の本質だということがよくわかった。

 3日前の日曜日に、このところ慢性的になっていた体の不調を訴える母親をつれて病院に行き、腎臓が炎症を起こしていて、炎症反応がひどいということで、入院させることになったときには、8月の膀胱がんの手術のあと、一度同じような症状を起こし、腎臓から膀胱にいたる尿路が細くなっていて、尿が滞留して感染症が起こりやすくなっていることがわかっていたので、「またか」と思い、これからはこういうことを繰り返しながらやっていくことになるのかなと考え、病院の売店まで行って、ティッシュは買ってきながらスリッパは忘れてくるような「ガキの遣い」を繰り返すわたしに立腹する母を「まあまあ」となだめていた。

 2日前の月曜日に、病院から症状の進行を伝える電話をもらってかけつけたときには、ちょっと酔っぱらったように目をとろんとさせて胸をはだけている母を見て、おや、と思いながらも、まだ言葉はふつうに通じるし、そのきつさもいつものままだったので、「はいはい」と応じていた。

 それが、昨日の朝、また病院からさらなる症状の進行を伝える電話がかかってきてかけつけると、基本的には意味のわかる会話ができるが、そのなかに意味のわからない会話が混ざるようになっていた。意味のわかる会話9割、わからない会話が1割、といったところか。

 その比率が、お昼になると5分5分になり、その段階で緊急の腎臓摘出手術を決意したあと、いろんな診療科の先生がたに準備をしてもらいながら、手術室に空きができるのを待っているうちに、逆に1割9割の比率になり、午後5時すぎにようやく空きができた手術室に送り込むことができたときには、もう会話をしようなどという気は起こらず、ただただ目の前でもがき苦しむ拘束された母を、どうすれば少しでもなだめられるかと腐心するだけになっていた。

 母は、豊かで気ままな少女時代を送らせてくれた両親と実家が大好きだ。その両親はさすがにもういないが、そこでいっしょに育ったふたりの兄とひとりの弟はいまでも90歳が近づいている長兄を筆頭に、みな健在だ。母がいつでもいちばん好きなのは、かつてその3人の兄弟と共有していた土塀に囲まれた屋敷の世界であることはわかっている。だけど、もう東京に出てきて新宿という街で暮らしている以上、もがき苦しむだけの状態になって、そこへ帰してやるわけにもいかない。

 ただ、真っ先にかけつけてくれた東京在住の弟夫妻と話をし、長兄の家や次兄の家に連絡をとっているうちに、長兄の息子や次兄の息子が東京にいることを思い出し(こういうときには、忘れていることが多いものだ)、その息子たちに連絡をとると、みなもう夜の7時になっていたのに、所沢や錦糸町からかけつけてくれた。

 これまで気難しい生きかたばかりをして、一度も「楽」をさせてやれることのなかったわたしに、せめてできるのはそれくらいかと思った。もちろん、手術室にはいっている母の耳には、わたしたちがロビーでなにを話していても聞こえるはずはない。だが、それでも同じ建物のなかの別のフロアで、母が大好きだった実家の空気につつまれて育った男たちが、昔話も交えながら四方山話をした。その、一族が集まってみんなでわいわいやることこそが、母の「大好きな実家」そのものだった。

 わたしたちが別のフロアで重篤な患者の一族らしくもなく、にぎやかに交わしていた会話の雰囲気は、手術室にいた母にも伝わっただろうか。

 ともあれ、もうこれをやるしかないという思いで午後5時半ごろから挑んでいた腎臓の摘出手術は、午後9時半ごろに終わり、午後11時ごろには、集中治療室のなかで、みな麻酔のかかった母と面会することができた。母にも少しは、あの昔の、土塀に囲まれた大きな屋敷の雰囲気が伝わっただろうか。これからは、せめて、せめて、と考える毎日になりそうだ。

 それにしても、ただでも忙しいはずの毎日の業務のなかで、朝にはまったく予定になかった手術を検討し、決断し、チームで情報とプランを集約していき、その手術を午後9時半まで実施し、患者に健康な体をとり戻させるという職業の基本理念を実現するのはもう難しいにしても、現実と折り合いをつけながら摘出した腎臓をほっとしたようすでわたしたちに見せてくれ、「先生、明日も朝からお仕事があるんでしょう?」と問いかけると、「それはもう……」と笑って答えていた医師たちの姿には、よし、こっちも負けてはいられない――という元気をもらった。

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by pivot_weston | 2011-11-30 09:48 | ブログ

七面鳥に恩赦を出さなきゃいけない国(メルマガ配送予告)

 週刊メールマガジン『米国政府情報』第22号「七面鳥に恩赦を出さなきゃいけない国」は、本日13:30配送予定です。

 先週のホワイトハウス動画ダイジェスト「WEST WING WEEK」は、ミシェルさんが旦那やバイデン副大統領などのお歴々を左と右にしたがえて話をしていて、「わたしはここにいる副大統領、大好きなジョー・バイデンとともに……」と話しかけたところで、となりに立っていた旦那、つまり、オバマさんが聴衆のほうへ向かって、「こりゃどうだ?」というように両手をひろげるところで終わっている。

 要するに、真っ先に自分の名前をあげてくれると思っていたのに、愛しの妻がいきなりバイデンさんの名前をあげたので、「なんでぼくちゃんを忘れるの?」といいたかったのであり、もちろん、バイデンさんも笑い、ミシェルさんも、「オウ! ユー・トゥー、ハニー」といってその「ぼくちゃん」にしなだれかかるのだが、なんか、いいね、こういう余裕。

 わたしが議員秘書をしていたときに、ある会の司会をしていて、冒頭でその議員のあいさつを抜かしかけたときには、彼自らが「おい、わしやろ、わし」といって顔をしかめたのだったか。日本の政治家にもユーモアと余裕がほしい。

 そういや、オバマさんは「フードバンク」の運動にも参加していた。日本でも、そろそろこの運動が一気に拡大しそうな気配が見える。

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天才・山際淳司も忘れないで

 テレビで西本さんのお通夜のニュースを見ていたら「江夏の21球」をやっていた。

 それなら、天才・山際淳司のことにもひとこと触れてもらいたい、と思った。

「江夏の21球」は、大投手・江夏豊さん(と捕手の水沼さん)と西本さん率いる猛牛野武士軍団の戦いの話だが、それはあくまで「江夏の21球」の題材であって、それが「江夏の21球」という言葉で長く語り継がれる原動力となったのは、一にも二にも、それを書いた山際さんの、あの、ここまで野球という競技と人間のからまり合いを、むだなく、爽快に、ポイントを逃さずに言葉で切り取れるものか、と思えるほど、エッジのシャープな文章だった。

「江夏の21球」は、日本のプロ野球史上の一大イベントであって、同時に、天才・山際淳司の感性なくしてはここまで語り継がれることのなかった伝説でもあると思っている。

 それにしても、ニュースのなかには白髪の福本豊さんも出てきて、阪急ブレーブスのユニフォームを着て弔問に行った写真が紹介されていた。白髪の福本さんが背広の下にユニフォームを着て弔問に行く。やっぱり、西本さんはそういう人だったんだ。だから、福本さんも大好きなのだ。みんな、西本さんや阪急ブレーブスのことを誇りに思っている。

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by pivot_weston | 2011-11-28 23:34 | ブログ

よみがえる1967年阪急ブレーブス

(左)ウインディ
(遊)阪本
(一)スペンサー
(中)長池
(右)早瀬
(三)森本
(二)山口
(捕)岡村

 いいね、やっぱり強いチームのオーダーはバランスがとれている。

 福本、加藤秀、山田の三羽烏がはいる前。

 投手に、米田、梶本、足立、石井茂がいて、控えにも、大熊、住友、矢野、高井、石井晶、中田がいて、捕手の控えにも、根来と中沢がいた。オーダーを総入れ替えしても勝てるようなチームだったんだ。もちろん、スペンサーの存在と法政の四番打者・長池の加入が大きかったけど、ほとんどが西本さんのもとで育った選手。

「紳士」とかいいながら、自前のメディアを使って国民の目を一方向へ誘導するという、本来フェアであるべきスポーツの世界にもメディアの世界にもあるまじき行為で球界の盟主に君臨してきた新聞屋さんのチームとは違う。まあ、高校野球のアマチュアリズムでさんざん金もうけをしてきたよその新聞屋さんも似たようなものだけど。

 西本さんは、いまの日本がやんなきゃいけないことをやってきた人。もっと若ければ、野田さんの代わりをやってもよかったかもしれない(かりにそんなことがあったら、断られても手伝いに馳せ参じていたと思うけど)。

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by pivot_weston | 2011-11-27 16:07 | ブログ

感謝――西本幸雄さんへ

 とうとうお亡くなりになりましたか。

 もちろん、一面識もあろうはずもないけど、プロ野球という、裾野が遠くて遠くてかすんで見えないほど遠くまでひろがっている仕事をしてきた人には、わたしのように、亡くなったときに、一面識もなくても言葉を繰り出したくなる者がいるものです。

 1960年の大毎の優勝は、西本さんのお名前も知らなかった子どもの頭をぼんやりと通過したできごとでしかなかったけど、1967年の阪急ブレーブスの初優勝は、わたしの身のまわりにいた人たちには存在すら知られていなかったあのチームの動向を、友だちにはないしょで見つけた自分だけの宝物を物陰でひそかに箱のふたをあけてのぞきこむような気分で、ずっと、新聞の活字や写真を通して、勝てよ、勝てよと念じながら追って、でも、毎年秋には、そんな思いなど通じるはずもないことを思い知らされて、それでもまた次の年には、あの西本さんの阪急ブレーブスの、ほかのチームにはなかった雰囲気がいちばん魅力的だったし、積もれば積もるほど強くなるものも手伝って、テレビではめったに見ることのできなかったあのチームを追い、そういうことを性懲りもなく何年か繰り返して、もうダメか、やっぱりダメかという思いが定着しかけてきたころに、まさに、子どもがいつのまにか大人の力が宿っている自分の手を見つめるときのように、信じられないことを体感しているような気分で見守った、それまでの世界が一変するようなできごとでした。

 ああいう思いには、自分の境遇も反映されているものなのでしょう。貧乏だったということもありましたけど(いまでもですが)、住んでいた地区も田舎の小学校区のなかでもひときわ人家や人口の少ない地域で、頭で勝負ができる勉強はともかくとして、体を使ったり人数をかけたりする運動では、なにをやってもダメで、毎年、運動会の地区対抗リレーになると、周回遅れで走ることになり、年によっては、屈辱的にも、子どもの数がたりないからよその地区へ子どもを借りに行ったりしたこともありましたか。

 いつかなにかで、自分たちだって勝てるのだということを証明したい、という気持ちがずっとあって、そう、ちょうどあの1967年には、5年生だったわたしが毎年恒例の地区対抗のソフトボールの大会の前に、上級生にも声をかけて「練習試合」をしようということにしたのでしたか。地区は4つ。いつもは、やる前からうちの地区がビリと決めつけられていたし、自分たちでもそう決めつけていたフシがあったけど、そういうのがなんとしてもがまんならなくて、あの年は、事前に練習なんてする地区はなかったのに、それをやったら、その「練習試合」に全部勝って、どや、おれたちだって、やったらできるんや――胸を張ってそう思えた年でもありました。もっとも、そう思っていささか増長して本チャンに臨んだら、全部負けて、しかも、わたしが最後の試合の最後のバッターになって、最後の球を見逃して三振したら、ピッチャーだった6年生がにやりと笑ったものだから、あんまりにも悔しくて、みっともなくホームベースにへたりこんで大泣きしちゃったので、やったらできることを実証できたと同時に、現実の厳しさをあらためて思い知らされた年でもあったのですが。

「フェア」は、なかなか世のなかでは実現しないことかもしれないけど、あのころの西本さんの姿勢には、いつもどこかに信頼できる空気が感じられるような気がしていました。今回、お亡くなりになったと知ってWikipediaを見て、その点もなるほどと思えました。

 いや、わたしが人生をすごすあいだにいてくださって、ほんとうによかったと思います。お疲れさまでした。ありがとうございます。(元四国の一野球少年、いや、一阪急少年より)

(あ、いま気がついた。大学時代、わたしが仙台の旅館の布団敷きをしていたとき、その旅館を仙台で試合があるときの常宿にしていた近鉄バッファローズの監督は、西本さんだったんだ。杉浦さんとは廊下ですれ違ったけど、そうか、西本さんともすれ違える可能性があったんだ。)

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by pivot_weston | 2011-11-26 12:59 | ブログ

ジェリー・ルイスをもう一度

 昨日、ちょっといたずら書きをしたら、「ルイス」つながりでジェリー・ルイスのことを思い出した。

 ロックンロールのジェリー・リー・ルイスではない。ボクシングのジョー・ルイスでもない。でも、検索したら関連サイトが山のように出てきたので、そんな断り書きは必要ないのかもしれない。

 子どものころには、一時期、毎日のようにジェリー・ルイスの映画を見ていたことがあった。コメディ。いまの日本のテレビにうんざりするほど出てくるお笑いのタレントさんたちのように、他人をけなしたり、コケにしたりして笑いをとるのではなく、自分を笑いのタネにしてペーソスを伝える。いってみれば、アメリカ版藤山寛美か(「ぜんぜんチャウゾー」といわれるかもしれないが)。

 いま見ると、退屈かもしれない。でも、子どものころに感じたあの、笑いながらしんみりと考えさせてくれるペーソスの味わいは、なかなかのものだった。もう、おもしろそうなテレビ番組があるからといって、今日はあの番組を見るぞ~!――なんて気合をこめるようなこともなくなっているので、やってくれても見るかどうかわからないが、いつかのんびりすることができる時間ができたら、もう一度あの人の作品を見てみたい気がする。

 それにしても、このところ、世のなかはユーロ危機でかなり動揺している。『トレント最後の事件』の冒頭の書き出しを思い出す。わたしたちは本来、独自の視点や考えかたをもてるようにするために教育を受けているはずだが、いまの学校教育では、先生や学者や、要するに他人のいうことを鵜呑みにしてそのままの解答を出す子が優秀とされる風潮が定着してしまっているので、資本主義社会が本来前提としている構成員個々の「自然なバランス感覚」を期待するのは難しい。70年たってもまだ「大本営」は生きているということか。

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by pivot_weston | 2011-11-25 14:53 | ブログ

ペニーとルイス

 ペニーとルイスは都会のビルとビルの谷間に住んでいる。

 ほんとうの谷間。でも、そこには、空間もある。

 どうしてそんな空間ができてしまったのか。道に沿ってびっしりとならんだビル。そのうちのひとつは、道から見てビルの横、つまり側面に入口がある。わきを通って、入口まで行く通路は、そのビルに出入りする人しか使わないので、側面のなかほどにある入口から先へは、ふつうはだれも行かない。

 だから、そこがペニーとルイスの住みか。うまい具合に、というか、どういうわけか、というべきか、その入口の先の、ふつうはだれも行かないところに階段がある。3段や4段の階段ではない。10段以上もある。背の低い大人なら、背伸びをしても、上になにがあるか見ることもできない。しかも、これまたうまい具合に、そこは草ぼうぼう。ビルの1階とも2階ともつかないところに部屋があり、そこからベランダが大きく突き出しているが、どうやらそのベランダに出る部屋の窓は「あかずの窓」らしく、いつもカーテンが閉まっている。

 ビルとビルの谷間の、でも決して息苦しいほどに狭いわけでもなく、ちょっとした庭といえるくらいの広さがあるけど、ふつうはだれも見向きもしない草ぼうぼうの空間。突き出したベランダの下に、だれが捨てたか、古いソファと毛布が放置されていて、そこが、ペニーとルイスがけなげに夫婦生活を営む空間になっている。

 見上げると、1本の木。こんな、ろくに日も差さないところでよくも育ったものだと思えるほど高く伸び、葉もびっしりと繁らせていて、ちょうど、ペニーとルイスの「……でも楽しいわが家」の「せめて雨露をしのぐ屋根」になっている。

 はは。だれもうらやましいとは思うまい。だけど、ペニーとルイスはそこでお互いに相手をいたわりあいつつ、いつも好奇心旺盛なペニーのあとにもぞもぞとルイスがついていくかたちで、それなりに変化のある毎日をすごしている。

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国会見聞記(4)

(これは不定期連載でお届けしている記事です。流れがわかりにくい場合は、右の「カテゴリ」の「国会見聞記」をクリックし、前の記事を参照してください。)

 2年前には、国会議員会館も、かつて20代のわたしが何度かおじゃましたときと同じ古い議員会館のままだった。

 わたしが手伝いをはじめた彼の事務所はそんな古い議員会館のひとつ、衆議院第1議員会館の3階にあった(国会議員会館は昔もいまも、国会議事堂の真裏に、首相官邸と道を1本隔てて、衆議院第1、衆議院第2、参議院の順に3つならんでいる)。最初は秘書でもなんでもなかったので、行くたびにいちいち入口で面会申込書(衆議院の場合は「面会証」といったか)を書き、それを受付の人に渡して、内線電話で事務所側がこちらの訪問を承知していることを確認してもらってから、「では、どうぞ」と通してもらわなければならなかったのだが、その受付を通ってから、わきにまわって(というか、受付のほうが「わき」にあったので、入口から見ると正面、つまり、いちいち受付などを通らなくてもよい議員や秘書にとっては、入口をはいってそのまま)のぼる階段、これがまた、前近代的でなんともなつかしかった。

 近ごろでは、どこのビルへ行っても、入口の階段は勾配がゆるやかで、段数もそんなにない。ところが、古い国会議員会館の入口の階段は、ギリシア神殿の入口もかくやと思わせるほど勾配がきつくてそんなに短くもなかった。国会議員の事務所が集まったところなので、体が不自由で健常者本位にできた勝手の悪い世のなかをなんとかしてほしいと訴えに来る人もけっこういるのに、そんなありさまだから、何度も通っているうちに、その階段の前で逡巡している体の不自由な人を見かけたりすることもあり、そういうときには、これまでの世のなかがどういうものだったかを思い知らされる気分になったりしたが、自分もそういう現実を気にもかけず、無神経に若い時代をすごしてきた身としては、最初に、久しぶりに訪れたときには、さ、なかへはいろうとしてその前近代的な急勾配にぶつかったところで、思わず笑いがもれそうになった。

 ただ、階段の上は昔と違っていた。受付でもらった面会申込書(の写しだったかもしれないが)を手にもってのぼっていくと、映画館の切符のモギリの人(古い表現か)よろしく、上で衛視(警備)の人が待っていて、「はい、こちらへお願いします」と、その面会申込書のほうへ手を差し出して、受け取ったその申込書の片隅をちぎりながら、進路を案内してくれる。金属探知機だ。9.11もあった、まあしかたあるまい、と思って、財布やら携帯やらなにやらをいったんプラスチックの容器のなかに出して、およそ生身と布地くらいの、やわらかい身となってあの縦長の四角い枠をくぐったが、ズボンのベルトのバックルが金属でできていたので、ピーッと「待て」の合図が鳴った。

 それでも、衛視さんは決して「おい、こら、待て」などとはいわない。ハンドヘルドの探知機をもってきて、「あれ、なんでしょうね?」とずいぶんていねいなもの言いで、こちらの姿をよく見ながら、わが身のことなのにまだどこに金属部分があるかも思い出せないわたしにその探知機を当て「あ、もしかしたら、これですかねえ」とその問題部分をさがし出してくれた。しかも、空港のように、もう1回枠をくぐれともいわない。ベルトのバックルが反応したのだとわかったところで、では、それをとってもう1回枠をくぐろうかといっても、「ああ、いいです、いいです。そこまでしていただかなくても」といって通してくれる。

 別に、国会議員会館の入口で露出狂のおじさんになられても困ると思ったわけではあるまいが、これでまたひとつ、いい話のタネができた。

 わたしは10年近く前に訳したサービスマスター社のかつての社長、ウィリアム・ポラードさんの『企業のすべては人に始まる』という本のなかに書いてあった考えかたに大賛成だ。ポラードさんは、ひまを見ては従業員の職場を見に行ったという。そして、見に行くと必ずそこにいる従業員に声をかけたとも書いてあった。なんでもない、「がんばってるね」とか(清掃会社だから)「きれいになってるね」とかいったたぐいの言葉だ。

 人は自分のしている仕事にだれも注目していないと感じると、しだいにその仕事のしかたが粗雑になってくる。従業員がそうなる会社では、たいてい社長も粗雑だ。社長と従業員といっても、将棋の「王将」と「歩」のように、集団のなかの一枚の駒であることに変わりはない。「王将」がいくら強くても、「王将」だけでは将棋に勝てないのはもちろんのこと、「王将」と「歩」をはじめ、すべての駒がひととおりそろっているだけでも、わたしの将棋と同じで、なかなか将棋という勝負には勝てない。

 循環型社会ではないが、「集団」は情報や気持ちがその目的に応じて、むらなく、効率的に循環しないと「組織」にはならない。社長が、自分はどんな社長であるべきかと、自分のことにばかり思いをめぐらせ、従業員の前ではえらそうにしているのが自分の仕事だと勘違いしていたりすると、外へ向かっていくらすばらしいビジョンをもっていても、その集団にとってもっとも大切なお客さんとのインターフェイス、つまり、そのビジョンを実現する最前線にその意思は伝わらない。社長も従業員と同じ組織の一構成員として、持ち場持ち場でその組織全体を機能的にはたらかせる役目があり、お客さんとのインターフェイスで床をはいている従業員がいたら、そこに組織の意思や元気を吹きこむ役目を果たさないと、組織の機能が有機的にはたらかず、ばらばらになってしまう。

 それが、ひと声かけるだけでひっくり返る、とポラードさんは書いていた。だから、現場を見に行ったときには、簡単な言葉でいいから、必ず従業員に言葉をかける。それだけで、従業員には、自分のしていることを組織のトップが気にかけていることが伝わり、仕事に熱がはいってきて、やがて、熱のはいった従業員のあいだから、ここをこうすればいいのではないかというアイデアや意見も出てきて、それが循環しだし、組織全体がひとつにつながって有機的に機能しはじめる。ポラードさんはそう書いていた。そのとおりだと思う。わたしたちはだれも、人とのつながりのなかで生きている。ひとつひとつの場面から、そのつながりを大切にしていくことが、いい企業をつくることだけではなく、いい世のなかをつくっていくことにつながると思い、スーパーで買い物をするときにも、なにをするときにも、いつでも目の前にいる人と、自然にきっかけができれば、言葉を交わすことにしている。

 ま、ポラードさんの場合は社長で、わたしの場合はただの外部からたずねてくる面会人だから、同列に語るわけにはいかないが、それでも、それがわたしが世のなかに対してできることだと思っているので、衛視さんたちの前だって、黙って仏頂面で通過する気にはなれない。

 だから、2回目に行ったときからは(ベルトのバックルが金属でできていることを忘れていなければだが)、財布や携帯やなにかをプラスチックの容器に入れたところで、ぷちっとバックルのフックをはずし、なにもいわれないうちに、居合抜きのようにさっとそのベルトを抜く。すると、衛視さんたちは(とくに女性の衛視さんたちは)「や、や、そこまでは……」といって、露出狂になりそうなおじさんを止めにかかる。

 となると、話のきっかけはできたわけで、「いや、いつもこれが鳴るんだよ」とかなんとかいって、笑顔をつくる。衛視さんも、まあ、そういうことなら、といったようすで笑顔になってくれる。で、ズボンがストンと落ちそうな不安にかられながらも、おなかに力を入れてそこをせいいっぱいふくらませながら、無事に音なしで通過することができたら、また、プラスチックの容器にはいって金属探知機のわきを通過してきたベルトをズボンのループに通しながら、「みなさんもたいへんだよね、このおじさんみたいにピーピー鳴らすのがいるから」「こんなの、鳴るなら、してこなきゃいいんだけど、人にもらった大事なものだから、しないわけにもいかないんだ」とかなんとかいって会話ができる。

 衛視さんたちのほうもいろいろだ。「いえいえ、とんでもない、どうぞ気になさらないでください」といってくれる衛視さんもいれば、なにをいっても聞こえているのだか聞こえていないのだか、まったく無反応な衛視さんもいる。なんといっても、こちらは第1話に書いたように、雌伏20年の末にめでたく国会議員になった彼が再会するや否や、その第一声に「ホームレスみたいなおっさん」といった見てくれだ。そういう衛視さんのなかには、バッジを見るととたんに動きがすばやくなるような衛視さんもいるので、ま、身のまわりでひとりの革命を心がけているこちらにとっては、そういう衛視さんはそういう衛視さんで勝手にやってくれればいいのだが、前者のような衛視さんのなかに、たまに、ちょこっと言葉を交わしたところで気持ちが活性化され、元気のいい声で「行ってらっしゃい」なんて声をかけてくれる人がいたりすると、こちらも「おう、みんなもがんばって」と言葉を返して足取りが軽くなる。

 で、いざ3階へと向かうのだが、3階だから、いちいちエレベータなどを使うのは面倒くさい。だから、いつも階段をとんとんとんと駆け上がることになるのだが、衛視さんのひとことで足取りが軽くなったようなときには、たいてい続きがあるもので、踊り場をまわって一段飛ばしに3階のフロアに上がっていこうとすると、反対にそのフロアから降りてこようとしたどこかで見たような顔のおじさんが「おっ、どうも」などと片手をあげて笑顔であいさつをしてくれたりする。

 こちらも「おっ、どうも」。でも、待てよ――と、その人とすれ違い、階段を上まで上がったところで思う。ここはわたしの仕事先の会社でもなんでもない。国会の議員会館だ。「どこかで見たような顔のおじさん」だと思って、なんの気なくあいさつをしてすれ違ったが、だれだ、あれ?――とフロアを歩きながら考える。で、しばらく歩いたところで、ようやく、ああ、宗男さんか――ということに気がついた。もちろん、一面識もなかったが、なんとも自然で、一瞬、こちらが知り合いと会ったように錯覚して「おっ」なんていう言葉を返してしまうような接しかた――さすがはたたき上げの政治家、なんて思ってしまう。

 それにひきかえ、同じ3階のフロアにあった麻生さんの事務所はいつもドアを閉ざしていて、自然さも、陽気さもなかった(どういう理由からかは知らないが、議員会館の議員の事務所の多くはいつもドアをあけはなっている。これも昔からのことだ)。麻生さんの場合には、2年前の政権交代直後には、さぞかし傷心だったのだろうから、それもしかたがなかったのかもしれないが、新しい議員会館に変わってからも、エレベータホールで見かけた麻生さんは、のっしのっしと妙にもったいつけて歩きながら、自分の背広の襟やズボンの折れ目ばかりを気にしていた。アニメや漫画の世界にはたいへんなファンがいるらしいので、失礼かもしれないが、わたしから見ると、つまらない。つまらない人間は政治家にしてもつまらない、と思ってしまう。

 そこへ行くと、おもしろかった、というより、味があったのは、公明党で厚生労働大臣も経験した坂口さんか。国会は、いってみれば、この国の頂点。議員会館のなかにお店があれば、そこだって「頂点風」のお店、つまり、時代の最先端を行くようなお店になりそうな気がする。でも、国会には、地方、つまり末端の人たちが集まる場という側面もあるからか、古い議員会館時代には、衆議院第1議員会館の地下に、一歩足を踏み入れたときに、あら、昭和30年代だ、と錯覚するような喫茶店があった。

 狭くて、小ぶりの白い皮張りかなにかの椅子がならんでいて、鉢植えのレンタル屋さんの観葉植物かなにかで仕切られていて、飲み物以外のメニューといえば、サンドイッチにピラフといったお店。やっていたのも、テレビ朝日の「ちい散歩」で地井さんが立ち寄る町の商店街にいるようなおばちゃんとおじちゃんだった。

 わたしにとっては、うれしい空間だったので、ちょこちょこと立ち寄っていたら、あるとき、その狭い喫茶店のなかほどのテーブルで、坂口さんがお昼ごはんを食べていた。おそらく、上品なかたなのだろう。背筋をまっすぐに伸ばしてすわり、サンドイッチだかピラフだかのお皿にのっていたものも、きれいにかたづいていた。大臣まで経験した人だから、場合によっては、ふんぞり返っていてもおかしくないのだが、そうしてまっすぐに背筋を伸ばしてすわり、なんだか遠慮がちにまわり全体に意識を向けていることがわかる。

 廊下ですれ違ったときもそうだ。坂口さんとは、その後もよくいろんなところで出くわしたが(もちろん、向こうはわたしのことなど知らないが)、いつもどこかおどおどと、遠慮がちにしていて、その姿を見ていると、なんか、この人は悪い人ではないのだろうなと思い、ほほえましいような気分にさせてくれる人だった。

 最悪なのは、この喫茶店で遭遇したどこかのメディアの政治部の記者たちだ。狭い店なので、そばのテーブルで話していることはすべて聞こえてしまうのだが、ずっと、「あいつは……大臣になりたいんだ」「あいつは……のほうについた」みたいな、通り一遍の政界裏話ばかりしていた。彼らは大学を出て、新聞社やテレビ局にはいり、そういう話をその世界の言語として教えこまれるのかもしれない。しかし、それは、「ああ、今日はいい天気ですね」とか「近ごろは景気が悪くていけませんねえ」とかいった漠然とした生活言語からはじまって、「じゃあ、ここをこうしなきゃいけない」「いや、おれはこっちをこうしたほうがいいと思う」というベーシックな政治言語にいたり、最後に行き着く裏言語だ。その裏言語を、大学を出たての若者が、先輩たちが使っているのを聞いて、それを語るのが政治部の記者の仕事だと思いこんでいるのではないか。だから、最近のメディアの報道は、生活の現場から政界にいたるプロセスの前段階を無視した裏言語のオンパレードになり、政治という循環型社会のなかでメディアが踏まえるべき生活のにおいや現実が希薄になるのではあるまいか。循環型社会のなかで一面しか機能しなくなった構成分子は、その存在意義を失い、弊害ばかりを生み出すようになる。メディアの記者も、入社したらまず世のなかの人たちの生活の現場でしばらくはたらいてから、政治の報道をするようにしたほうがよい。

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by pivot_weston | 2011-11-23 08:58 | 国会見聞記

トップセールスはでっかく1兆9000億円超――ですと(メルマガ配送予告)

 週刊メールマガジン『米国政府情報』第21号「トップセールスはでっかく1兆9000億円超――ですと」は、本日13:30配送予定です。

 しかし、それにしても、あまり外国の航空会社のことを知らないので、驚いたけど、インドネシアのライオン航空という会社はどれだけもうかっているのでしょうね。今回のハワイのAPEC首脳会議からはじまったアジア・太平洋地域訪問の旅の最後に、オバマさんはこのライオン航空とボーイング社とのあいだで、なんと飛行機230機、総額200億ドル(今日の相場で1兆5000億円ほど)の商談をまとめたみたいです。すごい、すごい(オバマさんとライオン航空のどちらを「すごい」といったらいいかわからないけど。あ、タイトルの金額はそれ以外にまとめた商談も含めた金額です)。

 あと、先週のネタでは、やはり米国海兵隊のオーストラリアのダーウィン駐留の決定かな。中国が支配しようとしている南シナ海をにらむには、なかなかいい位置といえるのでしょうか。

 ただ、南方の海といえば、70年前に日米開戦の発端にもなったところ。あのときは、米国が日本の首根っこを容赦なくぎゅっと締め上げちゃったので、日本もたまらず暴走するしかなくなった面があったので、今度はどうかやんわりと、中国も米国も、それからまあロシアも(もちろん、日本もでしょうが)、じわじわとこの地域にしみこんで、どこがだれやらわからなくなって、気がついたら、みんな混合のアジアができていた――という方向へ、みんなしてもっていきたいものですね。

 そうそう、インドネシアのバリでオバマさんと会ったあのタイのインラック首相、なんだろうなあ、あんなキュートな人が首相をやっているなんて。もしかすると、タイの人は自国の首相を娘を見るような目で見ているのだろうか。オバマ大統領との会談の前に一所懸命に英語でオバマさんに語りかけるところは、ちょっと見ものです(別にこのメールマガジンを購読しなくても、ホワイトハウスのWebに動画が掲載されているので、まあいっぺん、ごらんあれ)。

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秋山クンと立花クン

 秋山監督のソフトバンクが日本一になった。

 めでたい、めでたい、と思いながらテレビを見ていたら、ベンチのなかになつかしい顔がいるのが目にはいった。

 あの、かつての日本シリーズでホームランを打ってホームインする直前に宙返りをして見せた抜群の運動神経の持ち主、秋山クンが西武ライオンズに入団したころ、同球団には「19歳の3番打者」がいた(そのときには、22歳になっていたけど)。

 いまの福岡ソフトバンク・ホークスの(主として)昭和30年代バージョン、西鉄ライオンズが黒い霧に包まれ、太平洋クラブ・ライオンズに変わり、クラウンライター・ライオンズに変わり、紆余曲折の果てにようやくしっかりした経営母体、西武グループを見つけ、「寝業師」根本陸夫さんのもとでふたたび強いチームに生まれ変わろうとしていたころだ。

 根本さんのやることには、体育会系の人たちの世界らしく体制に従順な人の多い野球界にあって、いろいろと見る者をスカッとさせてくれるところがあった(豊田さんといい、大久保クンといい、水戸出身の野球人には独特な人が多いが)。

 その根本さんが、クラウンライター・ライオンズ時代にご当地・福岡県の高校からはいってきた選手をいきなり1軍の3番バッターに抜擢した。

 どんな選手だろう、という興味が湧いてくる。ついついわたしも「根本マジック」にはまり、その「19歳の3番打者」、立花義家選手を新聞やテレビで追っかけるようになった。

 さすがに根本さんは炯眼だ、と思った。その立花クンが22歳の年には年間打率.301をマークして、堂々たる主力打者に育ってきたからだ。

 よし、このタチバナという選手は新しい伝説をつくるぞ、と思い、だれかれとなく「タチバナはいい」「タチバナはいい」と吹聴していたころだ、熊本県の高校からドラフト外ではいってきた選手が、なにやらすごい能力の持ち主で、高校時代は投手だったけど、プロでは「タチバナ」と同じ外野手としてスタートするという話を耳にしたのは。

 当然、「タチバナ」を応援していたこちらは、なんだ、われらが「タチバナ」がそんなやつに負けるものか、と思う。でも、どうも立花クンは(もちろん、ほんとうのキャラクターなど、わかるはずもないが)遠くから野球を見ているかぎりでは、とても人のいい人のように見えた。ときどきその、根本さんが見抜いたキラリと光る才能をのぞかせるのだが(たとえば、江夏さんがメジャーに挑戦した年の春にはオープン戦で首位打者か、そうでなくてもそれに近い打率を残したのではなかったか)、しだいに凡退する姿が目立ってきて、そのうちその凡退する姿もなかなか見られなくなり、代わって、アメリカで修行してきた秋山クンが噂の能力をどんどん発揮して、いつのまにか常勝・西武ライオンズの4番にすわっていた。

 もちろん、あのころの西武の外野には、金森、岡村、笘篠といったいろいろと技のある選手がそろっていたので、立花クンの出番が減ったのも、なにも秋山クンのせいばかりではなかったのだが、そんな経緯があったので、立花クンを応援していたわたしのなかでは、ずっと秋山クンをすごいと思いながらも、なんか、もやもやしたものがあった。

 最近でも、秋山クンがずっと王道を歩いてソフトバンク・ホークスの監督に就任するのを見ていると、立花クンが一時台湾で野球をしていたことを思い出し、わびしい思いにかられることがあった。

 でも、昨日のテレビを見ると、そんなふたりが仲良く黄色と黒のユニフォームを着て、同じベンチにいた。一ファンとしては、優勝にもましてめでたい光景だったかもしれない。

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by pivot_weston | 2011-11-21 07:43 | スポーツ