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もっと自分たちのいまに関係することを

ホワイトハウスの関係者が
Twitterで時計の針がカチカチと進んでいることを伝えている。

米国の連邦債務上限引き上げの問題が
いよいよ8月2日のデッドラインに迫ってきて、
それでもなお、
伝わってくるのは民主・共和両党の互いの責任を指摘する声が多く、
妥協の気配がいまひとつ明確に伝わってこない。

きわめて重大な問題ではないのだろうか。

米国が借金返済ができなくなり、
その信用格付けが変更されれば、
円相場や日本の国家資産にも影響し、
これから復興しようとしている日本の経済にも
大きくて深い打撃を受けることになるのではないだろうか。

ギリシアの復興プランも揺らぎ、
そうなれば、EU全体も揺らいでくるだろう。

なぜ、それでも下院共和党ががんばるのか、
その背後にいる「ティーパーティー」に
自分たちの暮らしや利益以外のこと、
たとえば世界経済などに対する責任意識がどこにあるのか、
よくわからない。

なぜ、それでも日本のテレビマスコミなどが
この問題を大きくとり上げないのかも、
よくわからない。
(ネット上では、逐一報道されているみたいだが。)

中国の列車事故も
中国に体制変革を迫り、
世界的にも重大なニュースに違いはないのだろうが、
日本も高度経済成長期には何度も大きな列車事故を経験した。

ともかく、
今週はこのデッドラインが現実に訪れる。
わたしはもっと日本も注目していいことだと思うのだが。

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自縄自縛の愚かしさ(4)

(これは不定期連載でお届けしている記事です。流れがわかりにくい場合は、「自縄自縛」のカテゴリの過去の記事を参照してください。)

 わたしの場合は、小学校高学年のころから「文学なんぞ、女のするもんぞ」と口走りだし、自分をひとつの枠にはめこもうとしたと思っていたが、その当時はまだ宣言するだけの段階で、ただの転換期にすぎず、実際にその枠に収束する度合いが強くなり、縛りかたがきつくなったのは、あくまで貧乏からの脱出口と目していた「大学受験」が現実化した一時期、年数にすると3、4年のことにすぎなかったのかもしれない。

「二宮金次郎」や「乃木将軍」の縛りをかけようとしていた祖母が亡くなり、小学校を中心とした世界でわたしを守ってくれていた姉も卒業し、4年生になった始業式の日の朝、わたしは明確な意思をもって登校した。

 教室のいちばん前のいちばん右、先生がはいってくる入口のいちばん近くの席だったか。新しく担任になったおじいさん先生がはいってきても、まったく前を向かず、ずっとうしろの子と、わざと大きな声で話をしていた。

「おとなしい」「おとなしすぎる」といわれるのが、ほんと、心底わずらわしくてわずらわしくてしかたなかった。だから、その日は朝登校するときから、そんなら、ほんとうはそうじゃないところを見せてやろうじゃないか――と心のなかでつぶやいていたのをおぼえている。

 幼稚園から3年生までは女の先生ばかりだったので、おじいさん先生がいきなりわたしの頭を上からわしづかみにして、ぐいと前へ向けたときには、いささか面食らったが、注意されても「すみません」ともなんともいわなかった。

 あれ、この子はこんな子だったかな?――と、いぶかるようなおじいさん先生のしかめつらと、え、なんであの子が?――といういっせいにこちらへ向いた同級生たちの視線も多少は快感だったか。

 みるみる「××大学・命」の枠に閉じこもっていった15歳前後のころとは逆に、このころは、バリバリとそれまでの自分の殻を割っていく音が聞こえてくるような時期だった。

 制服はあっても、制服を着ない。ランドセルも手提げかばんももたず、「ブックバンドや」といって、教科書を裸のままひもで縛って学校に行く。前回書いたラブレターのようなものを書いたのもこのころだった。給食の時間の校内放送の当番だったのに、放送室へ行かずに教室にいて、当時わが校でいちばん怖く、地図をさす棒で生徒をなぐりまくっていた先生が「なんでせんのぞーっ(どうしてしないんだ)!」といって怒鳴りこんできても、「ふん、しとないきんじゃ(したくないからじゃ)」といって、にやりと笑ってにらみ返したこともあった。放課後には、なにかの雑誌にのっていたアイデアだったか、運動場の隅に落とし穴を掘って、そこからわきの木の枝にロープをはわせ、その先に漬物石よりも大きな石を縛りつけて、たまたま近くを通りかかった上級生に手招きをし、まんまと落とし穴に足をつっこんだその上級生のかかとのあたりにドスンとその漬物石を落下させたこともあった。かと思えば、同級生を誘って「おーい、マツボックリのぶつけあいをしょーぜぃ」というのはまだしも、「おーい、ハンゴロッシャイ(半殺し合い)をしょーぜぃ」などといったりもする。まあ、それは言葉だけで、実際には田んぼに積まれた稲わらの上でぴょんぴょん飛び跳ねる程度のことだったのだが、父のタバコ「いこい」をひと箱くすねて夕方までにからっぽにしたのもこのころだったか。休みになると、ひとりで、あるいは仲のよかった友だちとふたりで、まだのどかだった田舎の野道を自由きままに自転車で走って町まで行き、途中でよその小学校の子どもたちと石のぶつけあいなどもしながら、あちこちでちょろちょろと、大人が見たら「こらこら」といいそうなことばかりしていた。

 とにかく、それまで「おとなしい」「おとなしすぎる」という、わずらわしくてしかたのない形容詞をかぶせられていた自分のイメージが変わるのが痛快で、どんどんその快感にのめりこんでいった。

 大人になってから、当時の先生がたとお会いしたときには、みんなが口をそろえて、「ほんと、ひとつ間違えたらとんでもない子になる」と思って心配していたと明かしてくれた。だろうな。

 でも、人間は一時期の殻を破ったところで、そう簡単に自由になれるものではない。たとえ、なにも大きな間違いはおかさなくても、少年期には、じわりと、いつのまにか、外側からではなく、内側からまといついてくるものもある。

 大好きだった父の本棚があった部屋には、もう1か所、本がならんでいるところがあった。

 入口の「上」。そこに、小学生ではちょっと手が届かないくらいの高さの棚があり、あまり厚くないけど、ちゃんとケースにはいった同じ装丁の本がずらりとならんでいた。

「全集」という観念は、自分でも世界童話全集を1冊ずつふやしていたから、あっただろうか。「美術」だったか、「名画」だったか、ともかく、その手の文字が本の背にきれいにならんでいた。

 なぜだろう、かつては「おとうちゃんの本」といって見せてもらおうともしなかったその本に、たしか、この時期のある日、学校から帰ると、木製の脚立をもち出してきて、手を伸ばした。

「ルネサンス」という文字がはいった1冊をとり出したと思う。

 きっかけなんて忘れてしまうものだが、衝撃は忘れない。

 最初に目に飛びこんできたのがボッティチェリの「ヴィーナス誕生」だったか。

 まずは見入った。そして、どきどきしている自分に気づいた。

 同じボッティチェリの「プリマヴェーラ」、ティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」、コレッジオの「イオ」あたりの画像も記憶に残っている。

 現代のわたしたちから「芸術家」と呼ばれている人たちが、なにもかもがもっとシンプルだった時代に、自分たちや発注主の宮廷人たちの本能や思いや願望のおもむくままにものした作品の数々だ。

 なまめかしい肢体やなまめかしい表情。

 単純化しすぎかもしれないが、わたしはそもそも、男女の交情はこれがすべてではないかと思っている。

 いつもいっていることだが、生命の本流は女で、男は遺伝子の一時貯蔵庫のようなもの。木でいえば、女が幹で、男は葉っぱ。わたしたちの生き物としての究極の目的は、いったんその一時貯蔵庫のほうに分けて保管していた遺伝子の片割れを本流のほうへ呼び戻し、合体させて次の個体を生み出すことにある。

 そのために、わたし自身は「葉っぱ」のほうだからよくわからないが、幹の話を聞くと、無限の奥行きがあるという、快感、悦びを生み出すメカニズムがその体に埋め込まれている。

 わたしたちを究極の目的の達成へといざなう装置だ。

 幹は、その葉っぱには味わえない悦びにひたることを予感したり、期待したりしたときに、その顔に「なまめかしい表情」を浮かべる。

 すると、それを見た葉っぱにもスイッチがはいる。

 大昔の芸術家たちが、まだ素朴だった心で残してくれている作品の数々は、その、わたしたちの種としての生存の基本メカニズムをどんどん、ぐるぐると回転させてくれるものではないかと思う。

 わたしたちが感じる美とは、例外なく、そういうものだと思っている。

 とにかく、わたしはその、大昔の芸術家たちが記録し、表現し、残してくれていたものに夢中になった。次の日も、次の日も、そのまた次の日も、道草もせずに帰ってきては、囲碁・将棋や日向ぼっこ三昧に明け暮れていた祖父がそばにいないのを確認すると、急いで例の棚から本を引っ張り出し、より興奮するもの、もっと興奮するものをさがしていった。木の葉のさがだ。

 亡くなった祖母が口にしていた二宮金次郎や乃木将軍の行跡には、こういうことは含まれていなかった。

「おとなしい」「おとなしすぎる」といわれていたわたしの輪郭からもはみ出すことのように思えた。

 こういうときには、まわりの人がはみ出したところをさらりと受け流してくれるといい。

 実は、わたしにとって、全裸のオンパレードとの遭遇はそれがはじめてではなかった。

 5歳のころだったか、元指物大工の祖父の細工場(さいくば)の床に、いまの月刊『文藝春秋』くらいの厚さの雑誌がころがっていた。

 祖父もそばにいたが、だからといってどうとも思わない当時のわたしがそれをぱらぱらとめくると、なんと、全ページが金髪の女の人の素っ裸の写真ばかりだった。

 呆然としてとろんとそれに見とれる間が少しはあったように思うが、それでも、まだ素直だった5歳の坊やは、「おじいちゃん、なんでこの女の人、みな裸なん?」とたずねた。祖父の返事は「さあ」。どうでもよさそうに答えている。そして、「それはとなりのおっさんのじゃ。返してきてくれるか」というので、わたしは「ふん」と答えて返しに行った。

 ただそれだけのこと。だが、その記憶が、この全集に収められた芸術作品を目にしたときに、よみがえってきた。同じようにわけはわからないながらも、体の反応は、5歳のときと10歳のときでは違う。

 わたしは、こうなれば、芸術全集だけでなく、あの写真集ももう一度見たい、なんとしてももう一度見たいと思った。

 で、おずおずと、ひがな一日競輪に明け暮れるとなりのおじさんのところへ行き、「あの……ほれ……なあ……何年前やったか、前にうちのおじいちゃんが貸してもろとった本があったじゃろう。なんの本やったかなあ……わからんきんど、あれ、……もっぺん貸してくれるかな」といった。

 ひがな一日競輪に明け暮れていたおじさんは、それまでは一度もわたしの顔を正視したことなどなかったのに、細い目をまっすぐにこっちへ向けて、おじさんなりに顔の造作を正座・端座させた状態で黙ってこちらを見ている。

「はは……なんやったかなあ、もう忘れてしもたんやけど、あれ……なあ……あれ……」こちらはそういって、うつむく。

「なんじゃろなあ」おじさんはぼそりとそういった。

 こちらのほんとうの意図を見抜いているのかいないのか、よくわからない。だけど、そういわれると、こちらがもう緊張感に耐え切れなくなり、「まあ、えわえわ……ほんなら、ええわ」といって、すごすごと引き揚げてきた。

 おじさんはわたしのアドレッセントの変化に気づいていたのだろうか。

 わたしのほうは、念願かなわなくとも、母が買ってきていた女性週刊誌で川上宗薫先生の小説を読み、そんな一件など頭からすっ飛ぶような思いをして、ますますにょろにょろと少年期の輪郭からはみ出していったのだが、このおじさんの対応は、例のラブレターを見たおじいさん先生の「子どもがこんなことをするでない」よりはるかによかった。

 10年ほど前に、ほんの短期間だったが、お世話、というか、お相手をしていた末期がんの患者さんが精神病院の看護師さんで、こんな話をしてくれたことがある。

「わたしは統合失調症の患者さんがいちばん好きなんです。たいへんなときはたいへんなのだけど、それ以外はだれよりも親切で、だれよりも紳士的で、あの人たちといる時間がいちばん好きなんです」

 その話を聞いたとき、ふと、生まじめな人たちがおろおろと、懸命に自分を抽象的な枠におさめようとしながら生きている姿が頭に浮かんだ。

 専門家ではないので、客観的なことはなにも知らない。でも、人間は本来、だれでも不定形で、あらゆる要素をもっていると思うから、そうして生きていこうとしていると、必ずその枠からはみ出すときがある。

 そういうときに、わたしのようにずぼらな人間ならいいが、几帳面で生まじめな人は、ひとつの枠におさまりきらない自分のやり場に困るのではないか。そして、しかたなく、そこからあふれたものの受け皿として、もうひとつ別の枠をつくる。

 この枠というのは、それぞれにひとつの世界を構成していくものだから、どこか地球と似たところがあって、枠内のものを中心に収束させようとする重力がはたらく。だから、ふたつ、三つと枠ができていくと、そのそれぞれに中心に向かう重力がはたらき、枠のなかのものと別の枠のなかのものの乖離は大きくなっていく。

 そういうことではあるまいか。

 だから、ただただかわいいだけの子どもたちが大きくなっていくときには、変に早くから職業やなにかで仕切られる抽象的な枠を与えず、悪いことをしたら悪い部分を加算し、エッチなことをしたら、またエッチな部分も加算するというように、加算方式でその子の全体像をつくってやれたらよいのではないかと思っている。

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by pivot_weston | 2011-07-30 16:25 | 自縄自縛

孤独な魂――伊良部秀輝投手へ

プロ野球の伊良部秀輝投手が亡くなったことが報じられている。

結局、そうだったのか――といいたくなるような結末だ。

野茂くんは夢や可能性を求めて海を渡った。
伊良部くんは救いも求めて海を渡った。

自分のおさまりどころをさがしつづけた人
ではなかったのか。

香川にいたころ、
生協の宅配に来るおにいさんが、
伊良部くんが通っていた高校のとなりの高校の野球部の出身で、
しかも、彼と同年代で、
こちらからお願いするまでもなく、
彼がいかにすごかったかを語ってくれた。

野球のすごさだけではなく、
その他のすごさも含めてだ。

その話からは、
大きな体の伊良部くんが
はた目には「のしのし」とか「ずかずか」とかに見えても、
内面では「おろおろ」していたようすが浮かんでくるようだった。

監督をしていた大河さんも
彼のことではずいぶん悩んだのではないだろうか。

内面的にもとてもいいものをもっている人だということは、
ときおりちらりと見せた、坊やのような笑顔でよくわかった。

そして、そんな笑顔になったときには、
少し目が上目遣いになり、
たとえ、身長のせいで上から見下ろしていても、
相手の人を、どこか物陰から仰ぎ見ているような表情になっていた
ような気がする。

わたしたちの感覚からいえば、
達成できるかぎりのことを達成した人のように思えるが、
ご本人はなにも達成できていないようなもどかしさや苦しさを
ずっといだきつづけていたのかもしれない。

まわりの人たちも
どうすればいいのだろう、
どうすれば彼に幸せになってもらえるのだろう
と心を砕きつづけていたのだろう。

なにかとなにかが、たまたまうまくかみあって、
彼に安心してあの坊やのような笑顔でいられる世界が見つかっていれば、
もしかすると、彼は165kmくらい出していたかもしれないとも思うが、
それはただのディテール、
そんなディテールで彼の人生を語っては、
一所懸命に生きた彼に失礼というものだろう。

大きな大きなものをかかえて
まごまごとおさまりどころをさがしながら生きることで、
それを見ていたわたしたちに
いろいろと人生について考えるよすがを提供してくれた彼には、
感謝したい。

合掌。

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by pivot_weston | 2011-07-29 10:06 | スポーツ

しばらくぶりのひとり暮らし

人生には、いろんなところに落とし穴がある。

まったく予想していなかったことに
(いや、わたしが放置していた四国の家の現状を確認した
去年の秋からは、なんとなく覚悟はしていたが)、
5月から西新宿で母と同居する、というか、
せざるをえないはめになり、
これは、お互いに勝手放題ばかりして生きてきた
母にとっても、わたしにとっても、窮屈このうえないこと。

妻が死に、
子どもたちが全員東京へ脱走してからは、
四国の家でふたり暮らしをしていたとはいえ、
あちらは部屋数がふた桁にもおよぶ築100年の家で、
しかも、わたしは裏庭にぽつんと建った
プレハブの仕事小屋にほぼ四六時中籠城していたので、
お互いに、相手が生きているかどうかを確認する必要もなく、
ま、快適といえば快適に暮らせていた。

それが、5月からは狭いマンションでドア1枚を隔てての生活に。

いや、ストレスがたまること、たまること
(もちろん、わたしより先に、母のほうがそういいたいだろうし、現に、
その「ドア1枚」の向こうで、たえず四国の友だちに電話をかけながら、
そういいまくっているが)。

でも、また母の体に問題が見つかり、
母は昨日からこの西新宿の丘の上で病院暮らしに。

ふつう、入院した母親を息子が見舞いに行ったときというのは、
悪い流れに声も暗く沈むものなのかもしれないが、
昨夜、わたしが面会に行ってカーテンをあけると、
向こうは開口一番、「快適じゃ」といってケロケロしている。
こちらも「そうかそうか」といってケロケロ。

肚のなかでは――よし、これでしばらくはまた仕事に集中できる。

でも、人間の体というのは論理的にできている。
こわばりがほぐれたときというのは、もちろん、ほぐれるのだから、
そのまま油断をしていると、別の緊張状態に移行したりはしない。
で、ほぐれまくっていると、昨夜から今朝まで、寝まくってしまった。

やれやれ、自律心だけが頼りの仕事なのに……
さ、ばらけたジグソーをもう一度組み立てなおそう。

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by pivot_weston | 2011-07-28 11:47 | ブログ

自縄自縛の愚かしさ(3)

(これは不定期連載でお届けしている記事です。流れがわかりにくい場合は、「自縄自縛」のカテゴリの過去の記事を参照してください。)

 わたしが自分の心の縛りの破綻と向き合っていた20代はじめのころには、これは時代のせいもあるのだろうと思っていた。

 若い人はプッと噴き出すか、???と首をひねるかもしれないが、わたしの幼時の人生のお手本は、おもに祖母に育てられていたこともあって、二宮金次郎と乃木将軍だった。

 二宮金次郎は、例の、薪を背負って歩きながら本を読んでいる像で有名な人。

 乃木将軍のほうは、このところこのブログでとり上げている前田和男さんの『紫雲の人、渡辺海旭』に描かれている時代の人。

 よく知らないが、あまり食べ物の好き嫌いをしなかった人らしく、晩ごはんのときに、ちょっと食べる気のしないものを残そうとしたりすると、とたんに祖母から「こらーっ、ノギショーグンはなあ……」の声が飛んできて、わたしはその見たこともない「ショーグン」のイメージを、座敷に飾ってあった戦死した伯父の軍服姿の写真と重ね合わせて想像していた。

 勤勉で、ストイックで、質実剛健――ふたりのイメージから仕込まれていたのはそんな人生の方向性だったか。

 でも、わたしはそうではない方向に時間を費やすことが多かった。ひとりで紙に絵を描いたり文字を書いたりしているのが好きで、間近で木の葉がそよぐ観音開きの窓の内側の、びっしりと本で埋まった父の本棚の前で、自分用に使うのを許可してもらったその一画に、毎月父が町から買ってくる世界童話全集を1冊ずつならべていきながら、壁に貼ってあった満州の地図をアメリカの地図と勘違いして、アメリカやヨーロッパの地に思いをはせていた。

 まだはじまってまもなかったテレビ放送のなかでも「山の彼方に」という石坂洋次郎さん原作のドラマに興味を示し、小学校の1年生の教室で、となりの席の女の子を相手にそのドラマで耳にした「好き」とか「愛している」とかいう言葉を使い、面食らわせたりする一面もあったが、どうやら大人たちから見ると、おとなしくて、おとなしくて、心配になるほどおとなしい子どもだったらしく、それをなんとかするために先生が臨時の家庭訪問に来たりもしていた。

 で、あの、ちょっとショッキングな映像に遭遇した。もじゃもじゃ髪の、猿のような人の映像だ。

 小学校1年生か2年生のころだったか、朝、学校に行く前に見ていたテレビの画面にその映像は飛び込んできた。

 自殺する直前の芥川龍之介さんの、あの有名な木に登る映像だ。

 もじゃもじゃ髪や、頭のかたちや、細面の顔が、どことなく結核病み上がりの父に似ているように思えた。

 で、つい、木に登って異様にほほえむおじさんの映像であるにもかかわらず、あ、かっこいい、ああいうふうになりたい、小説家になりたい――と思うようになった。

 まあ、どこまで自然かはわからないが、ともかく、当時のわたしの生活のなかで、だれにいわれたわけでもなく、自分で思いついたことではある。

 でも、そのころ、いろんなことがあった。

 ある朝、目がさめたら、わが家の窓ガラスという窓ガラスが1枚残らず割れていた。(当時の四国では、徳島で起きた「一家4人殺し」が大ニュースになっていて、わたしはてっきり、「香川との境の山に逃げた」といわれていたその犯人が来たのだと思いこんでしまった。)

 ある日、学校へ行ったら、それまでいちばんの仲良しで、毎日いっしょに遊んでいたヨシマサくんという子が、急に、わたしにはひとことの断りもなしに神戸へ転校したといわれた。

 わたしに勤勉な生きかたを仕込もうとしていて、ひところはわたしの世界のすべてのようになっていた祖母も亡くなった。

 そして、気がついてみると、毎月学校で積み立てていた貯金の積立金100円をもらおうとして、ないといわれたり、毎月学校で1回設けられていた米飯給食の日にもっていくお米をもらおうとして、ないといわれたり、やたらとわが家の貧しさを意識させられるできごとがふえてきて、父もまた病気になったのか、学校から帰ると例の本棚のある部屋で寝ていて、夕暮れどきに裏に出ると、着物姿で畑に立ち、真っ赤な夕日を見ながら、腕組みをして俳句をひねっているようになった。

 で、そのころ、母の実家の祖母からこういわれた。「おまえはおとうちゃんみたいになるなよ。おまえは落ちぶれた家を再興せないかん。絶対に文学なんかはせず、男なんやから、理科系へ行けよ」

 いまでも、このとき、わたしにもう少し聡明さがあれば、と思うことがある。でも、残念ながら、当時のわたしには、よほど貧乏が身にしみていたこともあったのだろうが、人のいうことはあくまで「人のいうこと」として受けとめ、ま、それもひとつの参考にはしながら、自分の頭で自分の生きる道を考えるだけの聡明さがなかった。

 で、すぐに、当時いやでいやでしかたがなかった貧乏からの脱出口はその、祖母のいう「理科系」にあるのだと思いこんでしまった。

 そして、毎日腕組みをして俳句を詠んでいる父を、まったく、どうしようもないやっちゃなあ、と思うようになり、周囲の友だちにも「文学なんぞ、女のするもんぞ。小説なんて、おれは絶対に読まん」と公言するようになった。

 多くの時代状況もこの宗旨変えを促進する方向へはたらいたと思う。

 高度経済成長期を迎え、目に映る世界には、ほんとうに母方の祖母がいうように「男は理系」の道を突き進む先輩たちが大勢いた。

 小学校で、いいなと思っていた女の子にわたそうとして書いていたラブレター、のようなものを学生服のポケットに入れていたら、講堂に忘れてしまったその上着のポケットをごそごそとやった先生に見つかって、校内放送で職員室まで呼び出しをくらい、ほかの先生がたもいるところで、「子どもがこんなことをするでない」と説教までくらった。「男女7歳にして席を同じゅうせず」の時代の名残だ。

 大好きだった野球の世界でも、阪急ブレーブスのスペンサーあたりから「ベースボール」のにおいは嗅ぎとりながらも、やはり、いまひとつ聡明さに欠ける点が災いしたのか、NHKの高校野球中継の精神訓話じみた解説の世界にひたり、やがては松山商業と三沢高校の決勝戦でひとつの極点にいたる、「血と汗と涙」の世界にかぶれた。「巨人の星」という超人気フィクションの世界も、貧乏からの脱出や、非現実的なスパルタの効能といったものをわたしの意識下に植えつけてくれただろうか。

 学生運動も盛り上がっていた。それまでいい子いい子していた学生たちが、てやんでぇー、やってられるかー、世のなかなんかぶっ壊しちまえー、と暴れまわっていたのはいいのだが、その結果、なにか大きな事件があると、そのつど、事件の主役のことが新聞に連載記事で紹介され、そうすると、いつも決まって、まだ田舎の中学生だったわたしに「おまえによう似とる」といってくる人がいて、まわりの友人たちも、「おまえは大学へ行ったら絶対に学生運動をやるな」などといって、spellをかけにくる。

 いつも心の奥でうごめいていた「偏屈者」の血が騒いだのだろうか。父の言動にはひそかに追随し、母方の祖母の指示にも素直に従おうとしていたくせに、よその人からそういわれると、豊かな暮らしをしているように見えた彼らへの反感もあったのか、意地でもそのとおりにはなるまいと思い、よし、それなら、ガリガリで冷ややかな、絵に描いたようなエリートになっちゃろうやないか、学者かなにかになって、みんなを鼻で嘲笑いながら生きる人間になっちゃろうやないか、と思うようになった。

 高校へ進むころには、もうわが家の経済もどん底から脱していたと思うが、大学から特待生としての誘いを受けていた姉がわたしを大学へ行かせるために進学をあきらめてくれたりしたこともあり、気がついたときには、もう「××大学・命」の勉強の亡者のようになり、ひどいときには、1日24時間のうちの23時間を、母に食事の準備が遅いと文句をいったりしながら、勉強に費やすようになっていた。

 で、さて、それだけ目標にしていた大学のことを、わたしはどれだけ知っていたかというと、旺文社の『蛍雪時代』に書いてあったこと以外はなにも知らなかった。

 それはそうだ、休日でも勉強していない時間は1時間だけで、たったそれだけの時間に食事もとって睡眠もとっていたとしたら、なにも情報を仕入れる時間などない。

 というわけで、とにかく目標としていた大学には難なく合格したのだが、そこにいたのは、頭のなかで「××大学××学科」という抽象的な枠だけを思い描きながら、世のなかのことをなにも勉強せずに18歳になったデクノボーだった。

 食堂にはいっても、なんといって注文したらいいかわからない。電車に乗ろうとしても、どうやって乗ったらいいかわからない。あげくのはてには、歩くときにどうやって手足を動かしたらいいかもわからなくなり、いつもうつむいて、手足の動かしかたを考えながら歩く学生になっていた。

 あまり他者に注文をしてもいけないだろうが、子どもは考える。手がかりさえ与えてやれば、考え、自分なりの方向性を見出す。その意味で、情報はあまり隠さず、適度に与えることも大切だと思う。

 子どものころに起きた「朝起きたらガラスが1枚も」の事件も、ヨシマサくんの突然の転校の事件も、大人になって話を聞いてみると、すべては流れのあることだった。

 銀行に勤めていた父がとなりの愛媛県の支店に栄転になろうとしていたのに、乃木将軍を信奉する祖母から「一家のあるじは家を離れてはならじ」とストップがかかり、ヤケを起こした父が、子どもたちがすやすや眠っているあいだに家の窓ガラスという窓ガラスを相手に蛮勇をふるい、その父が、結局、銀行をやめて、んじゃ、しゃあねえ、事業でもやっか、と話をしていた相手がヨシマサくんのお父上で、そのお父上が事業資金にしようとしていた父の退職金をもって神戸へ逃げちゃった――というお話。

 なんだ、それなら、「猿のような人」に似た父を「どうしようもないやっちゃなあ」と思うこともなかったし、自分を「反文学・理科系命」の自己強制的近視眼に追いこむこともなかったのやないか、と思ったのは、その近視眼の世界から抜けだしてからのことだった。

 パターナリズムは子どものためにならない。

(このお話は、前に、ある病院の子ども専門の精神科に看護師として勤務していた長女から、さまざまな枠にとらわれて苦しんでいる子がいっぱいいる、と聞き、どなたかひとりでも参考にしてくださる人がいれば、と思って書いています。)

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by pivot_weston | 2011-07-27 06:58 | 自縄自縛

ん!? 少し違うぞ

「かい人21面相」復活第3弾が届いた。

著者・岩瀬達哉さんの今回の筆致は
これまでと多少異なる。

少し無理がある。
前半で、これまでにも何度か出てきた「はずである」の論理を目にして、
そうかな、と思うところがぽつぽつとあった。

なぜだろう、と考え、
こうかな、と思うことがあった。

読み進んでいくうちに、
それが裏付けられた思いにいたった。

岩瀬さんはなにかをつかんでいる、のかな。
だから、早くそこにたどりつこうとして、
つい、そこにいたるまでの論理や事実の積み重ねを
急ぎすぎているのかな、と思い、
後半を読んで、その思いが裏付けられたような気がした。

期待してるよ、岩瀬さん。
論理に多少の破綻が生じるのは、
なにか大きなものをえぐり出すときには
やむを得ないことだと思う。

ぜひその「大きなもの」をえぐり出してほしい、
と思う。

週刊現代の今後の「かい人21面相」の連載記事の推移に
注目したい。

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by pivot_weston | 2011-07-26 22:42 | ブログ

それでも党利党略に走る議会を相手に(メルマガ配送予告)

週刊メルマガ『米国政府情報』第4号
「それでも党利党略に走る議会を相手に」は、
本日13:30配送です。

日本のテレビマスコミではあまり報じられていないみたいですが、
米国はいま、建国以来はじめて
債務不履行(デフォルト)に陥るかどうかの瀬戸際にあります。
昨日あたりもだいぶ円高・ドル安に振れたみたいですが、
米国が債務不履行に陥ったりしたら、
当然その影響は世界中を覆うことになるでしょう。

そういう事態を防ぐために、
先週のオバマさんはあまりおもしろみのある行事には出席せず、
協議、協議に明け暮れていたみたいです。

どうも、このところのオバマさんの記者会見を見ていると、
そのうち、
これだけの危機を迎えてもまだのんきに、
「いや、うちの党は……が基本方針だから」と、
党の主張を曲げようとしていない議会関係者に向かって、
「こらあ、おまえら、えーかげんにせーよ!」と怒鳴りだしそうな気もしますが、
このあと、日本時間の午前10時から、
White House Liveでこの問題に関するオバマさんの国民に向けた演説があるみたいです。

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9.11とオスロ・ボム

やはり、9.11はパンドラの箱を開いたのだろうか。

あの、久米宏さんの「ニュースステーション」を見ているときに
(そうではなかった人も大勢いるだろうが)、
その画面のなかで起きたこと。

現実とファンタジーがひとつになった瞬間というのは、
ああいうものだろうか。

「テロ」とか「反米」とか「犯罪」とかいうルートだけで
あの事件のその後の展開を考えていてはいけないのかもしれない。

そういうものとは関係なく、
「現実」と「ファンタジー」を結びつけたがっている人、
「ファンタジー」を「現実」にしたいと思っている人は大勢いる。
「テロ」や「反米」や「犯罪」のキーワードで絞れる数では、
とてもすまないだろう。

その一方で、わたしたちの周辺では、
たとえば、何年か前に、佐賀かどこかで、
もうとっくに大人になってから、
同窓会の日にお茶かなにかに毒を盛り、
子どものころにいじめられた恨みを晴らそうとした人がいたように、
宿年の思いというものも、そこここにうごめいている。

「ファンタジー」の世界に長くひたり、
「現実」を夢見る忍耐強い心だ。

「現実」と「ファンタジー」が結びつく前は、
夢だけに終わっていたものだろう。

そういうものに
9.11は出口を示したのかもしれない。
(もしかすると、オクラホマシティ連邦ビル爆破事件や
ベイルート海兵隊宿舎爆破事件にまでたどれる
系譜の糸があるのかもしれないが。)

だとしたら、
この10年間に胚胎されてきたものが、
スープかなにかをネルの布で絞ったときに、
テルテルボーズの頭のようにまるくなったその布地から
ぶつぶつと内容物があふれ出してくるように
地球を取り巻くネルの布地からいっせいに噴き出してこなければいいのだが。

でも、どこにもかしこにも9.11の根があるという認識は、
いじめにしても、なんにしても、
ふだん、なにげなく人に行為をいたしているわたしたちに
日々の自分の行いをあらためて考えなおさせる
きっかけにはなるかもしれない。

その意味では、これも、
わたしたちの暮らしがより微細化する方向へ向かって進んでいる
ひとつのあらわれなのかもしれない。

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思わぬ夕べ

まさか、だ。

今週入院して膀胱がんの摘出手術を受ける予定の母が、
気分転換のために出かけていた新宿駅のデパートで
はじめて尿中に出血を確認してショックを受け、
あわてて帰宅していた。

「明日の朝ごはんのおにぎりがほしい」という。

だから、夕刻、そのおにぎりを買いに出た。

ぽつぽつと歩く人のいる半住宅街の狭い道だ。

また電信柱の向こうから歩いてくる人たちがいる。

当然、こちらの最初の反応は、
その人たちをよけようとするもの。

だけど、あ、あ、そのなかのおひとりの顔が……。

とっさには「見覚えのある顔」というフレーズすら出てこない。

でも、もうひとりの女の人の顔も……。

だから、とにかく「あ」の声をあげた。

すると、向こうも「あ」。

あ、やっぱり。

固有名詞もなにも出てこないままの認識作業だ。

こういうときには、相手の人と交流してきた環境と
そのときの周囲の環境とのあいだにあまりに大きなずれがあると、
固有名詞というのは遅れて出てくるものなのかもしれない。

ワイン会社ルミエールの木田茂樹社長とその奥様とおふたりのお嬢さんだ。

わたしのなかでは、山梨にいる人。
平河町のルミエールのワインショップ「イン・ヴィーノ・ヴェリタス」にもいる人。
ボルドーや、ブルゴーニュや、シャンパーニュや、スロベニアや、プラハや、
そういうところにもいていい人なのだが、
この西新宿にいるというのはちょっと……。

でも、昔から当地に友だちがいて、
当地でひそかに有名な「しながわ」3兄弟の店のひとつ、
「とりの志な川」が「行きつけ」なのだという。

ふだん当然として受けとめている世界の突然の変化というのは、
そのはずみにパカッと開いた心に新鮮な空気を吹きこみ、
心地よいものだ。

だから、ここはせっかくの偶然をだいじにしないとと思い、
急いで母のおにぎりを買って戻ってから
その「志な川」さんにガラガラとおじゃましたが、
いやいや、はじめてちゃんとお会いしたと思うお子さんたちがすばらしい。

山梨の、水道も来ていない山麓部にお住まいで、
全校生徒50人しかいない小学校に通っているとのことだったが、
そのせいだろうか、塚本・木田ワインという豊かな成育環境のせいだろうか、
あんなに伸び伸びしていて、臆せず、人懐こく、
だから目の前にいる人への心遣いも示せる子どもたちには
久しぶりにお会いした。

だからもちろん、狭い客席で脚を伸ばすスペースを融通しあいながら
座卓を囲む親子4人の雰囲気も、とてもいい。

いや、いい夕べ、いい夕べ。

(ところで、山梨・一宮のルミエール(旧甲州園)のシンボル、
樹齢1200年のケヤキの木が、先日、
ちょいと吹いてきたつむじ風で、もんどりうって倒れたのだという。
なんとな。1200年の歴史の変換点に居合わせることができたことを
幸せと思うべきか。)

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by pivot_weston | 2011-07-25 05:54 | 西新宿

新鮮な空気

何年ぶりだろう、
はじめておつきあいする翻訳会社の仕事をした。

どうも、
翻訳なんて仕事も、
会社によって扱っている商品や会社や流儀がみな違うから、
何年かぶりの分だけ戸惑っちゃうね
(もしかしたら「何十年かぶり」かな)。

でも、その感覚がどこか新鮮。
やっぱり、何歳になっても、
そいでもって、たとえ孫が3人できたとしても、
ときには、こういう体験をしたほうがいいね。

ところで、
メルマガ『米国政府情報』について
matter-of-factlyなけっこう手厳しい感想を寄せてくださった
アルクの平本社長が
参考になるドキュメントと「継続は力」の言葉を
後送してくださった。

ふふ、相変わらずや。
30年前にわたしにクビを言い渡したあとも、
残務整理に会社に通っていたわたしを黙認し、
あとからあとからその「残務」をつけたして、
わたしのほうから脱走を申し出るまで
修業をさせてくださった。

ありがたい恩師や。

あ、いや、
新しい会社の仕事をした分だけ
次号のメルマガの準備作業が遅れているから、
がんばってカバリングしなくちゃね。

今週は母の入院(来週手術)もあるし、
四の五のいってられんわ、もー。

ともあれ、いまは今日の天気と同じ。
なんだかいい感じ。

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by pivot_weston | 2011-07-24 16:37 | ブログ