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オリーブとアナフィラキシー

オリーブ橋小脳委縮症の症状が進み、
胃廔の手術を受けた義兄のところへ姉が行ったら、
声をかけても反応がなかったという。

いつもは反応がある。

だから、変だなと思って血圧を確認したら、
50まで低下していたという。

どうやら、投与した薬でアナフィラキシー・ショックを起こしたらしい。

前にも使ったことのある薬。
そのときはどうもなかった。

オリーブ橋小脳委縮症というのは、
全身の筋肉の状態を変える病気なので、
薬剤に対する反応も変えてしまうものなのだろうか。

ともかく、
姉が行ったタイミングがよく、
大事にはいたらなかった。

義兄はまた怖い思いをしてしまったが、
薬剤投与前の状態まで回復してなによりだ。


民国99年

台湾の年号では、
今年はそういうらしい。

ああ、台湾の年号ね――くらいに思っていたけど、
どうやらこれは、わたしたちアジアの住民にとってはだいじな年号らしい。

アジアで初めて王様や皇帝の国ではない国が誕生したのが辛亥革命。
その革命からの年数がこの年号でわかる。

もちろん、それでただちに民主的な国が誕生した
なんてことはまったくいえないわけだが、
国際政治のはざまで翻弄されてきた小さな島国・台湾に
みんなにとって意味のあるそういう年号が保存されているところが
おもしろい。


* 名称としては、辛亥革命の前にも
 1868年に徳川幕府の海軍副総裁として明治政府との戦いに敗れ、
 函館にこもった榎本武揚が樹立したとされる「蝦夷共和国」や、
 日清戦争(中日甲午戦争)後の1895年の下関講和会議で
 日本に割譲された台湾において割譲阻止のために樹立された「台湾民主国」があるが、
 前者は、ただイギリス人が「共和国」と命名しただけで、
 当事者たちはあくまで幕府軍のつもりで「共和国」の名称を用いていなかったし、
 後者も、実質的には清朝への回帰を願う便宜上の「民主国」だったので、
 いちおう国民を主役とすることをねらって国家が樹立されたのは、
 辛亥革命が最初と見てよいだろう。


by pivot_weston | 2010-04-29 15:01 | 台湾

人が倒れる街

先週の月曜日だったか、
近所のスーパーの前の道を自転車で走っていると、
ちりちり髪のおばあさんが倒れていた。

30代くらいのおにいさんがすでに声をかけていて、
救急車も呼んでいた。

おばあさんからの応答はない。
呼吸をしているのは、はた目にもわかったが、
その呼吸が、どうも弱い。

そばにころがっていた杖に
住所らしい所番地が書いてあり、
集まった人たちで「これが住所ですかねえ」
と話しているうちに救急車が来た。

と思ったら、
次の日の夜、
いつも自転車を停めている街角まで行ったら、
そこの路面に髪を金色に染めた若い女の子がころがっていた。

こちらは酔っ払いか。
先に声をかけていたおじさんの手を
うるさそうに払っている。

でも、そのうち、無反応になった。
かけつけたふたりのおまわりさんも
「脈はあるみたいですけどねえ」
なんて言葉を交わしている。

女の子は、いまどきの子らしく、
ジーパンの上に腰のあたりの素肌をむき出したまま
ぴくりともしない。

もしかしたら、騒ぎの気配を感じて恥ずかしくて動けなくなったかな、
と思ったが、
その真相を知りたくて立っていたら、
おまりさんに変な目で見られたから、立ち去った。

なんでもいいけど、どうなっているのやら。


by pivot_weston | 2010-04-29 14:59 | 西新宿

胃廔

昨日、
オリーブ橋小脳委縮症の義兄が
胃廔の手術を受けました。

筋肉の機能の低下により
嚥下などは困難になってしまいましたが、
胃には問題がないため、
これでまた少しは落ち着いた状態が確保できるみたいです。

周囲からは
「いいですね、夫婦仲良くて」といわれているとか。

はは。

電話口で姉とふたりで笑ってしまいました。

わたしも妻とよくいわれていたものです。

ええねん、ええねん、
これが誰のでもない、いちばんだいじな自分の人生や。


娘の内職

次女のところへ行き、
ふたりめの孫に会ってきた。

日本間にすると6畳もないと思われる狭いワンルーム。
ふたりで寝ている布団が敷いてあり、
座卓の上に透明なガラス玉のつまった袋が置いてあった。

「これ、なに?」と訊くと、
「内職」と答え、
だいじそうに手を伸ばそうとした。

いろんなことがあったが、
なんとか自分の手で暮らし、
ちっちゃな赤ん坊を育てていこうとしている。
5月からは、ヤクルトを売る仕事もはじめるらしい。

どこやら、
自分が若いころに暮らした空間を思い出すような、
悪くはない感触が残った。


by pivot_weston | 2010-04-23 10:34 | ブログ

ポルノ小説の深み

昔から、出版社に売り込みに行って
「大西さんはどんな本の翻訳がしたいのですか?」ときかれると、
「ポルノ」と答えることにしている。

師匠の山下諭一先生がサルや文化人類学の研究者でありながら、
ポルノ小説の書き手としても知られるかたなので、
師匠のようになりたい、という思いもある。

また、世代が世代だから、
お上品なものには反逆したい、という思いも、相変わらずある。

だから、「どうしてですか?」ときかれると、
「いや、いちばん難しいんですよ。裸の人間のからみを的確に描写するのが」
などと、ひとくさり熱弁をふるうことにもしている。

若いころ、兄弟子の遠山峻征さんのお手伝いをしていて、
ベッドシーンを訳したときに、
「大西くん、あそこでは男の手が3本あったぞ」
といって笑われたりしていた経験からくる思いでもある。

いつか、きちんとしたポルノを1冊全部やりたい――というのが一貫した思いで、
これまで何冊かの小説でそれらしいところをやったときも、
なるほど、たしかに難しい――と実感していた。

でも、まだその難しさが十分にわかっていなかったような気がしてきた。
要するに、ポイントは、裸の人間の描写がなんとかかんとかではなく、
ひとこと間違えたらお笑いになるところにあるのではあるまいか。

わたしごときがいっては失礼なのだろうが、
実用書をはじめ、いわゆる「まじめな本」のたぐいでは、
ほんとうはいけないが、でも最悪、
ひとこと表現を間違えても致命的になることは少ない。

でも、読者に日常の殻を破ってヒートアップしてもらうのがねらいのポルノでは、
ヒートアップしているときに、ぷっと噴き出したくなるような表現や、
なにこれ、と思われるような表現がひとつでも出てきたら、致命的になる。

とても緊張感を要する作業なんだ、きっと、ポルノ小説づくりというのは。
あ、いや、これでは、ほかのたぐいの本も含め、
自分の作業には緊張感が欠落していることを白状しているようなものになるか。
いかんですね、仕事にはもっと緊張感をもって臨まないと。

ま、ともあれ、ポルノの難しさをあらためて実感したしだいでありました。


なつかしい時間

なぜか昨夜、
毎日のぼりおりしている初台の坂をのぼっていると、
その時間が脳裡によみがえってきた。

2階建てのアパートの
2階の隅の1DKの部屋。

夏になると、
よく天井からぽたぽたとヤモリがふってきたが、
毎週土曜日の翻訳学校の授業が終わると、
同じ中央線沿いに住んでいた
クラスの人たちが遊びに来た。

座布団なんて買った記憶はないが、
そこには割合ふかふかした座布団があり、
姉夫婦が上京したときには、
生まれてまもないその次男を上に寝かせ、
小さな体の頭のてっぺんから足のつま先までが
ちょうどその対角線上におさまったのを見て、
「わあ、ぴったりだ」などといって
笑っていたが、
翻訳学校のクラスの人たちが来たときも、
その座布団が中心になった。

モノを書くなら世間の常識にとらわれていては――
というわけで、
新宿・歌舞伎町の裏でも、
つれこみ旅館のおばさんに
「ふたりじゃないんだけど」とかけあっては、
「いいよ」の返事をもらったとたん、
総勢10人くらいでどかどかどかとなだれこんで、
おばさんの目を白黒させては、
みんなで風俗取材をしておもしろがっていた時期で、
その座布団でも、
吉行淳之介さんのエッセイにならい、
まわりの部屋の人はさぞやうるさかっただろうが、
「イノシカチョー、ほれ、来いッ!」などといって、
ペタッ、ペタッと、花札の音を立てていた。

近ごろでは、
若い人と飲んでいるときでも、
あまり目にすることのない笑顔があった。

とらわれず、
深読みもせず、
演じることも、こもることも、装うこともなく、
みんなの顔が素朴にはじけていた。

クラスはちがうが、
同じ翻訳学校に通っていた妻の顔も同様で、
それは、ほかの機会に、
わたしの勤務先の同僚が遊びに来たときも、
大学時代の仲間が遊びに来たときも、
また、もちろん、
妻の友だちが泊まりに来たときも
変わらなかった。

窓の外に大きな木が茂り、ヤモリはふっても、
なぜかとても明るい部屋だったような記憶がある。

大柄なアメリカ人のベーログさんが遊びに来たときに
「オー、ゲンカンね」といって揶揄した
畳1/4ほどの靴脱ぎ場側の一戸建てには、
「タッちゃん」という子が住んでいたか。

ベランダ側には、
大地主の大家さんの土地が
こせこせと小さなアパートを建てたりすることもなくひろがっていて、
子どもたちが
そこに停められた車の屋根にのっかって遊んでいたこともあったし、
珍しくその広場が雪でおおわれたときには、
白いおくるみのような服を着た長女が
一面の雪のなかにすわりこんで
うれしそうに遊んでいた。

はす向かいの一戸建ての2階の部屋からは、
中国語の話し声とピアノの音が聞こえてきて、
遠くに見上げる西友の建物が夕日に染まるころには、
大きな大家さんの家の裏手のほうから、
ごはんをたく煙も立ちのぼっていた。


by pivot_weston | 2010-04-10 05:45 | ブログ

楽しいひととき

昨夜はチンさんのお店「吟品」に
この3月までクレハ(旧呉羽化学)の社長をしてこられた
藤井雅彦さんが来てくださいました。

いまから15年ほど前、
妻の乳がん治療中に
免疫療法剤クレスチンのことをおたずねしようと思い、
製造元の呉羽化学に連絡をとったら、
当時はまだ開発担当者として現場におられた藤井さんが
何ページにもわたる直筆のお手紙とともに
資料やデータを送ってくださり、
以来、妻が亡くなるまで、
なにをおたずねしても、
すぐに望外の情報で応じてくださったかたです。

4年前に東京に出てきて、
まだお会いしたことがなかったし、
当時に対するなつかしさもあったので、
連絡をとったら、社長になられたとのことで、
ありゃ、それじゃあ気安くお会いいただくわけにもいかないか、
と思ったら、
なんと、なんと、藤井さんもお仕事でよく台湾にいらっしゃり、
台湾のことが大好きとのことで、
んじゃ、いっぺん西新宿の吟品へ――とお誘いしたら、
2年前にも1度来てくださったのでありました。

いまも役員として会社に残られているそうですが、
もともと、とても気さくなかたで、
お話も楽しく、お酒も進みます。
(だって、藤井さん、アルコール度数50パーセントを超える
金門高粱酒をこっちのコップにドボドボドボと入れるんだもの、
進まないわけにいきませんよね。)

ともあれ、楽しいひととき。

役員になったら秘書の退社時刻を気遣って
早く帰らなきゃなんなくなった――としきりにこぼしていたところを見ると、
これからもちょくちょく寄ってくださるでしょうか。
「いい、このMacの横を入ったところだかんね」
と、しっかりスリコミをしておきましたしね。

そうだ、ところで、
いつも陳さんのことを「チンさん」といっているけど、
これは日本語読みで、台湾では「タンさん」というんですね。
台湾の人気ドラマ『天下父母心』を見ていて思い出しました。


by pivot_weston | 2010-04-07 16:04 | 西新宿