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なつかしい世界(4)

あっ――と思い、
ミシッ、ミシッの意味はすぐに直感した。

だが、その意味が頭のなかでまだ言葉にならないうちに、
「きみもそろそろ正直に話したほうがよさそうだな」という、
ちょっと、ドラマかなにかのセリフみたいで、プッと吹き出しそうな言葉が
陰にこもったおどろおどろしい声で聞こえてきた。

「えっ、なにをですか?」と言って、振り返って立ち上がろうとすると、
下に垂れていた社長の右手がこちらへ伸びてきて、
そこに大きなハサミが握られていて、
その刃先がわたしの胸の5cmほど手前でとまった。

あ、いかん、この人、もうまともじゃないわ――
そう思って、社長の暗い表情の奥をさぐりながら、口をつぐんでいると、
「本はまだなくなっている。
会社の鍵は変えた。
もっているのは、わたしときみしかいない」
と言う。

なるほど。
だとしたら、論理的にはわたしということになるが、
昼間は郊外まで飛びまわってあちこちの大学をめぐり、
夜は夜で、ほかでもない社長に2時、3時までつきあって、
おまけに翻訳学校にも通っているわたしに
どうしたらそんなひまなことができるのか――と言いたかったが、
こうなると、なにを言っても通じまいと思ったので、
「わかりました。やめろ、ということですね?」
とだけ言った。

すると、とたんに社長の口調がやわらぎ、
「きみもこのまま外に投げ出されたら困るだろう」と言う。
そして、「これをもっていきなさい。30万ある」とも言う。

えっ、さ、さんじゅうまん?

わたしの給料は15万円だった。
で、何か月はたらいてきたのかというと、かぞえてみるまでもない、
入社したのは先月、11月だ。

退職金をもらう資格なんてまだ発生していなかっただろうし、
もらえたとしても、はたらきから考えると、大きすぎる額だ。

しかも、例の作業着姿のわたしに、
「きみはコートももっていないみたいだから、これもあげるよ」と言って、
紺色のきれいなトレンチコートまでくれた。

そこではじめて、わたしなりの推理はついた。
はは~ん、なにがあったのか、真相はわからないけど、
ともかく、なにか事情があって、
若い社員をふたり雇ったものの、ふたりとも切らなければならなくなったのだな、
と思ったのだ。

あまりの急変だった。
意気揚々と出社して、無職の身となって会社を出るまでの時間は
5分ほどではなかっただろうか。

腹を立てるにもたりない時間だ。
ともかく、なにがなんだかわけがわからない。
会社を出たわたしは、50mほど歩いたところで、
「ええい、毒を食らわば皿までもだ」と
声に出してつぶやきながら、
腕にもっているのがじゃまくさかったトレンチコートをはおった。

ほんとうに不思議な気分だった。
つい先ほどまでは、神保町の街を歩く通勤族のひとりとして、
なんの気なく、その群集のなかに埋没していたのに、
いまは、まわりの人みんなが自分とは違うように思えた。

みなそれぞれ生活があって、行き場がある。
でも、いまのおれは無職で、行き場がなくなったんだ。
そんなことを考えながら歩きつづけていても目的地がないので、
神保町のバス停に立っている人たちのなかに交じって足をとめ、
反対側の歩道を歩いている人たちを見ていたときだ。

あ、これか!――と思った。
「小説もどき」をしかってくれた先輩は「もっと人を見ろ」と言っていた。
だから、それからは、電車のなかや街で見かける人を
ひとりひとりにらみつけるようにして見ていた。
だが、そうすると、自分が見ようとしていることばかりを見ようとしたりして、
いつまでたっても人を自然に描写できるようにはなれそうになかった。
もっと楽に、自然に人を見て描写できるようになるにはどうすればいいのか――
そんなことをずっと考えつづけていたのだが、
このとき、「群集のなかの無職ひとり」のような気分を味わいながら
神保町の光景を見ていると、
あ、もしかしたら、この距離感かな――というものを感じた。

すると、うれしくなったのか、
うらぶれた気持ちとは裏腹に、ふふん、とつい笑いがもれたが、
行き場がないのは変わらない。

夕方には、大学時代につきあっていた人が来る。
その人に報告することの内容が、
約束の当日の朝の、ものの5分ほどの間に一転してしまったのも問題だったが、
それ以前にまず、
その約束の時刻までどこにいるかを考えなければならなかった。

アパートには帰りたくなかった。
崖下の、1日中日の差さない部屋にいると、
どうしようもなく落ち込み、
暗い顔で彼女と会わなければならなくなりそうだった。
さて、どうしたものか――と考えたとき、
あの、チャイナドレスの女性のことが頭に浮かんだ。

稲村さんだ。

どこかのお嬢さま然としていて、わたしとは縁がないように思えていたが、
話してみると、なぜかまったく抵抗がなく、とても楽に話ができたので、
アルバイト先の電話番号まで教えてもらっていた。

それで、迷惑かもしれないけど、もし時間がとれるようなら、
ちょいと時間つぶしにつきあってもらおうかと思ったのだ。

社長のはからいで、懐に30万という、
それまでもったことがなかったような大金がはいっていたことが大きかったのだろう。
アパートへ帰らず、街にいる分には、無職への急な身分の変化は、
まるで気楽な風来坊になったみたいで、ある種、爽快だった。

だから、電話がつながると、開口一番、
「あはは、おれねえ、クビになっちまったよ~」と言った。
稲村さんも「えっ!」と言ったあと、ゲラゲラと笑いだした。
なにがそんなにおかしいのだろう、と思うくらい笑っている。
そこで、「ねえね、んなわけで、時間ができちまったんで、
これからちょっと時間つぶしにつきあってくんねえ?」と言うと、
「いいけど、(アルバイト先の)会社から遠くへは行けないよ」と言うから、
「んじゃあ、そっちへ行くよ」と言い、
目の前のバス停からバスに乗り、
稲村さんのアルバイト先があった渋谷の神泉に向かった。

1時間、いや、もうちょっとだっただろうか、
そうして「どこかのお嬢さん」に時間つぶしにつきあってもらい、
心の底にひそんで、いまにも飛び出してきそうになっていた暗い虫を
散らすことができたわたしは、
ようやくアパートに帰る気持ちになり、
しばらくコタツに寝転がって、無為な時間をつぶした。

テレビもラジオも電話も、なにもない部屋だ。
その日、世間で起きていたことはなにも知らなかった。

そこから上野駅のホームに行くには、小一時間かかっただろうか。
夕方になり、
彼女の到着時刻の6時14分からその時間を引いたくらいの時刻になると、
また曙橋のアパートをあとにした。

クビになった直後には、どうしようと思ったが、
そのころには、時間つぶしにつきあってくれた稲村さんのおかげもあって、
楽しいこと、つまり、彼女と会えることのほうに気持ちが向いていた。

まあいい、
「出版社の編集者になれたよ」ではなく、
「出版社の編集者をクビになったよ」という報告をするはめになったが、
ともかく、彼女と会えるんだ。よけいなことを考えることはない――
そんな気分だった。

当時の上野駅の東北本線のホームはいつも人でごった返していた。
山手線を降りて、天井の低い通路を歩き、
東北本線のホームに降りていく階段の上まで行くと、
東北訛りの人の声が混ざった、ざわざわ、がやがやという喧騒が聞こえてきて、
眼下に、ホームと改札口との間を右に左に行き交う大勢の人の姿が見えていた。

待ち合わせ場所は「ホームのいちばん端っこ」だった。

雑踏を通りすぎた先に、ひとりでぽつんと立つ彼女の姿が頭に浮かんだ。
天井の低い通路を歩く足のはこびも、おのずと速くなる。
で、その階段の上まで行ったときだ。

あれっ!? 誰もいない!
いつも大勢の人でごった返しているホームと改札口との間の広いフロアに
ほんとうに、人っ子ひとりいない。
なんで?

とこ……とこ……と、ゆっくり階段を降りると、
その、人っ子ひとりいなかったフロアのなかほどにぽつんとひとり立ち、
きょろきょろとあたりを見まわしてから、
改札口にいた駅員さんのところへ向かった。

「ど、どうしたんですか、これ? いつも上野駅は……」と訊きかけると、
「今日は東北・北陸地方が大雪で、電車は全部とまっています」と言う。
「ぜ、全部?」と問い返すと、
うなずいている。

「え~、ここで待ち合わせをしていたのに……」と言ったが、
それはもうひとりごとにすぎなかった。

しかし、ついいましがたまで、
雑踏をかき分けて「ホームのいちばん端っこ」まで行くことを想定していたのに、
気がついてみると、誰もいないがらんとしたフロアにひとりぽつんと立っていて、
右にも左にも、行くところがなかった。

いちおう、念のため、暗い「ホームのいちばん端っこ」を見ることは見たが、
帰るしかないのか――
そう思って、さっき降りてきた階段を昇りだしたときには、
さすがに昼間の稲村さん効果もどこへやらで、
朝のクビ宣告のときからずっと心の底にひそんでいた暗い虫が一気に飛び出してきて、
そういうことか、
おれの人生はそういうことか――
と何度も心のなかで同じ言葉をつぶやきながら、
こんなクリスマス・イヴを用意していた自分の人生をうらむ気持ちになっていた。

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なつかしい世界(3)

出版社の編集者になれば、
デスクワークをやるものと思っていた。

確かに、やることはやった。
まだ活版印刷の時代だ。
『三田文学』の印刷をやっているとかいう、
昭島かどこか、東京都下(23区以外)の印刷所からあがってきた、
活字が間に合わなかったところにいっぱいゲタ(〓)をはかせた
ゲラの校正をさせられた。

だが、デスクワークはそこまで。
わたしともうひとりの若者がはいるまで、社長ひとりで、
毎日、7冊が注文で出ていったら、10冊が返品で返ってくるような出版社でも、
歴史はそこそこにあるらしく、
執筆を依頼中、あるいは依頼しようとしている著者の数はたいへんな数にのぼり、
わたしも1週間もすれば、64名もの著者もしくはその候補者の担当をまかされた。

みんな大学の先生だ。

町田の桜美林大学、
横浜・白楽の神奈川大学、
千葉・津田沼の日本大学、
八王子の創価大学、
三田の慶應大学、
池袋の立教大学、
大崎の立正大学……と、
毎日毎日、首都圏各地の大学をまわり、
なにも知らないのにわかったふうな顔をして、
大学教授を相手に経済学や哲学や文学やなにかの話をした。

電車やバスで移動また移動の毎日は
翻訳事務所のメッセンジャーボーイ時代と変わらなかったが、
神田の会社に帰ってくるのはたいてい夕方。
もうへとへとだ。

でも、それからまた、毎日恒例の行事があった。

社長はいつも
白いトックリのセーターの上に黒っぽいジャケットをはおり、
長髪を斜めに垂らし、うつむいて考えごとをしながら歩いているような、
「文学青年」を絵に描いたような人。

ちょっと頼りない感じの人だったが、その人が、
わたしが新宿ゴールデン街によく飲みに行っていることを知ると、
「ねえ、きみ、ぼくもつれてってくれよ」と言う。

じゃあ、ちと、この文学青年を鍛えてやるか――みたいなノリで、
それから夜ごと、仕事が終わると新宿ゴールデン街に繰り出し、
「ねえ、うちもそのうちいい本をつくりましょうよ」
「いや、ぼくもそうしたいんだ」
「じゃあ、今度、吉行さんに原稿を頼みましょうよ」
「ああ、この前、吉本隆明さんに頼んだら、断れちゃったなあ」
みたいな話をしながら、夜なかの2時、3時まで飲む日が続いた。

はて、では翻訳者になる勉強のほうはどうしていたのか?

いや、そちらもちゃんとやっていたのだが、
こうして職を転々としながら翻訳学校の昼間の授業に通うのは難しく、
当初入学していた1年制の予科を半年で切り上げさせてもらい、
ほかの仲間よりひと足早く夜間の本科へ、
そしてまた、その先の研究科へと進ませてもらっていた。

そしたら、あるとき、まだ本科にいた予科時代の仲間たちから
「久しぶりに飲もうよ」という誘いがあった。

「小説もどき」をしかってくれたコピーライターの先輩も来るという。
じゃあ、と出かけていくと、知らない人がいた。
チャイナドレスを着た、色白のすらりとした女性。
予科を半年で切り上げたわたしと入れ替わりにはいってきた人だという。
そのころ、東京ガスの人が着ていたような紺色の作業服を
私服兼仕事着にしていて、
その日もその作業服ででかけていったわたしのほうを不審そうに見ている。
稲村さんといった。
自宅が「目黒」と聞いて、ああ、どこかのお嬢さんだな、
こんな人はおれとは関係ないわ――と決めつけてしまった。

ところが、その輪のなかにいたFくんがその人を気に入って、
デートがしたい、なんとかして――と、わたしに言う。
だから、ああ、いいよ、と答え、
新宿・紀伊国屋書店の地下のカトレアという喫茶店で
3人でインベーダーゲームをしながらデートをしたこともあった。

青春時代だ。

さて、そんなある日の夕方、
大学詣でを終えて会社に帰ってみると、
わたしといっしょに雇ってもらった若者と社長がいて、
「ただいま」と言っても、ふたりとも返事をしない。

ん、どうしたのかな、と思い、ちらりと若者の横顔を見ると、
あら、泣いている。

どうしたんですか、と訊こうとしたわたしの気配をいち早く察知した社長が
「あのね、この彼はうちの在庫の本を盗んでいたんだよ」と言う。

え!?――だ。
「盗む」という行為そのものも驚きだったが、
こんな売れない本を盗んでどうするのか、という思いもあった。

だが、社長は「盗んで、神保町の裏のゾッキ屋に売っていたんだよ」と言う。
世間知らずのわたしは、「ゾッキ屋」? なんだ、それ?――と思ったが、
その若者は、なにも言わず、ただ黙って泣いている。
とても盗みなんかするようには見えない、おとなしい、まじめそうな青年
だったが、社長が「そうなんだよ」と力を入れて言うと、
そうなのかな、と思ってしまった。

結局、その彼はその日でクビになった。
どこか腑に落ちない印象もあったが、
まったく予想もしないできごとで、おれとは関係ないわ――の思いもあったので、
わたしはまた、昼は大学めぐり、夜は新宿、で、週に一度は四谷の翻訳学校、
という生活に埋没した。

するとほどなく、大学をやめるときに「いつか詩人に……」
と約束した人から葉書が届いた。
「クリスマス・イヴに東京に行く」という。
夕方の6時14分着の「いなほ4号」で行くので、
上野駅のホームのいちばん端で待ち合わせをしようという。

お――と、とたんにほかのことはすべて頭から飛んだ。
まあ、もちろん、「詩人」は遠い遠いでっち上げの夢にすぎなかったが、
出版の世界にもぐり込めたことは、わたしのなかでは
胸を張って報告するにたるできごとだった。

あと1週間、あと5日、あと3日……と頭のなかで毎日カウントダウンしていき、
やがてその「クリスマス・イヴ」の日が来た。

今日は久しぶりにあいつに会えるんだ――
そう思いながら、曙橋の駅から都営地下鉄・新宿線に乗ったときの光景は
いまでも脳裏に焼きついている。

胸を張って神保町の通勤族のなかを歩き、会社に着いて、デスクに向かった。

でも、「おはようございます!」と言ったわたしの言葉に社長からの返事はなく、
代わりに、背後から、ミシッ、ミシッという足音が近づいてきた。

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なつかしい世界(2)

先日、あるところで
このブログを読んでくださっているかたと
若いころのある時期の話をしていて、
「そういう話を書いてよ」とのリクエストをいただいた。

すでにあちこちに書いてきたことなので、
一部のかたにとっては「またか」のネタになってしまうが、
たまたま昨日書いた「なつかしい世界」がその時期に近いこともあるので、
リクエストにお応えしようかと思う。

「なつかしい世界」から半年ほどがたってからの話だ。

速記会社をクビになったその朝に見つけ、
昼までには面接に行って採用してもらっていた翻訳事務所で、
わたしは機嫌よくはたらいていた。

だって、
翻訳者になろうと思って大学をやめて上京していたんだもの。
四谷の翻訳学校にはいったものの、
地方にいたこともあって、翻訳の世界のことなんてなにも知らなかったので、
どうやったら翻訳者になれるかもまったく見当もつかずにいた時期だから、
面接をしてくれた翻訳事務所の営業の人に
「うち、給料、安いよ」と言われても、
「うちでは余裕がないから、きみを養成することはできないよ」と言われても、
「いいの、いいの、雇って、雇って」だ。
プロの翻訳者の人たちの姿をじかに見ることができ、
翻訳の世界の片隅にいられるだけで、
夢のいとぐちにたどりつけたような気分になっていた。

わたしがまかされたのは「原稿の持ち運び」。
インターネットはおろか、ファックスもろくに普及していない時代だから、
お客さんの企業から頼まれた原文を受け取るのも、
それを翻訳者のもとへ届けるのも、
また、できた翻訳原稿をお客さんのもとへ届けるのも、
すべて人手を介してやっていて、
その「人手」になるのがわたしの仕事だった。

よかったのは、その「人手」になっていないとき。
事務所で電話番をしているときは、なにをしていてもよく、
この時期にはいっぱい本を読むことができた。

いまだに敬愛する吉行淳之介さんの作品に出会ったのも、この時期だ。

で、春がすぎ、夏がすぎ、秋になったころ、
ある日、新宿・曙橋の汚い6畳ひと間のアパートで目覚めたとき、
それからの嵐の時代を予感させる異変が起こった。

さ、事務所へ行こ――と思って、布団をはいで、立ち上がった――
と思ったが、あら、寝てる。なんで?

目覚めたばかりで、寝ぼけてんのかもしれない――とも思ったが、
立ち上がったのは、ついいましがたのこと。
体のなかにまだそのときの感覚が残っている。

なにがなんだかわけもわからずに、胸がドキンッとした。
まさか――と思ったが、わけはわからないので、
またすぐに、でも今度は、
立つぞ、立つぞ、確かに立つぞ、いまおれは確かに立とうとしているんだぞ――
と自分に言い聞かせながら立ち上がった。

――と思ったが、あら、やっぱり寝てる。
胸はドキン、ドキン、ドキドキンッだ。

ともかく、なにか、わたしの体のなかで異変が起きている。
それは確認できたので、
次に立ち上がるときには、
部屋の入口の柱につかまって、恐る恐る立ち上がった。

もちろん、腕には力がはいったので、今度は確かに立ち上がれた。
でも、2度も、立ち上がったと思ったら寝ていた――という現象が続いたので、
もう平常心ではいられない。

急に自分だけわけのわからない別世界に投げ込まれたような気分だ。
医者か――と思ったが、その前に、
武蔵野の保健所に勤めていた叔父のことが頭に浮かび、
古い板張りの廊下を、壁につかまりながら、恐る恐る歩いて外に出て、
公衆電話から叔父に電話をかけた。

そして、いま体験したばかりの現象を説明すると、
「すぐに(武蔵野保健所まで)来い」と言う。

「来い」ったって、自分が確かに立っていられるという自信もなくなっていたので、
怖くて怖くてしかたなかったが、
そのままほうっておくのはもっと怖かったので、
駅のホームでも白線から離れて、しゃがみ込んで床の位置を手で確かめながら、
慎重に、慎重に、その保健所まで行った。

あっけない。

入口をはいると、わたしの名前を名乗るまでもなく、
そこの部屋のいちばん奥にいた当時の保健所長の女医さんは、
わたしの顔を見て、「あ、この人は栄養失調だ」とわかったという。

栄養失調のために、立ち上がったところで意識が途切れ、
次に意識を取り戻したときには寝ていた、というわけだ。

なんだ、栄養失調かよ――という思いはわたしにもあった。
だから、ほっとひと安心する気分にはなれたが、
そのまま同じ暮らしを続けていたら、また同じようなことが起こる。

当時のわたしは、
物書きの端くれになるには、少しは裏の世界も知らないと、と思い、
給料が少ないくせに、新宿の裏町探検だけは欠かさずにしていた。

さて、
このまま給料は安くても翻訳の世界をのぞかせてくれる翻訳事務所に残るか、
それとも、別の職場に移って裏町探検を持続できるようにするか――
ひとつの決断を求められ、わたしは後者をとった。

事務所の人に話すと、安い給料しか出せないうしろめたさもあったみたいで、
「いいよ」と言う。
仕事中、あいている時間によその会社の面接に行ってもいいよと言う。

今度は出版社をめざした。
すでに吉行さんの作品に出会っていたので、
わたしも若いうちに、編集者の経験をしておきたいと思った。

ちょうどうまい具合に、また職探しをしているうちに、
神田の小さな出版社が求人広告を出していて、
そこに雇ってもらうことにした。

大学をやめるとき、わたしは、そのころつきあっていた人に
「いつか詩人になってみせるよ」と約束していた。
大それた約束だ。
とうていかなわぬ遠い夢に思われたが、
ま、そのくらいの歳のころの若者というのは、
彼女の前では、そんなものでしょう。

だから、社長ひとりの小さな小さな出版社ではあったが、
そこにもうひとりの若者といっしょに雇ってもらい、
「編集者」を名乗れるようになったのは、
また一歩前進のように思えた……のだが。

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なつかしい世界

いまは「新政権ブーム」みたいになっていて、
テレビも毎日、いろんなアングルから
新政権のことや国会のことをとりあげているが、
今日はなにやら「速記の日」らしく、
国会内での速記者の仕事をとりあげていた。

その昔、銀座4丁目の日産ギャラリーの裏の喫茶店で
フロアのボーイをしていたことがある。
いまは名前が変わっているが、
当時は「ルノン」といった。

物理学の道で先へ進む機会も意欲も失い、
思い出した文章の道に進もうと考えて上京し、
アパートにこもってごそごそと
安直にも「小説もどき」を書いて
「おまえは人間観察がたりん。もっと世間に出て人を見ろ」
と先輩にしかられたころだ。

けんかをふっかけるように、
店でも、通勤の電車のなかでも、
はたまた、「人間観察」のために店番を買って出た
数寄屋橋・阪急の地下のボランティアショップでも、
目の前にいる人や、目の前を通る人をにらみつけていた。

そしたらやはり、文章が書きたくなった。
もちろん、自分の文章を書いてお金をもらえる仕事
なんてもらえない。
だから、なんでもよかった。
なんでもいいから、とにかく原稿を書く仕事を――
と思いながら通勤していたら、ある日、
新聞の求人広告で「×速記事務所」の名前を見つけた。

お、ここなら原稿を書けるんじゃないか――
そう思って面接に行き、雇ってもらった。

もちろん、速記なんてできない。
でも、そのころ
「近いうちにワードプロセッサというものが出るらしい」
と言われていた。
それで、社長も
「その、ワードプロセッサというものが出たときの要員として
きみを雇ってあげる」
と言ってくれた。

でも、「近いうちに」だから、まだ出ていない。
しかたないから、わたしは毎日、
カナタイプライターでキー操作の練習をしながら
カセットテープに録音されたあちこちの地方自治体の議事を原稿に起こす
いわゆる「テープ起こし」をやることになった。

言われたノルマは「1日に400字詰め原稿用紙50枚」。
できないよ、そんなの。
自分で思いついたでたらめな文章を書くだけでも、書けるかどうか。

だから、毎日、テープを自宅のアパートにもってかえり、
夜なかの2時、3時まで、テープレコーダーをカチャカチャやりながら、
カリカリと原稿を書く毎日になった。

そしたら、ある夜、疲れてきた。
あ~あ、とあくびをし、コタツに脚を突っ込んだまま横になったら、
目の前にコクヨの原稿用紙があった。
仕事用の原稿用紙ではない、
自分で思いついたくだらないことを書く原稿用紙だ。

で、あとで考えて笑ってしまったのだが、
原稿を書くのに疲れて、ちょっとひと休み――と思い、
原稿を書きだした。

地方自治体の議事録ではない、
誰も読んでくれる人などいない、自分のくだらない原稿だ。

そしたら、それがおもしろくなった。
めっちゃ、おもしろくなった。
だから、もうちょっと休んだっていいよな、な、な――と
ダメと言うはずもない自分に相談しながら
仕事のときと同じように、コタツに向かいつづけた。

で、そんな夜が続いたある日、
朝になった。
古い木造アパートの薄汚れた窓の外が明るくなっても
まだ「休憩の原稿」に夢中になっていた。

当然、頭は興奮しても、体は疲れる。
それで、出勤時間が近づくと、またふぁ~っとあくびをし、
「や、こりゃ、会社に行っても仕事にならんなあ」
と思った。

で、ズル休みをしようと思い、会社に電話をかけた。
ばかだ。
「ちょっと体の具合が悪くて」とかなんとか言えばいいのに、
公衆電話の前でとっさに思いついたのが
「あの、ちょっと、ゆうべ飲みすぎまして……」。

ま、そんなことも、1回くらいは許してくれる。

でも、酒井法子さんのクスリのような効果があるのだろうか、
「休憩の原稿」がやめられなかった。

で、その実態のない「二日酔い」を3回まで繰り返したあくる日、
朝から社長に呼び出されて、
「あのねえ、1か月に3回も二日酔いで休むような人は、
どこも雇っておかないよ」と言われ、クビになった。

がっくりだな――と思いかけたが、
あら、自分のなかから違うものが湧いてきた。
気がついてみると、クビを言い渡している社長に向かって
にこにこしている。
それを見て、社長も不思議そうな顔をしている。

そうか、おれは書きたいんや。
仕事をクビになっても書きたいんや。
それなら、大学をやめたのも間違ってはなかったやろ――
それに気づいたうれしさが抑えきれず、にこにこしながら社長に
「はい、わかりました。クビですね。では、これから職探しをしたい
と思いますので、駅まで行って新聞を買ってくるのは認めてください」
と言って駅まで行き、
その日の新聞で見つけたのが翻訳事務所のアルバイトの仕事で、
それがその後30年間の人生の入口になった。

「速記」の文字を見ると、
いつもこのときのことを思い出す。

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今日の日経から

2面の「政府・与党 あつれき 行刷会議の人選ですれ違い」。

最近、政治をほんの少し内側から見る機会に恵まれているが、
どうやら、新政権はやはり「政権担当慣れ」していないのだろうか。
当然のことだが、そんなところが
かつて「政権担当慣れ」していた小沢さんから見るともどかしく、
またそのもどかしいところを
そのままにしておいてすむような仕事じゃないぜ、これは――
という思いもあるから、
マスコミを通すと「あつれき」の印象を与えるのを承知のうえで、
あえていちいち、言いたいことをはっきり言うことにしているのだろうか。

新政権が乗り越えなければならない問題だね、これも。

笑ったのは、同じ面の「寸言」。

自民党の谷垣総裁が
鳩山首相の所信表明演説に拍手や歓声で呼応する民主党議員を評して、
「ヒトラーの演説に賛成しているような印象を受けました」
と語ったという。

あら、この人は、
そういう印象を受けたときに、じゃあ――と
自民党政権時代に首相の所信表明演説に拍手や歓声で呼応していた
自民党議員から野党の人たちがどういう印象を受けていたかを
考えてみようとしないのだろうか。

頭のいい人なのだろうが、
やはり視野はそれほど広くないと見える。

自民党という固定化された権力機構のなかで、
いい子、いい子と頭をなでられながら育ってきた人には、
その権力機構に与する人たちの気持ちしかわからないのかもしれない。

世のなかには、いろんな人がいる。
脇役にまわった自分の立場がよほど居心地が悪いのかもしれないが、
安易に「ヒトラー」にたとえるのは、
国民を否定することにもつながりますよ。

5面の「日医の影響力排除 中医協 新体制」。

これは絶対に必要なことだと思う。
日本医師会の人が悪いかどうかは知らないが、
いまの日本の医療界には、ものすごいひずみがある。
それが日本医師会主導の体制のもとで生まれてきたものだとすれば、
いったんそこの人たちに退いてもらうことは必要だと思う。

診療報酬などの改定には、
スーパーなどで導入されているPOPのようなシステムを導入できないものだろうか。
診療現場で医師が+、-の値や短いコメントを入力する。
それをリアルタイムで集計していき、
次の改定のときにベースにする。
そんなシステムができたら、
より実情に即した保険診療ができるような気がするのだが。

同じ面の「八ツ場ダム事業を再検証」。

やはり、もう少し経費が必要になるのか。
国の事業を、国がお金がなくなったから「もうやめさせて」と言っても
そう簡単にはやめさせてもらえないのか。
なにやら、品川・京品ホテルの閉鎖騒動を思い出す。

なんだ、自民党は50年間やりたい放題やってきて、
その結果に責任はとらないのかよ――という気もする。

8面の「ハンガリー 「11年に成長率3%」」。

明るい話題はほっとする。
アジアとヨーロッパの両方の血をひき、
有能な人を多数輩出しているハンガリー、
がんばってよ。

立地は最高。ヨーロッパの中心だもの。

16面の「JFE、経常黒字98億円」と
「JFE商HD 4~9月 経常益55億円に 予想より10億円上積み」。

お、ここにもちょっとよさげなニュースが。
目下青天井の国、中国を中心に鋼材需要は好調らしい。

30面の出版広告特集。

メールマガジンに「ビジネスブックマラソン」というのがあるらしい。
ビジネス書を読みまくるのかな。
しかし、この最後の「マラソン」のネーミング、
どっかからとってきてない?
ま、人にアイデアをまねされるのは
名誉なことかもしれないけど。

41面の水沼貴史さんのサッカー記事「キック なぜ後回し」。

水沼さんの記事も、
なにかサッカーを越えて語りかけてくるものがあるみたいで、
いいなあ。
基本と手段の関係を説いてくれているような気がする。

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by pivot_weston | 2009-10-27 19:10 | 日経新聞

夜の排水口工事

昨夜、排水口工事をした。

あ、いや、(ネタがちょいと古くなるが)
別にどこかに盗聴器をしかけてきたわけではない
(遠い昔、アメリカ大統領を辞任に追い込んだスキャンダル、
ウォーターゲート事件で盗聴器をしかけた工作員のことを、
CIAの符牒ではplumber、つまり「配管工」と呼んだ)。

洗濯機の下から水があふれ出してきた。

で、まずは洗濯機を傾け、
その下を這っている排水パイプにあたった。

どうやら問題なさそうだ。

じゃ、原因はこの汚れか?――
そう思って(また、それですむことを願って)、
汚れに汚れていた洗濯機の下を掃除した。

原理的に、それで直るなどとはとても思えないのだが、
そんな願かけ掃除のあとでもう一度
洗面器で洗濯槽に水を入れてみると、
あ、やっぱりあふれてくる。

では、このパイプの先か――
ということになり、
パイプがねじ込み式に接続されている排水口を開いたが、
見たところ、なにもない。

や、待てよ。でも、
先を曲げた針金でそのなかをごそごそしているうちに、
うわっ、なんだ、こりゃ――
ねっとり、べったりしたゴミが大量にひっかかってきた。

これだ、これだ、これが排水口をふさいでいたんだ――
ということになって、またそこをごそごそすること数十分。

ともかく、めでたく開通したのですが、
かつて、四国の自宅でゴミの詰まった排水管を開通させるために
掃除機を2台、ダメにした日のことを思い出した夜でした。

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by pivot_weston | 2009-10-27 09:04 | ブログ

今日の日経から

6面の「外国大学の単独開校 インドが解禁へ」。

アメリカの大学がさっそく進出準備をしていることは書いているけど、
日本の大学は行かないのかな?
日本語が壁になるのだろうか?

同じ面の「太陽電池・リチウムイオン電池 韓国勢、集中投資で攻勢」。

半導体でトップをとられた日本が
このままでは、両電池の分野でも韓国勢にトップをとられる
のではないか、と憂慮する記事。
みすみすそれでは――と思うが、
この記事に書いてあるような韓国のダイナミズムは、
まだこの国にはないような気がする。

9面の「森林管理の排出枠販売 住友林業 企業初、社有林で獲得」。

住友林業が4万ヘクタールを超える社有林を管理して、
カーボン・オフセットの原理にもとづくJ-VERの制度を利用し、
その社有林の二酸化炭素吸収量から算出される
二酸化炭素の排出削減量の販売を始めたという。

企業としては、日本初という。

こういう動きはもっともっと出てこないといけない。
排出削減目標達成のための日本企業の負担を減らす方法だ。

11面の「海外駐在員に若手30人 富士通、2~5年間派遣」。

お、派遣前の国内での研修には
ぜひアルクのヒアリングマラソンをご利用ください。

13面の「HTV、大気圏再突入へ」。

そうか、HTVはそういう輸送機だったんだ。
無人で大気圏再突入ね。
うまくいったら、ほんとに日本は宇宙空間利用の最先端
に立てるかもしれない。

地球の大気圏のすぐ外側の無重力空間は
世界の産業の技術開発のカギを握る空間といってもいい。

17面の「日本郵政社長に元大蔵次官」。

オー、ミステイク!
鳩山さんもどうしてこんなカメちゃんの暴走を許しちゃったんだろう。
こればかりは、誰が見ても……。

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by pivot_weston | 2009-10-26 18:06 | 日経新聞

「わたしのような人間」

このところ、新たな試練、
それも、一過性のものではない大きな試練に遭遇し、
自分のこれまでの生きかたがすべて否定されたような気分になり、
なんだかガクガクガク然としていたのだが、
それはまあ、これまでにもいっぱいあって、
またひとつふえた自分の罪のひとつとして
これから背負っていくしかないとして、
それとは別に、自分は恵まれているな、
と思うことにもぶつかった。

過去を検証する機会を与えられようとしている。

遠い昔、時間をともにした人から、
そのさらに昔の、わたしの知らない時代までさかのぼり、
そこから現在までの流れをまとめ、
これからの時代に向けた展望を模索する――
そんな作業をまかされようとしている。

ありがたいものだ、とつくづく思う。

自分がともにした時間に、思うことがあった。
これはこうなっているけど、かつてはどうだったのだろう――と。
あるいは、これはどういう流れから出てきたことなのだろう――と。

かつて考えた、そうしたことを
いちいち検証していく機会を与えられる人間というのは、
やはり、ある意味では、とても恵まれているのではないか、と
わたしのような人間は思う。

で、その「わたしのような人間」というフレーズが頭に浮かんだとき、
ずっと自分のなかでおさめどころに窮していた先の「試練」のことが、
ああ、そのフレーズにおさめればいいのか、と思えた。

ある時期、まわりの人から
「最近、芸風が変わってきましたね」
と言われたことがあった。

ある人の存在で、
それまでのわたしには似つかわしくないイメージができたころだ。

実は、それは子どものころからのあこがれでもあった。
だから、以来、そのイメージにおさまれる人間になれたかな、
と思って生きてきた。

だが、それも今度の試練で、
所詮、わたしには無理なもの、
「ある人」の存在があったから見ることができた夢
のようなものだったことがよくわかった。

それに気づかせてくれたのが、
「わたしのような人間」というフレーズだった。
「わたしのような人間」にも感謝しなきゃ。

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by pivot_weston | 2009-10-26 10:13 | ブログ

地球人

まったくの偶然だが、
おもしろいことに、
いまわたしの近くに、
ふたりの「地球人」発案者がいる。

昔から、
SFなどの世界では、
「宇宙人」に対する表現として
この「地球人」という表現も使われていたかもしれないが、
日ごろはあまり
「わたしたち地球人は……」などと言う人はいないので、
確かに、この言葉をしきりに使いだしたことは
「発案」と言うに当たるかもしれない。

お互いに、
違う場所で、違う世界のなかで使いだしたことなので、
いまさら無味乾燥な時間の物差しにかけて
どちらが先か、などと考えるつもりはない。

どちらの話を聞いても、
それぞれの思考の流れのなかで
「地球人」という言葉にたどりついたことはよくわかる。

かたや、人と人の間の言葉の壁を乗り越えて
「地球人ネットワーク」をつくることに人生をかけてきて、
かたや、地球規模で環境を考える人材をつくろうとして、
「地球人学校」をつくっている。

で、
ふたりの間でそれぞれの話を聞いているわたしは、
こうなりゃ、ふたりをなにかで橋渡しできないものか、
などとも考えている。

しかし、おもしろい。
2009年3月24日付の「四国の寿司処」に書いたような
偶然を感じる。

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by pivot_weston | 2009-10-24 16:32 | ブログ

ふとしたこと

人生の経路というのは、
ふとしたことで変わることがある。

先日、
30年ほど前の同僚と会い、
その当時からずっと経営者の座にいる社長といっしょに
つくっていた雑誌やなにかを見ていたら、
その会社の当時の所在地が出てきた。

〒150 東京都渋谷区広尾3-……

これが、わたしにとっては、
その会社から次の経路へ向かうきっかけだった。

いまでは社員何百人かの大所帯になっているが、
その当時のその会社では、
社員20人ほどが3階建てのマンションの3つの部屋に分かれて、
ごそごそと仕事をしていた。

わたしは編集者を希望して雇ってもらったが、
面接のときに「なんでもできますよ」と大ボラを吹いても、
実際には、まったくのトーシローだったので、
ひとりひとりが自立して動けなければならない少人数所帯では
編集者軍団の一翼をになうことはできず、
その当時は営業の人ばかりで構成されていた広告部に配属された。

で、なにをやったかというと、
まだ専門の制作者がいなかった広告の制作。

書籍広告なので、派手なことはできないが、
新聞や競合誌など、広告を出すところはけっこうあって、
2日か3日でひとつつくったら、また次のをつくらなければならなかった。

最初のうちはそれでも、
へえ、と勉強することばかりだった広告制作の仕事が
徐々に自分の無意識の領域に入ってきて、
いろんなことを考えてできるようになるのがおもしろかったし、
自分の書いた原稿があちこちの新聞や雑誌に載ることもあり、
会社にいても、家に帰っても、徹夜をしても、
夢中になってその仕事に取り組んでいた。

でも、あるとき、ふと思った。

まだワープロ専用機もろくに出ていない、手書きの時代だ。

技量が上がって「2日か3日で」が「1日で」になったら、
あれ、おれ、毎日この住所を書いてるなあ――と思った。

来る日も来る日も、必ず
原稿の最後には、先の
〒150 東京都渋谷区広尾3-……
を書いていた。

あ、30年たったいま、キーボードで入力していても、
なんか他人(?)とは思えない感覚がある。

そう、パソコン時代なら、流れは違っていたかもしれない。
でも、手書き時代のわたしは、
毎日毎日こんなことをしていてどうなるのだろう――と思った。

若者は、経てきて、見渡せる時間が短い分、
成長を急ぎたがる。

その前に、その会社に勤務しながら
アルバイトで本を1冊訳していたこともあった。

だから、見渡せる時間が短いだけでなく、
すぐに自信過剰になりがちな若者としては、
よし、こんなことをしている場合じゃないわ、
もうやめて、フリーの翻訳者として生きてってみよ――と思った。

ふとしたこと、だ。

結局、その後、定年までいた当時の先輩社員もいて、
とてもいい会社だったので、
当時の同僚と会うと、
ああ、おれもあのままあそこにいたらどうなっていただろうな――
などと思うことがあるが、
それはあくまで経てきた道を振り返って思うことであって、
経ている最中の、リアルタイムの心の揺れはどうしようもない。

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by pivot_weston | 2009-10-23 11:41 | 仕事