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もうひとりの「でかい」人

「イナバ」のついでに、思い出話をひとつ。

やはり大男の話だ。
しかも、野球選手。
でも、こちらはいまではひっそりと暮らしておられるらしいので、
いちおう衆人の目に触れる場であることを考えて、
ここでは勝手にお名前を出すのは控えておこう
(古くからの野球ファンはすぐにおわかりになるだろうが)。

「虎」の若旦那が「××も来ましたよ」「○○も来ましたよ」と
次々と野球選手の名前をあげていったとき、
わたしの頭のなかには、ある記憶がよみがえっていた。

学生時代の記憶だ。
日本のアマチュア球界にひとり、ものすごい投手がいた。
ドラフト会議では、12球団すべてがその投手を1位指名候補に……
と思われていたが、ふたをあけてみると意外や意外。
いの一番に指名に立った球団が別の投手を指名した。
それも、「ものすごい投手」と同じチームの2番手投手。
マスコミはたいへんな騒ぎになった。

そう、そんなことがあってから数年後のことだ。

わたしは大学でアルバイトに明け暮れていた。
ロッテ・オリオンズが仙台を準フランチャイズにしていたころだ。
いくつかアルバイトをかけもちしていて、
駅のホームの売店でも働いていたので、
当時のロッテの監督のカネやんこと金田正一さんが、
ひょっこり売店のそばに現れたりすることはあった。

でも、こちらは売店の商品が万引きされないように
気を配っていなければならない。
あ、金田だ――と、わが少年時代の世紀の大投手に目を見張ったが、
すぐに目の前に雑誌や新聞を突き出す客の相手に戻り、
気がついたときには、「ひばり」だか「はつかり」だかは出ていた。

そのころ、ほんの一時期だが、
いまではテレビですっかり売れっ子になっている
あるタレントさんの家庭教師をしていたことがあった。
その人の家は旅館だった。
客がいっぱい来ると、手がたりなくなる。
そこで、わたしにも、
「センセ、よかったら布団敷きを手伝ってくれませんか?」
ということになった。

つねに軽薄が売り物のわたしはすぐに「はいはい」だ。

で、ある日、布団敷きの仕事を終えて、
「センセ、お風呂をどうぞ」と言われ、
旅館の大きな湯ぶねにひとりでつかっていたとき、
目の前のすりガラスの入ったドアがパチンと開いたと思ったら、
目の前がふさがった。

おゝ。
仰ぎ見るとは、このことだ。
短時間のことゆえ、首が痛くなることはなかったが、
でかい。とにかく、でかい。
当時、わたしのまわりであれほどでかく感じる人はいなかった。

チビのわたしは、コンプレックスもあって、
つい身構える気分になりかけたが、
その日、そこにプロ野球選手が泊まっていることは知っていた。

あちこちの部屋をまわって布団を敷いているうちに、
廊下を歩いていて、大男の集団とすれ違った。
む、なんだ、こいつらは、と思ったら、
あの、なんとも紳士的な杉浦忠さんの顔が見えた。

あゝ、そうか、
ロッテが仙台を準フランチャイズにしているなら、対戦相手も来なきゃならない。
ここは彼らの常宿の旅館だったのか――
そう思っていたので、このとき、風呂場に入ってきたでかい人も、
杉浦さんたちのチームの人なんだということはすぐに見当がついた。

プロ野球選手とそんなに近くで会うのは初めてだった。
しかも、裸同士だ。

その人は、ちょこんと頭を下げ、「失礼します」とか言って湯ぶねに足を入れてきた。
こちらも、ちょこんと頭を下げ、「どうぞどうぞ」と言って脇に寄った。
体はでかくても、やさしそう、というか、おとなしそうな人だ。

どうしよう。なにか言葉をかけなきゃいけないか。
わたしは「野球×チガイ」でも、まわりには
プロに入るような「化け物」クラスの友だちはいなかった。
そういう人がなにを考え、なにを話しているのか。
そういうことがまったく見当つかなかった。

でも、ともあれ、確か、ふたこと、3こと、なにか話したと思う。
で、その3こと目くらいを話したとき、あっ!――と思った。

杉浦さんの顔がよみがえった。
当時杉浦さんが所属していた球団の名前をあらためて思い出すと、
目の前にいる人が誰かがすぐにわかった。
杉浦さんは、ドラフト会議であの驚きの1位指名を敢行した球団にいた。
そう、その人はまさに、あの驚きのドラフト1位指名を受けた人その人だったのだ。

「ものすごい投手」はわたしの憧れの人だった。
だから、その人を押しのけて光栄に浴した目の前の人のことも、
顔かたちは知らなかったが、
出身県がおとなりの県だったこともあり、
とても印象に残っていた。

でも、いきなり「あなた、××さんでしょう!」と言ってはしゃぐのは気恥ずかしい。
そこで、なに気なく「××さんは、確か○○高校の出身でしたね」と、
聞いてもいないお名前を口にして話しかけた。

「え」と、息をのむような間があった。
そして、「どうしてそんなことを?」と尋ねてきた。
あれだけ日本全国で騒がれ、出身校もなにも、新聞にはっきりと書き立てられた人が
そんなことを言うのもおもしろいものだ、と思ったが、
でも、本人にしてみればそんなものかな、とも思い、
あらためて顔を見ると、なるほど、素朴に、不思議そうな顔をしている。

いい人なんだろうな、とは思った。
でも、プロの世界では苦労するかもしれないな、とも思った。

今度、思い出したついでに
インターネットで調べてみたら、
いまはどこかでお勤めをされているらしい。
たぶん、あの人なら、どこへ行って、なにをしても、
ふつうに野球を楽しみ、ふつうに人とつきあい、
まじめにこつこつと生きておられるのだろう。

「イナバ」の話がずいぶんふくらんでしまった。
やはり、わたしは野球×チガイだ。

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by pivot_weston | 2009-02-28 22:04 | スポーツ

あきれた!

なにかの会合で
宇和島水産高校の練習船の「沈没」にかけて
当時自分が身を置いていた内閣が
その事故の処理の不手際もあって退陣したのを「沈没」と発言した
政治家が、マスコミから真意を問われて、
「なにが問題なの?」
「(練習船の沈没はアメリカの原潜が起こした事故で、
自分たちではどうすることもできなかったのだから)関係ないじゃん」
だって。

まいった!
あの言い方。
あの表現。

ただのお題目かもしれないけど、
総理大臣にしろ、閣僚にしろ、
そういう人って、
「国民の生命と安全を守る」
のが使命じゃなかった?

国がからんできたりして、
個々の国民ではどうしようもない問題にぶつかったときに、
フォローをしてくれるのが政治家じゃなかったの?

それを「関係ない」とは……。

「遺族の心情を考えると……」という
なんだか中途半端な質問しかしないマスコミの人もどうなってんの?

まるで宴の夜、欲の海だ。

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さすがはイナバ

野球のWorld Baseball Classic(WBC)の話題がにぎやかだ。
野球小僧、というより、小学生のころは「野球×チガイ」と言われて、
周囲から疎んじられていたわたしにとっては、
なんとも隠微な興奮をかき立てられる季節だ。

今年の日本代表チームの4番は、
稲葉という、いまひとつ知名度の高くない選手が打っている。
なるほど、やはりそうだったか、と思う。

2年ほど前、大田区の武蔵新田駅の近くにある病院でボランティアをしていて、
その帰りに、駅の近くにある「虎」というラーメン屋によく寄っていた。
どういうわけか、テレビドラマのロケによく使われる店らしい。
そのせいか、それとも、
店の名前が「虎」だからか、
あるいは、カウンター越しに相手をしてくれる若旦那が話上手のせいか、
そこにはプロ野球選手もよく来るらしく、
あるとき、その若旦那が
「××も来ましたよ」「○○も来ましたよ」という話を始めた。

さぞかしみんな体が大きいのだろうと思い、
「でかいでしょう、みんな?」と尋ねると、
「そーすネ、でかいッスよ、みんな」と流れで受けた若旦那が
ふと口をつぐみ、
「でもね、ほら、日ハムに稲葉っているでしょう。あいつはでかい。
いろんな選手が来たけど、あいつは特別でかかったなあ」と、
稲葉選手が来たときに頭をぶつけたという戸口のほうを見やった。

いまWikipediaで調べると、稲葉選手の身長は186cmとある。
確かに、でかい。
でも、でかいことはでかくても、大男ぞろいのプロ野球選手のなかでは
それほど図抜けたでかさではない。
それなのに、あの若旦那の目……。
会った人を「とろん」とでも形容できそうな目にさせるでかさには、
きっとなにかがある。
そう思っていた。

今度のWBCは、
稲葉選手がその「きっと」を裏付けてくれる舞台になるかもしれない。
ガンバレ、イナバ!
芯の通ったきれいな打球を期待しているよ。

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by pivot_weston | 2009-02-26 05:44 | スポーツ

モゾモゾ

久しぶりに、ひとつの言葉の意味を調べるのに2日かかった。

いや、かかった、と言うより、かけた、と言うべきか。

意思の問題であり、
ギャンブルだ。

わたしの仕事には、まだまだ
精度の面でも、スピードの面でも、
グレードを上げる余地と必要性が多分にある。

このところは、少しスピードにウェートを置き、
消化能力を鍛えることに偏りすぎていたかもしれない。

インターネットのように便利なツールが登場するまでは、
ひとつの言葉の意味を調べるのに
1週間も10日もかけていたこともあった。

粗雑になってはいけない。

それに、精度を上げるのは
必ずしもスピードと「ふたつにひとつ」の問題でもない。

精度が上がり、それだけ
原文の内容を明確に理解することができれば、
おのずと、中途半端な理解でやっているよりスピードも上がる。

原文の内容をほんとうによく理解できたときには、
次に書いてあることが読むより先に自分の頭に浮かび、
まるで自分でオリジナルを書いているように
さらさらと作業が進むこともある。

だから、精度を……とは思うが、
あ、しまった、もう納期が目の前だ。

やれやれ、もっとスカッとした頭脳がほしい。

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by pivot_weston | 2009-02-25 08:15 | ブログ

示唆に富む

『おくりびと』という映画の
オスカー受賞の報道を見ていると、
ああ、なるほどな、と納得するところがあった。

ともにオスカーという評価を得ようとしていた作品は、
レバノン侵攻かなにかをテーマにしたイスラエル映画だったらしい。
授賞式前から、「すばらしい」という評価がたくさん聞かれていた。
でも、結局、選考委員の人たちは
荒々しい死より静かな死を選んだ。

年末から、
また激しい爆発音が聞こえだしたイスラエルやパレスチナの報道を見ていて、
ほんとうに、この人たちはなんとかならんものだろうか、と思っていた。
でも、こうなってみると、
『おくりびと』のような映画を見てもらうという方法はあるかもしれないな、
と思えてきた。

なにもソマリア沖へ軍艦を出すだけが能ではあるまい。
やわ~いものを発信すること。
それは、この国が近代の歴史で授かった異能ではあるまいか。

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楽しみな日米首脳会談

完全に野次馬的見地からの夢想だが、
今度の日米首脳会談はおもしろいかもしれない。

アメリカも、日本の麻生政権も、どちらもあとがない者同士。
麻生首相が急に「ほー」と思うような成果を上げたり、
帰国してから「おや」と思うような政策を打ち出したりしたら、
アメリカがどういう国で、
戦後の自民党政権がどうやってやってきたかが一気に透けて見え、
とてもわかりやすい歴史の勉強になるんじゃなかろか、なんて思った。

ニューヨークのマジソン・アベニューが高い地位を占めるアメリカには、
日本の国民を「おや」と思わせるコピーが書けるくらいの能力はあり、
そういう能力があるのかどうかわからないが、
ともかく窮地にあたふたし、あってもそれを発揮できないでいる自民党政権に
ちょちょいと書き上げたそのコピーを渡し、その代わり、
「な、だから国債を買えよ」と迫るくらいの悪知恵はあるように思えるからだ。

いや、先に来日したヒラリーさんが民主党の小沢代表に会ったところを見ると、
今度はそのコピーを野党の民主党に渡そうとしているのか。

ともあれ、アメリカのしたたかさが垣間見えそうないい機会。
いくら「あとがない」とはいえ、
それはこれまでやりたい放題をやってきた結果であって、
ほんとうに「あとがない」麻生政権とはちと違うアメリカは、
またやりたい放題でこの窮地をしのごうとするかもしれない。

そう思うと、なんだか、
なにもなしに終わったら、がっかりさせられるような気もしてきた。

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朝の収穫

2日ほど前、早朝に
大分の日本文理という大学の
チアリーディング部の活動を紹介する
テレビ番組をやっていた。

ふだんなら、さっさとチャンネルを切り換えていたかもしれないが、
ちょっとひと息、のタイミングだったので、
ま、これでもいいか、と、そのままにしておいた。

大学のチアリーディング選手権のようなものがあるのだろうか。
夏の甲子園大会のように、最上級生にとっては最後の大会らしく、
その大学は3連覇を目指して猛練習をしていた。

次々と、わたしたちが中学時代にやった組み立て体操式に
隊形を変えていく選手たち。
そのうち、1年生か何年生か、
下級生のひとりが演技の次の動きを忘れて失敗をする。

とたんに、「おい」とかなんとか、怒声や悲鳴が交錯する。
その瞬間に、こちらも一気に画面に吸い寄せられた。

最上級生にとってはやり直しのきかない大会の練習中の下級生の失敗。
しかも、誰でもない、その子が失敗したことも
はっきりしている。

「なにやってんのよ」
その子を責める激しい声が飛ぶ。

だろうな。
失敗した子を、すぐになぐさめられるほど心に余裕のある状態で
練習をしていたのでは、自分に最高の、ぎりぎりの演技はできない。

それは、失敗をした下級生も同じはず。
F1でトップスピードで走っていたら、急に目の前に、
いや、目の前に、とも認識できないほど急に、壁が現れ、
ガツーンとぶつかったようなものだろう。

でなければいけない。

呆然とした下級生の顔が泣き顔に変わる。
だろうな。
逃げ場はない。
泣いても失敗は取り消せないが、
このさい、そうでもするしかしようがあるまい。

上級生も、まだふたこと、3ことと、激しい言葉を浴びせている。
だろうな。
余裕のないところまで自分を追いつめて演技をしていたのなら、
それくらいのことはしかたがあるまい。

この子たちはこの場をどう収めていくのだろう。
わたしはますます興味をひかれた。

いや、興味をひかれたのは、
罵声を浴びせる上級生の顔が床に向いていたからだったか。

誰でも失敗をすることがあることくらいわかっている。
ましてや、下級生だ。
自分だって、下級生のころに同じように失敗をしたことがあったかもしれない。
怒鳴ることで下級生の気持ちが萎縮するかもしれないことを考えれば、
怒鳴るより、すぐに練習を再開するほうが合理的かもしれない。
だが、それでも怒鳴らずにはいられない。下級生を責めずにはいられない。

うつむいて怒鳴る上級生の姿からは、
そんな内面の動きも読み取れる。

お。お。どうなるのだろう、この子たち。
見ているわたしは、いよいよ夢中になった。

番組では、その後の裏のプロセスがあまり詳しく紹介されなかったが、
結局はみんな笑顔で演技をし、めでたく3連覇を達成したところを見ると、
背後でいいコミュニケーションがとれたということだろうか。

これはいい、と思った。
人と人は、お互いに自分の輪郭をきれいに保っているだけでは
いいコミュニケーションはとれない。
かといって、お互いに意味もなく輪郭を侵したり侵されたりするのはいけないが、
ときには、いかんともしがたくなってお互いの輪郭を侵し合う。
そして、結局のところはそういうコミュニケーションだけが
各自の人間性のふくらみや深みとなってあとに残っていくのではあるまいか。
近ごろでは、妙になまっちろいコミュニケーションが増えてきて、
人と人がなんでもきれいごとですませようとしているようなところがある。
なんの気なく見だした番組だったが、
朝から思わぬ収穫をもらった気分だった。

思えば、わたしが中学で野球をやっていたころには、
試合は最上級生だけでチームを組んで出るものだった。
最上級生になって最初の試合に一塁手として出たわたしは、
3つのエラーをして、打つほうも三振と二塁ゴロくらいだったと思うが、
あの大分の大学の下級生のような立場に立たされたことはなかった。
もしかすると、わたしも
自分の時代より進化しているいまの子どもたちに勉強させてもらっているのかもしれない。

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by pivot_weston | 2009-02-23 05:04 | ブログ

益川さんはおもしろい

久しぶりに月刊『文藝春秋』を買った。

昨年秋にノーベル賞をもらった益川敏英さんの
「ノーベル賞、嬉しくないと言った理由」
という談話記事が載っている。

おもしろい。

読んでいるうちに、
うん、そうだ、そうだ、と、
何度か心のなかでうなずき、
胸のすくような思いも味わわせてもらった。

ひとつは、冒頭の「解題」部分。

(以下、引用)
あの日は午後七時ごろ、ノーベル財団から京都産業大学の研究室に
いきなり電話がかかってきました。私は大の英語嫌いで
海外の学会に一切いかないほど。ペラペラと英語でまくしたてたら
驚いて切りかねないと思ったのか(笑)、最初だけ英語で、
すぐに日本語の通訳の女性にかわり、「ノーベル物理学賞に
決定しました。発表は十分後です」といわれた。これに
僕はカチンときた。
(引用終わり)

はは、あるある、そういうことって――と思った。
引用元が出版物、それも発売期間に限りのある月刊誌なので、
あまり多くを引用するのは避けるが、
これだけでも、益川さんがカチンときた理由はご想像いただけると思う。

もうひとつは、
この宇宙の「対称性の自発的破れ」を説明する材料となる
基本粒子クォークの種類を特定しようとしていて、
3種類目までは発見できたが、4種類目がなかなか発見できず、
4種類目、4種類目と念ずるような思いで研究をしていたときのこと。

(以下、引用)
……ある日、僕がお風呂から出ようと立ち上がったとき、
ふと「6個ならどうだ」と思ったんです。
4元モデルではどうしても上手く解決できないから、
みっともないけれど、4元ではムリだよと説明する論文を書こうか、
と思った。その瞬間、憑き物が落ちたように、
いわば4元モデルに見切りがついた。

だったら、なにもそんなネガティブな論文じゃなくて、
6元モデルにしてポジティブな論文を書けばいいじゃないか、
とひらめいた。クォーク6個ならうまくいく。
いったん意識がそう切り替わったら、
理論自体はほとんど自明のことなんです。……
(引用終わり)

この引用箇所では、
前半部の最後の文で、ああ、そうそう、あるある、そういうこと、
と思い、
後半部の最後の文では、なるほど、と思わされた。

テレビで拝見していた益川さんには、
口にする言葉をうまく制御できていないような印象を受けていたが、
この記事を読んで、益川さんの人となりがうんとヴィヴィッドになった。

なるほど、人というのは、
やはりいろいろと多方面から光を当てないと、
実像というのは見えてこないものだ。

この記事を読んで、つくづくそう思った。

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わたしが望むもの

それはなんだろうと、ふと考えた。

お金だろうか。
はて。
力だろうか。
さて。
妙齢の美女との艶やかな関係だろうか。
はてさて。

みな、目の前にあれば、
自分が望んでいるものに変化してしまいそうな気もする。

でも、ほんとうに、
自分の存在がいちばん奥の奥で望んでいるものは、
そうではない気がする。

いつまでも続く長い長い時間か。
それを生きる若さや活力か。

いや、それも違う。
どうもそういう、なにかの尺度ではかれるものではないような気がする。

尺度というのは、現場を一歩離れたときに意味を成すものだ。
たとえば、死んだあと、とか、
誰かと比較するとき、とか。

ある夏、
ある末期がん患者さんと
京都の河原町を歩いた。
その人が若いころに働いていたところだ。

そばをちょろちょろと高瀬川が流れていて、
石かなにかを敷き詰めた、ささやかなスペース。
周囲を取り囲む、それほど高くない建物の間にできた空間は、
枝が頭に触れそうな高さまで垂れるほど繁った、
小さな、色つやのよい木の葉で埋まっていた。

若いころに自分がいた場所に立ち、
その木の葉の間からのぞく空を見上げる患者さん。
さぞやうれしそうにしているのだろうと思ってその顔を振り返ったとき、
わたしは、ああ、やっぱり、とまずは思い、
そのあとで、じわりと伝わってくる驚きをおぼえた。

つい先ほどまでは、河原町の交差点で知らない通行人同士としてすれ違っても、
あれ、もしかしてこの人は……と思ってしまいそうな、土気色の顔だったのに、
うれしそうにしているのを見て、ああ、やっぱり、と思い、
もう一度見直したときの顔は、
河原町の交差点ですれ違っても、若い通行人たちのなかに埋もれて、
目をとめる気にもならないような色つやだった。

がんを宣告され、余命3か月を宣告され、
縮みに縮んでいた命のエネルギーが、
一気にそこでよみがえり、爆発したような光景だった。

またあるときには、
やはり末期がんの患者さんに、
『四季の歌』をうたってとリクエストされた。

わたしたちがうたいだすと、
車椅子に、やや背もたれを倒して座っていたその患者さんもうたいだした。

でも、体のなかでは、わたしたちが元気なうちには何気なくできることが
容易にはできないようにするさまざまな現象が起きている。
そこにさまざまな薬剤を投与し、微妙にバランスを保つ緩和ケアも受けている。

わたしたちがうたっているうちに、
その患者さんは吐いた。
あ、しまった、大丈夫かな、と思い、声のしぼむわたしたち。
だが、とろんと見守るわたしたちの前で、
ふんぞり返っていた姿勢から体をくの字に折って吐いた患者さんが、
付き添いの人に口をきれいにしてもらうと、
誰よりも先に、またうたいだした。

あ、いかん、うたわなきゃ――
そう思って、わたしたちも、またうたいだした。

『四季の歌』も、その気になれば、何度でもぐるぐるうたえる。
わたしたちは、やめてはいけない、と思い、何度でも、
最後まで行けば、また最初に戻ってうたいつづけた。

患者さんは、その間に何度も吐いた。
何度吐いても、そのたびに、
かすかにしぼむわたしたちの声が元に戻るより先に、
またうたいだす。

うたいたい。しがみついてもうたいたい。
もう生きてできることはこれしかなくてもいいからうたいたい――
そんな気持ちが鮮明に伝わってきた。

尺度なんていらない。

鼻をたらし、ツギの当たったズボンをはいていても、
また、文明の中心地からどんなに遠いところにいても、
自分の目の前に、他人とは比較のできない無上の喜びを見出していた
子どものころのような時間と空間。

わたしも、行きがかり上、いろいろと、尺度ではかれる望みを口にするが、
結局のところはそういう世界を生きていきたいのだと思う。

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by pivot_weston | 2009-02-21 03:00 | ブログ

ときは流れる

夜、散歩をしていて、
ひとつの歌がよみがえってきた。

大学時代に出会ってから、
いろんな場でうたい、
さしたる場とも言えない場でも、
口ずさんできた歌だ。

『ときは流れる』

『受験生ブルース』で
あの軽やかによく響く低音を全国にふりまいた
高石ともやさんがうたっていた歌。
確か、大阪の大野正雄さんという人が書いて、つくった、
特別にすごい詞がならんでいるわけでもなければ、
特別にすごいメロディがついているわけでもない歌だ。

著作権保護のため、
ここではその詞を紹介しないが、
みなさんも機会があれば、どこかで聴いていただきたい。

いい歌だ。
前に書いた『We Shall Overcome』もそうだが、
鼻歌が似合っている。
散歩をしながら、「鼻歌が似合う」という表現も、
あながち悪い表現ではないかもしれないな、と思った。
これも、時間がなじんできたがゆえの思いだろうか。

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by pivot_weston | 2009-02-19 01:15 | 音楽