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TPPについて

 マスコミの人は「賛否両論まっぷたつ」のようなことをいっている。でも、聞こえてくるのは強硬な反対論と及び腰の賛成論が多い。もっと本質を語らないといけないのではないかと思う。

 まず、いま決めなければならないのはTPPに参加するかどうかではなく、TPPの締結交渉に参加するかどうか。流れによっては締結を拒否することもできる交渉プロセスへの参加に、すでに強硬な反対論が出てきているのは、それだけそのプロセスを任される政治家が信用されていないということだろうが、だからといって、そこで政治家がひるんでいたら、いつまでたっても国民から信用を得ることはできない。お年寄りに「振り込め詐欺に気をつけてね。しっかりしてね」というなら、自分たちも勇気をもって、交渉の現場と現実をしっかりと確認し、理不尽な協定になりそうなら拒絶するという、しごく自然な大人の交渉姿勢をもつ必要があると思う。

 それと、考えておかなければならないのは、この交渉の本質だ。

 TPPは「環太平洋戦略的経済連携協定」という名が示すように局地的な経済協定だ。でも、参加表明国のなかにチリ、ベトナム、ペルーという、かつては日本と比べてかなり貧しかった国が名をつらねていることからもわかるように、これはしだいに世界が均等化され、ひとつになろうとするプロセスのひとつの動きだ。

 紀元後だけでも2000年にわたる歴史のなかでずいぶん格差があったはずの世界が、この15年ほどのあいだに急速に平準化され、ひとつになろうとしている。中国の経済発展も、アラブの春も、ユーロ危機も、みなその世界がひとつになる動きのひとつといっていい。

 TPPを締結したら、日本の農業は多大な影響を受けるかもしれない。しかし、それはTPPに問題があるからではなく、過去の農政に問題があったからではないのか(同じような国はほかにもいっぱいあるだろうが)。問題の本質をすりかえていたら、日本はいよいよ大きな問題をかかえることになる。

 これまでは、国と国のあいだに壁をつくり、自国の産業を保護するのが世界の常識だった。でもいま、産業の枠を超えて、世界平和やなにかのレベルで、世界がひとつになろうとしている。その大きな流れに異論があるならともかく、そうでないのに国内産業を保護するために硬直した壁を維持しようとすると、やがては自己分裂に直面することになる。

 ヘラクレイトスの「万物は流転す」や仏教の「諸行無常」をふり返るまでもなく、この世の基本原理は「変化」だ。子孫が安寧に暮らせる世のなかをめざすなら、変化を拒絶し、力づくで不自然な安寧を保つのではなく、「変化」や「無常」と同居し、それに対応しながら安寧に暮らせるフレキシブルな世のなかをめざすべきではないのか。

 これからも世界がひとつになる方向性が維持されると仮定すれば、いま硬直化した壁を守っても、いつかはそれをとり払わなければならないときが来る。いまとり払うより、あとでとり払うほうがさらに影響は甚大になる可能性もある(あるいは、壁を守っているうちにどんどん変化していく世界からとり残され、いざ壁をとり払うときには、世界から見れば、どうでもいいことになっているかもしれないが)。

 もちろん、農業や農村なんてどうにでもなれと思っているわけではない。どこの国にも、次から次へと生じてくる現実の問題に対処する職業として、政治家がある。政治家は、硬直した壁をつくって、あとはふんぞり返っていていい商売ではない。問題が生じたら、そのつどよりよい対策を講じていくのが仕事であり、当然のことながら、ほかの職業と同じように、休んでいるひまなどないし、貿易障壁をとっぱらったからといって、その職業がより難しいものになるわけでもないと思う。

 要するに、みんなもっと自然に、ふつうに生きていこうよ――というのが、現在の世界の流れだと思う。いや、TPPに臨む米国の魂胆はこうで――と、目先のことをいろいろと勘ぐるのも必要なことかもしれないが、日本の基本的な視座をそんなところに置いていたら、日本も米国程度の国にしかなれない(米国がほんとうに目先の利益に基本的な視座を置いていると仮定しての話だが)。

 日本の農業だって、そんなにやられっぱなしになるとは思えない。世界最高水準の作物をつくる能力がある人たちが総崩れになることは、原理として考えられない。ただ、これまで大田区の町工場の人たちが円高のたびにあれこれと策を案じて生き残ってきたように、これまで以上に考えることは求められるようになるかもしれない。でも、それがこの世の自然なありかたなのではないかと思う。

 みんながふつうに明日に不安をいだき、知恵を絞り、勝負をして生きていく世のなかにすればいいだけの話のような気がするが、どうなのだろう。「年金制度」といい、「公務員制度」といい、わたしたちはある特定の世代の人たちだけの「理想郷」を実現するために生きているのではない。日本がギリシア化するのを防ぐためには、早くより自然な国の状態をつくることが不可欠であり、その作業はもうはじめなければ手遅れになるような気がするのだが。

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冷戦時代の終焉

 リビアのカダフィ政権が崩壊したらしい。

 いまごろなんだと思われるかもしれないが、ようやく冷戦時代の幕が下りかけているのかなと思う。

 中東・北アフリカはもともと豊かな地域だ。だから、人類文化発祥の地といってもいいのに、少々鷹揚なところが災いし、気候にも土壌にも恵まれていなかった世界の最貧地域からはい上がろうとして緻密に戦略を立ててがんばってきた西欧の後進文化圏にいつのまにか飲み込まれ、抑え込まれ、利用されてきた。そして、戦後の冷戦時代には、そうした国々によって区分けされた「国」にそれぞれ米ソのエージェントのような政権がつくられ、背後から供給される物資や金で独裁政権が誕生してきた。

 パーレビも、フセインも、ムバラクも、さらにいえば、オサマ・ビン・ラディンもそのひとりだったといっていい。

 カダフィもそうだった。そのときそのときの趨勢を見て米ソのどちらにも接近しようとして、ちょっと毛色の違うところはあったが、そもそもはCIAのエージェントを介して基盤を築いてきた人だったと思う(詳しくは、ピーター・マース著『諜報員狩り』落合信彦訳(集英社)参照)。

 そのカダフィも倒れたとなると、あとは、いま問題のアサド・ジュニアか。そういうトップの名前だけをならべると、歴史の教科書のように血のかよわない話になるけど、今度のリビア政変劇のような混乱で中東や北アフリカの人たちが払っている犠牲を考えると、ほんとうに冷戦時代の罪は大きいように感じる。

 なにも悪の責任はカダフィひとりにあるのではない。わたしたち人類は、彼らを犠牲にしてまた一歩前進しようとしているのかもしれない。

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もっと自分たちのいまに関係することを

ホワイトハウスの関係者が
Twitterで時計の針がカチカチと進んでいることを伝えている。

米国の連邦債務上限引き上げの問題が
いよいよ8月2日のデッドラインに迫ってきて、
それでもなお、
伝わってくるのは民主・共和両党の互いの責任を指摘する声が多く、
妥協の気配がいまひとつ明確に伝わってこない。

きわめて重大な問題ではないのだろうか。

米国が借金返済ができなくなり、
その信用格付けが変更されれば、
円相場や日本の国家資産にも影響し、
これから復興しようとしている日本の経済にも
大きくて深い打撃を受けることになるのではないだろうか。

ギリシアの復興プランも揺らぎ、
そうなれば、EU全体も揺らいでくるだろう。

なぜ、それでも下院共和党ががんばるのか、
その背後にいる「ティーパーティー」に
自分たちの暮らしや利益以外のこと、
たとえば世界経済などに対する責任意識がどこにあるのか、
よくわからない。

なぜ、それでも日本のテレビマスコミなどが
この問題を大きくとり上げないのかも、
よくわからない。
(ネット上では、逐一報道されているみたいだが。)

中国の列車事故も
中国に体制変革を迫り、
世界的にも重大なニュースに違いはないのだろうが、
日本も高度経済成長期には何度も大きな列車事故を経験した。

ともかく、
今週はこのデッドラインが現実に訪れる。
わたしはもっと日本も注目していいことだと思うのだが。

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9.11とオスロ・ボム

やはり、9.11はパンドラの箱を開いたのだろうか。

あの、久米宏さんの「ニュースステーション」を見ているときに
(そうではなかった人も大勢いるだろうが)、
その画面のなかで起きたこと。

現実とファンタジーがひとつになった瞬間というのは、
ああいうものだろうか。

「テロ」とか「反米」とか「犯罪」とかいうルートだけで
あの事件のその後の展開を考えていてはいけないのかもしれない。

そういうものとは関係なく、
「現実」と「ファンタジー」を結びつけたがっている人、
「ファンタジー」を「現実」にしたいと思っている人は大勢いる。
「テロ」や「反米」や「犯罪」のキーワードで絞れる数では、
とてもすまないだろう。

その一方で、わたしたちの周辺では、
たとえば、何年か前に、佐賀かどこかで、
もうとっくに大人になってから、
同窓会の日にお茶かなにかに毒を盛り、
子どものころにいじめられた恨みを晴らそうとした人がいたように、
宿年の思いというものも、そこここにうごめいている。

「ファンタジー」の世界に長くひたり、
「現実」を夢見る忍耐強い心だ。

「現実」と「ファンタジー」が結びつく前は、
夢だけに終わっていたものだろう。

そういうものに
9.11は出口を示したのかもしれない。
(もしかすると、オクラホマシティ連邦ビル爆破事件や
ベイルート海兵隊宿舎爆破事件にまでたどれる
系譜の糸があるのかもしれないが。)

だとしたら、
この10年間に胚胎されてきたものが、
スープかなにかをネルの布で絞ったときに、
テルテルボーズの頭のようにまるくなったその布地から
ぶつぶつと内容物があふれ出してくるように
地球を取り巻くネルの布地からいっせいに噴き出してこなければいいのだが。

でも、どこにもかしこにも9.11の根があるという認識は、
いじめにしても、なんにしても、
ふだん、なにげなく人に行為をいたしているわたしたちに
日々の自分の行いをあらためて考えなおさせる
きっかけにはなるかもしれない。

その意味では、これも、
わたしたちの暮らしがより微細化する方向へ向かって進んでいる
ひとつのあらわれなのかもしれない。

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For lost souls in Mumbai

Hi.
I am just one ordinary citizen of Japan.
In the past, I might be in no position and have no means
to say anything about the world affairs.
But now, as an ordinary citizen of the rapidly uniting world,
I think I could say something about them.

Many Mumbaians lost their todays yesterday.
Bombings result in nothing other than loss.

Almost all the people on the earth are confronting
with their difficult circumstances.
The earth, or the universe, does not allow us to live
without any gravity.
That's why we could feel some sympathy for others.
That's why we could share something with others
to realize our well-being.
And that's what is uniting us now all across the world.

Once you tried to escape from your difficulties by bombing others,
the result is quite simple.
Nothing.
Bombings result in absolute nothing.

If you are striving for your well-being,
you should share your difficulties with others.

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放射性物質と交通事故

昨日、長女一家と食事をしながら話をしているうちに
思いついた。

放射性物質の危険性を考えるためのたとえ話だ。

ある村には、車が1台しかなかったとする。

なんとものどかな話だが、
それでも、車がある以上、
そのたった1台しかない車に当たって
けがをしたり死亡したりする可能性はある。

別の町には、車が1万台あったとする。

こちらは、そこらじゅうを車が走っているわけで、
かなり気をつけていないと車にぶつかる可能性がある。

ただ、車が1台しかない村でもそれにぶつかる可能性があるのと反対に、
車が1万台走っている町でも、
ただそれだけで、その町に住んでいる人がみな
車にぶつかるかというと、そんなことはない。
2万台走っていようと、3万台走っていようと、
ぶつからない人はぶつからない。

放射性物質の危険性は、
それと同じように考えることができるのではあるまいか。

原発事故によって
車1台の村が車1万台の町に変わったようなものだ。
(この場合、車0台の離れ小島のようなところは存在しない。)

マスコミの人やなにかは、
何ミリ、何マイクロシーベルト以上なら危険で、
それ以下なら安全という、
明確な分かれ目があるかのような伝えかたをしていることが多いが、
そんな分かれ目など、実際にはあるわけがない。

放射性物質は、
何マイクロシーベルトまで取り込んだら必ず発がんし、
それ以下なら絶対に発がんしないというものではないのだ。

行政上の基準値は、
基本的には、どこかに設けておかないと具合が悪いから設けているもので、
それほど数多くあるとは思えない統計サンプルから
だいたいの目安を割り出しているのだろう。
(だから、専門家のあいだでもけんかになったりするのだろう。)

一方で、わたしたちは、
2005年ごろから急速に減少し、
いまでは年間5000人を切っているとはいえ、
1959年に初めて1万人を超えてから、
毎年毎年1万人前後の人を交通事故で亡くしてきている。
わたしが生まれた1955年から通算すると
56万1998人が交通事故で命を落としている。
統計はないが、
車の排気ガスによってがんを発症し、
命を落としたかたも少なからずいるだろう。

それでも、わたしたちは
車についてはヒステリックに恐怖を口にし、
国全体で台数を制限するような措置はとってこなかった。

なぜだろう?

放射性物質が怖いものだと思う感覚は
わたしも持ち合わせているが、
車の危険性については、おとがめなしに放置する姿勢をとってきて、
放射性物質の危険性については、
数字の意味を超えて厳密になろうとする姿勢がよくわからない。

車について、ここまでおおらかな姿勢を保てるのなら、
放射性物質についても、もう少しおおらかにかまえたほうが
ストレスに起因する発がんを抑制できるのではあるまいか。

放射能汚染対策のためにチェルノブイリに行き、
またセミパラチンスクにも行っていた知人が帰ってきた。
福島はこれから長く世界の放射能研究のひとつの拠点になる。
事なかれ主義の人たちが集まり、
本質から離れた事務手続きをこなすことが最大の目的化している
官僚組織の辺縁で、
本質でつながる人と人の枠組みをつくろうとしている。
わたしたちも、そういう事象を応援していこうと思うなら、
表面的な議論に引きずられない視点を持つ必要があるのではあるまいか。

(余談だが、今回調べて初めてわかったことだが、
過去の交通事故死者の統計には、ところどころに、
ホンマかいな、と思える値の推移を示しているところがある。
ホンマだろうか。)

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震災3か月を前に

TBSが震災後の被災地の取材映像をまとめて放送していた。

3月11日午後3時前、
それまで長く定着していた海岸線が移動しはじめたときの映像。
迫りくる海岸線が人間の快適なすみかだった町を飲みこんでいく映像。
飲みこまれたあとの、町と海が完全にオーバーラップしてしまった映像。
海岸線がまた引いたあとに残された、がれきの山と化した町の映像。
そこでやり場のない喪失と同居し、生きている人たちの映像。

あの地震のあと、
震源地がわたしのいた東京近辺ではないことを知ったのは直後だったし、
それまでの地震ではあまり耳にしなかった
明確な海面上昇の徴候を示す津波のデータを耳にしたのも
地震発生からそれほど間もない時刻だったが、
東北から関東にかけての沿岸部がその津波で壊滅的な被害を受けたことを
はじめて知ったのは何時ごろだったか。

正直に書くと、やはり、と思った。
なぜ、とも思った。

その気持ちを、何度もまわりの人たちに伝えようとしたが、
ふたことみこと、胸につかえていた言葉を吐き出すと、
それ以上続けるのは思いとどまった。

いろんな意味で、そうさせるものがあった。

わたしは地震のことも津波のことも本格的に勉強したわけではない。
しかし、38年前、仙台の大学にはいったときには、
地球のことや海のことが勉強したいと思い、
残念ながら成績が悪くてその夢はかなわなかったが、
地震や津波に関する専門書のたぐいは読んでいた。

そのころ読んだそういう本のなかで、
確か、今回くらいの津波の高さは、
計算の結果として予測されていたと思った。

いまでは、たどれるものがあいまいな記憶しかないので、
いいかげんなことを書いてはいけないだろうが、
確か、10mとか20mとかいう記述はあったと記憶している。

とにかく、大きな津波が三陸のリアス式海岸の入江に進入したら
とんでもない高さになるという記述はあった。

やはり、と思い、なぜ、と思ったのも、
そのためだ。

震災後、いろいろと伝えられる報道を見ていて、
三陸の町では、津波対策として
10m規模の防波堤が築かれていたことはわかった。

では、ほんとうに
その防波堤建設の根拠にあったはずの
学問の計算結果や想定ないしは想像を超える津波だったのか。

そこが、ずっとしっくりこない。

わたしが大学時代に読んだ本から受けた印象では、
三陸では津波が今回くらいの規模になる可能性がある
と感じていた。

その印象は、
三陸をはじめとする津波の被災地でも共有されていたのだろうか。
そんな思いがあるからか、ずっとしっくりこない。

学問の世界の人たちがそれによって得た情報を
対象となる地域の人たちに正確に伝えていなかったのだろうか。

わたしの子どものころの記憶にも残っているチリ地震津波のあと、
十勝沖や北海道南西沖の地震で津波の被害が出ていたが、
しばらく、少し大きな地震が起きて津波が発生しても
それほど高い津波にならないことが続いていたので、
ついつい、まあ大丈夫だろうという安心感が生じ、
学問の世界の情報は伝えられていても、
それが無視されていたのだろうか。

わたしの「なぜ」は
そうした疑問に対する答えがどこにあるかわからないところから
湧いてくる。

TBSの取材映像集は、
被災地の現実や被災者の悲しみややるせなさを伝えることに
ウェートを置いていた。

そんな現実が続いているときに、
こんな思いをいだくのはひどいことなのかもしれない。

しかし、ほんとうに二度とこのような悲劇を繰り返したくないなら、
学問の世界の入口で、それも遠い昔にわたしが学んだことくらいは、
広く周知されているようにしなければならないのではあるまいか。

えんえんと続く今回の震災に関する報道などを見ていると、
まだ自然界に対する畏怖の念が欠落しているのではないか、とも思う。

いくら人間の文明が進んでも、
それは自然の力に打ち勝ちうるものにはならない。

わたしたちは安全で快適な生存など保証されてはいない。

それなのに、
いくら「想定」の内容そのものに問題があったとはいえ、
また、大切な人を亡くした多くの人の心をなぐさめるには
そうするしかないのかもしれないが、
「想定外」や「未曾有」という表現を使うことそのものを
封じようとする動きもある。

そこには、
つくりものの文明生活の基準で自然界への対応を求める
人間のおごりのようなものも感じる。

そして、いままた
がんばろう、地震になんか負けないぞ、という気運のなかで、
海沿いの低地に町が再建されそうな危惧も感じる。

海沿いに空白地帯ができたら、不便かもしれない。
それに、またこれからも長く
地震が起きても、津波が発生しても、
大きな津波の来ない期間が続くかもしれない。

しかし、だからといってまた海沿いの低地に町を再建したら、
わたしたちはこの震災の教訓を生かすことになるのだろうか。
いかにその町を人工の造形物で要塞化するにしても、
そんな人間の作為など、
いつか必ず吹き飛ばされるときが来ることは、
なにより今回の原発事故が物語っているように思われる。

これから何十年か何百年かたったとき、
なにも知らない子どもたちが海沿いにある空白地帯を見て、
なんで不便なのにこんな空白地帯を設けているのかときいてきても、
津波を引き起こす自然の力の恐ろしさが
その子を納得させるように語り継がれているようになってもらいたい。

今回の津波も、ヒロシマやナガサキと同様に語り継ぐべきものだ。

復旧、復興を指揮する政治や行政の世界の人たちには、
どうか自然に対する畏怖の念は忘れないでいただきたい。

被災地の人も、亡くなった人も、学問の世界の人も、
みんなの営みを無にしないために、そう思う。

TBSの取材映像集は貴重なものだし、
わたしたちに多くのことを語りかけてくれるものだろうが、
基本的には、
こんな取材はもう二度としなくてもいいようにするのが
わたしたちみんなの願いだと思う。

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菅さんの問題

近ごろでは、マスコミは菅さん批判一色、一辺倒だ。

民主党議員のなかにも、
党代表の非を証明する確たる証拠をさがすのに
労力を費やしている議員などがいたりする。

わたしは議員秘書をしていたころ、
代表選のさなかに党所属議員の事務所訪問に来た
菅さんと握手をして言葉を交わしたし、
小沢さんともお会いしたが、
菅さんや小沢さんのことを個人的に知っているわけではない。

ただ、
現体制を批判するグループのなかには、
震災に関する政府発表やマスコミ報道を「大本営」になぞらえる
人たちもいるみたいだが、
わたしの視点から見ると、
一色、一辺倒になるのも「大本営」チックに思えるので、
あえて違う見かたも書いておきたい。

そもそも、日本政府のガバナンスの問題は政治家だけの問題だったのか。
旧政権のころは、官僚機構にもけっこう批判の矛先が向かっていた。
ところが、最近はなにかにつけて、すべて悪いことは菅さんのせいにする
傾向が強まっているように感じる。

わたしたちが若いころの戦争責任論争のように、
やれ、天皇のせいだ、いや、軍部のせいだと、
特定の個人やグループのせいにしてものごとを総括しようとするのは、
当時の日本のように、
まだどこかに「大目に見てもらう」側面をかかえる集団、
つまり、途上の集団に許される行為だ。

アメリカはもっと広い視野のなかで
そういう論争を繰り返す集団を黙って見ていた。

そのアメリカから、昨日、
バイデン副大統領の奥さん、ジルさんの名で、
メモリアル・デーのメッセージが届いた。

5月の最終月曜日の戦没将兵追悼記念日だ。
過去の戦没将兵たちがいまのアメリカ国民にとって
いかに尊い存在であるかが書いてある。

で、思った。

もちろん、指摘のできる虚偽や欺瞞はごまんとあるだろうが、
それでも、こういう通りのいいコミュニケーションは、
これまでの日本にはなかったことではないか、と。

そういう風土のなかに、いまの菅さんは立っている。

裏に虚偽や欺瞞はいつまでも残存するにせよ、
せめて表向きは通りがよさそうに見える国民と統治者とのコミュニケーション、
それすらもなかった日本の統治機構の上に立ち、
はいってこない情報や動かぬ組織にキリキリしながら、
その結果を問われる立場。

そういう立場の人を、責任者として批判するのはいいにしても、
では、それ一色、一辺倒にするのもいいかというと、
わたしはどうも疑問を感じる。

ほんの少しの期間だが、日本の政治システムのなかにいて、
この国の政治や役所のしくみも確実に変化しているように感じた。

それは、タガがはずれたからだ。
政権交代によって、過去60年あまり、この国を固定してきたタガがはずれた。

ひとつの形に組み合わされていた積み木がばらけて、
別の形に組み変えられようとしているようなものだ。

はずれ、ばらけたことによる手抜かりはいろいろと発生する。

だが、だからといって、
過去の感覚を手がかりにカチッとまとまったしくみをつくろうとすると、
またもとのかたちに戻るだけだ。

フランス革命をはじめ、過去の大きな国家の変革期をふりかえると、
国の統治機構が、タガがはずれ、ばらけたときに、
それによる不都合を処理する方法としては、
ある程度までは国民なり市民なりが負担するのがいいのではないかと思う。

議員事務所にいると、おもな業務は、
陳情に来る人たち、つまり、
俗にいう「既得権益者」たちのお相手だった。

国家予算になど依存せずに生きている人たちは
そもそも国会議員の事務所になど来たりはしないし、
ほんとうに困っている人たちも、声をあげて来ることはあったが、
票のためにその場ではいい顔をしてもらえることはあっても、
裏では、「ああいう人たちはあれでいい」という扱いをされていることが多く、
俗にいう「既得権益者」たちとの会食や集まりばかりがセッティングされていた。

永田町の価値観は、
そういう既得権益者と政治家と官僚とマスコミ記者たちとの
日常会話のなかではぐくまれている。

そういう風土をさらなる変化へ向けて切り換えていくには、
国民がある程度の不都合は受けとめ、変化を支えていくことではないかと思う
のだが。

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自然エネルギー

どうやら人気が高まっているらしい。

原子力発電のように
山かどこかから掘り出してきた材料物質を精選して加工してつくりあげた燃料に
人為的に反応を起こさせて、
人体に有害とされる放射性物質のようなものを生み出したりせず、
ただ自然界にあるものを利用するだけなので、
どこにも、だれにも悪い影響はおよぼさない、
これこそ理想的なエネルギーではないか、
ということだろうか。

いまから35年ほど前のオイルショック後に、
同じようなことが考えられ、
四国のわが家の近くの仁尾町という海べりの町に
乾いた瀬戸内の日差しを浴びてきらきらと輝く
大きな鏡のパネルがずらりと設置されたことがあった。

「サンシャイン計画」――旧通産省のいわゆる「国プロ」、国家プロジェクトだ。

当時の自民党行政のつねで、
近くには「サンシャインランド」という小さな遊園地がつくられ、
その遊園地のかわいいジェットコースターの鉄がまださびないころだったか、
仕事をしていると、翻訳の仕事だったか、要約の仕事だったか、
アフリカのサハラ砂漠に大きな太陽熱発電パネルを設置する
壮大な計画があることを伝える記事をわたされたことがあった。

わかりやすい。
わたしたちのイメージのなかでもっとも太陽の光にあふれる世界はどこか?
煎りつける日差しに岩が粉々に砕かれ、
一面の砂の海と化してなお明るい日差しを反射しているサハラだ。

でも、待てよ――と、だれだって思うだろう。

サハラは、あの日差しを反射しているからサハラだ。
そこに一面に太陽熱発電パネルが設置されると、
パネルの上から見たサハラは相変わらず
日差しにあふれる世界のままのように見えても、
パネルの裏のサハラは、
一転して光のない砂地に変わるのではないか。

だとしたら、そのときはサハラの地温に変化が生じ、
大気の対流が変わってきて、気候も変化し、
気候というのは
地球全体の空気がひとつにつながって凹凸を調整して起きている現象なので、
あのサハラが鬱蒼とした密林に変化してどこかよその
いまは緑につつまれている地域が砂漠化するような
予想もしない現象が起きてくるのではないのか――
そう思った。

原子力発電だって、
大きな視野で見れば、自然界のエネルギーを利用する行為に変わりはないが、
狭小で卑近な視野で見ると、
自然エネルギーを利用するということは、
自然界に露出したかたちで存在するエネルギーを人間さまがインターセプトして、
自分たちの都合のために使わせてもらうということ。
原子力発電のような非自然エネルギー利用は、
自然界に露出したかたちで存在しない埋もれたエネルギーを
人間がせっせと精選したり加工したりして
せいいっぱい誇張してとりだせるようにして利用させてもらうということ。

なにか、ともすると、
自然エネルギーは環境にやさしいエネルギーのような語られかたがしているが、
かりに人間の手が加えられていない自然を望ましい環境とするのであれば、
実際はまったくの逆で、
いまもてはやされている自然エネルギー利用こそ、
自然界に露出して存在するエネルギーをもっとも多く収奪し、
人間の手が加えられていない自然をもっとも大きく変化させる行為であり、
原子力発電は、
人間の手が加えられていない自然に極力影響がおよばないように、
人間の労力でカバーしようとする行為だということ。
その点は、絶対に押さえておかなければならない。

かりに、現在の原子力発電所の設備容量に匹敵するだけの発電能力を
太陽光発電や風力発電でまかなおうとすれば、
そのときは、わたしの脳裏に浮かんだサハラのように、
自然界の環境が少なからず変化し、
わたしたちの暮らしに新たな脅威を差し向けてくるのではないか。
わたしは能天気な自然エネルギー讃美に触れると、いつもそう思う。

今回の震災がなにより究極においてわたしたちに語りかけているのは、
人間の存在なんて、この自然界や宇宙の前ではちっぽけなもの、
わたしたちはこの宇宙という壮大で不安定きわまりない世界に生きているのだよ、
人間が自分たちの好き勝手にできることなんて知れているのだよ、
ということ。

その震災の教訓を生かすために
自然界に露出して存在するエネルギーをもっとも多く収奪する
自然エネルギー利用の道を選ぶというのは、
心情的には理解できても、もっと慎重に考えたほうがよいこと、あるいは、
もっとしっかりと覚悟を決めて臨んだほうがよいことではないか、
と思う。

孫悟空の話にたとえると、
わたしたちはいま、大きくて、大きくて、とても手とは思えない、
大仏さまの手にぶつかったようなもの。
あまりに相手が壮大なので、なにがなんだかわけがわからなくて、
いろいろともちあがる不都合を、やれあいつのせいだ、こいつが悪いといって、
卑近なところに原因を求めて合理化するのも、
人間の自然な心情としては理解できるが、
いまわたしたちに求められているのは、これを機会にもっと大きく視野を広げ、
しっかりと大仏さまの手、つまり宇宙を見ることではないかと思う。

わたしたちはこの宇宙で、快適で安全な生存を保証された存在ではない。
謙虚に、自分たちの存在の小ささを受け入れ、
自然界の現実と妥協していくことも必要ではあるまいか。

原爆を落とされてほどなくして、その爆心地からそう遠くないところで生まれ、
たび重なる中国の屋外核実験の灰をかぶりながら育った子どものひとりとしては、
国際的な基準だかなんだか知らないが、
確たる裏付けもなしに設定するしかなかったそうした基準をもとに、
東京あたりでシーベルト単位の数字で大騒ぎをしている人たちを見ると、
なんなのだろう、わたしたちの命とはなんだったのか、
あの人たちに整わぬ時代を生きてきた先人たちの命への敬意はあるのか、
とも思う。

ま、歴史はつねにこうして進んでいくものなのだろうが、
それで社会の実質が進んでいるかどうかはわからない。

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ひとつの問題整理

昨日、朝日ニュースターというチャンネルの
宮崎哲弥さんの「トーキング・ヘッズ」という番組でやっていた
憲法論議がとてもおもしろかった。

そう、そこまで踏みこまないと
この国に澱んでいるものの問題はなにも解決しない――
という思いで見ていた。

で、終わってみたらまた、
あの、どこもかしこも一色の原発報道。

最近は、若いアナウンサーや早朝の番組で原稿を読む女の子も含め、
かつてよりテレビで時事問題について「コメント」や「観測」
らしきものを口にする人がふえたような気がするが、
人がふえたらそれだけ多様な「コメント」や「観測」が語られるようになったか
というと、どうもそうなっているようには思えない。
気軽に「コメント」や「観測」らしきものを口にする人たちが、
まだ局から自分の意見をいうことを認められていないのにいっているせいか、
ほとんど同じことしかいわない。
しかも、局が違っても同じことばかりをいっていて、
近ごろではニュース番組がふえてきているような気がしていても、
わたしたちがひとりひとり自分の判断を下すためになにより提供してほしい
「多様な意見」などには、なかなかたどりつけない。

そこで、宮崎さんのおかげで鈍い頭が少しはすっきりしていたせいか、
この「福島第一原発」にまつわる問題についても、
一度、関係するプレーヤーたちのポジションを確認するために、
表形式で責任関係を整理してみようかという気になった。


管理者(経営者)責任・・・東京電力
             民主党・菅政権
             経済産業省、文部科学省
製造者責任・・・・・・・・東京電力
             自民党・旧政権
             通産省(経済産業省)・科学技術庁(文部科学省)
利用者(受益者)責任・・・東京電力の電力ユーザ
             (東京で暮らしているわたしやマスコミのみなさんは
             ここに含まれる)

実際の工事に携わった企業まで含めると、
こんなものではすまないが、
そんなことをしていたら表がややこしくなるし、今回の事故ではまだ
この事故の決定的因子となる工事ミスがあったような話は出てきていない
と思うので、それはこのさい割愛する。

たぶん、多くの避難民という被害者を出している「福島第一原発」の問題は、
こういう構図を踏まえて考えていかなければならないのだと思う。

自民党政権の場合には、
1号機の運転開始後40年近くにわたって国の管理・経営の責任者でもあったわけで、
去年の3月に東京電力が許認可期限が来る1号機の運転延長申請を出したのも、
半年前に政権をとった民主党というより自民党と話をつけた結果なのだろうから、
「管理者(経営者)責任」のほうにも含めてもよいのかもしれないが、
表がややこしくなりそうなので、それはやめておく。

わたしたちは、やはり、マスコミのみなさんも含め、
ひとりひとりが自分の立ち位置を確認し、
いい立場だろうが、悪い立場だろうが、ともかくそれを踏まえて、
それぞれの立場から、この問題を考えていかなければならないと思う。

それなのに、永田町はまたぞろ、
永田町歌舞伎のヒーロー登場を待望する姿勢になりつつある。

永田町は政・官・業のみなさんが
歌舞伎のように固定化された世界で、
独特の価値観を共有しているところだ。

「実力者」も、そうでない人も、
すべてはそういう独特な価値観で判断されていく。

でも、現代は無定形の時代だ。
決まった「形」などにこだわっていたら、
大切なものを見逃してしまうかもしれないし、
判断を誤ることもあるかもしれないし、
なによりその無定形の時代にフレキシブルに対応していく主役は、
社会の基本的な構成要素たるわたしたちひとりひとりだ。

乱世になればなるほど、
人は「安定」や「懐古」に走る傾向がある。

人のありようとしては、それが自然でも、
結果的にわたしたちを、なかではより幸福な境地に導くのは、
関係しているプレーヤーたちがそれぞれ自分の立場を踏まえ、
そこからそれぞれに建設的と思える一歩を踏み出していくことではないかと思う。

冒頭に書いた宮崎さんの「トーキング・ヘッズ」でも、
日本の憲法問題でまずなによりも求められるのは、
憲法の内容をどうするかではなく、
国民ひとりひとりが憲法起草者になること、のようなことが語られていた。

そのとおりだと思う。

追記:
テレビに出ると人前で話をすることになり、
出た人たちがどうしても「いい人」になろうとしてしまうので、
テレビというのはつくづく当てにならないメディアだと思う。

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