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国会見聞記・再開

 選挙が終わりましたので、前に書いていた「国会見聞記」シリーズを「非公開」からふたたび「公開」に戻します。

 もちろん、そんなに影響力があるとは思わなかったけど、近くにいる人を語る言葉が、遠くにいる人から見ると別の意味をもってくることも考えられたので、これまでは、次の選挙が終わるまでと決めて、「非公開」にしていました。

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by pivot_weston | 2012-12-16 22:19 | 国会見聞記

国会見聞記(ひとまずの納め)

 このところ、淀んだ時間が続いていた。最初はたいして意識もせず、まあ、いつも疲れているから、たまにはのんびりすることがあってもいいだろう、くらいにしか考えていなかったが、そのうち、いつまでたってもその淀みが抜けないので、なんか変だなと思うようになり、そうこうするうちに、ああ、明らかにいまの自分はなにかに億劫さを感じているな、と気づいた。

 昨年10月から書いてきた「国会見聞記」がひとつの節目を迎えている。これまでは、志を立てたころに協力し、20年の歳月を経てその念願を成就してからもまた応援してきた議員の話だったので、表面的には批判になっても、心の底では共感をいだきながら、たとえば、なあ、もっとしっかりしろよ、苦手なことからも逃げずに自分がやるべきことをやれよ、という気持ちをこめて書いてくることができた。でも、ここから先は、それができない。誰だって、自分も批判されるところのいっぱいある人間だから、批判だけの批判をしようとすると心がすさむ。せっかく生まれてきて、限られた時間のなかで、楽しい人生を送るチャンスを与えられているのだから、そんなことはしたくないし、共感という軸がないのだから、やっているうちに方向がブレてくる危険性もある。

 そんなことが無意識の領域で交錯し、先の淀みが生まれていたのだと思う。

 もちろん、わずか半年あまりのことにせよ、国会議員の政治遂行設備の一部として、国民の税金のなかから支給される彼らの経費の一部として給料をもらったのだから、その間に見聞きしたことを、そのお金を出してくれた人たちに還元するのが自分の役目だと思ってやってきた面もあるが、すさんだものやブレたものを還元しても誰も幸せにはなれまい。

 だから、この連載は第15話までで打ち切り、第15話までの記事も本日をもって非公開とします。こんな、めだたないブログを書いている、さえない市井のオッサンが、たまたま国会議員の秘書になり、そこで見聞きしたことを、そんなさえないオッサンのブログに目をとめてくれた人たちにお伝えするのは本望であっても、さえない市井のオッサンの書くことになどまったく興味がないのに、ただその内容の一面から見た意味合いにだけ興味のある人が、その一面的な意味合いだけで利用する可能性もあるとなれば、それは本望ではありませんので、非公開とします(これまで読んでくださったかたがたに、ああ、国会のなかではそういうことがあるのか、ということが少しでも伝わっていれば、当面、なにがしかの役目は果たせたことになるでしょう)。

 ただ、「淀み」が迫ってくる前に、今後書こうと思っていたことも、ごくごく手短に箇条書きで書いておきます。

■わたしの印象では、この国の国政の停滞のなによりの原因は、わたしたちがいかに早く「××大学を出たら優秀」「こういう肩書の人はえらい」という固定観念から抜け出せるかにかかっているのではないかと思えたこと。先に亡くなった吉本隆明さんの「共同幻想」にも該当するのかもしれないけど、根本では、そんな共同幻想が、この国を現代の世界が目指しているフェアなグラウンドにするのを妨げているような気がします。

■エリートの世界は、わたしのように地べたを這ってきたオッサンから見ると、あまりにも人間的に未熟に見えたこと。それなのに、そういう人たちが出身校や出身省庁やただ会ったことがあるということだけでつながり、権力の構造を組織し、国民のお金の流れを決していこうとしていること。その点、わたしが最初に応援していた議員のほうが、大きなグランドプランももっていて政治家らしいと思えたこと。

■難病などへの取り組みも、ただ選挙民にアピールするためにやっているだけでいいのかということ。敷衍的な活動を申し出て「それはわたしにどれだけのメリットがあることですか」という主旨のことを問われたときは、ほんとうに胸の凍るような思いがしたということ。

■「マサヨッサン」の話も今後に想定していた話に結びつけようと思って書いていたということ。60年近く生きてきた人間には、たとえ周辺で生きていても、中心で40年程度しか生きていない人間より知っていることもあるということ。特権的にアクセスできる立場を恣意的に利用するのはこの国がフェアになるのを妨げ、国を滅ぼす道につながるということ。

■官僚のこととなると、悪く書かれがちだし、わたしも悪く書きがちだったけど、内閣府にとてもすばらしい官僚のグループがいたこと。民間企業からの出向の人も含まれていたけど、ほんとうに一話の映画にすることもできそうな、とても個性豊かな人たちとお会いすることができたということ。

■友人のために書いておくけど、議員が取り組んでいたある作業のことで、わたしのところへ予算の圧縮幅を聞きに来て、「2億おみやげを用意しているんだけど」と言った友人がいたこと。もちろん、議員にはそんな話はいっさい伝えなかったけど、ふだん立派な仕事をしているのだから、もうああいう活動はしないほうがいいと思うこと。

■そして、最後には、国じゅうが「ガソリンの買いだめはやめましょう」と言っていたときに国会議員の事務所にせっせとガソリンの買いだめに走っていた人がいたということ。そういう人が、議員といっしょに被災地に行くことになって、やめる直前のわたしの前で「さあ(宣伝用の)写真をパチパチ撮ってくださいよ」「わかりました」とうれしそうに話していたこと(わたしが仙台を第二の故郷とする人間であることはわかっていたと思うけど)。

■あ、そう、これはすでに書いてきたことだけど、公設秘書は政治の世界が一般世間の外気を呼吸するいい装置にもなることがよくわかったので、われと思わんかたはどんどん挑戦したほうがいいと思ったことも。

 まあ、書こう、あるいは、書かなきゃ、と思っていたことはそんなところです。

 さ、春の知らせも届いたことだし、今日からはまたしばらく政治の世界のことなんか忘れて、能天気な引きこもり暮らしに戻るとしましょう。

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by pivot_weston | 2012-04-13 08:40 | 国会見聞記

国会見聞記(15)

(これは不定期連載でお届けしている記事です。流れがわかりにくい場合は、右の「カテゴリ」の「国会見聞記」をクリックし、前の記事を参照してください。)

 結局、彼のところで秘書をやっていたのは、2010年8月から9月までの2か月間に過ぎなかった。最初から「ピンチヒッター」ということだったので、こちらもそんなに長くやっているつもりはなく、9月の下旬になって彼のほうから「いま、あちこち(の政治家の秘書さんあたり)に頼んで、新しい秘書をさがしてもろとるんや」と言われるようになっても、その言葉にはそれほど抵抗を感じなかった。それに、「もっとぱりっとした秘書をさがしてもろとるんや」と言われても、わたしには「ぱりっとした」いかにも政治家の秘書らしい秘書である自覚も、そうあろうとする意思もなかったので、ほう、そうなんや、ま、それならそれでええがな、と思っていた。

 それに、例の「仕事が遅い」という言葉も飛んできた。わたしの前任の秘書さんがしきりに浴びせられていた言葉だ。これには、第11話にも書いたように、引き継ぎをしていたころから、どうも腑に落ちないものを感じていたのだが、案の定、あとを受けて秘書になると、わたしにも同じ言葉が飛んでくるようになった。あ、いや、わたしの場合は前任の秘書さんと違い、たしかに仕事が遅いところもあったのだろうが、腑に落ちないものは腑に落ちなかったので、あるとき、ほんとうにそれが実態を踏まえて言っている言葉かどうかを試してみたことがあった。

 国会議員が東京でしていることは、黙っていたら、なかなか地元に伝わらない。だから、地元の新聞社や放送局の東京支社の人などに連絡をして取材に来てもらったりするのだが、それだけではまだ十分に伝わらないことが多いので、なにかするたびにこちらで新聞記事風の原稿を作成して、それを小さなローカルペーパーも含めた地元のメディアにいっせいに送っていた(おそらく、どの事務所でも同じようなことをしていると思うが)。

 あるとき、地元のある団体のかたがたが上京して彼の事務所へ陳情に来られたときも、当然、それが終わればその広報作業が要求されると思われたので、これは一度、彼の言葉が実態を踏まえたものかどうかを試すいい機会だと思い、事前に原稿をあらかた作成しておき、あとはそのときの状況に応じて微修正をするだけですぐに送れるようにしておいた。

 だから、その団体のかたがたが帰られてから5分後には、もう小さなローカルペーパーも含めた地元のメディアにその陳情の模様を伝えるニュースリリースを送り終えていた。あとは、執務室から出てきた彼がどう言うかを待つだけだ。

 予想どおり、しばらくして、こちらがもうそんな作業のことは忘れて次の仕事に取り組んでいたころ、彼が執務室から出てきて「あれ、送ったか?」と訊いた。女性秘書から「先生」と呼んでもらわなければ困ります、と言われて、しかたなくそれに従っていたころだ。すぐに「はい、送りました」と答えたが、彼にはその言葉が聞こえなかったのか、信用できなかったのか、それでも顔をゆがめて「遅いんや」と言う。だから、こちらもあらためて「もうとっくに送ってますよ。5分後には送ってました」と言ったが、彼は言いかけた勢いがとめられなかったのか、少し言葉に詰まりながら「そ、そんでも、遅いんやあ」と言うから、こちらも今度はしっかりと彼の顔を見据えて「これ以上早くせえと言うなら、どうすればええのかな?」とたずねると、彼は執務室へ戻っていった。

 そういうこともあったので、わたしの前任者の秘書さんは仕事が遅かったから「仕事が遅い」と言われていたのではなかったのだと、いまでは確信している。

 ま、ともかく、そんなこんなをしながら9月の末になると、彼から聞かされる新しい秘書さんさがしの話が具体化してきた。わたしも、いかにも昔ながらの国会議員の秘書らしい秘書が彼の望みであれば、とうていそんな存在にはなれないわたしなんかと組んでいるより、早くそういう人を見つけたほうがいいと思っていた。それで、29日だったか、ある大臣か副大臣の秘書の紹介でまたひとり有望な次の候補の人と会うと言ってきたので、「おお、ええ人ならええなあ」と言っておいた。すると、次の30日になって、「決まった」と言う。まだ年は若いが、自民党議員のもとで10年ほど秘書をやってきたバリバリや、とうれしそうに言う。やれやれ、だ。これで、途中19年間のブランクはあったものの、20年前に、地盤も看板もなしにいきなり国政に挑戦した田舎町のにいちゃんを応援してきたのもおしまいやな、などと考え、しんみりした気分にもなった。

 だが、いつものことだが、わたしはどこか抜けている。9月29日の夜だか30日だかに決まったのであれば、じゃあ、11月の1日か12月の1日から来てくれますか、なんて悠長な話にはならない。新任の秘書さんは、当然10月1日、つまり翌日から来ることになる。ということは、当然、前任の秘書、つまり、わたしは新しい秘書さんが決まったことを告げられたその日でクビになるというわけだ。

 わたしはこういう人間で、若いころからとても常識では考えられないような状況もいろいろと体験しているので、彼の望みが満たされたことを考えて、おお、そりゃあよかったなあ、わたしが応援するのもこれでおしまいやなあ、と、ちょっとしんみりしかけていたが、その構図をあらためて頭のなかで考え直すと、ちょっと待てよ、という気分になった。政策がどうとか、政治姿勢がどうとかいう以前の問題だ。そもそも、人間に対する姿勢、人を扱う姿勢として、国会議員がそういうことでいいのか、ということが頭にカチンと来た。

 だから、そういう構図に気づくと(はなはだ気づくのが遅いとは思うが)、もうしんみりしているのはやめて、このままでは終われないという気分になり、その日のうちに彼に「じゃあ、おれもほかの先生を紹介してもらおか」と言った。論理的な整合性のあることではなかったが、どこか、国会全体になにかをされたような気分になり、やられたらやり返さにゃ、と思ったのだったか。

 それでも、彼自身のことを考えると、どうしてもあの20年前に、お父さんもお母さんも早く亡くした身で、町の人に好かれているほんとうにごくふつうの田舎町のにいちゃんが世のなかを変えたいと思って国政を志していたころの姿が思い出され、なんとか穏便に収めようと思っていた。でも、それもできなかった。

 秘書になってからは、こちらが事務所に残ってしなければならないことがたくさんあったので、第3話に書いたような赤坂のラーメン屋や焼き鳥屋や居酒屋へいっしょに行くこともなくなっていた。だが、その日は、急に決まった「今日でおしまい」の日になったので(もちろん、後任の秘書さんへの引き継ぎはしなければならなかったが)、女性秘書ともうひとりの若い女性スタッフも含めて4人で久しぶりにラーメン屋の小さなテーブルを囲んだ。

 そこで、まあ、表向きは和気あいあいと話をしていたときだ。彼と女性秘書のあいだで銀座かどこかの寿司屋の話が出たときだ。なにかピンと来るものがあり、具体的な確証などなにもなかったが、あ、もしかして、こいつ、わたしたちと打ち合わせをするときはラーメン屋かなにかに誘って庶民的な風を装っていたが、あれは、相手によって人の扱いを区別していたということではなかったのか、と思い、そうなると、人をクビにするその日にクビを言い渡すという人間軽視のその姿勢も許せなくなり、つい、ラーメン屋のなかで、大きな声で「おまえらは『国民の生活が第一』とか言いながら、全然違うじゃないか!」と怒鳴ってしまった。女性秘書はしれっとしていたが、若い女性スタッフさんはどういうわけか泣きだし、彼は背なかをまるめて「え、え、そ、そんなことはないと思うけどなあ」とぼそぼそと抗弁していた。

 なにがあったのだろう。確証をつかんでいないので、はっきりしたことは書けないが、第1話にも書いたように、雌伏20年の末に初当選後、久しぶりに再会し、永田町から飯田橋へ行こうとしたときに、襟に衆議院議員のバッジをつけたまま自然と地下鉄の駅への階段を降りていき、切符を買おうとしてポケットをごそごそするのを見て、「おお、なかなかいい感じじゃん」、このまま行ってくれればいいが、と思ったことを思い出すと、そばでサポートしてきたこちらまでが情けなくなるような、ほんとうに絵に描いたような「国会議員の先生さま」への変わり果てかただったと思う。

 わたしに代わって新しく彼の秘書になった若者は、かりにAくんとしておこう。彼は、地方の高校を卒業したあと東京へ出てきて、なにかの縁で、最初に竹下元首相のところかどこかで世話になり、それから秘書の道を歩んできたのだという。高校を出たばかりの彼が竹下さんのところへ汗をかきかき花を届けたら、「ぼくよ、そうやって人のために働くのが大切なんだぞ」とかなんとか、そんなことを言われたそうで、「だから、ぼくは竹下先生を尊敬しているんです」と言う、まあ、わたしとはいろいろと考えるところは違うのだろうが、とてもいい感じの若者だった。まあ、わたしのように年はとっているけど国会のことをなにも知らない人間より、こういう、若くても国会の段取りをすべて知り尽くしているような秘書がついていたほうが彼にとってはいいのだろうとも思った。わたしのほうは、これまでの人生どおりふらふらしていくことになるのだろうが、彼の秘書はもうAくんで決まりだなと思っていた。

 ところが、まったく予期せぬことに、わたしが引き継ぎを終え、紹介された新しい議員の事務所に勤めだすと、そのAくんから電話がかかってくるようになった。「助けて」と言う。無理難題を押しつけられて、夜なかまで残業をしているということで、例によって「仕事が遅い」という言葉も突きつけられているらしかった。

 なんなんだ、と思った。議員の彼に対する思いだ。わたしとは違う、ぱりっとした秘書がいいと言い、いかにもその望みにぴったりに見えるAくんが来てくれたから、怒鳴ったりなにかはしたが、それでも、よかった、と思っていた。それなのに、またそのAくんにまでも理不尽な扱いをしているとなれば、まったく、なにが望みなんだ――とたずねたくなった。

 その答えかどうかはわからない。だが、あるとき、昼間の勤務中にAくんから「ヘルプ!」の電話がかかり、彼の事務所へ行ってみると、彼は地元にいて不在ということだったが、議員執務室のほうに靴をはいた脚が見えた。テーブルの上にのっかっている。え、誰?――と思って見ると、わたしが秘書になる前、つまり、わたしの前任の秘書さんがいたころから彼の事務所へ出入りしていたグループのひとりが、テーブルの上に足を投げ出して、ソファの上でふんぞり返っていた(それ以上の、憶測を交えざるをえないことは書かない。ただ、わたしが見たままのことは書いておく。国民の税金で運営されている国会で起こっていることは、その意味まではわからないにしても、少なくとも見たままには書いてもよいと思っている)。

 結局、あれだけ望まれてはいった(とわたしは思っているが)Aくんも、理不尽な扱いを受けているうちに、たまりかねて紹介者の人に相談したら「もうあまりかかわるな」というアドバイスを受けたそうで、わたしが次の議員のところをクビになる前に、彼のところをやめた。最後はかなり精神的にまいっていたようにも見えた。そして、そのあとには、彼の地元と縁のある若者がはいり、内心彼に、今度こそ落ち着くんだろうな、と問いかけるような気持ちでその若者を見守っていて、若者と出くわすたびに「どう? うまくいってる?」と声をかけていたが、その若者も就任後ほどなく、余裕のない視線を右に左に走らせるようになり、その後のことは、こちらが国会を去ったので、知らない。

 まあ、なにかはあるのだろう。どう考えても、あの事務所の状況は正常とは思えなかった。だが、それでもあれは彼個人の問題だと思う。わたしの印象では、その後に目にした国会内の光景のほうがより構造的で深刻な問題だと思っている。

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by pivot_weston | 2012-04-08 17:59 | 国会見聞記

国会見聞記(14)

(これは不定期連載でお届けしている記事です。流れがわかりにくい場合は、右の「カテゴリ」の「国会見聞記」をクリックし、前の記事を参照してください。)

 彼の秘書をしているあいだにいちばん「やっててよかった」と思えたことは、とてもささやかなことだった。おそらく、長く秘書をやっておられるかたなら、何度も処理してこられたことだろう。

 彼の選挙区内に、ひとりの若者がいた。すでに結婚していて、お子さんも生まれていた。当然、靖国参拝を希望したときのわたしの父のように、奥さんのご両親も孫の顔を見に来たがった。でも、それまではそれが実現していなかった。奥さんが中国出身のかただったからだ。ご両親がお住まいの近くの日本領事館に日本への渡航ビザを申請したのに、いつまでたってもそのビザがおりなかった。そこで、その若者が「なんとかなりませんか」と言って、彼の事務所へ連絡をとってきていた。

 前任の秘書さんから引き継いだ何十件もの案件のひとつだ。キャビネットにびっしりとならんだファイルを片っ端からのぞき、そのひとつひとつに、いまできることを少しずつやってはまた次のファイルへ移るということを繰り返しているうちに、この案件にぶつかった。

 ファイルに記載されていた携帯電話の番号に電話をかけると、少し鼻にかかったような、やや間延びのした若者の声が聞こえてきた。なにやら頼りなさそうにも聞こえるし、どこか気持ちの焦点がぼやけているようにも聞こえる。正直に言って、このときにわたしが受けた印象は、すぐに「ほいきた」と応じたくなるものではなかった。あとになってみるとたいへん失礼な話なのだが、ご本人が「義父母さん」とおっしゃっているかたが、実はそうではない可能性だってあるのではないか、場合によったら、国会議員を利用してなにかをしようとしている可能性だってあるのではないか、とすら考えた。

 でも、ともあれ、前任者から代わったのでもう一度話を聞かせてほしいと言い、あらためて事実関係を確認してみた。前述のとおり、単純な話だ。中国在住の義父母さんご夫婦が、日本で結婚して出産した娘や孫やその家族に会いたいと思って最寄りの日本領事館に日本への渡航ビザの発給を申請したが、発給してもらえなかった、というだけの話。日本というぜいたくな国に住み、ビザのややこしい国には行ったことのなかったわたしには「なんで?」としか思えない。

 たしか、中国の人が日本へ来るには「貯金証明」のようなものが求められると聞いていたので、そのあたりに問題があるのかなと思い、あまりあからさまに訊いては失礼かと思いつつも、それとなく会話のなかでそのあたりのことをさぐってみたが、どうやらそういう問題でもなさそうだった。

 でも、その若者は「お金を払わなかったのがいけなかったのでしょうか」と言って、「悔しいんです」という言葉を何度か繰り返した。人間、得体の知れないもののことを語るときは、言葉があいまいになる。そして、聞き手の側にその背景を類推してあいまいさを埋めるだけの知識がない場合には、話の趣旨が伝わらない。なにか、いろいろと説明をしてくれていたが、こちらには、まだ中国でのビザ発給の手続きがなにもわかっていなかったので、その「説明」も十分に理解できず、最初の電話のあとでは、「なんのお金だろう?」という疑問と「悔しい」という若者の気持ちだけが頭に残った。

 処理しなければならない案件は何十件。この案件にだけかかりきりになっていれば、おそらく翌日にはもう道が開けていたのだろうが、申し訳ないことに、そこまで確認すると、あとはいったん置いて、ほかの案件の「いまできること」をかたづけ、そうしてファイルを1ラウンドすると、またこの若者に連絡をとるというかたちで、その若者と知識も準備も不足した進展のない会話をあと1回か2回は繰り返しただろうか。

 あるとき、またそんな会話をして電話を切ると、事務所の女性秘書が「その人、大丈夫ですか?」とたずねてきた。もしかすると、(こちらの事務所の業務をかく乱しようとする)選挙の敵陣営のまわし者かもしれないから、相手にしないほうがよいのではないかと言うのだ。なるほど、可能性はすべて想定しておかなければならない。最初に電話で話をしたときに受けた印象を思い出し、何度か電話で話をするうちに頭のなかにできかけていた「純粋に妻やわが子をその父母兼祖父母と会わせたい、義父母をその娘や孫と会わせたいと思っている若者」のイメージを意図的にかき消してみたが、そうして注意をしてくれた女性秘書から「ね、そうですよね?」と問いかけられた議員の彼までが顔をしかめて「おう、そんなやつ、わしは知らんで。ほっといたほうがええんとちゃうかあ」と言うのを聞くと、なんか、ちょっと違うのではないか、という気がしてきた。

 前任者の秘書さんがいったん受理していた案件だ。相談者との対話も、わたしが行う前に1度ならず行われていた形跡があった。それをどうして、いまになって不審がるのか、というところが、まずよくわからなかった。それに、この案件を処理したところで、こちらにどういうマイナスがあるのだろう、というところもよくわからなかった(もちろん、「義父母さん」が実はそうではなかった場合には、いろいろと問題があったのだろうが、「進展のない会話」を繰り返したのも、ひとつにはそのあたりの感触を確認するためで、そのころにはもう、どうやらそういう可能性はなさそうだと判断していた)。国民の問題を処理する国会議員の事務所が、妙な警戒心からその業務を過度に萎縮していたらどうなるか、ということも考えた。もしかすると、なんらかのリスクがあるのかもしれないが、多少のリスクは覚悟して、堂々と選挙民の申し出と向き合っていかなければならないのではないか、ということも考えた。

 そこで、事務所を出たときに、外から携帯電話で外務省のビザの担当者に連絡をとってみた。問題の核心は、わかってみるとなんでもなかった。中国からのビザ発給の仕組みをご存じのかたには、よくおわかりだろう。中国では、ビザの発給を申請するときに、発給機関である日本の領事館などと申請者とのあいだに別の中国側の機関が介在する。ひとつと特定された機関ではなく、複数あり、そういう機関のなかに、手数料かなにか、名目は知らないが、ビザを発給してもらいたいならこれだけよこせ、と法外な金銭を要求するところがあるらしいのだ。

 電話に出てくれた外務省の担当者のかたは、いかにも行政マンらしく、そういう卑俗的な表現は使わなかったが、それでも明確に、そういう趣旨のことを言い、「いろんなことがあるらしいので、なにかありましたら、すぐに連絡をください」と言った。どこがどうだからと言うのは難しいが、なんとなく、おう、いいね、この外務省の人、と思わされる対応だった。「なにか」があってこちらが連絡をしたら、外務省ないしは現地の領事館がどういう措置をとるかは言わなかったが、そうとなれば、こちらがやるべきことは、相談者の若者に、面倒だろうがもう一度義父母さんにビザ発給の申請を出すように連絡してもらい、その義父母さんのお名前などの情報を外務省の担当者に連絡して現地の日本領事館に伝えてもらうことだけだった。

 そして、そのやるべきことをやると(その間のその外務省のかたの対応もとてもうれしくなるようなものだったが)、なんでもない、すぐにビザはおりた。相談者の若者からそれを知らせる電話がかかってきたときには、最初に「やや間延び」がしているように感じたその声が、ふわあっととろけそうな声になっていた。おそらく、最初にわたしがその若者の人となりを的確に想像することができなかったのは、わたし自身に素朴さが欠けていたからだろう。これだけいろんな思惑が複雑に絡み合う現代においても、あそこまで素朴な気持ちを保存している若者がいることを想定していなかったからだろう。「おお、それはよかったですね」と何度言っても、そのたびにまた礼の言葉を繰り返し、なかなか電話を切れなかった。

 わたしは別に、特別なことをしたわけではない。ちょこちょこと電話をかけ、相談者と外務省の担当者のあいだにはいって連絡をとっただけだ。でも、それで、たったひとりかもしれないが、選挙区の若者が、まぎれもなく、電話をなかなか切れないほど喜んでくれていた。だからといって、中国の日本領事館の周辺にいる中間搾取機関の利益は減らしたかもしれないが、その若者に不公平に便宜を供与したわけでもなく、ほかの日本国民に不公平に負担をかけたわけでもない。電話の向こうでいつまでもはずむ若者の声を聞きながら、要はこういうことを積み重ねていくことではないか、ということを強く感じさせられた。

 その若者の喜びようは、彼や女性秘書にはあまり伝えなかった。顔をしかめて「おう、そんなやつ、わしは知らんで。ほっといたほうがええんとちゃうかあ」と言うような人間には、伝えようという気が起こらなかった。

 それでも、しばらくすると、その若者から事務所に封書が届いた。礼の文面とともに、ビザのおりた義父母さんが若者の家まで来て、みんなで彼のお子さん、つまり、義父母さんのお孫さんを囲んで楽しいひとときを過ごしているようすを撮影した写真が何枚もはいっていた。それは、まず女性秘書が受け取って、わたしのほうへまわしてくれたものだったが、彼女はなかを見ようとしていなかった。

 ささやかな暮らしを営む選挙民のひとりが暮らしのなかで問題にぶつかって、国会議員の事務所に連絡をとってきた。若者にとっては、相談する国会議員が民主党の議員だろうが何党の議員だろうが、そんなことはどうでもよかったはずだ。自分の当然と思える願いを妨げるものが国と国のあいだにある。だから、国会議員のところに相談した。ところが、その国会議員の事務所のほうでは、支持者や有力者がなにか言ってくると、はいはい、ほいほいと話に応じるくせに、「ささやかな暮らしを営む選挙民のひとり」からの相談となると、その背後にあるものを疑い、「ほっといたほうがええんとちゃうかあ」と言う。その構図を頭のなかに思い描くと、本来なら国民のことを思って政治をするべき政治家が、自分たちの利益や都合のほうへばかり顔を向け、一般の国民がないがしろにされているような気がして、なにやらいたたまれない思いがした。

 だから、その日は、帰るときに、わざと、わたしのデスクの上にこれ見よがしにその封書にはいっていた便箋と写真をひろげたまま帰宅した。それでも、思ったとおり、翌日に出勤したときには、誰もそれを見た形跡はなく、誰もその手紙のことを聞こうともせず、相談をもちかけてきていた若者の希望が満たされたかどうかを気にする会話すらなかったので、わたしはもう黙ってその封書をしまった。

 国会議員の秘書をやってみて、わたしはつくづく政治の現場には向いていない人間なのだろうとは感じた。でも、あの若者が中国の中間搾取機関に申請をブロックされたときに悔しさを感じたように、わたしも、喜びのはじける彼の手紙に、事務所の誰も見向きもしようとしなかったときに、強い悔しさや憤りを感じた。

 政治の現場に向かないわたしから見ると、どんなに大きな予算をつけることより、まず第一には、ひとりひとりのささやかな気持ちに応えることを積み重ねていくことのほうがだいじではないかと思うのだが。

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by pivot_weston | 2012-03-31 18:21 | 国会見聞記

国会見聞記(13)

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 もう1度は「靖国」にからむ体験だ。

 各都道府県の戦没者の遺族会のみなさんが靖国神社の参拝に来られたときに、国会議員がごいっしょして、あいさつをする。いまではすっかり国会議員の人気取りのイベントみたいになっているが、おそらく、終戦からまもないころには、そうではない、自然な思いの合流のようなものもあったのだろう。

 このときも、彼は前日の夕方、「代わりにあいさつしてくれるか。文章を書いてって、読み上げてくれたらええんや」と言って地元かどこかへ帰っていった。俗に言う「革新系」出身議員は苦手なのだろう。最後に「おれの身内にも戦争に行った人はおるんやけどな」と言って、ふん、と笑ったところに、そのあたりの内面が表れていたが、これはわたしにとってもさまざまな思いの去来する仕事だった。

 過去に靖国神社へ行ったことは1度だけあった。長女、次女に続いて長男が生まれたときだ。すでに何度も東京に来ていた父が、また上京してきたとき、妻が「おとうさんが東京見物をしたいんだって」と言った。そんな、観光名所などにはまったく興味がないはずの父だったので、意外に思ってそばにいた父のほうを見ると、顔をそむけたまま「わしもいっぺん東京見物がしとなっての」とつぶやくように言った。どこか照れくさそうな態度にも見えた。

「東京見物? どこ行きたいの?」ときくと、父より先に妻が「靖国神社だって」と言って、わたしの顔を下からのぞき込んだ。「ヤスクニィ?」まったく思いも寄らぬ返答に、ついそんな声をあげてしまった。

 第2話にも書いたように、シベリア抑留帰りで(実際には中央アジアのカラガンダの炭田で石炭を掘らされていた)、本棚にマルクスレーニン主義の教科書をならべていた父だ。「な、なんで靖国に?」と問い返すと、顔をそむけたまま「わしもいっぺん行てみとなっての」と、やはりどこか照れくさそうな、そしてまた、どこかうれしそうな顔で、静かに言った。

 そこまで聞くと、もうあとは問い返さなかった。父は三男。長兄もシベリア抑留を経て復員していたが、次兄は兵庫県の川西の飛行場から、西宮かどこかにお住まいだった彼女の家の上空を旋回して「アディオス」を言ってから熊本か鹿児島の連隊に移り、そのあと南方へ行って、インドネシアのアンボイナ島から飛び立った直後に撃墜されていた。

 子どものころ、わが家の墓地のいちばん取りつきの、いちばん新しくてきれいな墓石がその「兵隊のおっちゃん」のお墓だと教えられ、だれかにその側面に刻まれているアンボイナ云々の話を読んで聞かされていた。家の座敷でも、毎朝目がさめたときも、昼間にそこで遊んでいるときも、夜眠るときも、鴨居の上から軍服姿でわたしたちを見下ろしていた(修正された写真だったのだろうが)端正な顔立ちのおっちゃんだ。早世した人にはたいていジェイムズ・ディーン現象のようなものも起こり、近所の誰もが、あの人は偉かった、かしこかった、男前だった、強かったと言って持ち上げていたおっちゃんでもあった。

 当然、子どもたちのあいだではヒーローになる。だらだらと「平和な時代の子ども」をやっていると、乃木将軍を崇拝する祖母から「こらっ! 兵隊のおっちゃんはなあ……」と言われてその模範的な人物像を吹き込まれていたし、お墓参りの季節が来ると、姉と「兵隊のおっちゃんのお墓はわたしがやる」「いや、ぼくがやる」と言って、いちばんきれいなヒーローの墓掃除役を争っていた。だから、わが家に来てまもないテレビでドイツ映画の『橋』やドラマ『魚住少尉命中』を見て人間が死ぬというのはどういうことかを考えさせられたときも、真っ先に頭に浮かんだのは「兵隊のおっちゃん」のことだった。

 その後、遠足で行った観光地のお寺にずらりとならんだ「傷病兵」の人たちを見て、父の部屋の壁に貼ってあった満州の地図を見て、本棚にならんだマルクスレーニン主義の教科書を見て、テレビドラマの『コンバット』をまねて畑の畝と畝のあいだで匍匐前進をしながら戦争ごっこをして、小学校からの下校時には、はるか上空をベトナム(実際には沖縄だったかもしれないが)の方向へ向かって飛んでいく米軍の爆撃機を見上げ、毎日のようにテレビのニュースに映し出される「北爆」の映像を見て、反戦運動を見て、学生運動を見て育った末に、結局は戦争にまつわることはすべて拒絶するような大人になっていたが、それでもやはり「兵隊のおっちゃん」は「兵隊のおっちゃん」だった。

 だから、最初に父が靖国神社に行きたがっていると聞いたときは驚いたが、すぐに、そうか、やはり父のような人でも靖国の神殿に兵隊のおっちゃんの影を求めたくなるものなのか、と思った。いや、もしかすると、父の脳裏には、満州やシベリアでともに過ごした戦友たちの顔も浮かんでいたかもしれない。

 ともあれ、そうしてわたしもはじめて、靖国の大鳥居をくぐった。そして、神殿の前で、父よりややうしろに立ち、まだどこか照れくさそうにしながらも、しばしの合掌のあいだ、じっと自分の内面に浮かび来るものと向き合っているように見えた父の背なかを見ていた。

「おれの身内にも戦争に行った人はおるんやけどな」と言って、ふん、と笑った彼も、それならそれで、遺族会の人たちの前で、そういう自分を素直に表現すればいいのにと思ったが、彼はもう地元かどこかへ帰っていた。だから、その夜も、アパートに帰るまで、そうした父の思い出やなにかをよみがえってくるままに思い返し、机に向かうと、頭のなかでまだ見ぬ遺族会の人たちを実家の近所のおじさんやおばさんに見立てて、ひとつ違いで同じ時代の同じ日本の田舎で育ってきた彼がその人たちに語りかけるところも想像しながら、あいさつ文を書いた。

 彼と同県の国会議員は5、6人いただろうか。いろいろなことを思い返していると、眠る間がなくなったので、そのまま早朝の指定された時刻より少し早めに靖国神社に行くと、最初は誰もいなかったが、そのうち、ほかの議員の秘書らしき人がぽつり、ぽつりと現れ、議員本人たちも現れ、するとじきに遺族会の人たちが到着し、記念撮影となった。

 いっしょにならんだ自民党議員たちは目が血走っていた。よし、いまに見てろ――の思いがあったのかもしれない。ちょうど尖閣沖の漁船衝突事件が起きたころだ。政府はその漁船の船長を逮捕したあと、勾留期限が来る前に釈放した那覇地検の判断を追認していた。ずいぶん議論、というか、批判を呼んだ事件だ。だが、わたしはこのとき、背後でなにがあったかは知らないが、表面を見るかぎり、政府の対応はパーフェクトではないかと思っていた。

 前にもこのブログに書いたことだ。中国側でも、裏でなにがあったかは知らない。でも、表面を見るかぎり、あれは無法者の漁船の船長が日本の海上保安庁の船から警告を受けながら、逃げるどころか、逆に向かってきて、体当たりをした事件だった。わたしはそれを最初に聞いたとき、わが家の庭に隣家の子どもが入ってきて、となりとの境に植わっている木の枝を勝手に折ったシチュエーションにたとえられるのではないかと思った。

 日本は自民党政権時代には前例のない「逮捕」という強硬かつドライな対応をとっていた。領土問題が存在しないという立場をとるのであれば、自然なことだ。となりの子どもが黙って庭に入ってきて、木の枝を折ったら、「こらっ!」とつかまえて、「もうするなよ」と諭して帰す。そんなところだろう。その子をわが家の座敷牢に閉じ込めて法的手続きをとったら大人げないだろうし、家のあるじ自らがその子の襟首をつかんでとなりの家にねじ込んでも、なにやらモンスターペアレントじみてくる。問題の木が完全にわが家のものだと思うなら、あとはなにを言われようが、知らん顔をしていればよかったのだ。

 ところが、意外なことに、国内では、政府の対応は手ぬるい、弱腰だ、中国に譲歩した、という批判が巻き起こった。はじめて「逮捕」というきっぱりとした手続きをとられた中国が仰天し、へたな対応をしたら国内から突き上げられることを恐れてオタオタしていたのに、日本の世論は前例のない強硬な措置をとった日本政府のほうを弱腰だと批判し、それまで一度も「逮捕」という手続きをとったことのなかった自民党の議員までが、弱腰だ、那覇地検の判断にまかせていたなんて、そんなことはありえないし、許されないと言って批判していた。いまでは超大国になった中国政府が揺らぐと世界情勢にも影響するので、結果的にはそれでよかったのかもしれないが、なんだか、日本国内で政府批判の声が大きくなればなるほど、日本のほうから領土問題の存在を裏づけ、ひとつ間違えると沈みかけていた中国指導部を救っているようにも見えた。

 その後のレアアースの輸出制限にしても、ほんとうに中国は報復措置としてああいうことをしたのだろうか。わたしが中国国内の行政情報を読んだかぎりでは、あの時期、中国のレアアース鉱山はまだ前近代的な状態にあり、たいへんな環境破壊を引き起こし、各地の鉱山周辺でデモや暴動が起こりそうになっていた。そこで、中国政府は一部の鉱山を閉鎖して、鉱山の淘汰と設備の近代化を図ろうとしていた。もちろん、尖閣の事件が発生したあとは、多少は日本に意地悪をしたい気持ちもあったのかもしれないが、それなら日本だけを対象に輸出を制限してきそうなものなのに、最近も日米などからWTOに訴えられたように、世界中の取引先を相手に輸出を制限し、しかもその措置をいまも続けている(いや、続けざるをえないのかもしれないが)。

 日本の国内世論を見ながら、どうしてこんなふうになるのだろうと思っていたら、そのうち、こともあろうに、民主党のなかからも政府の対応を批判する声が上がってきた。民主党の議員までが世論の動きを気にして、あの政府の対応はいかん、と言いだしたときには、これでは政党政治にならないな、と思った。政党政治のもとでは、たとえボスが間違ったことをしても、とりあえず各党は一枚岩でいないと、選挙と国会というシステムを通してディベートをしている国民の議論がぐちゃぐちゃになる。それなのに、「いい子」になりたいのかなんなのか、もしかすると、党に対する十分な理解もなく、ただ当時の世間のムードでこの党から出れば当選できそうだという思惑だけで選挙に当選してきた人もいたのかもしれないが、与党の議員なら悪者になるときにはならなければならないのに、多くの人に批判されるととたんにその批判をしている人たちの側にまわる人がいて、ほんとうにこんな人たちが国政をやっていて大丈夫なのだろうかという気もしてきた。

 そういう時期だったので、この靖国参拝のときも、当然のごとく、最初にあいさつに立った自民党議員たちはこぞってマスコミと同じ論調で政府の対応を批判した。それは、まあいい。目の前で「あんな対応をしていたら、この国がおかしくなります」と言って遺族会のみなさんに語りかけられても、先にも書いたように、現実を前へ進めなければならない与党には、批判を受けとめる役目もあるのだから、それはいい。

 ところが、である。そうして、自分たちが政権を独占していたときの対応を棚に上げて民主党政権の対応をけなす議員がひとり、ふたりとあいさつをしたあと、はじめて民主党議員があいさつに立ったときだ。最初にあいさつに立ったのは、エリートの代名詞のような大学を出て、エリートの代名詞のような役所にいた元官僚議員だ。その議員が、あいさつを始めるや、「いや、ほんとうに申し訳ないと思っています。この問題については、わたしもいまお話しになった自民党の先生がたとまったく同じ意見です」と言って、遺族会の人たちに頭を下げた。

 おい、こら、待てよ――だ。エリートと言われる人のことも、十把一からげにして語ってはいけないのだろうが、このときは、エリートと言われる人に国政をまかせることの弊害や危険性を強く感じた。彼らは子どものころからずっと「いい子」で来ているのだろうから、怒られることにも慣れていないのだろうし、怒られそうになったら巧みにかわすすべも身につけてきているのだろう。

 わたしが代理を務めていた彼は高卒で、どうもだいじなときにいなくなるのは困ったものだったが、そんなエリート議員を「あいつは優秀なんや」「選挙も強いんや」と言って仰ぎ見るような姿勢をとっていたのは、少し不憫だった。

 政権交代を実現し、変革を誓った議員なら、変革は当然、多くの反発を伴うものなのだから、また当選しようなどという気持ちは捨てて、とにかくこの一期だけにかけて邁進してもいいはずなのに、あの時期くらいから、政府のやっていることをマスコミや誰かに批判されると、とたんに「いやいや、ぼくは違うんですよ」「わたしは違うんですよ」と言って、自分だけ「いい子」になろうとする議員がめだってきたような気がする(あ、その点、菅さんは、国民がやり場のない不満や怒りをかかえた時期に、嫌われ、けなされ、憎まれながら、原子力保安院をはじめ、自民党時代にできあがった組織を指揮して、ほかには代わる勇気のある人のいない役職をよくぼろぼろになるまで務めたと思うが)。

 ともあれ、そう、彼の番、つまり、わたしがメッセージを代読する番が来ると、最初に書いたような気持ちで書いたメッセージを読み上げた。多くの人を前にして、マイクをもって文章を読み上げるのは勝手の違うことだったが、読み始めるときには、戦没者への思いなどそっちのけで人気取りの批判と言い訳に終始したそれまでの議員たちの話で目をつり上げている人が少なからずいた遺族会の人たちも、読み終えたときには、わたしの実家の近所のおじさんやおばさんのような顔つきになってくれていたように思うし、「くそっ」とでも言いたげに、おもしろくなさそうな顔をしていた自民党議員たちの顔も印象的だった。

 そんなひと幕。これも貴重な経験ではあったと思う。

 ちなみに、「靖国参拝」については、あとで、先のエリート議員とまったく同じ経歴をもつ民主党の別の若手エリート議員から、得意そうに、けろっとした顔で「わたしは参拝すべし、のほうですからね」と言われたこともある。それならそれでいいだろうが、だいじなのはそういうことじゃないだろう、と思った。かつては「すべし」を主張していた人も、「すべきではない」と主張していた人も、ともに同じできごとを乗り越えてきていた人たちだった。表面では対立し、批判し合っていても、根っこには同じような経験をかかえていて、その後の人生やなにかの違いから、その経験に対しても違う反応を示していた。つまり、どちらも同じ日本人の戦争というものに対する嘘偽りのない反応だったと思う。だから、次代の日本を担う若手議員は、算数の方程式を解くような調子で、けろっとどちらかに決めてよしとするのではなく、どちらの道へ進むにしても、まずは同じ戦争という経験に対して日本人が示したさまざまな反応をひととおり包含し、総合し、次の時代への歩みを決めるべきではないかと思う。先人の人生の重みを受けとめることがなにより先に求められることだろう。

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by pivot_weston | 2012-03-24 06:36 | 国会見聞記

国会見聞記(12)

(これは不定期連載でお届けしている記事です。流れがわかりにくい場合は、右の「カテゴリ」の「国会見聞記」をクリックし、前の記事を参照してください。)

 彼の秘書をしていたあいだには、2度ほど、政治的に印象深い体験をさせてもらった。

 1度は、予算にからむ体験だ。

 彼は、党内の会議にあまり出ない議員だった。わたしも、たまに国会に行って、彼の活動を通して政治の世界をのぞいているうちは、そこでどれくらいの会議が開かれているかを知らなかったので、そんなものか、そんなものでいいのだろうか、と思っていた。

 だが、秘書になり、そこに腰を据えてみると、とんでもなかった。

 考えてみれば、しごくあたりまえのことだ。

 現体制がいいかどうかはともかくとして、日本の政治(行政)は長い歴史のなかでわたしたちの暮らしの要請に合わせて1府12省庁の管轄に分けて管理されるようになっていた(いまは復興庁も追加されている)。だから、当然、それに対応して政策の議論や立法化をしなければならない民主党の内部にも、省庁の数だけ「部門会議」というものが設けられている。それだけでもけっこうな数で、全部が同時に開かれたらえらいことになりそうだが、実際の政治の問題はそんな大ざっぱなくくりでは話し合いにならないので、どの部門会議の下にも各部門の個別の問題を扱うワーキングチームがいくつもつくられていて、さらに、そんな縦割りでは複雑に入り組んだ現実の問題に対応できないということで、複数の部門にまたがる問題を扱う部門横断的なプロジェクトチームという合議組織も問題ごとにつくられている。つまり、民主党のなかでは、つねにその13×α+αのチームが同時並行で会議を開いていたのだ(これをもっと公開してやればよいと思うのだが、あまり見られたくないことがあるのか(わたしが出席した印象では、なさそうだったが)メディアは閉め出して開かれることが多かった)。

 それでもまあ、国会閉会中なら、昼間の時間があいているので、わりあいのんびりと開くことができる。でも、国会開会中となると、党内の議論に使える時間は朝と夜しかない。だから、おのずと朝の8時ごろから5つも6つもの会議が同時並行して開かれることになる。

 議員のほうも(参議院議員のほうはともかく、「代議士」と言われる衆議院議員のほうは)、それぞれあらゆる分野の問題を内包する地域の代表として永田町に来ているわけだから、「ぼくはこの問題がやりたい」「わたしはこの問題が専門」と言ってひとつの問題にだけ集中しているわけにはいかず、いくら専門とかけ離れていても、地元から「なんとかして~」という悲鳴があがれば、専門以外の会議にも出なければならない。

 結果的に、彼らは同じ時間帯に開かれる会議をふたつも3つもかけもちし、ひとつの会議で言うべきことを言ったら、また別の会議室に移り、そちらでも言うべきことを言うというように飛びまわることになる。

 そこで問題になるのが、それらの会議が開かれる会議室の場所だ。

 この連載の前半でも紹介したように、国会議員会館は「衆議院第一」「衆議院第二」「参議院」の3つに分かれていて、その3つが(建物の中心と中心の間隔で言えば)50mほどの間隔でならんでいる。だから、たとえば、端と端の「衆議院第一」と「参議院」で同時に開かれる会議にどちらにも出席し、どちらでも意見を言わなければならない議員は、それぞれの会議について何分ごろにどういう話になるかを予想し、そのうえでまずどちらか一方に出席し、そこで意見を言ったら、すぐにもうひとつの会議の場所へ向かい、その移動中にも、会館改築時に地下の連絡通路に新設された動く歩道の上で駆け足をしながら携帯電話で移動先の会議のようすをうかがわなければならなくなったりする。

 へえ、なんだ、みんなすごいじゃん、国会議員が仕事をしてないなんてウソだな、なんだ、国会のなかはまるでスポーツジムみたいじゃないか――秘書になったばかりのころは、動く歩道の上に立って、次々と追い越していく議員たちの背なかをぼんやりと見ながら、そんなことを思っていた。それが、国会内のいつわらざる光景、一面だった。

 ところが、彼は違った。なんだ、こういうことなら、彼ももっと会議に出席しなければならないのではないかと思ったが、そうはしていなかった。

 最初は、なぜだろう、と思った。これは出たほうがいいのではないかと思う会議がある日にも、「ちょっと地元で人と会うので」と言って東京に来ないわけを説明されると、国会議員が国会内の会議に出席せずに会う人というのはどういう人なのだろう、とも思ってしまう。でも、そのうち(あくまで推測だが)もしかすると逃げているのではないか、という気もしてきた。人前に出る人には、往々にしてありがちなことだが、彼も基本的には気の弱い人だ。民主党にかぎらず、国会議員のなかには、弁舌さわやかなエリートが多い。そこへ行くと、彼はお国訛りもまったく抜けず、知識や論理的な展開力にもやや難がある。だから、もしかすると、ちょっと気おくれして逃げているのではないかと感じたのだが、そうであれば逆に、どんどん出るべきじゃないか、とも思った。なにもびくびくしている必要はない。国会議員は国民の代表であって、いろんな国民のなかから選ばれた人が国会を構成するのがいちばんいい。彼には、とりわけ民主党に多いエリート議員とは違う、エリートには理解できない国民の気持ちを代弁することができる。そういう意味では、掃いて捨てるほどいるエリート議員より希少価値があるのだから、むしろそんな自分の存在意義を意識し、どんどん会議に出て発言をすればいいと思ったのだが、どうやら彼にはそういう気持ちはなさそうだった。

 そうして彼が地元かどこか、東京以外にいたある日、夕方になって、第一次産業のある部門の業界団体の代表としてロビイ活動をしている人が事務所にはいってきた。そのかたとお会いするのは、それが2度目か3度目だったか。いつもは努めて紳士的な態度をとっているその人が、その日は少し血相が変わっていて、口から飛び出した言葉にも、かすかな怒気が感じられた。

 民主党内で予算配分の話し合いが行われていて、第一次産業のほかの部門にはある程度の予算が配分されているのに、自分たちの部門には配分されていない、このままでは全国の従事者がたいへんなことになる、なんとかしてほしい、と言う。

 わたしも民主党の政策を少しは勉強していて、自民党時代の第一次産業への補助金を欧州式に従事者への直接支払いのかたちに変更しようとしていることは知っていた。で、その人に見せられるまま、党内会議の予算配分の資料を見ていくと、たしかに、ほかの部門には直接支払いの予算が割り当てられているのに、そのかたが代表してロビイ活動をしている部門にだけは、その予算が盛り込まれていなかった。

「あら、なんで?」というのが第一印象。予算と言っても、まだ細かいところまでは考えず、言ってみれば、来年使う塩をどこかからどさっともってきて、こっちはまあこれくらい、そっちはまあそれくらいと、手で大ざっぱに取り分けた段階だ。だから、その最初のたたき台の資料を作成した農水省か財務省かの担当者がうっかりその部門の予算を落としてしまったのかなと思った(でも、いま思い返すと、そんなはずはない。あの資料にしたって、ひとりが作っていたわけではないだろう。おそらく、省内の各部門の希望を総合して作成していたのだろうから、あんな、ひとつの産業の核となる予算がたまたま抜け落ちるなんてことはないだろう。だから、いま思えば、なにか意図のあるものだったのかもしれないが、真相はよくわからない)。

 その人は、翌日に関連部門の会議があるので、その会議に出席してこの点を指摘してほしいと言う。わたしも、それはしないといけないと思った。ほかの一次産業の従事者には直接支払いの支援をして、その部門の人にだけは支援しないというのは、どう考えてもおかしい。

 ところが、彼のほうは、その日も東京にはおらず、翌日も出てくることにはなっていなかった。会議に出るのは秘書でもいいが、秘書は会議のなかで発言権がない。どうすればいいのか、と考えた末、「文書を出すか」と思った。

 紙っぺらを一枚出したところで、「はいはい、どうも、承りました」で終わってしまうのではないかとも思ったが、こちらはまったくの門外漢から秘書になったばかりで、人脈もなにもないわけだから、それ以外にできることはなさそうだった。

 どうやら先のロビイストのかたは彼の携帯電話の番号も知っていたらしく、しばらくすると、地元かどこかにいた彼から電話がかかってきて「来たやろ」と言う。「どうしよ」とたずねると、「代わりに会議に出て、発言してくれるか」と言う。お、こらこら、それはできない相談だよ、とは思ったが、「じゃあ、文書を出しとこか」と言った。

 力がはいった。それまで30年間の自営業者のあいだも、自分や家族の暮らしを背負って文章を書いてきたし、読んでくれる不特定多数のかたのことも考えながら書いてきたつもりだったが、このときは、まあ、大げさに言うと、日本全国のある産業に従事しているみなさん全員の暮らしを背負って文章を書いている気分になった。ただ、そうして気合いがはいった分だけ頭のなかもよく整理されたのか、自宅に帰って書きはじめると、ほとんどなんの苦もなく、一気に書けた。読み返してみても、なかなか政治的な発言の文書らしい力もこもったものになり、言わんとすることもストレートに伝わるものになっていた。

 そして、翌日には、問題の会議が開かれる会議室に行き、会議がはじまってしまうと秘書はなにもできなくなるので、はじまる前に座長さんのところまで行き、「すみません。うちの先生は地元で用事があって来られないんですが、こういう文書をつくりましたので、よろしくお願いします」と言ってその予算措置を求める文章を書いた紙をわたした。座長さんは、そういうことがそんなによくあることではないのか、ちょっ戸惑って「え、え、それはどう処理すればいいんですか」と問い返してきたが、さらさらと文面を目で追ったところで趣旨を理解してくれたらしく、「あ、そうですか。わかりました」と言ってその文書を受けとってくれた。

 まあ、できるのはそこまでだ。わたし自身も、議員本人が出席せずに文書だけを出すのでは迫力がないし、ひとつの産業の核となる補助金がまるまる抜けているのだから、会議中にほかの議員からも同様の予算措置を求める発言があるのではないかと思ったので、あとはその会議の進行を壁ぎわの秘書の席からじっと見守っていた。で、結局、どの議員からもその予算措置を求める発言が出ないまま会議が終わろうとしたとき、急に座長さんが「その前に、××議員のほうからこういう文書をいただいております。読みあげます」と言って読みだした。おいおい、だ。その座長さんは、わたしが書いた文書を読み終えたあと、「これは重要なご指摘ですから、こちらのほうでも検討させていただきます」と言って、会議をしめくくった。

 驚いたのは、その次にそのワーキングチームの会議が開かれたときだ。新たに修正された予算配分案が作成されていて、それを見ると、なんと、その部門に5××億の予算がついていた(「××」のところの数字は忘れたし、その後、予算審議が煮詰まる過程で変化したので、ここではこの表現にさせていただく)。あら――だ。こんなに簡単に500億もの金が動くのか、と思った。もちろん、最初に書いたような民主党の基本政策があったので、まったく予定外の予算ではなかったはずで、だから、こちらで掘り出した予算とは言えないだろうが、これは彼の功績としてアピールできるな――とは思った。

 ロビイストのかたも安心してくれた。もちろん、こちらが安心してもらいたかったのは、ロビイストのかたではなく、現場の従事者のかたがただったのだが、このときにはロビイストの存在をちょっと見直した。それに、こういうことがあって、議員会館のなかでよく見かけるそのロビイストさんのようすに注目していると、彼はただ強引に議員に利益の配分を迫るのでなく、国会議員会館に常駐して、関係のある会議にほとんど出席し、議員の話もよく聞き、資料も細かいところまでよく読み込んでいるようすだった。

 国会に必要なしかけと言えるかもしれない。誰もなにも言わなければ、国家予算は議員や官僚の恣意で決まる。それでは、いかに賢明で炯眼の議員や官僚が担当しても、ほんとうにそのときそのときの日本の国情に即した予算配分にするのは難しい。だから、国家予算を必要とする人たちがあちこちでかたまりになって声をあげる。そこでアンフェアなことがあってはいけないが、どんなにドスのきいた声だろうがなんだろうが、みんながそれぞれフェアに声をあげた結果として予算が決まっていくのであれば、それがいちばんいいのだろう。

 ディベートだ。いまではよく耳にするようになった言葉だが、わたしが1981年にアルクという会社にいたころ、社長が「よし、これからディベートというものをはやらせるぞ!」と言いだし、「英語道」の松本道弘さんの指導を仰いで、切れ者の女性編集者が編集したビデオ教材を売り出したときには、まだ「ディベート」と言っても「なんのこっちゃ」という顔しかされなかった。

 大勢の人が集団で生活していくうえで必要になる合理的解決策を絞り込む作業だ。どちらが正しいかを決める議論ではない。この世のなか、なにが正しいかを争っていたら、みなばらばらで、きりがなくなる。どの人の「正しい」も、集団全体には当てはまらないし、当てはめてはいけない。人がかかえている事情はみな異なる。価値観も違う。では、集団の意思を決めるときにどうするか?――ということで考え出されたのがディベートであり、この場合、とりあえず、なにが正しいか、なにが間違っているか、という判断はさておく。そうしてともかく、相対立する命題をふたつ立て、それぞれの命題を割り当てられた者同士が、論理の整合性だけを守って互いの論を闘わせていく。そうすれば、たぶん、結果だけを見ると多少意外なものになることもあるかもしれないが、いろんな価値観をもった人たちの集団としての意思はよりフェアに決定することができるだろうということで行われている作業であり、裁判の仕組みなどもそうした考えにもとづいていると思うが、日本の場合にはまだ、誰が正しいか、なにが正しいか、というやや依存心の強い姿勢を抜け出せない風土があるので、政治にしてもなんにしても、合理的な策をすぱっと打ち出すのが苦手なのだろう。

 国家予算の配分は、国内のあちこちから国庫にスポットライトを当ててみて、その結果としてバランスよく決めていくのがよいのだろうが、ロビイストもそういうスポットライトを当てる装置のひとつであり、なくてはならない装置と言えるのかもしれない。

 のちに、議員会館内のある喫茶店にはいっていったとき、柱の陰の席でじっと会議の資料らしきものに読みふけっている人がいた。よく見ると、顔をしかめた例のロビイストさんだった。だから、「あ、どうも」と声をかけたら、いつもロビイスト然としているその人の顔に、一瞬、あ、しまった、というような、ちょっと恥ずかしそうな表情がよぎった。ほんの一瞬のこと。でも、わたしはその一瞬で、あ、なんや、この人もおれとおんなじことをしているんやな、という親近感のようなものをいだいた。

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by pivot_weston | 2012-03-11 07:36 | 国会見聞記

国会見聞記(11)

(これは不定期連載でお届けしている記事です。流れがわかりにくい場合は、右の「カテゴリ」の「国会見聞記」をクリックし、前の記事を参照してください。)

 秘書になった経緯については、いささか後悔していることもある。

 貧乏人の浅はかさだ。月額5万円の報酬で応援ブログを書くのも、もう1年近くになっていた。わたしの資力では、もうもちこたえられないところまで来ていた。「ごめん、もう続けるのは無理やわ」と言おうと思ったことも何度かあった。でも、いくら軽薄なことしか書いていなくても、いちおう国会議員の広報活動は広報活動だ。読んでくださっているかたもそれなりに増えていたので、そう簡単に「や~めたっ!」と投げ出すわけにはいかなかった。

 そんなとき、また議員会館に行くと、予期せぬことに、それまでの公設秘書さんにやめてもらうことになったと言われた。当のその秘書さんも、いかにもやさしいその人らしく、そう言われながら、かたわらで、しかたなさそうににこにこ笑っている。

 正直なところ、上記のような懐具合もあったので、お、じゃあ、資格もとったことだし、そんならおれを――とすぐに言いたくなる衝動もおぼえた。でも、前号にも書いたように、その秘書さんは「応援ブログを書いていたわたしに「ネタ」を流してくれないのは、なぜかよくわからなかったが、それ以外の面では、話しにくいわけでもないし、仕事ができないわけでもないし、なんの不足もなさそう」な人だった。当選直後に、まだ彼が国会内の右も左もわからずにいたころ、大学時代から政治の現場で培ってきた豊富な知識と経験で彼をしっかりとサポートし、なかなかいいコンビのように見えていた時期があったことも思い出すと、なにもやめさせることは――とも思える。だから、その場では「あ、そう」くらいにその話を聞き流し、あとでまた彼とラーメン屋か焼き鳥屋に行って話をしていたときに、念のため、と思い、「なんでやめさせるん?」ときくと、返ってきたのは、「仕事が遅い」とかなんとか、仕事ぶりに対する不満だった。

 後悔しているのは、そこだ。わたしも、そう言われるとつい、ブログのネタを流してくれないことに対する不満がたまっていたこともあり、「そうやな」と同調してしまった。「仕事が遅い」というフレーズを、その秘書さんの仕事ぶりに対する客観的な評価としか受けとめていなかった。

「優秀」と評判の若者が党本部に活躍の場を見つけて去り、どこからか私設の女性秘書が来るようになってからのことだ。

 まあ、このときに公設秘書さんをやめさせた理由については、たぶん、いま聞いても彼は、仕事ぶりに不満があったからだと言うのだろう。わたしも、あの時点では、こちらが見ている範囲ではよくわからない問題があるのかもしれないと思った。でも、その後、わたしが衝動的に期待したとおりに、それではしばらくわたしがピンチヒッターをやろうということになり、その公設秘書さんとの引き継ぎを始めたころにはもう、そうだろうか、ほんとうに「仕事が遅い」というのは仕事ぶりに対する客観的な評価だけなのだろうか、という疑問が頭をもたげてきた。

 それまで、たまに事務所に行って、みんなのようすを見ているかぎりでは、その秘書さんとそれ以外の人たちのあいだにあったものは、たとえばその「仕事が遅い」という言葉に代表されるような、仕事ぶりに対する不満やなにかだけなのだろうと思っていたのだが、引き継ぎを始めてわたしもみんなと同じ部屋で過ごすようになると、その秘書さんが場合によっては人格攻撃とも思えるようなひどい言葉で、容赦なく罵倒されているのが見えてきた。

 なんだろうな、これは?――と思った。まだそのころには、その事務所のなかでいちばん気心が知れているのは彼だと思っていたので、そうしてなにかあったときには、ちらちらと彼の表情やなにかを見ていたが、どうも彼もその、わたしには異様としか思えない光景をそれほど異様とは思っていないらしく、同調、あるいは黙認している気配があった。基本線として、弱い人にもしっかりと目を配るというのが民主党による政権交代の流れの根底にあった姿勢だと思っていたので、わたしには、そういう光景がなんともそぐわないもののように思えたが、そういう按配だったので、もうわたしはその時期から、彼を応援するというより、これはこの国会という政治の世界でどういうことが起こっているかを観察する機会にしようという方向へ姿勢を切り換えていた。

「先生」という言葉も印象に残っている。

 わたしは彼とこれまでに書いてきたような関係で接点をもっていたので、彼のことを「先生」とは呼んでいなかった。別に、おもしろおかしく誇張しているわけではなく、「おう、あれは……やろ」「そうかなあ、……とちゃうかあ」といった関係だ。彼が田舎町のにいちゃんで、わたしも出版界の若僧だったころからの関係だから、まあ、それが自然というものだろう。でも、そんなわたしでも、さすがに秘書になるとなれば、多少は心的姿勢を微調整していて、表では「うちの先生もねえ……」という言いかたはするようになっていたが、事務所のなかでは、あくまでそれまでのような関係を保っていた。

 ところが、あるとき、事務所のなかで、いきなり「もう秘書になったのですから『先生』と呼んでもらわなければ困ります」という言葉がわたしに向かって飛んできた。

 おい、そんなアホみたいなこと、あんたは言わんやろ――と思い、その場にいた彼を見ると、ありゃ、なんだか照れくさそうに笑っている。こら、いかん、と思った。こら、もうあちらの世界に行ってしまったな、もう俗に言う「政治家」になってしもたな、とも思った。

 でも、まだその程度だった。その後の経緯からして、あのころ、彼の事務所で起こっていたことを、もしかするとこういうことではなかったか、と推理することはできる。もしかすると、近ごろ芸能ワイドショーでしきりに話題になっているようなことだったのではないか、とも思うのだが、確証はない。だから、ここではあくまで国会の内部をのぞいてきた人間のひとりとして、自分が見てきたことだけをお伝えすることにしよう。

 国会に勤めてみてつくづく感じたことのひとつが、いや、しかし、裏でいろいろやるのが好きな人が大勢いるものだな、ということだ。読んでくださっているかたのなかには、そんなの、政治の世界なんだからあたりまえじゃないか、とおっしゃるかもいるかもしれないし、いや、そんなの、政治の世界にかぎらず、この世のなか、どこへ行ったってそんなものだよ、土台、人間の営みなんてすべてがはかりごとの合算結果だ、とおっしゃるかたもいるかもしれない。ただ、こちらは30年間自営業でやってきて、その間はおもに田舎のため池のほとりの一軒家の庭に建てたプレハブの仕事小屋にひとりでこもって仕事をしてきて、組織の内実なんてなんも知らない人間だ。そして、そういう自営業者であることが国民としてなんらかの手落ちに当たるとも思わないので、この驚きは正直にお伝えしておく。

 ともあれ、内実のちまちましたことばかりを書いていても、身近さが感じられずに退屈なだけかもしれないので、そろそろ秘書になる段を迎えたこともあり、ここらでひとつ、みなさんにもいかにも国会らしいお話をひとつ紹介しておくことにしよう。最初にお断りしておくが、みなさんがよくご存じのかたの全体的な人物評をしようというのではない。ただひとつ、わたしが国民のひとりとして国会のなかをのぞく機会をもらい、垣間見ることができた断片的な事実をお伝えするだけだ。

 わたしが最初に公設秘書になったのは2010年の8月のことで、このときにはちょうど、菅さんと小沢さんの代表選挙があった。

 といって、もちろん、職務をさておいて選挙に打ち込むことを認められる衆議院選挙や参議院選挙とは違い、政権党とはいえ、あくまでひとつの党が自分たちの都合で内々にやる選挙なので、来る日も来る日も議員会館のなかで「よろしくお願いします」の連呼をしているわけにはいかない(どうやら、携帯電話では、やっていたみたいだが)。それでも、両候補とも一度ずつ(お互いに同じ日、あるいは同じ時期にやるという取り決めでもあるのか、確か、同じ日、あるいは、そうでなくても前後する日だったと思うが)、議員会館のなかの各議員の事務所に「あいさつまわり」に来たことがあった。

 わたしは30数年前、はじめて東京に出てきて職を転々としているうちに三鷹のおもちゃ会社にひろってもらい、貿易営業をしていたころ、外から帰ってきた同僚が「ジーパンをはいて選挙やってる人がいるよ」と目をまるくして話すのを聞いて以来、ずっと菅さんたちのやることを遠目に見てきたほうで、だからこそ、菅さんや小沢さんたちが硬直化していたこの国のシステムを打ち破り、眼前にそびえるピラミッドのような古い統治システムに素手で立ち向かっていこうとしたときに、わたしにも力になれることがあればと思い、旧知の彼のところへ応援にかけつけたのだが、彼のほうは、その言動を見ていると、キャラクターがどちらかというと小沢さんに近かったし、例の、大顰蹙を買った民主党の新人議員が大挙しての中国ツアーに参加していたこともあり、小沢さんのほうへ気持ちが傾いているのはわかっていた。

 現に、菅さんが「あいさつまわり」に来たときには、彼はどこかへ行って、事務所をあけていた。しかたないから、大勢おつきを従えて来た菅さんにはわたしが対応し、握手をして、内心、30年間フォローしてきた人間の気持ちをこめて「がんばってくださいよ」という言葉くらいはかけたが、菅さんは思っていたより小柄で、色白で、ちょっと言いすぎかもしれないが、言ってみれば、なんか、女形の人に会ったみたいだな、と感じたほどだった(実際には、そうとうな癇癪持ちらしいが、大きなピラミッドに素手で立ち向かっていくには、そのほうがよかった。最近も、原発事故への対応に関連して、現地へ持っていく電池の大きさまで聞いたことを批判されていたが、総理大臣がそんな細かいことまで聞くんですよ~と泣きつく役人のほうがよっぽどおかしいのではないかと思うが、マスコミのかたはそうは思わないらしい。いい対応はできなかったけど、わたしは非常事態に硬直化したシステムとよく闘ったと思っている。自民党政権なら、きっと、裏でなにがあっても、表向きはきれいにまとめられていたのだろうが、それで被災者のみなさんの気持ちがより救われたとは思わない)。

 一方、小沢さんが「あいさつまわり」に来たときには、彼が在室していたのだが、まずもって、小沢さんご本人が事務所の入口に現れるまでの喧騒がたいへんなものだった。小沢さんも「おつき」を大勢従えていたうえに、マスコミの「おつき」も大勢いて、しかもその先頭で「きれいどころ」と言われていた女性議員の人たちがさかんに女性特有の声で次に行く部屋への前触れやなにかをしていたので、にぎやかなことこのうえなかった。

 彼も、開いたままの事務所の入口の向こうからその喧騒が聞こえてきたころには、自分の執務室から秘書たちの部屋のほうへ出てきて、候補者の到着に備えて立っていた。

 で、いよいよその候補者ご本人の到着。

「おおー」と言ってスタンバイしていた位置から手を差し出して入口のほうへ歩み寄る彼。小沢さんのほうも「おおー」と言って、手を差しのべて事務所のなかへはいってきた。次に彼が「小沢さん、こないだはどうも……」と言ったときだ。

「あ……」と言って小沢さんが顔をやや上に向け、ぽかんとした顔で立ちすくんだ。

 なぜかはよくわからなかったが、そのほんの1週間ほど前、急に小沢さんが彼の選挙区へ来ていた。そして、そのとき、彼もほかの同じ県の同じ党の議員といっしょに小沢さんの案内をしていた。

 彼は開口一番、そのときのことを言おう、小沢さんもきっと「おおー、どもども、こないだはどうも」と応じてくれるのだろうと思って待ち構えていた。ところが、なんと、こともあろうに小沢さんはその、ほんの1週間ほど前に、彼の世話になったことを忘れていたのだ。

 小沢さんがフリーズした時間は何秒あったか。しかたなく、彼が自分のほうから案内したときのことを話すと、ようやく「ああー」とか「おおー」とかいう声とともに小沢さんのフリーズが解けた。

 あら、だ。

 わたしも、過去の流れでは菅さんに近しさを感じていたとはいえ、そのときにはすでに彼の公設秘書になっていたわけで、その彼が小沢さんのほうをより期待のこもった眼差しで見ていることがわかっていた以上、それを理解する気持ちは持ち合わせていた。

 でも、これはない。政治家として、いくらなんでも、これはない、と思った。

 結局、あの代表選挙は、小沢有利の見方も伝えられながら、何票かの僅差で菅さんが勝った。だから、終わったあとで、彼が「わしは菅さんに入れたで」と言ったとき、「あいさつまわり」のときのことを話し、「あれやろ」と言ったら、「そうや。やっぱり、なんぼなんでも、あれはないわなあ」と言った。

 もちろん、ほんの断片のこと。小沢さんという人の人柄全体からしてもほんの断片のことだろうし、民主党の代表選挙全体からしても、民主党という組織全体からしてもほんの断片のことだろう。でも、だからこそ、その断片の存在を応援していたこちらからすると、政権交代をなしとげた小沢さんには、ああいうことはやってほしくなかった。いまになっても、やはり、あれはない、と思う。

 いや、誤解を避けるために書いておけば、政治の世界の片隅をのぞかせてもらって、確かに、小沢さんはたいへんな実力者だったのだろうし、この国の政治を長年硬直化させていた体制から抜け出させるための政権交代のたいへんな功労者だったのだろうという印象は受けた。でも、同時に、上記のような一場面も目撃し、やはり、小沢さんの政治家としての感覚には、年齢相応の変化が表れているのではないか、という気もしている。あの政権交代を成し遂げただけでも、日本の政治史に残るたいへんな功績だ。そういう功労者に、どうもこれまではご苦労さまでした、あとはうしろのほうでゆっくりと見ていてください、と言えずに、いつまでもすがってしまう若手たちの奮起が必要なのではあるまいか。

 ま、ほんの片隅、ほんの断片の話だ。

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by pivot_weston | 2012-03-04 09:00 | 国会見聞記

国会見聞記(10)

(これは不定期連載でお届けしている記事です。流れがわかりにくい場合は、右の「カテゴリ」の「国会見聞記」をクリックし、前の記事を参照してください。)

 秘書の資格をとった経緯は前にも書いた。

 ある日、旧議員会館の彼の事務所へ行き、入口の秘書さんたちがいた部屋にはいったら、地方の党組織から東京へ出てきて、国政の場で新たな自分の活躍の場をさがしていて、その場が見つかるまで彼の事務所の手伝いに来ていた、誰からも「優秀」と評判の若者がつぶやくように、なにか言った。最初はよく聞き取れなかった。

「……大西さんやったら、すぐにとれるんとちゃいます」

 という言葉あたりから、はっきりと認識できたのだったか。で、その若者が奥の部屋にいた彼に「ねえ、そうですよねえ」とかなんとか、そんな言葉をかけたら、奥の部屋から出てきた彼も、いつものように笑いながら「おお、やってよ、やってよ。なんでもやってよ」と言ったのだったか。

 そのへんでようやく、あ、おれに秘書の資格をとれという話なのか、と認識できたのだが、それまでそんな話は一度も出たことがなかったので、面食らった。前にも書いたように、わたしも「スピーチライター」の仕事には興味があった。いや、世間でよく耳にする「国会議員の政策秘書」という仕事にも、好奇心くらいはあった。でも、なんと言ってもこちらは自営業歴30年だ。翻訳という職業柄、つねに誰かをサポートする立場にいたとは言え、たぶん、自営業者のなかでもとくに「一匹狼度」というか「アメーバ度」が高く、会社の「課長」と「部長」の違いもよくわからないこんな人間に、どうしてそんな、背広を着て他人に仕えるような仕事ができるだろう、という思いがあった。

 それに、現に、彼のところにはれっきとした秘書さんがいた。前にも書いたように、応援ブログを書いていたわたしに「ネタ」を流してくれないのは、なぜかよくわからなかったが、それ以外の面では、話しにくいわけでもないし、仕事ができないわけでもないし、なんの不足もなさそうだった。だから、ほんとうに、なんでおれが秘書の資格を?――という思いはあったが、たしか、「別に秘書になるならないはともかく、資格をとっておくだけとっておけばええじゃないですか」というアドバイスがあったこともあり、んじゃあ、国会議員の秘書がどうやって選ばれるのか、そのプロセスをのぞいておくだけでものぞいておくかと思い、逆にこちらも「おお、やってよ、やってよ。なんでもやってよ」というような気分になり、まるで他人事のように、その優秀な若者に応募やなにかの手続きはすべてまかせたのだったと思う。

 で、ほんとうに、その若者が言うように、資格はすぐにとれた。

 若い秘書志願の人たちからすると「ズル」になるのだろうか。みな誰か国会議員について勉強しているのだろうか。そして、学科試験というのか筆記試験というのか、一次試験を受けて、それに合格した人が二次の面接試験を受け、それで衆議院なら衆議院の面接官の人から「可」と判断されて資格をもらう。でも、わたしのように著書や訳書がある場合は、それを提出して見てもらい、「ま、よかろう」ということになれば、一次試験を免除してもらえる。

 だから、ほんとうに、わたしの場合には、資格試験といっても、「面接においで」と言われて衆議院別館まで出向き、面接官の人と5分くらい「おしゃべり」をしたような実感しか残っていない。もちろん、「おしゃべり」と言っても、あくまで「政策のおしゃべり」なのだが、わたしの場合には、すでに彼の政策を文章にまとめる作業をしていたので、それをしゃべれと言われればいくらでもしゃべれる状態にあり、3人の面接官のまんなかにすわった人が「まあまあ、もうそれくらいで……」と言って制止するまで、調子に乗ってしゃべりまくった。

 で、思ったこと。このシリーズを書いておこうと思った動機のひとつだ。

 世間では、「永田町の常識は世間の常識とは違う」などと、よく言われる。たしかに、わたしもそれは実感した。でも、それはすべて政治家のせいなのか、とも感じた。

 見ていると、永田町の政治家のもとへは、世間で「素直なよい子」と言われそうな若い人たちが政治を勉強しに来ていた。そして、政治家を「先生」「先生」と言って慕い、また政治家からもかわいがられているそういう「素直なよい子」のなかから、よし、おれも、と思った人が秘書の資格試験を受けて秘書になり、またさらに「先生」のもとで政治を勉強し、場合によったら、そこから新たな「先生」が誕生するというような構図ができているような気がした。

 それはそれで、古い時代、あるいは、ほかと関係のない世界でのできごとならいいのかもしれない。でも、いまは「永田町の常識は世間の常識とは違う」というクレームの出る時代だ。世間をはるか裾野に見渡し、政治は政治の世界の常識だけでやっていればよかった昔の時代とは違う。世間と同じ常識を共有し、世間といっしょに効率的に回転しないと、いくら国政の場かなにか知らないが、そんな世界はいらない。存在意義のない世界、というより、世間のじゃまをする世界になる。

 常識の違う世界と世界をつなぎ、相互の常識をならしていくのはインタラクション、相互作用だ。わたしが見た政治の世界は、なりは立派かもしれないが、インタラクションには著しく欠けているように思えた。国会議員会館にも、いろんな人が陳情やなにかに来る。だから、政治家や秘書もいろんな人と会い、いろんな人の話を聞いているのだが、「あ、どうも、どうも」と言って頭を下げ合って体よくあいさつするだけで、お客さんが帰ったら、「常識」を一にする者同士でひそひそやっているようでは、なかなかインタラクションの効果は表れず、「常識」も変わってこない。

 驚いたのは、ある組合の人たちがあいさつに来たときのことだ。民主党が組合の人の支持も得て政権をとったことくらいは、政治にうといわたしでも知っている。つまり、代議士制度で言えば、組合も民主党議員のよって立つところのひとつだ。ところが、その組合の人たちが帰ったとたん、ある議員の私設秘書のひとりが「ああいう組合の人たちって、なんだかいやですね」と言った。要するに、3年前には民主党から出たら当選できそうな空気があり、必ずしも考えを一にしないのに民主党から出た人がいて、そのまわりにも、そういう人たちが集まってきていたということだろうか。政治家と世間とのインタラクションがうまく機能していないひとつの典型的な例だと思う。

 政治家本人もあまり理解していなかったみたいだが、わたしがしばらく体験した公設秘書は国が政治家に提供する国政遂行装置の一部だ。衆議院議員の公設秘書になったわたしの給料は、衆議院から「歳費」として支払われていた。いま問題になっている、国から国会議員に支払われる経費の一部だ。

 これまでは、その国政遂行装置も国会議員が自分色に染まったものだけを使用できるようになっていたのかもしれない。でも、それでは国会議員が「外気を吸う」機会がなくなる。そうなれば、「永田町の常識」が世間の常識から遊離してもしかたがない。国が国会議員に提供する国政遂行装置は、原則として、政治家のものではなく、国のもの、国民のものだ。政治家にとっての「外気呼吸装置」のひとつでもあると思う。だから、わたしは、ま、仕事のできもあまりよくなかったからだろうが、ほんの半年あまりで議員からお払い箱にされてしまったが、ほかの人もどんどんこの領域にはいっていき、国が国会議員に提供する国政遂行装置を国会議員が健全に外気を呼吸できるものにすればよいと思う。

 まあ、若くて素直な人たちに遠慮して、自分の著書や訳書で一次試験をパスしたことを「ズル」と書いたが、わたしの著書や訳書もわたしが自分の人生を悪戦苦闘しながら真剣に生きてくる過程で生み出してきた産物であり、いくら若い人たちが鉢巻きを締めて一所懸命に一次試験の勉強をしているか知らないが、その努力と比較して劣るものなどではないはずである(本音を言えば、そんな机上の勉強なんて、ナンボのもんやねん、と言いたいところはある)。

 あるとき、党内の選挙戦術の講習会に出席すると、ある大臣経験者の国会議員が「わたしは公設秘書は雇わない。彼らはわたしたちが雇ってやるから仕事がある。わたしたちは苦労して選挙で勝ってきているのに、(そのプロセスを体験していない)あんな連中に偉そうにされたらたまらない」というような趣旨のことを力説していた。

 もちろん、公設秘書を雇うか雇わないかは個々の議員の勝手だろう。公設秘書が国から支給される仕事の補助装置であるとすれば、公用車の運転手さんや国会の衛視さんや、さらに言えば、ただで乗せてくれる電車の運転手さんや飛行機のパイロットさんもみな同じだろう。ま、衛視さんの世話にならない国会議員はひとりもいないだろうが、ほかの運転手さんやパイロットさんに世話になるかどうかは自分の意思で選べばいい。

 だけど、問題は「わたしたちは苦労して選挙で勝ってきているのに」というところだ。そりゃあ、選挙で勝つのはたいへんかもしれない。でも、それがさもほかの国民の生きんがための苦労より勝るもののように言われると、ちょっと待てよ、と言いたくなる。内輪の選挙戦術の講習会ではそんな本音を口にするくせに、公の場では、「国民が」「国民のため」と語る。そういう欺瞞を許さないためには、わたしたちもじっと遠目に政治の世界をながめているだけでなく、どんどんできる人から政治の世界に乗り込んでいき、彼らに「外気」を吸わせてやればいい、いや、吸わせてやらなければならないとも思う。

 現に、全体を見渡すと、秘書さんのなかにはおもしろそうな人たちがけっこういた。わたしがあまりにも「アメーバ体質」がひどいものだから、ある議員の女性秘書さんに「だめですね、こんなアメーバ人間は」とこぼしたら、その秘書さんは「大丈夫ですよ。ここで秘書をやってる人は、みなそれぞれなにかある人たちばかりですから。世間でふつうにやっていける人なんていませんから」と言って大笑いをした。

 あとで、秘書になってから、いろんな局面に遭遇したときには、おまえはどこまでやるつもりだ、と内心自問自答することがよくあった。そのたびに、脳裏によみがえってくる光景があった。

 中学2年の夏休みに、いきなり学校から「幹部合宿訓練」に参加せよとの命令を受けた。なんのこっちゃ。「かんぶ」という言葉の意味すらよくわからない。でも、ほかに参加する人が3年生の生徒会長と生徒会のおねえさんで、わたしもそのおふたかたと同じ生徒会で書記をやっていたので、なにか生徒会の集まりなのだろうと思って、言われるがままに参加したら、会場だった女子高に同じ郡内のすべての中学から、やはり生徒会の人たちが集まっていて、一泊二日だったか、二泊三日だったか、ともかく事前に予期せぬできごとだったので、なにがなんだかわけがわからないうちに真夏のひとときをすごしたことがあった。

 別に「おまえらは特別な存在だ」みたいな意識を植えつける催しではなかったと思う。でも、それまでは存在すら知らなかった離れ小島の中学校の人たちと同室になり、いろんな話をし、彼らの行動や、それ以外の参加者の言動も観察しているうちに、これは準備なんやな、ということは感じた。世のなかは分業制になっている。いろんな人がいろんな役目を分担している。そんな世のなかを少しでもうまくやっていくためには、どの役目につく人も、それぞれ準備をしておいたほうがいい。うちの祖父のような指物大工の世界にも、弟子入りの期間がある。世のなかをまとめる役目につく人も、できることなら準備をしておいたほうがいい。だから、おまえらは将来なにになるか知らんが、もしかしたら世のなかをまとめる役につくかもしれないので、こんなことをしてどこまで効果があるかはわからんが、ともかく準備をしておけ――そんな主催者の意思を感じる集まりだった。

 もちろんわたしの意思ではなく、学校の先生か誰かが勝手に決めてやっていたことだし、歩留まりをごくごく低く設定し、ほかにも大勢の人が同じ訓練を受けてきたのだから、別に自分なりの生きかたを選んで生きてきたわたしがそんなに過去を負担に感じる必要はないだろうが、また一歩、また一歩と、政治の世界に深く踏みこむかどうかの判断を求められるたびに、あの真夏の女子高での体験がよみがえり、あゝ、おれもああして育てられたんだよな、機会があったらお返しをしておかな、世のなかの効率が悪いやろ――と思っていた。

 人を十把ひとからげに語るような非人間的なことをしてはいけないが、いまいろいろ言われている官僚のなかには、あのころ、まわりにいた人たちのなかでもある特定の種類の人たちが大勢含まれているような気がする。現に、国会議員会館の内外で官僚の人たちとお会いしてみても、その印象は変わらない。わたしたちはあまりにも多くのことをほかの人たちに託しすぎてきたのかもしれない。わたしのようにあぶれ者体質で、悪逆非道な内面を宿している人間はともかくとしても、世のなかのまとめ役をやる組織にも、いろんな人たちがいていい、というより、いなければならない。だけど、それがまるで一色のような組織になっているのは、彼らだけの責任ではなく、参加しなかった側の責任もあるのではないかと思う。もしかすると、参加しないという判断を下した側にも、米国やなにかへの甘えがあったのかもしれない。

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by pivot_weston | 2012-02-24 12:07 | 国会見聞記

国会見聞記(9)

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 国会議員が「事業」を率先することを、わたしは悪いとは思わない。

 Vantage pointだ。「見晴らしのいい場所」――国会議員という職業の特徴をひと口で言い表す言葉をさがすとすれば、この言葉も候補のひとつにはいってくると思う。

 見晴らしのいい場所にいる人は、ほかにもいる。だけど、国会議員以外のそういう人の場合には、たいていその前に「……の業界では」「……の世界では」という枕詞がついてくる。国会議員の場合には、それがない。また、あってはいけない。あとで秘書になり、衆議院の議員会館に勤めていたころにも、総理官邸から連絡があることもあれば、選挙区の「元支援者」を名乗る人から、おどろおどろしい声で「明日、ブッソウなものをもった人間がおたくの(地元の)事務所へ行く」という電話がかかってきたこともあった。オールラウンドに、ともかくオールラウンドな情報が、こちらからかき集めなくてもはいってくるのが国会議員の仕事のひとつの特徴だと思う。

 そういう立場にいる人間が、自分に一票を託してくれた人たちの地域の現状や可能性を見わたし、ほかの地域の動きや可能性と考え合わせて、どうすればその選挙区を、住民にとって住みよいところにできるかを考えるのは、国会議員の職務のコアに当たる仕事のひとつであり、わたしが手伝っていた彼の選挙区のように、耕作可能な平地もろくになく、極度に過疎が進行しているような地域では、ただ安直に有給の仕事をつくるために国家予算を投入してどこまで必要かわからない道路を整備し、その場しのぎをするだけで、自力で回転していくモーメントをつけられない絶望的な施策を繰り返していくよりは、時代を見据え、世界を見据え、自力回転能力のある産業を生み出していくことが必要であり、そのためには、誰よりも世のなかを広く、均等に見渡せる立場にある国会議員が、事業の先導役を果たすのは大切なことだと思う。

 わたしが外部から手伝っているときにも、ひとつ、おもしろい話があった。

 バイオマス発電の話だ。わたしが学生のころには、大学の研究者はなかなか大学の外へ出ようとしなかったと思うが、いまは、そんなことではこの国全体が立ち行かなくなってしまう。「学」と「産」を区切って、「純粋な研究」と「もうけるための研究」を別扱いするような、そんな、昔の筆下ろし前のニキビづらの謹厳青年が考えていたような姿勢を国全体がいつまでもとっていたら、まだ小学生かそこらの子どものアイデアもビジネスにとり入れて産業や社会の活力を再生産している米国のような国には勝てないし、それ以前に、なにより、本来人と人とが自由に自分を表現して生きていっていいはずの世のなかのありようとして不自然だ。

 だから、かつては剛直だった日本の「産」と「学」の境目も不分明になっていて、環境省あたりが新しい環境適応型の技術の事業化を支援する補助金を出し、腕(アイデア)に自信のある学者の先生がたのなかには、大学の枠から(完全にではないかもしれないが)飛び出して、その補助金を受け取って自分の技術の実用化に取り組むような仕組みができている。もちろん、あゝ、あなたのアイデアは有望そうだから、いつまでも未来永劫にわたって応援しますよ、というやさしい補助金ではない。3年くらいの年限のある補助金で、その間に実用化し、事業化し、補助金なしでもやっていけるようにならなければ、その先生は年限が明けたときには「大学の研究者」から一転、木枯らしの吹きすさぶ公園のベンチで寝起きしなければならない身になっているかもしれない。いま日本にも徐々に浸透しつつある「リスクを負う」という、ごくあたりまえの条件だ。

 これがないと、自然ではない。そして、自然でないものからは力強い活力も生まれない。ただ、リスクを負うのが自然だからと言って、有志の学者の先生がひとりであがくのを黙って見ていて、もうかりそうな見通しが見えてきたときにだけ、ちょいとつまみ食いをするようにその成果をつまみ取っていたのでは、「産」のありかたとしてもフェアではない。だから、「産」のほうにも、自分たちなりに考えて有望と思える先生を見つけたら、その先生と組んでいっしょにリスクを負う動きが出てきている。

 わたしが手伝っていた国会議員の彼のところへ持ち込まれたバイオマス発電の話も、そうして大学から半ばフリーになった学者の先生を、ある大手企業がうしろについて応援している話だった。これはいい、と思い、彼も「ええなあ」と言っていた。過疎の地域でも、いや、過疎の地域だからこそと言えるかもしれないが、森林資源というバイオマスはある。放置され、眠っている資源だ。それを電力という、生活の補助手段に生かし、しかも、その発電によって生じる副産物にもそれなりの使い道があるということだったので、そちらで多少なりとも現金獲得の産業を生み出すことができれば、規模は小さくても新しい地場の産業や雇用、すなわち若い人たちが定住して生活していくのを可能にする仕掛けをつくり出すことができる。そうすれば、どこまで必要かわからない道路やなにかを整備して借金まみれの国庫にさらに負担をかける補助金頼みの地域運営からも少しは脱することができるのではないか。わたしたちはそう考えた。

 やりたい気持ちはモリモリだ。できればこちらの判断で自由にやらせてもらいたいとも思い、その発電技術を研究している先生から「詳しい話を聞きにいらっしゃいますか?」と声がかかれば、そうやって産学のはざまに飛び出し、リスクを負って慣れない営業までやっている先生がたが集まってオフィスをかまえているビルまで話を聞きに行ったりもした。

 でも、どうも彼の動きが鈍い。チャンスだ、チャンスだ、と思い、「事業の実現可能性をさぐるために選挙区に行って調査をしてこいと言うなら、いつでも行くぞ」と言うのに、そしたらわたしに支払うことになる交通費や滞在費のことが気になるのか、彼はなかなか「うん」と言わない。そして、発電による副産物の販売ルートのほうがまだ決まらないような話ばかりをしていて、最初はみんなで会ったときに彼のほうを期待のこもった眼差しでちらちらと見ていた学者の先生のほうも、しだいに、議員会館の事務所まで来ることが少なくなり、来ても「どうせ、ここは……」というような表情をのぞかせることが多くなった。

 悔しいかぎりだった。最近もテレビなどで国会議員の収入や歳費のことが問題にされていて、国会議員という職業を「おいしいもの」でなくすればいいのだというようなことが語られていたが、現場を見るかぎり、国会議員という職業はすでに「おいしいもの」などではなくなっている。ここに書いている彼のことではないが、わたしがあとでついた別の代議士の場合には、先日、新聞かなにかでちらりと見かけたところでは、昨年の収入を3500万円くらいと申告していた。それがひとりの収入なら、まだ「おいしい」かもしれない。だが、現実には、その代議士のところでは、それで地元と東京の4人の私設秘書を雇い、事務所も借りている。ほかにもボランティアで電話番やスケジュール管理などをやってくれている人がいて、その人たちにも、給料は払えないまでも、お茶代や交通費などは払ってあげなければならないだろう。いま、たとえば、従業員を4人かかえ、そのほかにもいろいろな人のお世話になっている会社の社長が、うちは売り上げが3500万円もあると言ってふんぞり返っているだろうか。

 マスコミの恐ろしいところだ。実態を正確に伝えずに、国会議員はおいしい仕事だ、おいしい仕事だ、というイメージばかりふくらませている。そして、だから国会議員の収入や歳費をもっと減らさなきゃいけないという議論を巻き起こすと、それにのっかって、そうだ、そうだ、と言う国会議員が出てくる。共産党や公明党のような組織はどうなっているのか知らないが、そういう議論にのってくる議員はたいてい、国会議員という職業をおいしいものにしている議員、と言ってしまってはいけないかもしれないが、まあ、余裕のある議員だ。余裕のある議員(あるいは、たいして経費を使う必要のない議員)が、これまたいろんな世界の二世や三世が中枢を占め、生活の実態や現実も踏まえずに世間にウケるものばかりをつくっているマスコミの人たちといっしょになって国会議員の収入や歳費の削減を求めるキャンペーンをやっているのを、わたしなどの立場から見ると、それではわたしが最初についていた彼のように、別に豊かとも言えない家で育ち、若くして両親を亡くし、背景がまったく真っ白のような状態で政治の世界に飛び込んできた人間は、もうやっていけなくなってしまうのではないかと思う。

 もちろん、議員の定数を減らすようなことは必要なこと。もしかすると、議員の収入や歳費をさらに減らすのも、正しいことなのかもしれない。だが、いまのままでそれをどんどん進めると、恵まれた連中が恵まれた連中とつるんで、態のいいことを言いながら、世のなかを絵空事のように運営する日本ができ、その国力は見る見る低下していくと思う。

 では、どういうことが必要なのかと言えば、有権者であるわたしたちが自分たちの利益だけにとらわれたりせず、政治家を公平に、どのような政治家を選ぶことが国家にとって意味があるかを考えながら選べるようになることだろう。それができたときには、議員の定数などは容赦なく削減すればいい。わたしも、議員の定数はいまの半分、とまで言うのは乱暴かもしれないが、3分の2程度には減らしてもいいと感じている。ただ、いまのままの状態で3分の2に減らし、議員の収入や歳費まで削っていたら、結局は後援会組織のようなものを利益誘導のパイプのようにしている一部の選挙好きの有権者たちの上で、世のなかの現実を知らない連中が米国やどこかの言いなりになりながらおままごとのような政治をする、絶望的な階級社会が再現されるような気がしてならない。

 わたしは事業化のいとぐちを開いてあげることができなかったが、活力のある世のなかをつくるためにはやはり、いかにも学者らしい理論を自信満々に述べながら、どこか「商売人の物腰」も身につけて、自分の研究をほんとうに世のなかに役立つものにしていくために必要なことも学びながら、たくましいアイデアマンになっていく人たちが必要だし、わたしが応援していた彼のように、真っ白な背景から出てきた政治家が、そういう人たちのアイデアとくっついて、新しいことを起こしていくような現象が必要なのではないかと思う。

 あくまで推測だが、彼の場合も、国会議員になり、やることに関しては「ごっついなあ。やっぱり国会議員になったらぜんぜん違う。なんでもやれるんや」と思ったかもしれないが、その、世間で言われる「おいしさ」に関しては、案外、そうでもないことに気づき、自分の「おいしさ」を確保する方向へ少し気持ちが向いたのではないかと思う。

 Vantage Pointのながめは魔物だ。ながめのよさは、自分も含め、世のなか全体を公平に豊かにし、うまくバランスをとる方向へ生かしていけばいいが、あまりにもながめがいいと、つい、そのながめを自分の暮らし向きに生かしていきたいという思いも頭をもたげてくる。人から票をもらい、そんな立場に立つ人間が自分のことなど気にせずに世のなかのことを考えて政治ができるようにするためには、わたしたち有権者にも求められていることがあるような気がする。

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by pivot_weston | 2012-02-12 20:14 | 国会見聞記

国会見聞記(8)

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 あれは、どういうことだったのか。

 本人が「ブログ、書いてくれるかあ?」と言ったのだ。なったばかりとはいっても、国会議員なのだから、書きだしたら、さぞかし「あれも書いて」「これも書いて」と、とてもさばききれないほど次から次へと注文を出してくるのだろうと思っていた。

 ところが、フタをあけてみたら、注文はゼロ。なにもなし。しかたないから、まあ、当選後最初に再会していっしょに飲みに行ったときの話あたりからはじめて、20年前のことにも舞い戻りながら、そう、当時はまだ鳩山さんの国連総会での25パーセント演説などもあって、自然とネタがうじゃうじゃと湧いてくるような状況でもあったので、まずはこちらでペースをつくっていくかと考えて、渋谷のはずれのスーパーマーケットの裏のワンルームのアパートで、日々彼の「応援ブログ」を更新していった。

 でも、当然、20年のブランクがある。いくら20年前には彼の本づくりを手伝うために1週間ほどつきっきりであちこちをまわったとはいえ、この20年の間に彼がなにをしていたかは知らない。いや、いちおう外枠だけの情報として、地方議員をしていたことは聞いていたのだが、それだけでは、話は1行だけで終わってしまう。いつ、どんなことがあり、それに対してどんなことを考え、どんな人と会い、なにを言い、なにをして、その結果としてどんなことがあったかがわからないと、とりあえず国会での実績ゼロの彼の政治家としての人間像を浮かび上がらせようと思っても、なにも書けない。

 困った。だから、なにか文書を作成しなければいけないようなことがあって、呼ばれて議員会館(当時はまだ古い議員会館)まで出ていったときには、奥の議員執務室でガハハハと談笑しているときにも、つねにタイミングを見計らっていて、いまだと思うと「で、なんかネタないか?」とたずねていた。

 そういうときには、彼はたいてい、「ネタか」と言って笑いながら、「ネタならなんぼでもあるでー」とつけたした。ところが、聞き手のわたしの聞きかたが悪かったのかもしれないが、その「なんぼでもあるでー」と言うネタが、話のなかでいっこうに具体化してこない。いま思えば、なんの根拠もなく国会議員なら「あれも書いて」「これも書いて」と、とてもさばききれないほど次から次へと注文を出してくるのだろうと思い込んでいたわたしが、あの「なんぼでもあるでー」のひとことでふっと心をゆるめたりせず、彼の頭がすぐにほかの話題に飛びかけても、「おらおら、ちょっと待て。ネタがあるっちゅーんなら、それを先にはっきりせんかい」と問いつめて、結局は彼のためになることなのだから、否が応にもそのネタの断片だけでも聞き出すべきだったのかもしれない。

 ただ、あるとき、わたしと同年配(つまり、議員の彼とも同年配)の当時の政策秘書の人がわたしのはじめた応援ブログを彼に見せようとしたのだったか、みんなで彼の執務室のデスクの上にあった国会支給のPCを前にしたとき、やや間があった。

「お、おい、これ、どないしてつけたらええんや?」

 彼が言った。

 はっとした。彼がコンピュータを苦手としていることは知っていた(それも、わたしが応援ブログを引き受けたひとつの理由だったのだが)。しかし、まさか、立ち上げかた、つまり電源の入れかたも知らないとは思っていなかった。

 そうか、とやや納得した気分になった。彼のWebサイトには、なにかの活動をしたときの写真とその活動の要点の説明だけの簡単なオフィシャルブログへのリンクがあり、これなら、まあPCが苦手な彼でも、決まった操作さえ教えてもらえばつくれるかなと思っていたのだが、それすらも彼は自分でつくっていたわけではなかったのだ。ということは、まわりでほかの政治家かだれかが、「ブログをやったら支持者をふやすのにいいよ」とかなんとか言っているのを聞いて、そんなら自分のもつくろうかと思って、秘書かだれかにつくらせることにしていたのだろう。

 いや、もちろん、だからといって悪いとは思わない。いまはIT時代なのかもしれないが、国民のなかには、大正生まれの人だっているし、もうごくわずかになっているのだろうが、日清、日露の戦争をしていた明治時代の生まれの人だっている。わたしたちの世代だって、生まれたときにはテレビすらなかった。いまはまだそういうわたしたちが生きている時代なのだから、国会議員は全員PCが使いこなせなきゃだめだなどとバカなことを言うつもりはない。

 ただ、それで、どうやら彼が、わたしがつくりだした「応援ブログ」をまったく読んでいないらしいということは見当がついた。となると、わたしがいくら「なんかネタあるか?」とたずねても、彼には、そのわたしの言う「ネタ」の意味が理解できていなかったのだろう。

 さあ、そうなると、もうそれ以上彼を深追いしても、こちらが求めている「ネタ」は出てこないだろう。そう思ったので、今度は方向転換をして、わたしたちと同年配のその秘書さんに「どうですか? なにかネタはありませんかね?」とたずねるようになった。

 秘書さんのほうはAdobe Illustratorなども使いこなし、彼が委員会で質問をしたら、さっそくその翌日あたりには、その模様を写真入りで新聞風に伝えるチラシをつくれる人だ。そのチラシを見たときには、あ、なんや、おれはいらんのやないか、と思ったくらいの人で、それだけコンピュータリテラシーが高ければ、当然、わたしの言う「ネタ」の意味もわかってくれるはずだ。ところが、

「さあ……」

 その人までが、そう言って笑っている。大学生のころから人権派の代議士の手伝いをしてきて、国会の流れや法律のことは熟知している、わたしとは正反対の、政治の道ひと筋の温厚でやさしそうな人だ。

 しかし、そんな、ないなんてことはないだろうと思い、「ないんですか?」と問い直したら、どこか照れくさそうにしゃなりと姿勢を崩しながら、はっきりと、

「ないんです」

 の言葉を返してきた。

「い、いや、別にたいしたことじゃなくていいんですよ。たとえば、ここの事務所のなかを歩いていたら、なにかに足を引っかけてつまずいたとか、そういうことでも、なんでもいいんですよ」

 まさかと思いながら、そう言ってさらに深追いすると、

「いや、おっしゃっていることはわかるんですよ。ネタがほしいということは、よくわかるんです」

 と言う。だったら出せよ、と思ったが、あくまでお行儀のよさは保ちながら、

「それでも、ないんですか?」

 としつこくたずねても、やはりしゃなりと笑いながら、

「ないんです」

 ときた。ふむ、だ。

 しかたないから、「なにか、彼本人が関係していない資料でもいいんですよ。どっかからなにかの資料が来たら、それをこっちにもまわしてくれますか? それをもとに、考えて書きますから」と言うと、「わかりました」と言う。

 あ、これで少しはネタらしきものができるかなと、多少安堵する気持ちになったが、実際には言葉だけで、その後も渋谷のアパートでごそごそと「応援ブログ」を更新していたわたしのところへ資料が送られてくることはなかった(あとで秘書になってよくわかったが、実際には、国会議員のもとへはとても目を通しきれないほど多くの資料が送られてきていた)。

 まったく納得がいかなかったが、そこまで言われると、もうそれ以上は追及する気になれず、弱ったなあ、と思った。「応援ブログ」はわたしが書いていたし、わたしが書いていることもわかるようにしていたが、読んでいる人の関心は、その「応援」する相手、つまり彼やその活動にあり、彼とは違うわたしの考えなどを知りたがっている人はいない。それなのに、テレビなどの一般的な媒体を通してはいってくる政治や国会の日々刻々変化する情報をもとに書いていると、あら、なんや、これ、おれの考えみたいになってるやないか、と思うことがあり、しだいに、いったいおれはなにをやっているのだろう、と思いながらも、読んでくださるかたがふえてきていたこともあり、なんだか、引くに引けない妙なところにはまり込んでしまったような気分になってきた。

 その一方で、彼はわたしが事務所まで出ていくと、決まって「おい、あれあるか?」と秘書にたずね、「プロジェクト」のツリー図を出してきた。自分を中心にしたツリーだ。国会議員になると、選挙区内外のいろんな人が「こんなことをやりたい」「あんなこともやりたいから応援して」と言ってくるものらしく、そういう人たちから提案されている新しい事業案を自分を中心としたツリー図にまとめていて、わたしが事務所に行くたびにそのツリーの裾野がひろがっていた。彼の選挙区は過疎地だ。そういうところに新しい事業を起こし、雇用をふやすのは、わたしもいいことだと思っていた。でも、そのツリー図をひろげると、彼は決まってこう言った。

「まあ、いまはしんどい思いをさせとるけど、ちょっと待っといてや。これがうまくいったら、そっちにもちゃんと金を払えるようになるから」

 わたしに支払っていた報酬の少なさをよほど気にしていたのだろうか。だとしたら、その気持ちはとてもありがたいのだが、でも、申し訳ないような気もして、なにかすっきりしないものを感じた。だから、

「まあまあ、まだもうちょっとは辛抱できるから、こっちの金のことより、まずやらないかんことをやって」

 と言っていた。

 ただ、思い出すことがあった。20年前のことだ。1週間にわたる取材を終えて彼の家を発つ直前のことではなかったか。どういう話の流れだったかは忘れたが、彼が急に「しかし、立候補しただけでもごついもんやなあ。あちこちの会社から顧問になってくれ、言うてくるんや。月XX万払うから言うてな。ごっついでえ」と言ってうれしそうに笑った。だから、「あ、こらこら、そんなことしたら、ジミントーの代議士とおんなじになるやないか」と言ったのだが、そのときのことが何度も何度も脳裏によみがえるようになった。そして、新しく事務所にはいってきた秘書見習いの若者(といっても、地方の党本部でキャリアを積んできた若者で、政治の世界のことはよくわかっていた)からも、「ちょっと心配ですねえ。もっと本来の政治をせないかんのに、事業のことばっかりやってます」という言葉が聞かれるようになった。

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by pivot_weston | 2012-01-21 08:29 | 国会見聞記