カテゴリ:自縄自縛( 21 )


自縄自縛の愚かしさ(21/結び)

(これは不定期連載でお届けしている記事です。流れがわかりにくい場合は、「自縄自縛」のカテゴリの過去の記事を参照してください。)

 あとは、あっという間だった。

 Tくんをお見舞いに行ったのが、2月だったか。

 やめよう――と思い立ったら、すぐに四国の両親に連絡し、「話があるから」といって、いささか時期外れの帰省をすることを伝えた。

 実は、両親がわたしの退学の動きを知るのは、2度目だった。入学してまもない1年生の夏に、すでにわたしは、もうダメ、の判断をし、香川県庁の職員の採用試験を受けようとして、願書をとりよせていた。もちろん、両親にはないしょ。でも、あのころの個人情報というのはそういうものだったのだろうが、願書をとりよせただけなのに、わたしから請求を受けた香川県の人が、どうやってわが家を特定したのかわからないが、逆にわたしにないしょで、両親に「お宅の息子さんがこんなことをしようとしていますよ」といって連絡をしていた。

 両親にしてみれば、念願かなって一家再興の緒についてくれた息子を「がんばれよ」といって送り出してから3か月か4か月後のこと。もちろん、「こらっ!」といいたい気持ちはあっただろうが、まったく予期せぬことに、半信半疑だったのか、「どういうことかの?」と、戸惑った声で母が下宿へ電話をかけてきたのをおぼえている。

 それから、4年。もしかしたら、おれはただ両親を説得するためだけにこの4年の歳月を費やしてきたのだろうかと思いながらも、もうわかってくれるだろう、いや、もうわかってもらうしかない、と思って、すでに十数度目をかぞえていた片道12時間の列車の旅をして四国に帰った。

 さあ、その4年間の総決算のときだ。

 実家の居間で両親と向き合った。

 気になっていたのは、やはり母のほう。思ったとおり、わたしがなにを「伝え」に帰ったかは予測していて、話の要点を切り出したときには、もう涙ぐんでいた。しかし、4年も「学生くずれ」の生活をしてきたわたしには、あと戻りなどできないことはわかっていたので、とにかく「大学をやめて、翻訳の道に進みたい」ということは最後まではっきりと伝えた。

 ほっとした。4年間の気持ちのつかえがとれたような気分になり、母のとなりにすわっていた父のほうへ目を移したときだ。

 あら、なんだ、このぎらぎらした目は?――と思ったとたん、なんということか、「おまえ、翻訳なぞといわず、自分で書け!」ときた。

 父はよく、テレビでプロレス中継を見ているときに、そうやって目をぎらぎらさせて体を揺すりながら鼻をスンスンいわせていたが、まさにこのときもそのプロレス観戦モードになっていた。

 こらっ、ここはあんたが止めるところだろう。せっかくこっちがより穏便なところで手を打とうとしているのに、こっちより過激なことをいってどうする? 困ったやっちゃなあ――と思ったが、目をぎらぎらさせていまにも体を揺すりだしそうな父の姿を見ると、おまえがやりたくないなら、わしがやる、息子を押しのけてでもいいから、自分がやりたい、という気持ちが伝わってきて、母に話していたときには、暗く沈んでいた気持ちがいっぺんに晴れ、涙を浮かべている母の前で、思わず噴き出しそうになった。

 でも、父の気持ちはしっかりいただいた。あの、わたしが小学生のころ、仕事もせずに裏庭で俳句ばかり詠んでいた姿もよみがえってきた。それが、そのころ、なにも知らない小学生のわたしが思っていたように、ただだらしがなくて働いていなかったのではなかったことも、このときには知っていた。そのうえで、あの表情を見せられたら、そりゃあ半端では終われない。

 でまた、それに似たようなことが仙台でもあった。

 両親の了解を得たら、次は大学への退学届だ。四国から仙台に戻ると、すぐに学生課に行って退学届の用紙をもらい、学部長だった物理学科の武田暁先生のところへ行った。

 わたしは物理の勉強をろくにしていなかったので、実際のところはよく知らないが、周囲の学生たちのあいだでは「世界のギョーさん」といわれていた先生だ。そんな先生に時間をとっていただくことが申し訳なかったが、どうせ退学届を出したら、ほいほいとハンコをついてくれてそれでおしまいだろうと思って、物理学科の研究棟の最上階の先生の研究室まで行った。

「なんでやめるんだね? せっかく5年間も勉強してきたのに、もったいないじゃないか」

 わたしの退学届を前にした武田先生は、そういった。

 ありゃ、ここまで来て引きとめるなよ――という気分だ。もうこちらは目をぎらつかせていた父のように鼻息が荒くなっていた。それなのに、それまで一度も接触がなく、どうせ簡単にハンコをついてくれるだけだろうと思っていた「世界のギョーさん」が引きとめるようなことをいいだしたので、少なからず面食らい、どうしたものかなあ、と考えだしたときだ。

「ところで、きみ、やめてどうするんだね?」という。

 ははあ、またなにかいわれるかなと思いながら、おずおずと「それが……そのう……翻訳の勉強をしようかと思っていまして……」といった。

 すると、あのギョーさんが父の再現だ。

「おお、なんだ、することが決まっているのかね。そしたら、きみ、やめなさい!」ときた。

 え、なんで、止めてくれてたんじゃなかったの? これから学部長まで説得しなきゃいけないのかと思って、鈍い頭を切り換えようとしていたのに、センセ、そらないでしょう――とは思ったが、目をぎらつかせていた父を見たときと同様、元気いっぱい、大きな声で「やめなさい!」といったギョーさんの一変のしかたには、思わずぷっと噴き出しそうになった。

 それでも、最後にギョーさんがいってくれた言葉も忘れられない。

 トン、と大きな音を立ててハンコをついてくれたギョーさんは最後にわたしにこういった。

「ま、いいけど、わかってるね、きみ、もうやり直しはなしだよ」

 とりあえず30年だけど、この言葉はずっと思い出し、守ってきた。なんたって、「世界のギョーさん」からいわれた言葉だもの。ハンコをもらった退学届をポケットにしまい、遠く貞山堀の松林に縁取られた太平洋を望む山道を歩いておりだしたところで、自分がこれから遠足に行く小学生のようにはずんだ足取りになっていることに気づき、あれ、おれ、たしか、退学しようとしている学生だよな――と思えたのも愉快だった。

 ただ、このときにはまだ仙台を離れることにはしていなかった。大好きになっていた街だ。Dさんのアパートまでの夜の仙台市徒歩横断でもずいぶん歩いたが、道路のセンターライン引きや駐車場の調査などのアルバイトをしていたこともあり、自分では、もう歩いていない路地はないくらい歩いた――と思っていた街だ。大学をやめることは考えられても、仙台を離れることは考えられなかった。

 でも、ギョーさんにハンコをもらった退学届を学生課に出し、いよいよこれで長かった大学生活も終わりになるんだなと思いながらアパートに帰ったとき、玄関にはいったところで、あれ、おれ、なにしてんだ?――と思った。

 いつまでぐずぐず中途半端なことをしているのか? やるとなったらもう半端なことをしてちゃダメじゃないか。勝負しなきゃ。退路を残していてどうする? もう新しい世界に飛びこんでいくんだよ――ということに、ようやく気づいた。

 そうとなれば、すぐにまた四国に電話だ。「あの、おれ、やっぱり東京に出ることにしたよ」

 そして、アルクの雑誌と新聞を買ってきて、アルクの雑誌では、当時四谷にあった日本翻訳専門学院という翻訳学校を見つけ、新聞では、東京・調布の新聞専売所の住みこみのアルバイト募集の広告を見つけ、どちらにもすぐに連絡をとり、その日の夜までには、調布まで面接を受けに行き、四谷の学校にも寄る約束をとりつけていた。

 早かった。Tくんのお見舞いに行ったときには、まだ大学をやめるなんてことはこれっぽっちも考えていなかったのに、3月の半ばには、もう3月の末から東京で新聞配達をしながら翻訳の勉強をする段どりを決めていた。

 Tくんに読んでもらっていた、詩、らしきものも、作品としての良し悪しなど、わかろうとしてもわからなかったが、とにかく自分の足跡だと思い、ガリ版でざら紙に印刷し、20部ほどの詩集、らしきものにまとめ、お世話になった人たちに配った。

 そして、仙台を出る前には、Dさんに宣言もした。アパートまで来てくれたDさんを送っていく途中、八幡町のガソリンスタンドの角を曲がろうとしたときだ。自分にプレッシャーをかけたい気持ちもあったが、やはり、Dさんには、いっしょに時間をすごしてくれたことをむだにしないという気持ちを伝えておきたかったので、思い切って、非現実的なことであることは承知のうえで、「まあ見てな。いつかイッパシの詩人になってやるから」といった。

 Dさんはこちらを見上げ、「ああ~、はは~、いってらー」といって、疑わしそうな表情をつくりながら、うれしそうに笑っていた。

 でも、やはり最後は「小玉」だ。1979年3月28日、仙台ですごした最後の夜には、また「小玉」へ行った。やはり、この長い長い迷いの期間を締めくくるには、その迷いの時間をいちばん長くすごしたと思えるところへ行きたかった。

 こちらは内心、ウルウルきている。でも、ひとりでいろんな苦労をしてきて、いつもクールだったおばさんは、また明日もわたしが来そうな対応のしかた。なんか、ちょいと物足りないなあ、と思っていたら、たまたまそこへ、同じ香川県から同期で入学したОくんという医学部生がやってきた。聞くと、今夜、四国へ帰るという。で、おばさんからわたしも明日仙台を離れることを聞くと、「なんだ、それなら今日、いっしょに帰ろうよ」という。おいおい、おれは最後までしっかりと仙台の空気を吸っておきたいんだけど――と思ったが、おばさんまでが「そうしなよ。それがいいよ。いっしょに帰りなよ」という。

 そう、ほんとうは昼間、5年間乗ってきた「ひばり」か「やまびこ」か「はつかり」の窓から東北本線沿いの風景もしっかりと目に焼きつけて発ちたかった。でも、これもなにかの流れだろうと思い、急遽、その日の深夜に四国に帰るОくんにつきあい、常磐線の夜行で仙台を離れることにした。

「しっかりね。体に気をつけてがんばるんだよ」

 わたしが名残惜しそうに最後に暖簾をくぐるとき、おばさんはちらりと頬のあたりをこわばらせて、そういった。そういう人だった。

 5年間ではじめて乗った常磐線。Оくんは早々と眠りだしたが、わたしは最後の光景だと思って、夜なかに停車したり通過したりした相馬や双葉やいわきの駅も、目で暗闇をかき分けるようにしてずっと見ていて、いまだにそのときの光景がなんとなく記憶に残っている。実は、それを思い出してはじめた今回の連載だった。

 大学のときには、海洋物理を勉強しようとして、地震の本や津波の本も読んだ。

 1978年6月12日午後5時14分の宮城県沖地震にも大学のキャンパスで遭遇した。

 以来、夜になると不安になったのか、「朝が見たい」「早く朝が見たい」と思うようになり、眠れぬ夜には、例の詩、らしきものにもそういう言葉を書いていた。

 もちろん、この連載の開始当初に書いたように、これはあとから来きている若い人たちのなかで、だれかひとりでも、同じような壁にぶつかっている人がいて、読む気になって、なにかを考えるヒントにしてもらえるのならと思って書いてきたことではある。でも、その背後に、そんな経緯があったことはお伝えしておきたい。

 ずいぶん粗雑な書きかたになった。その点は、おわびしておきたい。またしばらくは、日々の身過ぎ世過ぎに徹するといたします。どうもお粗末さまでした。

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by pivot_weston | 2011-10-22 17:44 | 自縄自縛

自縄自縛の愚かしさ(20)

(これは不定期連載でお届けしている記事です。流れがわかりにくい場合は、「自縄自縛」のカテゴリの過去の記事を参照してください。)

 Tくんに「書いてるかー?」といわれ、そうか、書くという選択肢もあったのか、と(自分のなかでは)それこそ地動説なみの大発見をした気分になったものだが、それでは、よしっ!――とすぐに気持ちを切り替えて、一気にその地動説の世界へ没入していったかというと、そんなことはなかった。

 自分は自分の司令官だ。かつては「貧乏」という現象にとりまかれているという妄念のなかで、その現象を回避する方向へ自分という軍隊を進めること以外にはなにも考えられない狭量で未熟な司令官だったが、その結果、自分の能力では打ち破りがたい現実の大きな岩壁にぶつかり、もはや自分に残された進路はないと思いこんで意気阻喪し、完全に司令官の役目を放棄しようとした。でも、その意識のなかの壁に囲まれ、酒におぼれるだらしない司令官になり下がりながらも、目の前にいる人たちとの接触に生きる意味を見出しているうちに、あるとき、不意に、Tくんの言葉が飛んできた。

 ふたたび進軍のときだ。でも、今度はなにかを回避する進軍ではない。新たに開けてきた進路には、かつて妄念を支配し、なんとか回避しようとしていた「貧乏」という現象が漂っている。そこを突破していく進軍になる。視界が開けてきたとたんに高らかに「トツゲキー!」の号令を下せるほど単純な戦いにはならないことはよくわかっていた。街に出て、あと一歩道を踏み外したらもう人生の行路には戻れないような過ちも何度かおかしていたので、いつでも自分は自分という軍隊の最高司令官でいなければならないという認識はできていた。そうであれば、視界が開けてきたこのときは、どっかりと椅子に腰をすえ、その視界に見えてくるものをよく見ながら、先を読んで、情勢分析をするときだった。

 しかし、それにしても、脳裏によみがえってくる「木に登るブンガクシャ」の世界はあまりにもなつかしく、内面になじみ、どんどんわたしの全身にひろがっていった。そして、次から次へとよみがえってくるさまざまな風景のなかに、自分でもとうに忘れていて、よみがえってきたときに、へえ――と思わされるものがあった。

 わたしの実家は、瀬戸内の、海と山のほぼ中間の、大きなため池のほとりにある。わが家はその池の土手の陰にうずくまるようにして建っているが、かつてはその背後からのしかかってくるような土手の上の、お遍路さんたちが通る道の両側に分かれて建っていた。池とは反対側には、弟子を40人もかかえていた指物師の祖父の大きな屋敷。反対側の池の側にも、ススキの穂越しに月明かりを映した池面をながめられる窓辺のある離れ。だが、戦争中の昭和17年の大雨でその土手が決壊し、子どものころに両親と死別し、みなしごの状態からそんな屋敷をかまえるまでにのし上がっていた祖父の夢もなにも、いっぺんに押し流された、わが家からしてみれば、なんともやりきれない愛憎の染みついた土手だ。

 幼いころ、夕方になるとよく、祖母がわたしをつれてその土手に上がることがあった。眼下には、のどかな農村風景がひろがり、遠く西のほうには、巨大なゾウの背なかのような山がつらなり、瀬戸内海の風景をさえぎっていた。その山の手前の農村風景を見ていると、頭上で鳥のはばたく音がする。

「ああ、明日は雨じゃな」

 そういう祖母の声が聞こえてきて、空を見上げると、1羽、2羽とゾウの背なかのような山のほうへ向かって飛んでいく鳥の姿が見えた。

「な、シラサギが飛んでいっきょるじゃろ。シラサギが西の空へ飛んでいくときは、次の日は雨になるんじゃ」

 いま思えば、かつてその場で、大勢の弟子たちが寝泊まりする屋敷を切り盛りしていた「オカミサン」だったはずの祖母がそういうのを、いつもわたしは、いっしょに手をつないで、ゾウの背なかのような山のほうへ飛んでいく4、5羽のシラサギの姿を見送りながら、ふぅん、と聞いていた。そして、なぜかそのなにげない、数分ほどの時間が大好きだった。次に土手に上がったときに、シラサギが飛んでこないと、飛んでくれ、明日雨になってもええから飛んでこい、と思うくらい好きだった。そして、そのシラサギが飛んでいく風景を、いつか文章に書きたいとも思っていた……。

 え、待てよ――と思った。仙台のアパートで、そのときの自分の内面を頭のなかで再生していたときだ。文章に書きたい?――そんなことを、あのころの、まだ小学校1年生か2年生くらいの自分が考えていたのか――というのは、大学生活も5年目を迎えていたわたしにとっては意外な、欠落していた過去だった。と思うと、今度は着物を着てその土手に立ち、腕組みをしてそのシラサギの群れをながめている姿もよみがえってくる。着物を着て腕組みをして……というのは、まさにあの、貧乏がいやでいやでしかたなくなったころ、みじめな気持ちをかかえて学校から帰って裏庭に出たとき、仕事もせずに赤く染まった西の空を見ながら俳句ばかり詠んでいた父の姿そのものだった。だから、仙台のアパートで記憶の糸をたどっていたわたしは、一瞬、自分の記憶に父の記憶が紛れこんできたのかと思った。でも、違っていた。

「はは、またアホみたいなこと、いよら(いってら)」

 だれか大人の、そんな声が耳の奥によみがえってきた。

 どうやらわたしはその人に、大人になったらなにになるのかときかれたらしい。「本を書く人になりたい」と答えたと思う。でも、耳の奥によみがえったその大人の言葉は、わたしのその返事に対するものではなかった。わたしはもう一歩踏みこんだことをいっていた。「ここ(四国、いや、その池の土手)で本を書く人になりたい」そういっていた。そして、先の大人はそういったわたしを「はは」と笑い、「そなな(そんな)こというても、こなな田舎で本書けるわけないやろ。東京行かな、本や書けるわけないやろ」――そういって、また笑った。

 学生アパートはおろか、家庭にだって電話なんてなかった時代だ。新幹線だってまだ走っておらず、本をつくる世界と、遅れ遅れで届くそれを読んでいた世界とは、完全に切り離されていた時代だ。たとえば、かりに東京の編集者の人が四国まで原稿をとりに来て本をつくるとなると、たいへんな時間と労力がかかっていただろうが、ま、そんな現実的なことまでは理解していなかったにしても、自分のいっていることがなんとなく非現実的なことであることは、わたしにもわかっていた。でも、カチンときた。とにかく、この大人のいっていることには、無性にカチンときた。

 なんで四国におったら本を書けんのぞ? なんで東京の人にしか本は書けんのか? なんで四国の人間は本を書いたらいかんのか?――そう思って、無性に腹が立ち、そんなら意地でもここで本を書く人間になってやる――そう思った記憶があざやかによみがえってきた。そして、着物を着て、あの土手に立ち、シラサギが飛んでいく西の空を見ながら、腕組みをして、どんなお話を書こうかと考えている自分の姿を思い浮かべていたのだった――それは、よみがえってみると、たしかな、たしかな、とても手ごたえのある記憶だった。

 意外だった。自分がまだ10歳にもならないうちに、そこまで明確なイメージをもち、中央に対する反発心ももっていたことが、大学生になって仙台に来ていたわたしには、とても意外だった。でも、それは、このときの、自分という軍隊の総司令官として、情勢分析をしていたわたしにとっては、きわめて重要な、使命感にすらつながるような再発見でもあった。

 でも、まだそれだけでは、総司令官として、自分の軍勢を前に進める気にはなれない。なんといっても、いくら本能のようなものは確認できても、これからのことが読めない。Tくんのように、文学の世界にいて、本をたくさん読んでいて、知識や素養のあった人なら、これから自分を待ち受けているものをだいたいイメージし、それに対して自分がどれくらいやれるかということも、なんとなく肉体感覚でつかめたのかもしれないが、それまでずっと、小説や文学の話をする人たちを軽蔑して遠ざけ、詐欺師のKさんやアルバイト先の売店のそばに現れたおんちゃんのような人たちといっしょに地にまみれて生きるような生きかたをよしとしていたわたしには、まだまだ「書く」世界に飛びこんだらどういうことがあるかということ以前に、「書く」ということがどういうものかもまったくイメージできなかった。

 結果的に、毎日の暮らしはそれまでとほとんど変わらなかった。

 アルバイトをして、部屋で技術翻訳の通信教育のテキストを開き、Dさんとも会ったり会わなくなったりを繰り返しながら、夜になると「小玉」へ飲みに行き、Tくんたちとわいわいがやがやをやり、FさんやKさんと合流し、朝まで飲む。ほんとうに人生の大発見をしたのに、いつまでも自堕落生活を抜けられない自分がいた。

 でも、やはり、地動説が受け入れられる時期にも、それ以外の面でそういう方向へ向かう流れがきざしていたように、こういう時期には、いろんな面で変化が起こってくる。そのひとつが『人間喜劇』だった。

 なぜ買う気になったのか思い出せないが、仙台の丸善でずらりとならんでいた晶文社の海外文学シリーズの背表紙をながめているうちに、ウィリアム・サロイヤン著、小島信夫さん訳のその本を手にとった。

 なんといっても読書歴ゼロに近い学生だ。このころになっても最後まで読み通した小説はほとんどなかったのに、この本を読みだしたら、ちっとも気持ちが内容に飽きてこなかった。翻訳の勉強をしていたといっても、はじめる前は1行も満足に読めなかった英語が1行くらいは読めるようになっていたかというと、そういう手ごたえすらなく、テキストを開いて英語を目で追っていても、なにやらつるつるのスケートリンクの上で足を空まわりさせているような気分ばかり味わっているありさまだったので、まだまだ翻訳の質をどうこういえるような立場ではなかったのだが、読んでいると、小島さんの訳はどこかぎごちないように感じられた。ところが、わたしの内面がいびつにでこぼこしていたせいか、そのぎごちないように思えた文章がどういうわけかわたしの内面にうまくかみあってくる。

 子どものころ、寒い日に、かじかんだ手で古いジャンパーのチャックを閉めようとしたときに、一方のギザギザ(「務歯(むし)」というらしい)の端っこの留め具をもう一方のギザギザの上をすべるスライダーのすきまにうまく入れることができないことがあり、きちんと入れないまま無理にスライダーを引っ張り上げると、一部はぴったりとかみあっても、途中にぐにゃりとペイズリー柄のようなすきまができたりすることがあったが、あわてずに、きちんと留め具をスライダーのすきまに入れてからそのスライダーを引き上げると、めりめりめりとその「務歯」と「務歯」が心地よくかみあい、きれいにチャックが閉まることがあった。『人間喜劇』を読んでいたときのわたしの内面と本の文章との接点も、あんな感じにめりめりめりとかみあった。そして、どんどんどんどん読み進んでいき、最後には、第一次世界大戦に出征したにいちゃんが戦死し、主人公の少年をとりまく世界が表向きはそれまでとちっとも変わらなくても、その背景にいたにいちゃんの「不在」が「不帰」に変わったことで、その変わらない世界のそこここから、にいちゃんが二度と戻ることがなくなったという事実が浮かび上がってくる無常感あふれるエンディングでは、胸を突き上げられ、喉がつまり、たまらず涙した。

 あ、こういうの、やってみたい。こういうのなら、やってみたい。小島さんみたいな文章なら、書いてみたい。技術翻訳ではなく、文芸翻訳をめざしたら、こういうのをやれるようになることもあるのなら、やってみたい。小説を書くのとは違い、翻訳は原作があってもらう仕事だから、小説を書くほどギャンブルにはならないのではないか――そんなふうにも思いだした。

 で、「小玉」でも、「翻訳の勉強をやってんだって? ねえ、どんな本よ?」ときかれたりしたときに、「いや、やってるのは技術翻訳の勉強です。でも、そうですね、できたらやっぱり本の翻訳をやってみたいですね」なんて、ちょっぴり勇気を出して自分の素直な気持ちを口にするようになっていた。

「ふたりの児玉さん」に書いたように、「小玉」のおばさん、こと児玉トシさんが、前後の脈絡もなく「北御門二郎さんが訳したトルストイを買ってきて」といってくれたのも、わたしがそうして、最初は勇気を奮い立たせて口にしたことを2度いうようになり、さらに3度いうようになるようにして、少しずつ口にする回数をふやしていたころだった。

「小玉」のおばさんから見ても、Tくんから見ても、FさんやKさんから見ても、当時のわたしの状態は心配で心配でしかたなかったのかもしれない。Dさんの顔にも、いっしょにいるときにときどき、どこか心配そうな表情がよぎることがあったように思う。

 そうして、じわりじわりと変化していた生活が一気に変化するきっかけは、またしても思いも寄らぬところから飛びこんできた。

 電話がなかったので、あの連絡はどうやっていただいたのか、いまとなっては思い出せないが、ある日、劇団の人から「電話ください、大至急」という連絡をもらった。劇団に入れてもらったといっても、あくまでわたしは「Tくん経由の劇団員」で、その枠から抜け出すことも、抜け出すつもりもなかった。だから、Tくん以外の人から連絡をもらったのははじめてのことで、とても意外だったのだが、赤電話からその人に電話をかけると、さらに意外な言葉が返ってきた。

「Tさんが病院にはこばれた」という。

「病院」というものが、まだ生活感覚の外にあった時代だ。そういわれても、頭のなかにどういう光景をどう思い浮かべていいかもわからない。

「え、なんで……?」とたずねると、

「いや、ちょっと、ガス管を……ね……みたいなの」という。

 わたしの頭のなかで、一気になにかが滝かなにかを落下していくような感覚が起こった。Tくんは、いくら毎日のようにいっしょに酒を酌み交わし、いくら空気のよどんだアパートの部屋を見せてもらったといっても、まだわたしのなかでは、颯爽とした文学者、演劇人だった。人間を語り、人間を表現し、人間を演じていても、生身の自分の姿はその表現の背後に隠し、颯爽としている存在だった。それが、一気にわたしの前で、パンツもなにも脱いで、不様な裸をさらしてしまったように思えた。

「失恋したみたいなの」電話の向こうの劇団員の人はいう。

 そんなのはわかってる、と思ったが、なにもその人に腹を立てることではないので、「そうですか」とだけいって電話を切った。

 なにをばかなことをやっているのか――電話を切ったときには、そう思った。自分でも、Dさんとのあいだで、もう自分を殺すしかないか、と思ったこともあったくせに、このときのTくんに対しては、なぜそんな俗っぽい考えを起こしたのか、ただ田舎の学生が吠えていただけだったとしても、いっしょに「日本一の芝居」をめざそうといっていたのだから、おれたちはもっと高踏であるべきではないのか――と、そんな、責めるような言葉ばかりが浮かんできた。

 彼がはいっていたのは、精神科だった。

 まだスーパー、というか、食料品店がポリ袋を使っていなかった時代だ。茶色い紙の袋にりんごを2個買って面会に行った。

 面会室は広く、精神科らしく、当時の世間知らずなわたしには、少しどきっとするような挙動を見せる人たちがうろついていた。わたしはそこで、細長いテーブルをはさみ、バーの止まり木のような椅子に、Tくんと向かい合ってすわった。

 なにを話したかは思い出せない。でも、とにかく、細くて長いテーブルなので、顔と顔はそれほど離れず、30センチほどの距離で向かい合っていたと思うが、やはりどこか気まずく、Tくんにしてもそれは同じだったのか、お互いに視線ははすに交差させ、Tくんはわたしの背後、わたしも彼の背後を見ながら話した。つまり、精神科にはいったとはいえ、彼の内面はまだわたしの予測の範囲内で動いていると思えていたわけだ。

 そんなとき、急に、Tくんがわたしのもっていった紙袋に手を突っこみ、りんごをひとつとり出して、なにもいわずにいきなり口を大きく開いてそれをがぶりとやった。

 少し、びくっとした。いきなり目の前のTくんが、わたしの予測の範囲を超えていた。

 帰りは、空気が鉛に変化していた。とにかく、体の内も、外も、なにもかもが重く、なにをどう考えていいかもわからず、ただとぼとぼと冷たい風の吹く歩道を歩いて帰っていた。

 そのときだ。

 号令のときが来た。

「トツゲキー!」という元気いっぱいの号令ではない。不意に、おなかの底のあたりから、つぶやくように、もうやめよう――という言葉がもれてきた。大学のことだ。このままだと、おれ、腐ってしまう、とも思った。

 といって、もちろん、脈絡のある言葉ではない。なにがどういけないのか、なにがどう腐ってしまうのか、そんなことはまったくわらかない。筋道だった思考をする能力をなくしていたときに、自分でも思いも寄らず湧いてきた言葉だ。ただ、その言葉が意味することは、浮かんだとたんにすぐに理解できた。

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by pivot_weston | 2011-10-22 06:46 | 自縄自縛

自縄自縛の愚かしさ(19)

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「いいよなあ、彼女がいるやつは」

 Tくんにかぎらず、いろんな友だちにそういっていた。でも、そんなに切実な言葉ではなく、話の合間の埋め草程度の意味しかもっていなかった。あのころ、わたしのいう「彼女」とは、大学生か、そうでなくてもそれくらいの年齢の女の子をさしていたのだろうが、毎日のように大人の女のにおいがぷんぷんするFさんやKさんといっしょに飲んでいると、たまに目にする大学生の女の子が、中学生になって小学生の女の子を見ているようにしか見えなかった。

 だからというわけではなかったが、大学生活が5年目に突入するときには、1年間、休学をすることにした。そう、12年卒業計画だ(たぶん、単位をくださった先生がたのおかげで教養部を3年で通過していたので、実際にはもうそんなに長く在学することはできなかったと思うが)。1年間はアルバイトをしながら自宅で技術翻訳の通信教育の勉強をして、少し仕事がもらえそうになったら、また学校に戻ろうと、相変わらず、現実を知らない子どもにしか考えることができないようなことをまじめに考えていた。

 わたしの仲間はほとんど留年経験者だったので、5年目になっても、いっしょに飲んだり話をしたりする顔ぶれが変わることはなかった。でも、わたしほどデタラメな仲間はそんなにいなかったので、Tくんをはじめ、ほかの仲間たちはそろそろ卒業へ向けて気持ちを切り換えようとしていた。

「合コンをやろう!」

 そんなとき、物理学科のWくんがいいだした。大学院進学をめざしていた仲間だ。

「おれも大学生のうちに一度やっておきたいんだ。なあ、やろうよ」

 まったく思いがけないことに、そんなことをいう。

 有名私学の出身で、いい暮らしをしていたし、見てくれも悪くなかったから、なんも、街へ行けば彼女なんていくらでも見つかるじゃないか――と思ったが、そこが、実質的には卒業の見込みだけでなく意思までなくしていたわたしにはわからなかったところで、「大学生」という身分でいるあいだに一度「合コン」をやっておきたいのだという。

 いまではすっかり若い人たちのあいだに定着した観のある「合コン」だが、わたしが大学生のころにはまだ「合同コンパ」とフルスペルでいっている学生も少なくなかった(あ、「コンパ」があるので、「フルスペル」というと「合同コンパニー」になるのかもしれないが、さすがにそこまでフルでいっている学生はいなかった)。女子学生の多い大学の事情は知らなかったが、女子学生の少なかった当時のわたしたちの大学では、これは市内の女子大、ないしは女子学生の多い共学大学の学生課か寮かどこかへ行って申し込みをし、応じてくれたそちらの女子学生のグループと合同でコンパを開くことを意味していた。

「なあ、やろうよ」などという切ない仲間の声を聞くと、チェッ、メンドくさいと思いつつも、応じるしかない。申し込みはだれがしに行ったか忘れたが(もしかしたら、わたしだったかもしれないが)、ともかく、そのWくんのたっての願いをいれて、ある夜、国分町のよく学生が利用していた店で、彼とわたしにもうひとりを加えた3人の男子学生と、別の共学校の女子学生3人がテーブルをはさんで向かい合った。

 チェッ、なんて思っていても、いざその場へ行って、「合コン」の名のもとに女の子と向かい合うと、どれどれ、と思ってしまうのが軽薄男の哀しいさがだ。髪の長い、どこかあの男女混合下宿のYさんを思わせる人がひとりいた。となると、こちらの注意はもうその一点。わたしは3人の男の右端。向こうは3人の女の左端。ドンピシャ、真正面だ。こりゃ、来てよかった、などと、さっそくそれまでとは正反対のことを考えだしたが、それがどうも、集中できない。左にすわった男ふたりのことはすっかり意識の外に捨てていたが、3人の女子学生のまんなかにすわっていた、小柄でちょっところころした人が、やたらとにぎやかだ。なにかいっては、ケタケタ、ケラケラ、なにかいわれても、ケタケタ、ケラケラと笑い、そのたびに、真正面に向かってアプローチをかけようとしているこちらの努力が唖然呆然の中座を余儀なくされてしまう。

 でも、まあ、そんなことではめげない。唖然呆然としたところで、ちらっと目の前の君と目くばせをし、騒いでいる子どもを見てあきれている大人のふりをしてにこっと笑うと、そのケタケタさんの妨害を逆手にとることができる。で、そんな感じで目の前の君とも少しはいい感じで話ができだしたころ、さて、そろそろ、ということになり、だれがいいだしたのだったか、「じゃあ、今日は男性軍がそれぞれ女性軍をお送りすることにしよう」ということになった。

 もちろん、よしっ、おれはこの人――と思い、目の前の君に「じゃあ……」と話しかけようとしたが、その前に、Wくんがその君に「たしか、あなたのお宅は……でしたよね。じゃあ、ぼくと方向が同じだから、ぼくが送っていきますよ」などと話しかけている。なんだよ、おい、それじゃあおれは……と思い、あとの3人を見まわしたら、すでに男の左端は女の右端と話が成立しているらしく、残った例の、ころころ、ケタケタ、ケラケラさんがこちらへ向いてにこにこしている。

 おい、やだよ、こいつ。おれ、こういうの、苦手。なんとかしてくれよ――という内なる悲痛な叫びはそのまま胸にとどめ、さっさと店を出ていこうとしていたWくんと「目の前の君」の背なかをちらっと見やってから、なんとも気乗りのしない声で「じゃあ、しかたない、行くか?」と、そのころころさん、ことDさんに、ため息交じりに声をかけた。彼女はにこにこしながらうれしそうについてきた。ったくモー、おれ、そういうのも苦手なんだよなあ――と、心はますますぶすぶすとくすぶっていく。

 昔の女性は「3歩下がって歩け」といわれたらしいが、このときのわたしは5歩下がって歩いたのではなかったか。途中でDさんがふり向いてなにか話しかけてきても、「ほらほら、いいから、いいから、前向いて歩け」と、イヌかニワトリでも追い立てるような相手のしかたをしたと思う。

 で、片平丁の彼女の大学とわたしたちの大学の本部のあいだの道にさしかかったときだ。あたりは暗く、ひっそりしていて、わたしたちのほかにはだれも歩いていなかった。

 不意に、Dさんがそれほど広くない車道のまんなかで立ちどまり、満点の星空を見上げて、両手をいっぱいにひろげた。

「ウオオオーッ、酔っぱらったぜ~ぃ、今日はぁ~」

 あたりの民家にこだますような声でそういった。

 もうがまんの限界。

「こらっ! いいかげんにしろっ! 女のくせに、なんだその言い草はっ!」

 ま、「女のくせに」をはじめとして、いまの時代ならいろいろと問題のある発言だったかもしれないが、ともかく、わたしは国分町の店を出るとき、いや、店のなかでDさんがケタケタ、ケラケラと笑っていたときから、たまりにたまっていたものを一気に吐き出した。

「ふぁ~い、すんませ~ん」

 Dさんは車道のまんなかに立ちどまったまま、少しうつむいて上目づかいにこちらを見ながら、そういった。悪さをして、怒られて、しょんぼりしながらおずおずと相手の顔色をうかがっているしぐさだ。

「ばかやろー。わかったか。ほら、行くぞ」

 わたしはそういって、今度は先に立ってつかつかと歩きだした。頭のなかに「目の前の君」を送っていくWくんの姿が浮かぶと、またよけいにむしゃくしゃしてくる。

 でも、足音が聞こえない。なんだ、あいつ、ちょっと怒りすぎたかな――と思ってふり返ると、Dさんはまだしょんぼりしたまま、車道のまんなかにうつむいて立っている。

「なにやってんだ、ほら、行くぞ。早くしろ」

 あらためてそういうと、ようやく彼女もとぼとぼと歩きだした。

 そのときはまだ、しょんぼりさせてしまったことを少し悪かったかなと思いかけていただけだったのだが、変化に気づいたのはいつだったか。あとでDさんは「あのときだった」といったが、変化したのは彼女だけではなかった。わたしの姿勢も、自分で気がつかないうちに変化していた。

 人の心は、自然に解放されているときには、自分で意識しなくても、相手とのあいだにある空気を敏感に感じとり、頭のなかではなにを考えていようと、そんなこととは別に、その空気に応じてフレキシブルにかたちを変えていくものなのだろう。恋愛にせよ、愛情にせよ、そういうものは片側の気持ちだけでは成り立たない。成り立たせてはいけない、といういいかたもできるかもしれないが、それ以前に、まず成り立たない。おそらく、先に変化したのはDさんだったのだろうが、その変化がふたりのあいだの空気に伝わり、その空気の変化がわたしに伝わり、そこでわたしのなかで起こった変化もまた空気を介してDさんに伝わり……という、暗黙のうちの交信があったのだと思う。

 片平丁を抜けて、広い国道4号線に出て、荒町の交差点に立ったとき、最初のわたしのスタンス「5歩うしろ」は「1.5歩前」くらいに変化していたか。国分町の店を出たときには、そのあたりで「じゃあな」といって引き返そうと思っていたのに、交差点をすぎてもずんずん歩いて荒町にはいっていき、そのときには、ほぼ横ならびになっていて、彼女もわたしがいつ引き返すか気になってきたのか、しばらく歩いているうちに、ちょっと横を見上げて、また少しおずおずした口調で「あのさ……うちまで……来る?」といい、わたしも「ん? うん……いいよ」と返事をした。

 あれほど人に対する印象が劇的に変化したことはなかった。うるさくて、騒がしくて、どうしようもないワガママ娘のように見えていたDさんが、気がつくと、こちらの胸に肩がぶつかりそうなところを歩いていて、しかも、それをいやとも思わない、というか、むしろ、もっと近づけたい、いや、いっそのこと、くっつけてしまいたいと思うようになっていた。

 そして、それからもえんえんとまっすぐに続くその道を歩き、当時の仙台の市街地の東のはずれにあった彼女のアパートまで行き、わたしの部屋などとは違い、所狭しといろんな家具がつまったその部屋で、彼女が次から次へと出してくる昔の写真を見せてもらった。高級クラブのホステスのFさんやKさんと会ったときとも、Tくんのアパートへ行ったときとも違う、また別の新しい世界が思いも寄らず開けていた。

 帰ったのは朝。だれもいない歩道のバス停にひとりで立っていて、遠くから始発のバスが見えてきて車道に歩み寄ろうとしたときには、ひんやりとした風がセーターのなかまではいってきて、そこに残るあったかい夜の記憶をよみがえらせてくれた。

 快哉を叫びたい気分がなかったとはいえない。埋め草程度の意味しかなかったとはいえ、たえずいろんな仲間に「いいよなあ、彼女がいるやつは」といっていたわたしにも、とうとう「彼女」ができたのだ――そう思っていた。

 でも、話はそう単純には進まなかった。Dさんのようすが変だった。あの夜は、口ではとくになにもいわなくても、自然とふたりの気持ちが近づいた。だから、これからはそのふたつの流れがますます近づいて、そのままひとつの流れになっていくのだろうと思っていたのだが、わたしがそう思って全開状態にしていた空気センサーでは、その、Dさんの流れが近づいてくる気配が感じとれなかった。

 そして、告白。おそらく、最初は5歩も6歩も遠ざけて、近づいてこようともしなかったわたしがころりと一転し、逆に積極的に近づいてこようとしたものだから、それがプレッシャーになったのだろうが、あの夜からほどなくして、あるとき、彼女が苦しそうに顔をゆがめて「実は、わたし、決まった人がいるの」といった。

 最初は「ワガママ娘」のようにしか見えなかったDさんの印象がどんどん変化していた。その告白をしたときのDさんの表情は「大人」に見えた。内面で、まだわたしの味わったことのない苦しみをかかえ、葛藤しているのが見てとれた。だいたいにおいて、男女のあいだとはそうしたものなのだろうが、あの夜、国分町の店では、「目の前の君」といっしょに騒がしい子どもを見るような目で見ていたDさんが、実はわたしよりもはるかに大人で、逆に「こらっ!」などと、えらそうな口をたたいていたわたしのほうが、ひと皮むけば子どもそのもの――という構図が浮かび上がってこようとしていた。

「わたし、決まった人がいるの」といわれれば、うっと一回息をのむくらいのことはあってもいいが、あとは「なんだ、そうだったのか」程度にとどめ、ははと笑って余韻を残してDさんの前を立ち去るくらいのことができればいい。そして、現に、そこまではできた。ところが、その「立ち去った」状態を持続することができない。

 Dさんのアパートとは正反対の、当時の仙台市街の西寄りにあった自分のアパートに帰っても、わたしはずっとDさんの香りのなかにいた。そして、なにやかやと気のまぎれる昼間はともかく、夜になると、その香りが意識のなかでやたらと鮮明になり、そちらにばかり気持ちを向けているうちに、気がつくと、足が歩きだしていた。

 学生が電話などもっていなかった時代だ。そうして歩きだす前に、わたしの部屋から事前に連絡することなどできない。そもそも、夜、男が若い女性のアパートへ予告もせずに訪ねていくこと自体がアウトだが、それに加えて、行ったらその「決まった人」がいる可能性もある。だから、歩きだしたものの、気持ちのなかでは、自分の足にとまってほしいと願う。でも、とまらない。

 懐疑する気持ちも浮かんでくる。わたしはそもそも「恋愛なんて」と思っていた。もしかすると、第3話に書いた、同級生に書いたラブレターを学生服のポケットにしのばせていたわたしに「子どもがこんなことをするでない」と説教をしたおじいさん先生の影響も少しはあったかもしれない。あのときまでは、「おとなしい」「おとなしすぎる」といわれながら、その実、わりあい伸び伸びと、というか、むしろ人一倍伸び伸びと、人でも、ものでも、なんでも好きなものは好きだといえていたような気がするが、あの、小学生時代のある日のなにげないできごとのあと、そういう自分の伸び伸びとした心の動きをいちいちチェックする自分ができていた。

 もちろん、だからといって、わたしまでが「子どもがこんなことをするでない」と思うようになっていたということではない。当然、なんでいかんのや――という疑問は胸のなかに鮮明にあった。でも、それでは鮮明に反抗するようになるのかというと、子どもの気持ちというのは複雑で、その疑問を秘めたまま、表面では「男女7歳にして席を同じゅうせず」の時代のうわっつらだけの倫理観に合わせ、たえず自分の自然な心の動きにいろんな制約を設け、言い訳をつけて正当化するようになっていた。

 だから、このときも、まずわたし自身からして、Dさんに対して湧いてくる自然な衝動を、はい、どうぞ――と素直には認められなかった。「こんなのは、ほんとうの恋愛感情とはいえないのではないか」という疑問が湧いてくる。なにより「決まった人がいるの」といいだしたDさんの心の壁が、わたしの気持ちがひとりよがりなものであることの証左のようにも思えてくる。自分の頭のなかでいろんな感情の整合性を見出せなくなり、なんか、楽に合理化できる方向をさがした末に、「おれは人間的な感情なんてもっていない男だよ」などとうそぶいていた男には、自分の内部からとめどないほど湧き出してくるものも「ひとりよがりな」ものであれば、認められないものになってしまっていた。

 それで、仙台の中心街をすぎ、片平丁の大学のキャンパスの芝生を突っ切っていくころには、このときの自分の心の動きについてしきりに自問自答を繰り返していた。最初は、自分の気持ちがほんとうに恋愛感情とはいえないものであることがはっきりしたら、そこから引き返すのだぞ、と自分と約束してはじめた自問自答だったが、そうしていつまでやっても結論が出ない自問自答(逆にいえば、結論なんて、最初から出ていて、まったくやる必要のなかった自問自答)を繰り返しながら、ろくに周囲の景色も見ずに歩いていくうちに、気がつくと、仙台の街を西から東まで横断していて、Dさんの部屋の前に立っていた。

 もちろん、窓のすりガラスの向こうに出てきたDさんのシルエットからの返事は、「ごめん、帰って」。したかない。また、とぼとぼと夜の街を歩いて帰る。しかし、また次の日も夜になると、自分をつつみこむDさんの香りに狂おしいほどにひきつけられ、仙台の街を横断し、またその次の日も……。

 まさに、Dさんとわたしのあいだで「大人」と「子ども」の役どころが逆転していた。だから、さすがのわたしもこのままではいけないと思い、もう行かないと決意をし、毎晩の恒例行事になりかけていた仙台市徒歩横断を中止した。

 だが、そうなると今度は、2、3日、アパートにこもって切ない思いをかみしめているうちに、ドアをとんとんとノックする音がする。だれだ、新聞屋さんかと思って、ドアをあけると、そこには、ケタケタ、ケラケラ笑っていたときとはまるで違う、こわばった表情のDさんがうつむいて立っていた。そんなDさんの姿を見て、先を見越して、なによりその人にとっていちばんいい方向を考えてやれる大人なら、そのいとおしさがどんなにどんなに大きくふくらんできても、それでもさらにそれ以上に自分の胸を大きくふくらませて、そんな気持ちをそのなかに押しとどめ、「なんだ、来たのか。ありがとう。でも、もうやめとこう。な、今日はもう帰れ」というくらいのことがいえたのだろうが、あのときのわたしは、そういおうとしているうちに、あれだけケタケタ、ケラケラと笑ってばかりいたDさんの顔にいまにも泣きだしそうな表情がのぞくのが見えたりすると、もう一も二もなくいとおしくなって、ドアを大きく開いて迎え入れてしまい、またもとの状態に戻ってしまった。

 そんなことを何度繰り返しただろう。何度繰り返しても、お互いに、また繰り返してしまう。

 そんな時期だった。

 いつも以上に飲む酒の量もふえていただろうか。ある夜、また5、6人の仲間といっしょに「小玉」で飲んでいた。店のなかはいっぱい。わたしはカウンターに向かってすわっていたが、仲間のうち何人かはすわれずに、立って飲んでいた。わいわい、がやがや。だれがなにをいっているのかもよくわからないくらいに酔客の声が交錯していた。

「オーニシーッ!」

 いきなりその空気を突き刺すように、鋭い声が背後から飛んできた。

「え?」と小さな声をもらしてうしろをふり返ると、立ってわいわいがやがやとやっている仲間たちの向こうに、Tくんが立っていて、こちらを向いて切れ長の目をにこにことなごませていた。

「おまえー、書いてるかー?」という。

「え?」

 言葉の意味は理解できたが、それが、このときのわたしにとって、どういう意味をもっているのかというところに、すんなりとは理解できない戸惑いを感じた。

 たとえば、だれかがTくんに「おまえー、書いてるかー?」といえば、その意味するところは明らかだ。彼は文学者だった。劇団のリーダーも務め、芝居の台本も書いていた。でも、わたしは……はた目には、学校にも行かずに毎日FさんやKさんと飲み歩き、まあ、Tくんとも仲良くしていたとはいっても、文学に、哲学に、演劇に、大学生らしく打ちこんでいる彼のまわりをチョロチョロとついて歩いているだけの学生くずれにすぎなかった。いや、実は、5回くらい引っ越しに引っ越しを重ねた自分の部屋では、1年生のころからずっと原稿用紙に向かい、社会学の細谷先生に送ったような益体のないマックロクロな文章を書いていたのだが、そんなことは、いっしょに「日本一の芝居」を唱和したTくんにだって話したことはなかったし、こうして「おまえー、書いてるかー?」の声をかけられても、まだ話したくない、というか、話していいレベルのこととは思えなかった。

「え? え? 書いてるかって、なにを?」

 しかたなく、そういう文脈に自分の返答をもっていったが、Tくんのほうは「おまえー、書いてるかー?」といったきり、なにもいわず、ただわいわいがやがやの向こうでにこにこと笑っている。

 それで、首をかしげるかなにかして、うつむいて、Tくんの言葉をもう一度頭のなかで反芻したときだ。胸のなかに、奥のほうからなにかすさまじいものが押し寄せてきた。

 書く? 書く? そうか、そういう選択肢があったのか! おれ、書くことをめざしてもいいのか! なんだ、おれ、書きたい、といってもよかったのか!

 なにか、わたしにとっては、とてつもない大発見のように思えた。でも、なんでこんなことが大発見のように思えるのか?――そう思ったとたん、今度は第3話に書いた、木に登る芥川さんの映像が頭のなかによみがえってきた。そして、田んぼのなかでだれかに「文学なんぞ、女のするもんぞ。小説なんて、おれは絶対に読まん」といったときの光景も追いかけてくる。Tくんのちょっとした言葉と、みんなわかっているんだよ、とでもいいたげににこにこと笑う顔を呼び水として、わたしの頭のなかには、それこそものの数秒か長くとも十数秒くらいのうちに、それまでに経てきたいろんな場面の光景がものすごい勢いで次から次へとよみがえってきた。

 そうか、そうか、おれはこれまでずっと、自分にある特定の生きかたを禁じてきたのか? だから、だれだって、どんな生きかたをしようと自由なはずなのに、「そうか、そういう選択肢があったのか」などと思ったのか――ようやく、それを明確に理解することができた瞬間だった。

 Tくんは、その後も、自分が口にしたその言葉のことは、いっさい話さなかった。おそらく、たえずいっしょに飲んだりなにかしているうちに、わたしの言動からなにかの気配を嗅ぎとっていて、その一方で、毎日ただ飲んだくれるだけででたらめな生活を送っていたわたしのことをなんとかしてやらなきゃいけないという思いも頭をもたげてきて、出た言葉だったのだろう。わいわいがやがやのなかで、ただそのひとことだけ、まったくあの場の文脈を無視して、いきなり飛び出し、そこでピリオドを打った言葉だった。

 ちょうど、Dさんに対するやりきれない気持ちを、詩、らしきものに書いていた時期だった。だから、後日、わたしにきわめて重要な光明を投げかけてくれたと思ったTくんを、今度はわたしのアパートに誘い、その詩、らしきものを読んでもらったこともあった。少しはなにか、手がかりのような言葉をかけてもらえるかと期待もしていた。でも、Tくんの口から出たのは、「はは。おまえの言葉だな」のひとことだけ。ま、どちらに向かっても才能の感じられない男ではあった。でも、間違いなく本能だけはあるんだ――徐々にではあったが、そう思えるようになってきたころだった。

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by pivot_weston | 2011-10-14 04:29 | 自縄自縛

自縄自縛の愚かしさ(18)

(これは不定期連載でお届けしている記事です。流れがわかりにくい場合は、「自縄自縛」のカテゴリの過去の記事を参照してください。)

 所属していたサークル、園芸部にTくんという同期生がいた。

 文学部――ただそれだけで、第3話に書いたように、10代のはじめから「文学なんぞ、女のするもんぞ。小説なんて、おれは絶対に読まん」といっていたわたしは、あ、こいつとは関係ない、と思っていた。入学したころの話だ。

 文学部のなかでもとくに「文学部くささ」を強く感じさせる男だった。ベレー帽かなにかをかぶり、黒いビロードのジャケットを着て、その襟の内側ではなく、外側に巻いた白いストールを足の爪先あたりまで垂らし、端正な細面の顔の前に垂れてくる長い髪をかき上げながら、文学拒絶症だったわたしにはまったくチンプンカンプンな外国の文学者かだれかの名前を口にし、話をはじめると、そのすばらしい滑舌と通りのよい声で一気にその場にいる人たちの心をつかむのだが、話の中心にいないときには、ふと見ると、愁いを帯びた表情を浮かべて虚空を見つめていたりした。

 印度哲学科に所属する演劇青年、ある市民劇団のリーダーでもあった。

 そんな外見や外的条件がよけいに強く「文学」のにおいを感じさせたものだから、あんなやつには絶対に近づかないと思って、最初のころはサークルのコンパやなにかがあって見かけても、話をすることはおろか、近くへ行くことすらなかった。

 前号に登場した高級クラブのホステス、FさんとKさんのことも、最初は「まったく無縁の人、まったく別世界の人、のように思えた」と書いた。当然といえば当然だろう。実社会との接触を断って、ひとりでひきこもるのは、自分と同じ世界の人をひとりもいなくする行為だ。だから、そこから抜け出すときには、まずもって、世のなかの人全員が「別世界の人」になっている。下北半島まで雪のなかに寝ころがりに行ったわたしを泊めてくれたОさん兄弟も、その帰りにふらりと立ち寄った不思議なラーメン屋のおばさんも、仙台に帰って雇ってもらった「バラ」の大将と弟さんも、そこの仕事の帰りに「ネエ、チョット、アソンデカナイ」と声をかけてくれたおねえさんも、わたしからカメラを奪った前科×犯の詐欺師のKさんも、次のアルバイト先の売店の周辺に出没したおんちゃんも、海洋物理学教室の先生や大学院生のみなさんも、ひと晩、わたしの膝で泣き明かしたYさんも、さらには、タイピスト学校の先生のSさんだって、みんなみんな、わたしがひきこもっていたときには「別世界の人」だった。それが、こうしてひとりひとりの人と出会い、行き来をするうちに、いつのまにか同じ世界の人、というか、とりたてて意識することのない人に変化していた。

 たぶん、そういう「ひきこもり」からの脱出のプロセスのなかで、入学直後に早々と「別世界の人」と決めつけていたTくんに対する認識も、知らず知らずのうちに変化していたのだろう。FさんやKさんと夜ごと飲み歩くようになったころ、なにかの席でたまたまTくんといっしょになると、かつては「絶対に近づかない」と思っていたことなど忘れて、こちらから話しかけ、してみると意外にも、それまで颯爽としていて「別世界の人」のように思えていたTくんにも、どこか自分と同じようにどんくさいところがあるような気がして意気投合し、それからはちょこちょことふたりで会っていっしょに飲むようになった。

 そんなTくんが、あるとき、「おい、おまえ、おれのアパートに遊びに来ないか?」といった。

 わたしは無自覚に、自分のまわりでひとりひとりの人が「別世界の人」から「とりたてて意識することのない人」に変化していくプロセスを体験中だった。そんな、無自覚に身をさらしていた流れの水の感触に、ふとあらためて意識が向かった瞬間、とでもいえばいいのだろうか。そういわれた瞬間、なにやら不思議な気分になった。

 おれがTくんのアパートへねえ……。

 もちろん、下北のОさんのお宅に泊めてもらったのからはじまって、例の男女混合下宿へも頻繁に通っていたし、Fさんのマンションにも泊めてもらっていたくらいだから、このときにはもう、他人の住まいにおじゃまするのはまったく抵抗なくできることだったのだが、その、自分がTくんの部屋へおじゃまするという構図をあらためて頭のなかに思い浮かべてみると、なにやら不思議な気がしてしかたがなかった。「ひきこもり」から抜け出そうとしてから無自覚に自分が歩いてきた道をはたとふり返って見たのだろうか。たまに愁いを帯びた表情を見せることがあるとはいえ、そうでないときは颯爽としていたTくんと、いつまでもあか抜けない自分を内面のどこかで意識していて、とても颯爽としているとはいえなかった自分。もしかすると、そもそもわたしをひきこもらせる原因になっていたのも、そういう比較から生じた強い劣等感だったのかもしれなかった。

 ひとりで部屋にひきこもってテレビや新聞ばかり見ていると、自分と他者との違いばかりが意識されてくる。「生身の人間」として見えるのは自分だけで、テレビや新聞を通して見えるのは、世のなかの人たちの「颯爽とした一面」や「きれいな一面」でしかないのに、ついついそれを「生身の人間」の自分と比較してしまう。そうすると、そもそも「生身」と「一面」ではフェアな比較になどなりようがないので、どんどん自分の点数ばかりが落ちていき、いつのまにか、自分はああいう人たちとは違う、ああいう人たちのようにはなれない、ああいう人たちとは別世界の人間だと思うようになっていく。

 そういうプロセスで、あか抜けない自分と不可分の関係にあるものとして強く意識させられていたもののひとつに、よどんだ空気があった。ひとりで部屋にこもっていると、どうしても自分の吐いた息のぬくもりやにおいのようなものがそこに滞留してきて、それがあか抜けない自分の一部として強く意識させられるようになる。たしかに、それは自分の一部に違いないのだが、だからといって、ほかの人にはないものかというと、そんなことはない。だれもがもっていて、みなひとりひとり違うものだから、そんなものを強く意識して、人と交わるのをためらったりしていたら、人間はみんな、ひとりひとりばらばらに暮らすしかなくなる。それなのに、いったん強くいだいたそういうものに対する意識はなかなか拭えるものではなく、実は、このころ、例の「不思議アパート」から、当時の学生の住まいとしてはぜいたくだった「新築のアパートらしいアパート」に移ったのも、そんな、自分にへばりついているものを思い切ってきれいさっぱりと払拭したい気持ちもはたらいてのことだった。

 そうして、住居を変えてまで、まだしつこく自分にまとわりついてくるものをなんとかこそぎ落とそうとしていたわたしに、かつてはそういうものとは無縁のように思えていたTくんが「おれのアパートに遊びに来ないか?」といっていた。

 もしかすると、Tくんの部屋には空気のよどみのようなものがないのではないか、という思いこみが、まだわたしの頭のなかにはあったのだろうか。彼が住んでいたアパートの建物についたときに、お、なんだ、ふつうのアパートじゃないか、と思ったことと、部屋のなかまではいったときに、ほのかに、かつてのわたしの部屋にあったような空気のよどみを感じ、ほっとして、なにやら伸び伸びした気分になったのをおぼえている。

 いまからふり返ると、当然のことだ。そんなものはだれにもあるもの、という以前に、Tくんは、外でどんな「なり」をしていようと、どんな言動をしていようと、劇団に所属し、その劇団がやる芝居の台本も書いていた。部屋でひとりで沈潜し、自分の内面と葛藤していた時間があったはずだ。そんな生産的な沈潜のしかたではないにしても、同じように沈潜していたわたしの部屋と共通するよどみがあるのはあたりまえのことだったのだ。

「ま、すわれ」そういったTくんは、すぐにうしろをふり返り、「あのさ、あのさ、この前、こういうのを書いたんだ。ちょっと読んでくれないか」といって、いきなり紙の束を差し出してきた。方眼紙の目を大きくしたような罫線がはいった紙に、ぴんぴんと飛び跳ねるような個性的な文字で、新しい芝居の台本が書いてあった。

「この前、徹夜で書いたんだ。それがさ、朝まで一睡もせずに書き上げたら、ちょうど窓をあけたときに、空からはらはらと雪が舞ってきたんだ。わかるか、おまえ? 徹夜して、朝まで書きつづけて、さあ、できたと思ったときに、窓をあけたら、雪がはらはら、だぞ」

 細面の顔の、切れ長の目を、これ以上は無理というくらいに輝かせていう。

 そうか、奇跡の傑作とでもいいたいのだな。そう思ったが、残念ながら、このときのわたしには、読ませてもらってもそれがいいかどうかを判断する能力がないような気がした。でも、そう思って原稿に適当に目を走らせていたら、「なんだ、ほら、ちゃんと読んでくれよ。な。けっこうよくできていると思うんだ。ほら、読んでくれよ、な、ほら」と、その傑作をなんとかわかってもらおうとするTくんの言葉がかぶさってきて、そのつどちらちらと原稿に目を走らせているうちに、どういうわけか、わたしもTくんの発散する空気に飲みこまれたように、とても自由で高揚した気分になってきた。

 人間のなかには、自意識の強い人とそうでない人がいる。そうでない人から見ると、自意識が強い人の自意識は迷惑千万なものなのかもしれないが、自意識が強い人にとって、それを抑えつけておくのはとても窮屈な思いがするものだ。そういうときには、それを心置きなく表現し、発散したほうが、結果的には「そうでない人」にかける迷惑も少なくすることにつながる。

「な、おれは日本一の芝居をつくりたいんだ。つくれると思うんだ。どうだ、おれたちでいっしょに日本一の芝居をつくらないか?」

 Tくんがそういいだしたときには、即座に「おお、やろう!」と答えたい気分に襲われたが、まだその段階では、その衝動の意味に気づいていなかったので、いったんは「え……うん……そうか」と答えて、ははは、と意味もなく笑った。だけど、そう答えたときに、内面でなにかはっきりと手ごたえのようなものがあり、おお、これじゃないのか、おれに必要だったのはこういうことではないのか、こういうときに自分がいいたいことをはっきりということではないのか、と思えたものだから、Tくんがもう一度、「なんだ、どうした? いいよ、いいよ、いっちゃってもいいと思うんだ、おれたちがこういうことをいっちゃっても。だから、いっちゃおうぜ。おれたちで日本一の芝居をつくろう。芝居で天下をとろう」といってきたときには、待ってましたとばかりに、「おお、とろう。日本一の芝居をつくろう」といってしまった。

 なんともいえぬ爽快感があった。ずっと胸のうちにたまっていたものを、一気に吐き出せたような気がした。

 あとはふたりで、2匹のカエルが向かい合って合唱するように、

「おう、日本一だっ!」

「よしっ、とろう!」

 の連呼だ。

 おかしかった。まだ日本の文化や演劇の中心とされている東京に出ていってもいなかったふたりの名もない若僧が、東北の片隅のアパートでしきりに声を張りあげ、「日本一」の言葉を口にしていた。そのおかしさは、頭のなかではわかっていたのだが、このときは、ずっとずっと自分が口にできずに抑えていたたぐいの言葉をついに口にすることができたような気分になっていて、もやもやしていたものが一気に吹き飛んだような爽快感があったので、わたしもTくんといっしょに、思う存分に自意識の発散大会をさせてもらった。なにか、自分の気持ちがどんどん自由に、素直になっていっていくような気がした。

 で、いっしょに「日本一」の唱和をしていたTくんがいった。

「おまえもうちの劇団にはいらないか。来週、稽古があるんだ。みんなで“本読み”をする。来ないか」

 実は、わたしも大学にはいる前から、機会があったら芝居をやってみたいという気持ちをもっていた。大学には、入試を受ける前からほぼ九分九厘、合格する自信があったが、万が一、落ちたときには、わが家に浪人をする余裕がないことはわかっていたので、かりに落ちるようなことがあったら、東京の劇団にでも入れてもらって、アルバイトをしながら役者を目指してみようかと思っていたこともあった。

 結果的に、あとから考えてみると、Tくんは「別世界の人」などではなく、逆にわたしととてもよく似たところをもった人だったのだと思う。ふたりとも、それぞれの考えがあって、まじめでおとなしい学生たちが集まっていた園芸部に所属していた。そして、どちらもそのサークルの状況に物足りないものを感じ、Tくんはほとんど顔を出さないかたちでその物足りなさを表現し、世慣れしていなくて行くところがなかったわたしは、よく部室でほかの部員とトランプやなにかをして時間をつぶしながら、ときおり、なにかもやもやしたものを感じると、急にひとりで黙々と草とりのようなことをして、そうした現状への不満のようなものを表現していた。

 どちらも自意識が強いことは強かった。でも、あの時期に田舎の片隅で「日本一」を叫んでいた人など、いっぱいいただろう。なにしろ、ヘルメットをかぶって学生運動をしていた学生のなかには「世界同時革命」を叫んでいた連中もいたくらいだから。

 わたしにとって問題だったのは、自意識などではなく、したいことをしたいといおうとしていなかったことだろう。わたしは、意識のなかでは、ほんとうに「文学なんぞ……」と思っていた。でも、ほんとうに正直なわたしの気持ち、というか、本能のようなものは、そうではなかった。

 子どもは妙に正直、というか、素直だ。外的な要求に直面し、頭のなかでわずかな人生経験をもとに、こうしたほうがいいかなと思ったことや、しなければならないと思ったことがあれば、そのとおりに行動する。だが、その素直さがゆえに、ときによっては、自分の本能に素直ではなくなることがある。自分の内面の奥深くに眠るもの無視し、むりやりそれを上書きするようなかたちで、自分の行動を決めたりすることがある。そうなると、今回の大震災を引き起こした地殻運動のようなものが起こってくる。プレート、つまり本能は一定の方向へ向かってギシギシ、ギシギシと動いている。そのうえにのっかって、地表の均衡やバランスを保つという役目もにない、そうそうプレートの動きにばかり合わせていられない陸地、つまり日本列島のほうは、なんとかそのプレートの動きに抗してそれまでどおりのバランスを保とうとする。だけど、それには必ず無理が生じる。そして、その無理がいよいよ耐えられないレベルに達したときには、パリンと破断点が訪れる。

 わたしの陸地は、この夜、プレートの動きにのっかって、大きな地震の予兆ともいえる小さな破断を起こしていた。

 もっとも、Tくんから誘われた「芝居」に関しては、1回稽古におじゃましただけで終わった。頭のなかでは、やってみようか、と思っていたものの、実際に台本を読んでみると、感情をこめてそれを読むことなど、とうていわたしにはできなかった。それで、その稽古のときにも、途中からは「おい、ちょっと、これからはト書きのところを読んでくれないか」といわれ、みんなが感情をこめて登場人物のセリフを読むなかで、ひとりだけ感情のこもらない声でぼそぼそとト書きの部分を読んでいたら、稽古が終わったときに、みんなから「いやあ、おまえのト書きはうまいな」「最高だよ」と、おほめだかなんだかわからないような言葉をいただいた。要するに、わたしの芝居の才能はそこまでだった、ということだ。

 Tくんの部屋におじゃましたのも、結果的にはこのとき1回こっきりだったか。別に、芝居がうまくできなかったからといって、さっそく仲たがいをしたわけではない。芝居はうまくできなくても、いったん入れてもらった劇団を抜けることはなかったし、Tくんとも、このときを機にますます行き来が頻繁になった。ただ、彼には、このときつきあっている女性がいた。たしか、彼が書いてわたしに読ませてくれた新しい台本も、その彼女をモデルにしたものではなかったか。だから、彼とはその後もたえずいっしょに飲みながら、ふたりのじゃまをしてはいけないと考え、「いいよなあ、彼女がいるやつは」といってうらやむだけで、もう彼の部屋に行くことはなかった。

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by pivot_weston | 2011-10-07 07:04 | 自縄自縛

自縄自縛の愚かしさ(17)

(これは不定期連載でお届けしている記事です。流れがわかりにくい場合は、「自縄自縛」のカテゴリの過去の記事を参照してください。)

 人生で、あんなに驚いたことはなかった。

 午前2時ごろだった。

 いつものように「小玉」のおばさんのところで飲んでいた。

 カウンターひとつの店だ。そのカウンターに向かってならんでいたわたしたちのすぐ背後で、がらがらと入口の戸が開いた。

「こんばんは~」という女の人の声がした。「お、いらっしゃい」というおばさんの声も。

「おれおれ、そっち寄れ」立ち上がって、横で飲んでいた仲間たちにそういい、新しいお客さんがはいれるように、席をつめさせようとした。

 顔を上げたら、暖簾をくぐってはいってきた新しいお客さんの顔と鉢合わせした。そして、そのまま、わたしはフリーズした。

「おつかれさん」とかなんとか、おばさんのいう声がしている。

 はいってきたお客さんはそちらへ向いて目尻をなごませ、目の前でフリーズしているわたしのほうへ向いても目尻をなごませた。

「な、なんでっ!?」という絶叫口調の声が、わたしの第一声だったか。次に出てきたのは「な、なんで? こんなきれいな人が……」だったか。

 いや、ご本人を前にしていうのは失礼な言葉だったのだろうが、まさに「完璧だ!」と思った。大原麗子さんとだれかをミックスしたような顔。カウンターひとつのおでん屋の明かりのもとでも、きらびやかに輝いている着物。そして、一糸乱れず――というか、一本乱れずきれいにセットされた髪……。

 それが、ほんとうに一本も乱れていないのだろうかと確認したい気持ちになり、フリーズしたまま、その新しいお客さんの髪のはえぎわのあたりを不躾にもじろじろと見ていると、背後から「オーニッさん、そこに立ってたら、はいれないよ」というおばさんの声がして、また目の前の人がクスッと笑った。

「ああ、どもども」といって、わきに寄りながらも、まだ納得がいかない。こんなきれいな顔の人がこの地球上に存在していることが納得いかない――という思いで、もぞもぞと止まり木をずらしてすわろうとしていたら、その人の背後からもうひとり同じような人がはいってきて、「こんばんは~」といった。

 え、どーなってんだ、これは?――という思いだ。わたしは「小玉」の常連客だった。知らないお客さんはいない、という自負のようなものが、どこかにあった。それなのに、はじめて見る人たちがはいってきて、おばさんと親しそうに話をしていて、またその人たちが……。

 FさんとKさんとの出会いだった。姉妹だ。ふたりとも、仙台では名の知れた高級クラブのホステスさんをしていた。貧乏学生とはまったく無縁の人、まったく別世界の人、のように思えた。それが……。

 実は、その高級クラブと「小玉」は無縁ではなかった。わたしも、そのクラブのことを、店名ではなく、ほかの「小玉」の常連客、「タカオくん」と「タッちゃん」の勤め先といわれていたら、「ああ……」とすぐに頭のなかで整理することができていた。

 遠くから近づいてくる汽車の音のように、どこかからかすかに「バブル」の足音が聞こえていた時代だ。「小玉」にも、いずれ大きく飛躍することを夢見て、クラブで蝶ネクタイを締めてはたらきながら、夜ごと、仕事がハネてから、ひとときの安らぎを得るために通ってくる若者たちがいた。その夜はたまたま、タカオくんもタッちゃんも来ていなかったが、わたしが「この世のものとも思えない」第一印象を受けた美人ホステス姉妹、FさんとKさんは、どうやら最初は、そんな若者、タカオさんとタッちゃんにつれられて来たらしく、その夜が2回目にあたっていたようだった。

 しかし、いきさつがどうであれ、「この世のものとも思えない」人たちと狭いカウンターに向かってならんですわっているのはどうも落ち着かない。いちおう、わたしはわたしの仲間たちと、FさんとKさんはおばさんと話をしていたが、最初にあんぐりと口をあけたままフリーズして通せんぼをして「クスッ」の笑いをとっていたこともあり、ちょこちょことお姉さんのFさんがこちらにも話しかけてくれるのだが、なにをいわれても硬直して「あ、はあ……」くらいしか答えられない。

 でも、そのうち、なにかのはずみに「猫」の話をした。

「あら、おにいちゃん、猫飼ってんの?」と、とたんにFさんがそのちらりと出した話題の尻尾を踏んづけた。

「あ、はあ……まあ……」そう、このころ、例の「不思議アパート」から新築のアパートらしいアパートに引っ越していたわたしは、ベランダにぴょんと飛びこんできたときに餌をやった縁で、茶色いトラ猫と同居していた。

「わあ、『猫のおにいちゃん』だあ~。わたしも飼ってるのよ~」というFさんのひとことで、以来、わたしはその名で呼ばれるようになった。

「飲も飲も、はい、『猫のおにいちゃん』、飲んで」

「ほら、はい、『猫のおにいちゃん』、飲も飲も」

 Fさんがそういうたびに、わたしはぐいぐいとおちょこの酒をあおった。

 で、2回目に会ったときだったか、その夜はタカオくんもタッちゃんもいたものだから、飲んでいるうちにFさんが「うちに行こうか。うちの猫、見せてあげる。みんなで鍋でもつつきながら、また飲も」といいだした。みんな「オーッ、いいね、いいね、行こ行こ」。

 Fさんの自宅は繁華街から少し離れたマンションの何階だったか。はいると、広いリビングがあり、その中央に大きなコタツがあって、妹のKさんばかりか、同僚のタカオくんとタッちゃんも、何度も来たことがあったのか、さっさとそこに足を突っこんでいく。

 じきに、コタツの上にコンロが出され、Fさんが大きな鍋をはこんできて、また宴会がはじまり、最後は第13話に書いた男女混合下宿のクリスマスパーティーのように、コタツのまわりに、ひとり、またひとりと平たくなった。

 それが、はじまり。

 以来、毎晩毎晩、同じようなことが繰り返され、気がついてみると、その夜のように事前にわたしが「小玉」で飲んでいて、仕事が終わって来たFさん、Kさんと合流し、朝まで飲むのが日課になった。

 主導権はすべてFさんに一任。2日、3日と同じことが重なっていると、いつもいつも自宅じゃナンだ、ということになったのだろうが、しだいに外で飲むことがふえてきて、勤め先のお店の板さんなども紹介してくれた。で、みんなで飲んでいると、けんか早かったわたしがなにかで急に腹を立てることがある。でも、そういうところも、人の心をつかむのがお仕事のFさんにはとうにわかっていて、わたしが「ナンダ、コノヤロー、モイッペンイッテミロー」の「ナ」の音を発するか発しないかのうちにFさんの手がわたしの口の前に伸びてきて、「飲も飲も、おにいちゃん、飲も飲も」「ほら、飲むのよ」という言葉がかぶさってくる。

 なんだったのだろう、あれは。

 見た目もなにも、貧乏学生そのもののわたしが、夜ごと仙台随一の高級クラブのホステスさんたちと飲んでいた。というか、飲ませてもらっていた。それまでは毎晩いっしょに飲んでいた学生たちも、そんなふうになってみんなで「飲も飲も」の合唱をしているわたしたちを、遠くからとろんとした眼差しでながめているようになった。

 お色気方面に気持ちを向けるのはなし――それがわたしたちの鉄の規律で、当時はまだ、あたりかまわず欲望をぶちまけかねない状態にあったはずのわたしも、Fさんがときどき唐突にいう「いい、お色気はなしよ」の言葉を聞くと、「わかってらい、そんなことは。さ、飲も飲も」と返していた。

 わたしはまだまだ視野の狭い若僧だったので、おもに思考は自分のほうへ向かう。どうしてこの人たちはおれに飲ませてくれるのだろう。どうしてこの人たちはおれにごちそうを食べさせてくれるのだろう。どうしてこの人たちは……そんなことばかり考えながらも、あのふたりのこのうえなく美しい顔や姿に接すると、そのそばで酔いにひたれる心地よさに身をまかせてしまい、朝になって、Fさんのマンションで目をさますと、財布にお金が10円か20円くらいしかはいっていないのを思い出し、「あの、ごめん、帰りのバス賃、100円借りてもいいかな」などと、情けない無心をしたりしていた。

 いまのわたしが、夜ごといっしょに飲み歩いていたあのアンバランスな若い3人組の姿を目の当たりにしていたら、生活を応援してもらっている弟分のくせにエラソーにイッチョマエの顔をしていた坊やのことはともかく、そのバカな坊やを立てながら、仙台の街を飲み歩く美しい姉妹の背なかからも、なにかを読みとれたかもしれない。坊やから見れば、なんの不自由もなく毎日楽しく生きているように見えたふたりだが、ほんとうにそうなら、なにもあちこちで貴重なお金をはたいてこんな坊やに飲ませる必要があっただろうか。

 20年ほど前、久しぶりに仙台に行き、もうクラブをやめてふたりでスナックを開いていたFさんとKさんの店におじゃましたときには、すでに30代も半ばをすぎて、3人の子持ちにもなっていたのに、店の片隅に呼び寄せられて、声をひそめて「おにいちゃん、ちゃんとご飯、食べられてるの?」ときかれてしまった。

 わたしの「ひきこもり」から脱するモラトリアム期間を支えてくれた、美しく、いとしい人たちだ。

 このころは、自分の方向性が徐々に見えてきた時期でもあった。

 前にちらりと家庭教師の仕事にふれたことがあったが、この仕事はわたしがもっている人間の方向性のようなものをなにより鮮明に教えてくれた。

 ふつう、家庭教師は子どもの成績を上げるために雇うものだろう。ところが、そういう意図を強くもったお宅に雇ってもらうと、たいてい長続きしなかった。小学生の息子を東京の開成中学に入れようとしていたお医者さんのお宅などでも、ひと月ほどすると「先生、申し訳ありませんが、もうけっこうです」といわれたりした。

 その一方で、学校の成績も上げたいけど、その前に、人前で満足に話をすることもできないこの子をなんとかしたい、というような希望をもっているお宅におじゃますると、たえず襟ぐりをつかみ、「ナンダ、コノヤロー、モイッペンイッテミロー」と怒鳴りつけては泣かしてしまうようなデタラメな指導法だったけど、どの子の目にも、しだいにこちらに向かってくる光のようなものが見えてきて、そういうところに喜びを感じることが多かった。

 今年の地震による津波で大きな被害を受けた塩釜市の港の近くにも、おかあさんとおばあさんといっしょに3人でひっそりと暮らしていた、ほっぺたの赤い、おかっぱ頭の中学生の女の子がいた。それほど豊かそうな家でもない。それでも、おかあさんはいろんな意味で娘に引け目のようなものを感じさせたくなかったのだろうか、毎月の謝礼をいただくときには、そんな、思うにまかせぬ人生のなかから切ない願いをこめてこちらへ手を差し伸べてこようとしているような気配が強く伝わってきて、成績は思うように上がらなかったが、ついつい長く通わせてもらった。

 また、豊かだったが、銀行員のおとうさんがおかあさんをつれて他県へ転勤していて、おねえさんとふたりで家を守りながら、内面ではおとうさんに代わる大黒柱のような存在をさがしていた高校生の男の子もいた。わたしはそんな存在になれるとは思わなかったが、大学をやめて東京に出てからも、新聞配達をしていたわたしのもとへ「先生、××大学に合格しました!」という喜びではじけそうな葉書をくれたので、少しは彼の気持ちに沿うことはできていたのだろうか。

 大学の授業にまったく出席する気がしなくなっていたのも、もしかすると、10代後半には自分の時間のすべてをつぎこんでいた理科系科目への興味を失っていたことが原因ではなく、当時の大学や学生たちのあいだにあったもっとほかのものに対する疎遠感や嫌悪感が原因だったのかもしれない。

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by pivot_weston | 2011-10-02 16:26 | 自縄自縛

自縄自縛の愚かしさ(16)

(これは不定期連載でお届けしている記事です。流れがわかりにくい場合は、「自縄自縛」のカテゴリの過去の記事を参照してください。)

 翻訳という職業を見つけられたのも、浅はかな了見で自分の本能とはまったく相容れない方向へ足を踏み入れ、行き惑っていた若僧に単位をくれることで、いましばらく惑いつづける時間をくださった先生がたのおかげだったかもしれない。

 正直なところ、進級した当初は、単位をもらったときの喜びも忘れ、チェッ、よけいなことをしてくれたな、という気分になることもなくはなかった。3年生になり、理学部の物理学第二学科というところにはいると、もうカリキュラムに「世界史」も「社会学」もなかった。当然のことながら、あるのは量子論かなにか、前の年まではろくに出席せず、試験も受けようとしなかった理科系教科の授業ばかりだった。なにを聞いてもわからないし、わかりたいとも思わない。それでも最初のうちは、通う先が青葉山の下の教養部から上の理学部に変わり、物珍しさもあったし、ひとりでのたのたと山道を登る楽しみもできたので、それなりに授業に出ていたが、いつも階段教室のいちばんうしろ、つまり、いちばん高い席から、まじめに先生の話を聞くほかの学生たちの背なかを見下ろしながら、いまの学生さんたちには考えられないことだろうが、アルミの灰皿を前に置いて、タバコばかり吸っていた。

 そんな時期に、久しぶりに教養部の学生課に行ったら、「翻訳」のアルバイト募集の貼り紙が出ていた。どうしてそのアルバイトをしてみようという気になったかは思い出せないが、たしか、ほかにはだれもいなかったそのロビーで、前からすてきだなと思っていた窓口の女の人に「これ、わたしみたいなンでも、いいんスかね?」ときいたら、「あら、いいわよ、いいわよ、もちろん。やる? やってみなさいよ」と、妙にうれしくなるような対応をしてくれた。

 発注主は建築土木会社。報酬は3日間で3万円。おいおい、いまでもそんなに悪い条件ではないのに、仙台の学生の1か月の平均生活費が5万円もしなかった時代だ。破格といってもいい条件だ(当時の周囲の学生のあいだでは、医学部の地下のホルマリン漬けになった死体の管理の仕事がひと晩2万円と噂されていて、それに次ぐ条件だった)。でも、「翻訳」というのがどんなことをするのか、いまひとつよくわからない。だから、ぬか喜びはすまいと気を引き締めつつ、その会社に行ってみると、大きなテーブルの上にごろごろと大きな巻き紙を広げられた。

「三沢の米軍基地の図面です」という。東北では、お名前を出しても個人を特定することに当たらないお名前のひとつ、キクチさんという若くてハンサムでまじめそうな社員のかたがそういった。

 見ると、その図面のあちこちにちょこちょこと英語が書いてある。ほとんど単語の単位で、文になっているところはごくわずかしかない。

 わたしはその図面を見ながら、なにかの文書を訳すのだろうと思った。だから、その文書が出てくるのを黙って待っていた。でも、いったんどこかへ行ったキクチさんがもってきたのは、研究社の英和中辞典とコンサイス英和辞典だったか。

「じゃあ、これでお願いします」という。

「え、いや……え、もしかして、この図面の単語を訳すということですか?」そう問い返した。

「はあ。すみません。よろしくお願いします」申し訳なさそうな顔でいう。バリバリと仕事をするつもりで来たのに量が少なくて申し訳ない、といいたげな顔ではない。こんなにたいへんな仕事をお願いして申し訳ない、という顔だ。

「で、でも、これじゃあ、ただこの単語を辞書で調べるだけじゃないですか?」

「はあ。たいへんでしょうが、どうかよろしくお願いします」別に他意のこもったいいかたではない。ほんとうに、男前なのに実直そうな、当時の東北にはよくいたタイプのかただった。

 内心、大笑いをしそうになった。こんなもんで3万円ももらえるなんて、ぼろい仕事があったもんだなあ――そう思った。それがいけなかった。

 いや、なにも、翻訳という仕事がぼろもうけできる仕事と勘違いして、その勘違いがもとで、実際には爪に火をとぼすような人生に陥るはめになってしまったことだけをいっているのではない。プロになったいま、これと同じ仕事を受けていたとしたら、腹のなかでほがらかに大笑いなどせず、逆に「ん!?」とおなかの底のほうに重いものを感じていただろう。翻訳の仕事の難しさと訳す単語の数は比例しない。というより、逆比例することのほうが多いくらいで、単語の数が少ないということは周辺情報が少ないということであり、その乏しい情報のなかで辞書の訳語などにはとらわれず、英語の単語を日本の現場ではたらいている人たちが使っている言葉に置き換えるとなると、かなり難しい作業になる。ところが、そういう認識も意識も皆無だったときのわたしだから、なぁ~んだ、辞書ひけばいいだけじゃん、ちょろい仕事だあ、と錯覚してしまった。

 で、とにもかくにも、その若くてハンサムなキクチさんにお昼をおごってもらったりしながら、予定どおり、3日間でその翻訳、というか、辞書引き作業を終えて、当時のわたしの財布には、ぐっとあったかみの伝わる3万円をいただいた。

 そこで、思った――これはいいかもしれない。頭のなかにあったのは、アルバイトではなく、それなりの定職について学校に通う自分の姿だ。

 正確かどうかは定かではないが、教養部で2回目の留年をしそうになっていたときに、だれかにきいたら、大学というところは、基本的には4年で卒業するところだが、それに加えて、4年間まで留年でき、休学も4年間までは認められているということだった。だから、いくら年数をかけたところで肝腎の勉強をして単位をとらなければ、いつまでたっても卒業などできるはずはないのに、そのとき、わたしの頭のなかには、その認められている在学期間をフルに使い、アルバイトではなく、それなりの定職について12年間で大学を卒業するプランがちらりと浮かんでいた。

 3日間で3万円の報酬を手にしてみると、お、あのプラン、行けそうじゃん、と思った。

 もう階段教室へタバコを吸いに行くことはなくなった。そうとなりゃ、翻訳を定職にしないと、と思い、足繁く学生課に通ってまた「翻訳」のアルバイト募集の貼り紙が出るのを待ちながら、アルクの雑誌かなにかで調べて、「科学技術翻訳」の通信教育があることをつきとめた。どうも、学生課を張っているかぎりでは、仙台では食べていけるほどの翻訳の仕事があるとは思えなかったが、東京にはあり、「科学技術翻訳士」だかなんだかの資格をとれば、地方にいてその東京の仕事を送ってもらって翻訳をしながら食べていくことも不可能ではないようなことが書いてあった。

 単純そのもの、というか、学部に進級したものの、逆にそれが、だれも逃れることのできない時間の流れというもののプレッシャーを鮮明にして、なんとかどこかに出口を見つけないと――という追い込まれた気分になっていたからだろうが、それを知ると、さっそく通信教育講座の受講を申し込み、アルバイトの合間に、その、横浜かどこかの通信教育の会社から送られてくる教材で翻訳の勉強をするようになった。

 それが、また思わぬかたちで、学校の勉強だけでなく、社会にもまだまだうまく適応できていなかったわたしに、少し世のなかに交じって生きていけるかな、という自信を授けてくれるような経験につながった。

 海洋物理の研究室で、画面のないコンピュータでデータの打ち込みをしてからまだ1年ほどしかたっていなかった。まだ世のなかでは、パソコンはおろか、ワープロ専用機の片鱗すら見えていなかった時代だ。英和の翻訳はともかく、和英の翻訳にもチャレンジするとなると、当然、タイプライターが使えなければならなかった。

 だから、しばらくは、大学に通うのをやめ、大学に通っていた時間に仙台市内のタイピスト学校に通うことにした。

 タイピスト学校にあったのは、テレビドラマの『スーパーマン』でスーパーマンになる前のクラーク・ケントがガチャン、ガチャンと大きな音をたてて使っていたような大きな金属製のタイプライターだ。両手の指をホームポジションに置いて、左手の小指で「A」のキーや「Z」のキーを押そうとすると、思いのほか力を要求されるのに戸惑ったりしていたが、どうも、職人の孫だけあって、手作業には向いているのか、何回か通っていると、すぐに上達し、タイプを打つのが速くなってきた。

 先生はSさんというまだ若い女性。歌手の平山みきさんによく似た、スリムでかっこいい人で、声も平山さんみたいにハスキーにかすれ、少し鼻にかかっていた。

 はじめて授業を受けたときには、ほかの生徒さんがみんな若い女の人だったこともあったのだろうが、わたしのほうへ、少し戸惑っているような、怪しんでいるような、こちらがまた自己嫌悪の世界に陥りそうな眼差しを向けていた。でも、そう、驚きは内面の警戒心やなにかを解いてくれる。

「あら、けっこう速いじゃないですか」が「わあ、どんどん速くなってる」に変わり、「もうわたしより速いんじゃないですか」に変わったころには、お互いに冗談も飛ばし合うようになっていて、先生と生徒というのとは少し違った内面のコンディションになっていた。

 そういうときには、一瞬相手の顔をよぎった表情みたいなものでぐっと気持ちが動き、それを言葉や行動に表現したりすると、とたんにふたりの関係がそれまでとはまったく違ったものに変化したりすることがある。

 で、授業が終わってふたりで話をしていたときに、つい、なにげなく、軽い気持ちで「デートしましょうか?」といった。

 自分でも驚いた。第14話で書いたYさんとの一件でもおわかりのように、(さすがに、このころはヘルズ・エンジェルズの「なり」は卒業していたが)口ではえらそうなことばかりいいながら、内面では、まだふつうの女の人の前ではなにをどうしていいのかまったくわかっていなかったころだ。そんな自分が、なんか、流れで「デートしましょうか?」といっていた。しかも、目の前にいたSさんも「いいですよ」といって、うふふ、と笑っている。

 男の子が世界の変化を感じるときだ。

 わたしのように「ひきこもり」を経験した人は、なかなか自分を世間の人と同化させることができないのではあるまいか。ほんとうはみんな内面にいろんなものをかかえている。ほんとうはみんな、自分と同じように内面に醜いものやおかしなものやなにかをかかえていて、だから、別にがんばってなにかをしたりしなくても、それだけで自分もみんなといっしょのはずなのに、ひきこもっているあいだに、ほかの人たちのことはテレビや雑誌などを通して見るだけで、自分の内面ばかりを見つめつづけていたために、自分を「異物」と見る視点からなかなか抜けられなくなり、それがために、他者との関係をうまく構築することができなくなるのではあるまいか。

 そんな自分が、気楽にSさんを「デートしましょうか?」と誘っていた。

 そうか、この「気楽さ」が必要だったのか、と思った。ひょんな流れではじめたタイプライターが、人とつきあううえで必要な「気楽さ」をもつ機会を与えてくれていた。

 でも、その「気楽さ」は別の作用もする。

 何度目にデートしたときだったか。どこかの地下の店で向かい合ってお酒かお茶を飲んでいて、わたしがなにかいったとき、Sさんがうれしそうに笑いながら、恥ずかしそうに身をくねらせてうつむいた。

 あ、この人、おれのこと、好きなんだ――と思った。思ってもみないことだった。自分がだれかに好かれることがあるなんて、考えてもいなかった。自分ではけっこう、お、あの人はいいな、この人はいいな、と考えて、だから、Sさんもデートに誘ったりしたくせに、その実、自分のことを好きになられることがあるということは、まったく頭のなかで予想していなかった。

 で、そう思ったとたん、自分の内面でひゅるひゅるひゅると一気に風船がしぼんでいくような感覚に襲われた。別に、Sさんのことをいやだと思ったわけではない。Sさんといっしょに街を歩き、話している時間は楽しかった。いま思い出しても、わたしの人生の記念碑として残るような「楽しい若者の時間」だった。でも、なんだろう、心が気楽に開いているときには、視界も広く開けている。だから、あ、この人、おれのこと、好きなんだ、と実感したとたん、その広く開けた視界のなかにいるSさんをあらためて見直し、いや、この人をおれの世界に引き込んじゃいけない、この人はもっと素朴に、もっとふつうに生きていく人だ――と思ってしまった。

 だから、その夜、笑顔で別れてから、もうSさんとは一度も会わなかった。わたしはまだまだ、心の底では、自分は異物、ふつうの人とはいっしょになれない人間、まっとうな人とはつきあわないほうがいい、という意識から抜け出せていなかったのかもしれない。

 でも、この日、Sさんが見せてくれた笑顔は、わたしの人生にとても大きな力をくれた。自分が人に愛されることのある人間だというのは、だれの場合でも、とても大きな発見だろう。だから、わたしはその後も、Sさんがくれたカーキ色のマフラーを使いつづけ、実は、東京に出て、結婚してからも、そんな裏事情は明かさずに、妻がくれたマフラーとかわりばんこで使いつづけていた(あ、天国の人に怒られるか)。

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by pivot_weston | 2011-09-28 18:02 | 自縄自縛

自縄自縛の愚かしさ(15)

(これは不定期連載でお届けしている記事です。流れがわかりにくい場合は、「自縄自縛」のカテゴリの過去の記事を参照してください。)

 さて、本業の学校のほうはどうなっていたか。

 もちろん、教養部の2年生から学部の3年生になるには単位をとらなければならない。留年、つまり落第して2年生を2年やったからといって、単位をもらえるわけではない。それでも、この時期には、「ふたりの児玉さん」に書いた次の一節のような暮らしをしていた。

   朝6時からホテルの朝食のアルバイトに行き、
  午後になると、ペルー帰りの魚屋さんまでアルバイトに行き、
  夜になると、駅前の居酒屋さんまでアルバイトに行き、
  朝の5時半ごろまで「小玉」のおばさんのところで飲んで
  また6時からホテルへ――と、
  睡眠時間15分ほどの生活をしばらく続けたこともあった。

 なにがああいう生活に駆り立てるのだろう。
 
 ある日、目がさめたら、空が見えていた。場所は前号で紹介した不思議アパートの共同トイレ。べたべた貸し間がつけたされた古い民家のアパートの棟とは別に、そのわきの狭い路地の片隅に、いまの工事現場で見かける簡易トイレの木造バージョン、つまり、おんぼろバージョンともいえるトイレが建っていた。

 で、なんで空なの?

 屋根がなかったのか?――わたしもこのとき一瞬、そう思った。さては、これまでずっと屋根がないのも知らずにウンコやオシッコをしていたのか……などと、とぼけたことを考えているうちに、はじめて、自分がそのトイレに収まりきっていないことに気づいた。ドアが開いている。あれ、待てよ、と思い、下半身に手を伸ばすと、ズボンもおろしている。そう、わたしは朝の5時半から6時までの30分ほどの休息の時間に、正体不明になるまで酔っぱらいながらトイレに行き、ズボンをおろし、しゃがんで、いきんだかどうかはおぼえていないが、じきに眠りだし、そのままうしろにころがって、いったんは閉めていたはずのドアを背なかで押しあけ、時間が時間ならたまに人が通る路地で空を仰いでいたのだ。

 それでも、それに気づくと、すぐにパンツを上げ、ズボンも上げて、また6時からの仕事へ向かった。

 よくある表現だが、体のなかから湧き出してくるどろどろに溶けたマグマが、いまにも体から噴き出してねずみ花火みたいに躍りだすのを、かろうじてこらえていた状態だったのかもしれない。

 ただ肉体を酷使するだけでなく、感情もたえず爆発させ、多くの人を傷つけていた時期でもあった。

「ホテルの朝食のアルバイト」も、洗い場のおばさんのちょっとした意地悪に激高してやめた。先のアルバイトとは別に、自宅に持ち帰ってやっていた通信添削の添削のアルバイトも、会社の人たちといっしょに飲んでいるときに、ちょっと「ん!?」と思うことがあり、自分でも、あ、やっちゃうかな――と思った次の瞬間、年が10歳以上も違う課長さんを怒鳴りつけてやめた。上の「不思議アパート」の大家さんからの紹介で、いまでは毎日テレビで顔を見ない日がないほど「お茶の間の人気者」になっている同じ町内の旅館のお嬢さんの家庭教師もやっていたのだが、これも、いま思えばわたしがなんとかしなければならなかった問題に自分で腹を立ててしまい、プイッとやめた。そんなことの繰り返しだった。大勢の人を傷つけ、そのたびに布団をかぶって、もう生きていけない、もう生きていけないと呻吟しながら、またもぞもぞと布団から抜け出すと、同じ過ちをおかすという繰り返し。表面的には、そうして途切れ途切れではあれ、世のなかと交渉をもっていたのだから、すでに「ひきこもり」とはいえなかったのだが、あとでその時期を俯瞰できるようになってからふり返ると、やはりあれも、まだまだ「ひきこもり」から抜け出すプロセスが続いていたということなのかもしれない。

 ともあれ、活動の中心はもっぱら「学校」ではなく「街」。同じ学校の学生たちのことを「学生さん」と呼び、完全に「学生くずれ」になっていた。

 でも、それでは学校のほうは完全にギブアップしていたのかというと、そんなこともなかった。ただ、自分の専攻の「物理」や「数学」といった教科にはどうしても気持ちが向かわず、出席していたのは「世界史」や「社会学」の授業ばかりだった。

 いま思い返すと、なぜかよくわからない。でも、どういうわけか、イギリスの「ワット・タイラーの反乱」に興味をもち、あいている時間に大学の図書館に通ってまで、「ワット・タイラーの反乱」のことやその前後の時代状況を調べていた。そして、2度目の2年生の年が終わるときの試験でも、もちろん世界史の試験には出ていき、答案用紙が配られてくると、一も二もなくそれをひっくり返し、試験時間のあいだじゅうその白紙の裏面に、左上の隅からはじめて、自分が調べてきたことを書きつづけ、右下の隅まで書いて、ちょうど白紙が黒い鉛筆の文字で埋まったところで、試験時間もタイムアップとなった。そんなことで単位をくれるはずがない。これでまた単位を落とすことになれば、自分はなんと膨大な時間の浪費をしていることになるのだろう、という思いもあったが、どういうわけか、そうせずにはいられないような気持ちがあった。で、その結果――。

 お、単位ゲット! 失礼ながらお名前は忘れてしまったが、とても度量の広い先生だったのだろうか、答案用紙の表には名前以外なにも書かず、つまり、白紙で出していた学生に単位をくださった。

「社会学」のほうは細谷昂先生。明快な授業が気に入っていた。だから、その当時、関心をもっていた「自律した人間」(別に、いま思えば「自立した人間」と書いてもいいような気がするが)になるためにはどうすればいいかということに関する考察を原稿用紙かなにかに書き、わたしはこう思いますが、先生はいかがですか?――というようなエラソーなことを書いた手紙を添えて、先生のお宅に送った。わたしの考えを先生はどう批評・批判し、喝破してくれるだろう――わたしの関心はその一点にあった。

 そのお返事が、しばらくすると、1枚の葉書として返ってきた。

 どれどれ……ありゃ!

 先生のお返事をいま風に要約すると、こうなる。「あんね、きみがいろいろと益体もないことを考えていることはよくわかる。でもね、「自律した人間」として社会とつながっていくためには、人に自分の思っていることを伝えられるようにならなきゃダメよ。きみの文章、ムズカシすぎ。こんな文章を書いてて、だれに思いが伝わるの?」チャーッ!――だ。そう、このころわたしが書いていた文章は、8割がたが漢字で、しかも風化も侵食も受けずにどこかの山から切り出してきたばかりの岩のような文章で、「世界史」の答案用紙の裏に書いた文章もそうだったが、俯瞰したらマックロクロになるような文章だった。

 でも、それでも、細谷先生も、試験を受けたような記憶もないのに、単位をくれた。

「おまえ、なにしてんの、そんな関係のない科目ばかりやって?」

 まわりの学生たちはそういって、ふふんと冷ややかな笑いを浮かべていた。そう、進級するためには単位だけでもいけない。必修科目の単位をとらないと、学部にはあげてくれない。物理系のわたしの場合には、理科系のどれかの科目と英語、第2外国語の語学の単位が必要だったのだが、四国からわざわざ仙台の学校まで行って、入学して最初の授業が終わったときに「えー、オオニシくん、ちょっと待ちたまえ」と声をかけ、「もしかして、きみのおじさんは丸亀中学(旧制/香川県の学校で、もともとはわたしの出身校の本校)にいなかったかね?」という、まったく思いも寄らぬ言葉をかけてくださった元丸亀中学教員のやさしい松山先生がくださったドイツ語の単位を除けば、理科系科目の単位も英語の単位もとっていなかった。2度目の2年生の学年末の試験も受けず、もうその時点で2度目の留年は決まりだったのだ。そして、このまま行くと、3度目の2年生をやり、そのまま退学することになるのかな、と思っていた(期待してくれていた両親には、たいへん申し訳ないことをしているような気がしていたが、どうにも気持ちが動かず、そこまで行けば、両親もわかってあきらめてくれるだろうかと思っていた)。

 ところが、これまた、まったく思いも寄らぬことが起きた。

 ある日、サークル部室に行くと、後輩が「オーニッさん、掲示板に名前が出てたよ」という。

 なんでや? 「学校」よりも「街」を生活の場としていて、まじめに学校に通う人たちを「学生さん」と呼んでいた学生くずれの学生だ。そもそも大学では存在することすら知られていないだろうと思いこんでいたのに、どうしてそんな自分の名前が掲示板に張り出されるのか? よくわからなかったが、掲示板のところまで行ってみると、たしかにわたしの名前がはいった貼り紙があり、「研究室まで来なさい」と書いてある。英語の小川先生からの呼び出しだった。

 実は、小川先生とは、まったく接触がなかったわけではなかった。わたしは、入学試験では、英語で120点満点中20点くらいしかとれなかった英語劣等生だったので、なんとかしなきゃという思いはあり、2年目の2年生がスタートしてほどなくして、最初は出ていた授業が終わったときに、小川先生を呼びとめて、どうすれば英語がわかるようになるかという、なんとも聞いてもしかたのないようなことをきいていて、そのときに、小川先生から英会話の本とカセットテープをお借りしていた。それでも、その後の授業を受けているうちに挫折してしまっていたので、そうか、教材を借りておきながら試験も受けない劣等生に「あのときの本とテープを返せ!」という呼び出しなのかな、と思った。

 でも、違っていた。ウソのような話。「単位をあげる」という。驚きのあまり、わけを問い返すこともできずに黙って聞いていたら、「きみも英語の単位がないと、上(学部)に行けないだろう。貸した教材で勉強してもらうことにして、単位はあげるから、上に行きなさい」という。で、でも、それじゃあ、必要な学業を修了したことを確認することもなにもできないじゃないですか、とは思ったが、それより、うれしくなって舞い上がる気持ちのほうが強かったので、「ホントですかあ? あ、ありがとございまーすっ!」といって、小川先生の研究室を出た。

 ほんとうにうれしかった。小川先生はいい人だ――なあんて、まあ、手前勝手な喜びにひたっていた(このときからおよそ15年後に、翻訳者になってはじめて自分の名前で訳書を出せたとき、海洋物理の教室でお世話になった杉本先生と小川先生には電話をかけてその訳書をお送りした。すでに東大に移られていた杉本先生は「だれじゃ、おまえは?」というような対応だったが、小川先生のほうは、やはりわたしのことなどお忘れのようではあったが、「お、そんなこともありましたかねえ、ははは」と笑い、四国に住んでいたわたしに、お住まいの愛子(あやし)町が仙台に合併された話などもしてくださった。やはり、いい先生だ)。

 でも、そう、進級をするにはまだ壁があった。理科系科目の単位だ。小川先生のおかげで、よし、また留年しても、今度の1年はなんとか理科系科目の一点に絞ってがんばってみるかという気持ちにはなったものの、この年に関しては、授業にもろくに出ず、試験も受けていなかったのだから、どうしようもないと思っていた。が――。

 まただれかが「オーニッさんの名前が掲示板に出てたよ」という。

 いやいや、それはもう終わったよ。実はね、おれ、英語の先生に試験も受けていないのに単位もらっちゃったんだー、ウヒヒ……などと説明をしたのだが、相手は自分のことでもないのに納得していない顔になり、「いや、でも、新しい、出たばかりの掲示みたいだったよ」という。

 んなことあるまい。もう小川先生以外に接触があった先生はいない。だれがおれを呼び出すんじゃ、と思ってまた掲示板のところへ行ったら、ありゃ、たしかにわたし宛ての新しい呼び出しの掲示がある。だれじゃ、呼び出すのは――と思って呼び出し教官の名前を見たら、え、尼子(あまこ)先生? 物理化学の「オニ」(つまり、なかなか単位をくれない先生)という噂のあった先生だった。

 先生は、上下巻あるムーアの物理化学の教科書の(下)を使っていた。なんではじめて勉強するのに(下)からはじめるんだろう、というところがいつまでたっても納得いかず、すっきりしない気持ちのまま、いつも教室のいちばんうしろで授業を受けているうちに、エネルギー遷移の話がまったく理解できなくなり、そのまま投げ出していた科目で、尼子先生のことは「オニのアマコ」のまま、頭のなかでは遠い存在としてかたづけていた。

 そんな先生から、まったくなんの前触れもなく、いきなりの呼び出し。小川先生の「温情」の再現を期待する気持ちがまったくないわけでもなかったが、それにしても、ほんとうにまったくつながりのない先生だったので、おずおずと研究棟へ出向き、おずおずと研究室のドアをあけた。

 驚いた。そして、どこか知らない世界に迷いこんでしまったかなと思うくらい戸惑った。それまで一度も話したことがなかったばかりか、近くですれ違ったことすらなく、まわりの学生たちが「オニ」と噂するのを「ふぅん」と聞いていただけの関係だった先生が「単位をあげる。きみもいつまでも教養部にいてもしかたないから、学部へ行ったほうがいい。行きなさい」という。

 あんなこともあるんだ。こちらから頼んだわけでもないし、学業はまったくダメだけど、ほかのことでがんばっているから――というケースでもない。それなのに、学部進級に不可欠で、それがために「またもう1年か」とすっかり進級をあきらめさせられていたふたつの科目の先生が、横の連絡はどうだったのか知らないが、そろって「単位をあげる」といっていた。だれよりもまずわたし自身が不思議でしかたがなかった。あともう少しのところで「3年目の2年生」になるはずだったのに、急に「学部の3年生」に変われることになったのはほんとうにうれしかったが、理由がまるでわからず、いろいろ考えた末に、入学試験で英語は20点くらいだったけど、数学と物理のできはこのうえなくよかったはずなので、そういうところに理由があるのかな、でも、そんなことで進級させてくれたりすることがあるのかな、と考えていた。

 ともあれ、理由がなんだったにせよ、ねずみ花火寸前のわたしにいましばらくのモラトリアム期間を与えてくださった先生がたには、いまでも感謝している。

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by pivot_weston | 2011-09-22 11:03 | 自縄自縛

自縄自縛の愚かしさ(14)

(これは不定期連載でお届けしている記事です。流れがわかりにくい場合は、「自縄自縛」のカテゴリの過去の記事を参照してください。)

「恋愛」というのは難しい。

 なにも、それははたちそこそこのころにかぎったことではなく、いまのわたしの年齢になっても、いや、死ぬまでいえることだろうが、とりわけ、まだその難しさもろくに体験していないはたち前後のころは難しい。

 ひとつには、経験が浅いと、それを自分のなかで整理するときの「引き出し」が少ない、というか、ほんとうはその時期からすでにたくさんの引き出しをもっているのだろうが、まだ自分の経験を整理した経験そのものが少ないために、どういう経験をどの引き出しに入れたらいいかがよくわかっておらず、そういうときに、自分の意識のなかで「恋愛」というものがいささか過剰に肥大化していたりすると、厳密には「恋愛」といえない現象まで「恋愛」の「引き出し」に入れてしまい、そうすると、中身と入れ物がかみ合わなくて、その齟齬に苦しむことになる。たとえば、自分では「恋愛」のつもりでいても相手はなんとも思っていないようなケースがそれであり、わたしとYさんのケースなどもそれに当たっていたのだろう。

 自分では「恋愛」と思いこんでいた。だけど、あとになって思い返してみると、前回の第13話にも書いたように、Yさんはいつも伏し目がちに静かにしている人だったので、何度かAさんやまじめ君といっしょに会っていても、Yさん本人のことは、××大学の×年生で、女で、岩手県出身で……ということくらいしかわかっておらず、あとのことはわたしが勝手にふくらませていたのが実情で、自分でもときどき、なんでこの人にひかれているのだろうと、的確な思いが脳裏をかすめることがあったのに、意地っ張りなのか、深く考えてみようとしない性格なのか、たださびしさをまぎらすために恋愛妄想に夢中になっていただけなのかなんなのか、それでもまたしきりにアプローチを試みようとする。

「クリスマスパーティー」が終わったら、次は「よーよー、今度みんなでいっしょに飲みに行こーぜー」だ。相変わらず、アプローチといっても、その行為はYさん本人には向かわず、いつもYさんのとなりにいたAさんや、ふたりと同じ下宿のまじめ君に向かっていたのだが、Aさんのほうは「お、いーですねー」と答えるものの、その先がいっこうに具体化しない。まじめ君のほうは、はなから「いー」などという思いやりのこもった肯定的評価は口にせず、冷静に自分がわたし、Yさん、Aさんと飲むことの意味を吟味して、「飲みに……ですかあ?」と懐疑的な姿勢を崩さない。

 でも、とかくこの年ごろの若者を狂わせがちな「押しの一手」などという変な呪文を頭のなかで唱えていたりすると、押すほうはめげずにごりごりと押してしまう。といっても、実際には、ラグビーにたとえると、相手スクラムの最前列のYさん本人を押さずに、その左右の斜め後方でスクラムを支えているフランカーにばかりプッシュをかけていたようなものなのだが、ともあれ、何度目かにプッシュしたときに、その一方のフランカー、Aさんがとうとうあきれたように、「じゃー、しかたない。行きますかあ」と間延びのした声をあげた。

「え!? ほんと? ほんと? ほんとにいーのー? やったーぁ!」

 そういって、ヘルズ・エンジェルズまがいのなりをしているのも忘れて子どものように大喜びすると、Aさんは目を細めて「ふふふ、よかったですねえ」といい、Yさんのほうも、相変わらず伏し目がちのままではあったが、くすりと笑ったのだったか。そんな瞬間には、おや、おれはAさんのほうと気持ちが通じているのではあるまいか、などという思いもよぎるのだが、自分の気持ちを齟齬のある引き出しに入れて危険な呪文を念じている若者は、そんな自分の一瞬のバランスのとれた判断などには立ちどまらず、思いこみの世界に猛進する。あとに残るのは、Yさんがくすりと笑ったという事実だけなのだ。

 若者は「作戦」を練ったりする。

 まじめ君たちの男女混合下宿があったのは当時の仙台の街の西のはずれ。わたしのアパートは仙台随一の飲み屋街の国分町とその下宿のちょうど中間くらいにあり、その近くには、「ふたりの児玉さん」で紹介したおでん屋さん「小玉」もあった。だから、念願かなってYさんと(あれ、Aさんとまじめ君もいっしょじゃなかったっけ?)飲みに行けると思った若者ならぬバカ者は、さっそく、まずは国分町で飲み、「小玉」に流れ、そのあとは……ウヒヒ――なんてことを考える。

 で、当日。

 そう、すべてが思惑どおりに進んだ。国分町の店を出ると、「ちょっとこの先におれがいつも行く店があるんだけど」、「小玉」で飲みだすと、また話の流れを見はからって「あのさ、おれのアパート、このすぐ近くなんだよ。よかったら……」といい、そのつど、あとの3人は引率の先生にすなおに従う園児のように、そのよこしまな思惑まみれの誘導にのってきた。

 わたしのアパートは、アパートといっても、実際には昔の商店街に建った古い民家の一部で、表がパン屋さんになっていて、つけたし、つけたしでつくられたせいか、不思議な構造になっていた。第12話にもご登場いただいたディープ・パープル君が上の部屋で来る日も来る日もエレキギターであの代表的なフレーズ「ジャンジャンジャ~ン、ジャンジャンジャジャ~ン」をやっていたのはともかくとしても、流しの前に窓があったので、ある日、それをあけてみたら、そこは戸外ではなく、となりに住んでいた数学科の学生君の、布団が敷きっぱなしのお部屋で、急に異空間に投げ込まれたような気分になり、あわててその窓を閉めた、なんてこともあった。

 そこへ、酔った4人でドカドカドカ。コタツを囲んだところで正面を見ると、あれ、まじめ君がいない。そう、正面の空間にはいなかったが、身を乗り出して、コタツの反対側をのぞくと、早々と機嫌よくそこに伸びていた。で、Aさんのほうも、そんなまじめ君を見下ろしながら、「あら、伸びてる。ケタケタケタ」といって笑っていたが、いつのまにかそのとなりですやすやと眠りはじめた。つーことは……だよ。

 もう意識するなといわれても、となりでひとりだけ体を起こしているYさんを意識するしかない状況だ。その意識を少し散らしたい気分もはたらいて、当時の若者の口説き道具のひとつにかぞえられていたアコースティックギターを手にとり、ぼろんぼろんと弦をなではじめた。

「子どもたちは寝たみたいだから、ヘタクソだけど、なんかやろうか?」

 そういうと、相変わらず伏し目がちにうつむいていたYさんが、またくすりと笑ってリクエストをぽつり。で、こちらはそれをボロン。恥ずかしい。ギターをもっていても、ヘタクソだから他人に歌をきかせることなんてなかったので、恥ずかしくて恥ずかしくてたまらない。でも、黙っているのはもっと居心地が悪い。だから、ボロンとやった1曲が2曲となり、3曲となりしているうちに、ふと、となりのYさんのようすに異変が起こっていることに気づいた。

 ただの「伏し目がち」ではない。シクシク、という音は聞こえなかったが、その異変が「シクシク」という言葉で表現されるものであることは、ときおり、ずるんと鼻をすすりあげる音としぐさでわかった。

「どうした?」

 そんなこと、きいたって、返事なんて返ってこない。でも、自分でも自分の内面の幼稚さは十分に自覚していたから、少し意外だったが、どういうわけか、こういう状況になると、妙に「大人びた」とまではいえないが、「にいちゃんじみた」言葉が出てくる。

「どうした? ん、どうした? なにかあったのか? え、どうしたんだ?」

 間を置きながらゆっくりとそう語りかけ、相手が泣いているときには笑うのがよかろう、という判断もはたらいて、「ふふん」という音にもならない笑いをひとつもらすと、うつむいて「シクシク」していたYさんの体がはっきりとふるえだし、ウッウッという嗚咽がもれだした。

「なんだ、なにがあった?」

 もうギターは背後の壁に立てかけて、コートを着たまま体をふるわせているYさんの肩に遠慮がちに左手を置いた。Yさんの嗚咽はさらにひどくなり、コートの膝やコタツ布団にポタポタと涙がたれだした。

 もどかしかった。もっとここまでに内面のやりとりができていれば、この時点でYさんの体を起こして正面から抱きしめることもできていたのだろうが、現実にはそんな反応を躊躇なく起こせるだけの背景がまるでなく、どうしたらいいかわからないのがとてももどかしく、Yさんのコートの背中に腕をまわしかけては引っこめたり、なんか、そんなことも繰り返し、そういう自分を滑稽に思いながらうろたえていた。

 でも、結局は腕をまわして、うつむいてしゃくり上げるYさんの背なかを抱き寄せた。このさい、そうする以外に、どうしようがあったというのか。「はい、Yさん、きちんとお話をうかがいますから、お顔を上げて」なんてやったら、紳士的かもしれないが、漫画にしかならない。

 背なかを抱き、わたしの膝にうっぷしたYさんの頭をなでた。女の人の髪の感触というのは、男にとっては一種独特の力がある。たとえば、若い男女が街を歩いているときに、男のほうが女のほうに目をやり、ちょっと「ん!?」というような顔をして、女の肩にかかった髪をさりげなく直すようなシーンを見かけることがある。そういうときには、男のほうをふり返った女がどこかとても幸せそうな表情を浮かべたりしているものだが、ああいうときにも、男はなにか、確かなものを感じているはずだ。

 だが、それ以上に、このときに印象に残ったのは後頭部。わたしの膝に顔を伏せ、ふるえながら泣くYさんの、長い髪のあいだから地肌ののぞく後頭部を見ていると、どこか、無防備にYさんという人の人間そのものを見せられているような気がしてきて、いとおしさが湧いてくる。

 そういえば、「おれはシロウト女なんかにゃ興味はねえんだよ」などと大見得を切っていたヘルズ・エンジェルズには、それ以前にも、よからぬ場所で女の人の裸を1対1で拝見した経験があったのだが、そのときにも、目の前の女の人の裸に、お色気とはまた違った、なにかとても滑稽なものを感じた記憶がよみがえってきて、そうか、あの滑稽さがだいじなのだな、あの滑稽さにこそ、いとおしさを感じさせるなにかがあるのではあるまいか、という気もしてくる。

 しゃなりとした「うりざね顔で受け口」のYさんには、それまでどこか、ほのかで、しなやかで、たおやかなものばかりを感じていたが、目の前にその後頭部をさらして泣き伏すYさんの背なか、というか、胴体には、それなりにずっしりとした重みや量感があり、そこからコートを通して伝わってくる体温を手のひらで感じながら、ふるえる背なかをなでていると、ますますいとおしさがつのってくる。

 ヘルズ・エンジェルズといえども、男の子だ。そうなると、自然、反応するところは反応し、ちょっとお顔を……なんてこともやろうとするのだが、どうやら、そういう気分ではないらしく、長い髪の陰にのぞいていた白い頬がかすかに動いて、いやいやをする。

 しゃーない。こうなりゃ、にいちゃんで通すか――だ。

 結局、Yさんはそのまま朝までわたしの膝で泣きとおした。1日中直射日光の差しこまないアパートの明かりとりの窓の外が白んできて、コタツの反対側で仲良くくたばっていた「子どもたち」がむっくりと体を起こしてきそうな気配が漂ってくるまで、えんえんと泣いていて、わたしも、えんえんとその背なかを抱いて髪をなでていた。

 わけは、もうおわかりだろう。Yさんは失恋をしていた。ふだん、伏し目がちな表情の奥にためてこらえていたその悲しさが、ちょいと酔っぱらい、彼との思い出の曲かなにかを聞いたとたんにとめどなくあふれてきて、そのとき、たまたま目の前にあったもたれ木がわたしだったというわけだ。

 もちろん、あとでそうした事情がわかったときには、なぁ~んだ、チェッ――と思った。しかし、こうして長く生きてくると、「ひきこもり」からなんとか大勢の人に交じって生きていけるようになるプロセスで、あの夜、背なかの体温を感じさせてくれ、後頭部の滑稽さも見せてくれたYさんの存在は、とてもありがたいものだったように思えるのだ。

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by pivot_weston | 2011-09-19 07:01 | 自縄自縛

自縄自縛の愚かしさ(13)

(これは不定期連載でお届けしている記事です。流れがわかりにくい場合は、「自縄自縛」のカテゴリの過去の記事を参照してください。)

「おれはシロウト女なんかにゃ興味はねえんだよ」

 なあんて生意気なことをまわりの後輩学生たちには口走っていた。「ひきこもり」から「街」に出て、なんとかみんなの輪に混ぜてもらえるようになった坊やの、劣等感を隠すための屈折した言い草だ。

「なり」もちょっとしたものになっていた。カツカツと音の鳴るブーツをはいていたのは、そこそこに雪の積もる仙台では珍しくなかったにしても、十人並みにジェイムズ・ディーンにあこがれ、せっせと一番丁の名画座に通っているうちに、おれもあのジェイミーのような赤ジャンを着たいと思いだし、買いに行ったら「赤」がなかったものだから、しかたなく「黒」の、それも「模造革」というのもおこがましい、てかてかに光ったビニ黒ジャンを買っていつもそれを着ていて、顎やら、頬やら、顔の下半分には一面にあの悪名高きアメリカの暴走族ヘルズ・エンジェルズ(地獄の天使たち)さながらのひげをぼうぼうとたくわえ、レイバンまがいのサングラスをかけていた。

 路面に積もった雪の残るある冬の夜、とても仲のよかった、まじめなまじめな経済学部の学生のH君といっしょに木町通りのあたりを歩いていたら、前からサラリーマン風の人がひとり歩いてきた。うぃ~、と、前号に出てきた「おんちゃん」のように上機嫌になっているのが見てとれた。

 ま、でも、だからといってなんのことはない。こちらはほかの仲間との飲み会が待っている。カツカツ、ザクザクと歩いていく。

 と、ビクンッ!

 びっくりしたなあ~も~、といいたかったのはこちらのほうだった。上機嫌だったはずのサラリーマン風のおじさんがいきなり背筋を直立させ、朝の出勤時みたいに小難しそうな顔をして、うつむいてわきを通りすぎていった。

「ガァ~ハハハハァ~」

 とたんに、あたりかまわぬ大声で笑いだしたのはH君のほうだった。

「いまのおっちゃん、そのかっこうを見てビクッとしてたよ。はっきりわかったもんなあ」そういって、あらためてわたしのほうを見て、「しかたないよなあ。そのかっこうで両手に一本ずつ、一升瓶をかかえてんだもの。こりゃ、だれが見たって警戒するよ」という。

「え、そうか」

 まんざらでもない気分でそういう学生、あるいは「学生くずれ」になっていた。

 そう、「なり」はイッチョマエの度を少し越したところまで行っていた。でも、内面のほうは……。よくあるパターンだ。はた目には怖そうに見えるやつでも、ひと皮むくと、かわいい内面が宿っていたりする。わたしの場合は、「かわいい」というのはどうにもふさわしくないような気がするが、ま、それと似たような状態だったといえるだろうか。

 大学では、入学直後から「園芸部」というサークルに所属していた。おとなしくてまじめそうな学生ばかりが集まり、バラの花壇や温室の世話をしていた地味なサークルで、これもそんな内面の表れのように思えるが、それは違った。

 そもそも、「ひきこもり」にいたる一本の糸を想定すると、そのいとぐちにあたる小学生時代のはじめのころには、まだわが家にも「田んぼ」があり、いつもそこを管理する祖母について歩いていたわたしも、あぜ道で遊びながら、田植えや草取りの手伝いをさせてもらっていた。それが、少年のわたしが知らないところで展開していた父の不遇に合わせて、1枚、また1枚と売られていき、祖母が亡くなり、わけもわからずに押し寄せてきた貧困のなかで「理科系進学」を思い立ったころには、地域でわが家だけが田んぼのない「勤め人」の家庭になっていた。まだ一次産業の就業人口が多かった時代だ。当時の田舎の学校にあった秋の「農繁休業」のころになると、まわりの友だちはみんな文句をいいながらも家の田んぼを手伝っているのに、わたしだけは行き場がなくなり、家にいてもしかたがないので、近所の友だちの家の田んぼをいっしょに手伝わせてもらい、一日が終わると、家族といっしょに耕運機で帰る友だちと別れて、秋の夕日に染まった田んぼ道をひとりでとぼとぼと歩いて帰っていた。

 そんな思い出があったので、わたしは「地球」や「海」と同時に「農業」も志向していて、雑誌『現代農業』などもときどき読んでいた。だから、入学して先輩に勧誘を受けたときには「ああ、園芸部ですか、わたし、はいろうと思っていたんです」と答え、「え、そんな人もいるんだあ」と驚く先輩のあとについて、教養部のキャンパスの奥の園芸部の部室へ直行した。たしか、学年で2番目か3番目の入部ではなかったかと思う。

 だが、結局は一時期にせよ「ひきこもり」になったのだから、そこにもわたしにとっては満ち足りないものがあったのだろう。当然といえば当然のことかもしれないが、なかには東北の農家出身で、黙々と園芸作業に取り組む人たちもいたとはいえ、「旧帝大」に集まったほかの部員たちの多くは園芸作業よりも花の名前をおぼえることやなにかに関心があるようで、どうもわたしには、すんなりと溶けこめない雰囲気を漂わせていた。

 それでも、わたしにとって、このサークルが「ひきこもり」になるまでの貴重な空気穴となり、また、「ひきこもり」から抜け出し、徐々に「外気」を吸い込んで、やがて、まわりの人たちが迷惑に思うくらいそれをゴーゴーと吸い込むようになるプロセスでとてもありがたい足場になってくれたのはたしかだった。

 ある日、その園芸部の部室に行くと、おとなしくてまじめそうな部員ばかりのなかでもひときわおとなしくてまじめそうな2年下の部員が別の部員にからかわれていた。

「なんたって、おまえは女の子と暮らしているもんなあ」

 そういわれている。その場にいたほかの部員たちは、そんな話題は軽~くすませてさっさと次の話題に移っていったが、表向きはジェイムズ・ディーンにあこがれながらヘルズ・エンジェルズになり下がった不良留年生(3年目の2年生)の顔をしていても、その奥では一般の女性とのあいだで乗り越えなければならないものがあることを強く意識していたわたしは、顔で笑いながら、心のなかでは、むむ……だ。

 なんでこいつが……女の子とやねん。

 そこで、ひまつぶしサークルのひまつぶしタイムが過ぎて、みんなが散会しかけたとき、そのまじめ君に詰め寄った。

「よーよー、なんだよー、おまえ、女の子と暮らしてんだって? 人は見かけによらねーよなー」

 そういうと、忘れていた話題を蒸し返されたそのまじめ君はあわててこういい返した。

「ち、ちがいますよ、そういうことじゃないですよ。ただ下宿がいっしょというだけの話ですよ」

 は? 予期せぬ情報。学生下宿は、男は男ばっかり、女は女ばっかりと思いこんでいたのに、まじめ君のところは男女混合だという。しかも、大家さんもおらず、女の下宿生がごはんをつくってくれたり、お風呂を沸かしてくれたりしているという。

「おいおい、なんだよそれー。なんでおれを呼ばないんだよー。そんなことなら、真っ先におれを呼べよー、おれをー」

 そう詰め寄る先輩軽薄ヘルズ・エンジェルズの迫力に押されて、まじめ君が「じゃあ、いいですよー。どーぞー。別にいいですよー」といったものだから、さっそく偵察に行ってみた。

 仙台から山形へ抜ける国道48号線沿いの古い民家だ。なんといっても、まだ仙台市内にも水道さえ通っていない家があった時代だ(わたしの3軒目の下宿がそうで、お風呂は大家のおばあさんが井戸で水をくみ上げて沸かしてくれていた)。はいっていくと、コタツのある居間があり、その奥には土間があって、(わたしのなかでは「噂の」)女子下宿生が台所仕事をしていた。

 なんか久しぶり。コタツに足を突っ込んで台所ではたらく人のうしろ姿を見るのなんて、いつ以来か……などと考えながら、いうことにこと欠いて「いいなあ」「いいよなあ」「いいよなあ、ここ」を繰り返しているうちに、その女子大生たちもコタツのほうへやってきた。

 ふたりいた。どちらも岩手県出身の別の大学の学生で、小柄でころころしていてかわいらしいAさんと、しゃなりとしていてうりざね顔のYさん。男の下宿生のほうも、福島県出身というところが共通していて、まじめ君ともうひとりの、少しいかついまじめ君のふたりだったから、ちょうど、仙台の北と南から出てきた男女4人の学生たちが、互いに協力しながら「疑似家庭」のようなものを形成していたということになるか。

 異性に対する嗜好も背景があって形成されるのだろう。わたしはコタツの向こうにふたりならんだAさんとYさんを見て、すぐにYさんのほうに興味をひかれた。ポイントはうりざね顔の受け口。小学生のころ、親類の女の子がわが家に泊まりに来たことがある。奥の部屋で姉と3人で布団に寝っころがってごろごろしながら話をして夜を更かしているうちに、おそらく、別にその人だからということではなく、いろいろな要因が重なってのことだろうが、なにやら感じるものがあり、その人が「うりざね顔の受け口」だった。

 こういう場合、ヘルズ・エンジェルズの外見の裏側に未熟な内面を隠していたりするような若僧は、興味をひかれたほうへは向かない。長い髪を垂らして伏し目がちに黙っているYさんのほうをちらちらと見ながらも、会話はもっぱらそのかたわらにすわった、少しころころしていて、なにをいってもころころと笑って話しやすいAさんのほうへ向かっていく。それでもって、「いいなあ。こういうところでこういう人たちに食事をつくってもらえるなんて最高じゃんかよ。こら、おまえ、わかってんのかー」と、先輩風を吹かせるのもわりあい型どおりに簡単にできることなので、会話の矛先はまじめ君のほうへも向かっていく。向かわないのは意識している人のほうだけだ。

 ともかくそうして、なんともいえない居心地のよさを感じたのはたしかだったので、一回が二回、二回が三回とたずねていく回数が重なっているうちに、クリスマスが近づいてきた。そこで、みんなでクリスマスパーティーをやろうか、と提案した。といっても、提案者のわたしが「ひきこもり」上がりだ。自分でいいだしたものの、クリスマスパーティーといっても、なにをしたらいいかわからない。同じく、まじめ君のほうも、別に「ひきこもり」に陥っていたわけではないが、ふだんまじめに学業にばかりいそしんでいた人だから、なにをしたらいいかわからない。とりあえず定番のクリスマスケーキを買って、シャンパンも一本買ったのはいいが、あとはよくわからないので、クリスマスはキリスト教のお祝いだからとまた教条的なことを考え、ちっちゃな聖書も買っていき、4人で1階の居間ではなく、2階のだれかの部屋のコタツを囲んだ(少しいかついまじめ君も途中で顔を出したのだったか)。

 1976年のクリスマスイヴ。あたり一面真っ白で、屋根にもどっさり雪が積もっていて、すりガラスのはいった小さな木の窓の内側で、まだ世慣れない田舎の学生たち4人がコタツを囲んでささやかな自分たちなりの「パーティー」を開いているという光景は悪くなかっただろうが、残念ながら、その夜は1ミリも雪が積もっていなかった。

 でも、いいの、いいの。「なに、グラスがない?」それも、いいの、いいの。「なに、読んだ聖書の言葉の意味がよくわからない?」それも、いいの、いいの。みんなでこの「いいの、いいの」を共有できるときの雰囲気というのはいいものだ。YさんやAさんやまじめ君のけなげさや、やさしさや、素朴さに触れながらシャンパンを飲んでいるうちに、紙でつくった箱の側面が開いていくように、コタツのまわりにひとり、またひとりと横になっていった。最後に残ったヘルズ・エンジェルズの先輩は、お年ごろがお年ごろだから、Yさんがスカートをはいていることを考え、いまコタツの布団を上げたらどういう光景が見えるか、などという想像もしたのだが、素朴な思いの詰まった今宵一夜はそのなかにいようと思う気持ちのほうが強く、紙の箱の4枚目の側面となって、ぱたんとそこに寝っころがった。

 で、朝。

 目がさめても、まだほかの3人は薄明かりの底にシルエットとしてころがっていた。

 でも、ん!? この明かり――。

 窓のすりガラスを見た。

 違う。明らかに違う。この白みかたは――そう思うと、ほかの3人がまだ寝ているのもかまわずに、ばたばたと起き上がり、窓辺に行って、その木の窓をあけた。

 あんなに白い風景は生まれてはじめてだった。どこもかしこも真っ白。こうなりゃ、ヘルズ・エンジェルズだってはしゃぎたくなる。

「お~い! お~い! 起きろー! ほら、ほら、見ろよー、これー!」

 まじめ君のシルエットは無反応。Yさんのシルエットも反応するのを渋っている。ただひとり体を起こしたAさんも、岩手県出身で窓の外が真っ白なんて日常現象のひとつだったのか、寝ぼけた声で「なに、雪ですか?」というと、やさしい心の持ち主らしく「よかったですね」のひとことを残してまた床と一体化した。

 なんだよ、みんな。

 ちょっと不満ではあったが、四国育ちのヘルズ・エンジェルズははじめて見る景色で沸き立つ気持ちを抑えられない。どかどかとひとり階段をおり、ブーツをはき、外へ飛び出した。

 国道48号線。

 ふだんなら、早朝にも大型トラックやなにかが走っているところだが、このクリスマスの朝には、車が1台も走っていないばかりか、走ったあとすらなく、ただただまったいらに、膝の上まで新雪が積もっていた。

 ウォーッ!――だ。

 わたしは真っ先にその一面の新雪のなかに飛びこんだ。そして、国道48号線の真ん中で大の字になった。こんなことは今日しかできない。これから長い自分の人生のなかでも、今日しかできないだろうと思うと、なぜか、よし、園芸部の花壇へ行こう、という気持ちが湧いてきた。あいつら、大丈夫か――と思った。園芸部のみんなで花壇で育てていた植物たちのことだ。

 ちらりと横を見ると、まだ3人が寝ている部屋の木の窓が目にはいった。そうだな、おれはやっぱりみんなとは異質な人間だ、みんなが寝ているうちにすっと消えるのがいいや――とも思った。

 しかし、ほんとうにわたしにとってはだれかにプレゼントしてもらったような朝だった。一夜にして膝の上まで積もった雪のなかに、ザクリ、ザクリと足を踏み入れながら教養部のキャンパスにたどりつくまで、だれの姿も見えず、だれの足跡もなく、ただただ真っ白い原野のような仙台の街を歩くことができた。

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by pivot_weston | 2011-09-09 09:11 | 自縄自縛

自縄自縛の愚かしさ(12)

(これは不定期連載でお届けしている記事です。流れがわかりにくい場合は、「自縄自縛」のカテゴリの過去の記事を参照してください。)

「おんちゃん」もいた。

「バラ」をやめても「街に出る」ことをやめたらまたすぐに「ひきこもり」に逆戻りしてしまうのではないかという強い恐怖感があったので、すぐにまた別のアルバイトを見つけ、さらにそれ以外のアルバイトも見つけているうちに、職安(いまでいう「ハローワーク」)の求職者の列にならぶこともおぼえ、ある売店で雇ってもらったときのことだ。

 売店そのものは早朝から夜まで開いていたが、正規の社員がその営業時間をすべてカバーしていたらたいへんなので、夜の部分と早朝の部分は学生アルバイトがカバーしていた。夕方に売店まで行き、帰宅する女性社員と引き継ぎをして、夜までその店をあけておき、売店ごとに決められた時刻が来たらシャッターを閉めて下宿に帰る。そして、朝になったらまたいちばんに売店まで行ってシャッターをあけ、朝のラッシュ時のお客さんの相手をしてから、定時に出勤してくる女性社員と引き継ぎをして引き揚げる。

 お金を扱うのは、はじめてのこと。それが、合わない。原則として、夜から朝にかけての1回の出番が終わったら、その担当時間内に売れた商品の数のリストと売り上げ金をもって会社に行き、経理の人に計算してもらってリストの数字とお金がぴたりと符合したところではじめて「おつかれさん」となるのだが、それが合わない。

 初日に合わなかったときには、途方に暮れる気分になった。経理の人は「たりないな」といって、それ以上はなにもいわず、ニュートラルな顔をしてこちらを見上げている。そういわれても、いまさら売店に戻ってもう一度引き継ぎをやり直すことはできないだろうし、お金のほうも、何度かぞえたところで結果が変わるわけではないだろうと思うと、どうしていいかわからない気分になった。

「ベンショー……ですか?」

 おずおずとそういうと、経理の人は表情を変えず、「ま、ほんとうならそうしてもらわないといけないけど、今日はまだはじめてだから、いいことにするよ」という。

 ホッ、だ。

 その「計算の部屋」には、同じ日にほかの売店を担当していた学生アルバイトの先輩たちもいて、みんなで「じゃあ、どうもおつかれさまでした」といって帰りかけると、そのなかのひとり、大きな財布をお尻のポケットから半分ほどのぞかせていたパンチパーマの先輩が「ま、あんなもんだよ。気にするな」と声をかけてくれた。

 売店にはいっていると、通勤や通学の時間帯には、右からも、左からも、正面からも手が伸びてくる。それをすべてひとりでさばかなければならないのだが、なかにはこちらの対応を待ちきれず、土産物の見本にはいったガラスの上に、パチーンとそのガラスが割れそうな力でお金をたたきつけていく人もいる。そういう人たちのなかに、お金を払うのを省略していく人もいるのかなと思った。だから、売れた商品の数と売り上げのお金を比較したときに、お金のほうがたりなくなるのではないか、と。

 きっと、そうだ。きっと、まだ慣れていないから、自分では十分に注意を払っているつもりでも、盲点がいっぱいあるのだろう。だから、もっと慣れてきてお客さんをさばくのがうまくなったら、しだいに欠損が出ることもなくなるだろう――最初はそんなふうに思ってよしとすることにした。

 でも、何度やっても合わない。「よし、今日こそは絶対にぴたりと合わせるぞ」と自分にいい聞かせ、どんなに忙しくなっても、つねに売店の右から左まで全体を視野に入れておくようにして、よし、今日こそは1円の狂いもなく合っているはずだと思っていても、計算してもらうと、やはり、お金のほうがたりない。

 それで、例のパンチパーマの先輩に相談した。

 意外な対策を教えてくれた。

 パチンコだ。

 パチンコに行って、たとえばタバコのハイライトを10個とってきたとする。それで、その日、ハイライトが5個売れたとしたら、とってきた10個のうちの5個を棚に積み、売れた5個を売れなかったことにする。そうすると、売り上げ金はそのハイライト5個分だけ少なくていいはずだから、かりに原因不明の欠損が出ていなかったとしたら、お金はあまるはずだし、たとえ欠損が出ていたとしても、ハイライト5個分の売り上げは穴埋めできるはずだ。

 これはいい――と思い、それからは毎日、売店に入る前にパチンコ屋に通うことになった。

 まだ「自動」の台が珍しかった時代だ。台に顔をすりつけるようにして立ち、右下で左手にもった球を1個1個、親指と人差し指でより出して台の穴に入れながら、右手でレバーをはじいていると、どの釘とどの釘のあいだがねらい目かということもわかってきて、けっこうチューリップが開いてくれた。

 で、10個、20個とタバコをとってきては、正規の女性社員が帰ったところで、せっせとそれを、数の減った棚のタバコの上に積み上げていった(雇ってくれていた会社に対しては、ずいぶんひどいことをしていたわけだが)。

 よし、これだけ穴埋めしておけば、欠損が出ることもないだろう――高々と積み上げたタバコの山を見上げて、そう思った。そして、現に、それからはあまり欠損金が出なくなり、ときによっては(当然のことながら)お金があまる日もできるようになった。まあ、なんだか知らないけど、この世のなか、なんでもきちんと杓子定規におさまるわけではあるまい。みんなこうして、なんだかよくわからないけど、なんとなくその日その日をやっていっているのだろう――そんなふうに思うようになり、売店の仕事にもなじんできたころだ。

 夜、お客さんが少なくなってから、ひとりでぽつんと売店のなかにすわっていると、店の前にゆらりゆらりと人影が現れた。

 うつむいた頭にかぶったハンチングはくたびれていて、その下からのぞいている顔は赤銅色にてかっており、ほこりをかぶったような上着もあちこちがほつれている。

「う~い、いるかあ?」という。一杯機嫌だ。

 なんだろうな、この人は?――と思い、床が少し高くなった売店のなかで立ち上がり、その人を見下ろしていると、眠たそうな目で顔を上げたその人が、わたしの顔を見て、急にその目をぱっちりと見開いた。

「なんだ、今日は××じゃないのか」という。

「××」はパンチパーマの先輩の名前だ。

 不機嫌そうな顔でもなければ、間の抜けた顔でもない。年はとっているし、顔も酒焼けしているけど、それなりに知性の潜在を感じさせる顔だ。それが証拠に、顔を上げてからのしぐさや表情には、どこか「礼儀正しさ」のようなものまで漂っている。もしかすると、どこかの小学校の校長先生だった人ではないか、という想像まで頭をかすめる。

 その人は「なんだ、きみは新しい人か? や、シッケイ」といって手をあげ、どこかさびしそうな表情を浮かべて歩き去った。

 わけのわからない気分だ。だから、次にパンチパーマの先輩に会ったときに、「こないだ、先輩をたずねてきたおじさんがいましたよ」というと、先輩は眉をひそめたが、「なんだか酒に酔っぱらってるみたいで、ちょっと風采が……」と言葉を継ぐと、すぐに「ああ、○○のおんちゃんか」といった。

「雑誌、もってきたか?」という。

「いや」

「そうか」先輩はそういうと、考えこむような表情になった。

「なんなんですか、あのおじさんは?」とたずねても、「いや、まあ、そのうちわかるよ」というだけで、深くは教えてくれない。みんながなんともよくわからない現実のなかで互いにそれとなく思いやりをもって生きていた時代だ。

 だが、ほどなくして、その「そのうち」が来た。

 昼間のおねえさん社員たちは基本的にふたりでひとつの売店にはいっていたが、わたしたち学生アルバイトも、ときにはふたりで売店にはいることがあり、そのパンチパーマの先輩といっしょに店にはいっていたときのことだ。夜遅くなり、お客さんが少なくなったころ、いきなり「おお~」といって、闇のなかからまたあのおんちゃんが現れた。今度は、わたしがいても、知性の潜在を感じさせる顔にはならず、酒焼けした顔を伸び伸びとふやけさせ、うれしそうに笑っている。そして、いきなり正面に積み上げてあった土産物の上に、どさっと5冊ほどの雑誌を置いた。新しい雑誌ではない。だれかが読んだあとなのだろうが、どれも表紙がめくれたりなにかしている。

 わたしは不意に目の前に置かれたその古雑誌の山にぼうっと注意を奪われていたが、先輩はその「おんちゃん」が現れたとたんに売店のなかの下のほうをごそごそとやり、うれしそうにその古雑誌の山を置いたおんちゃんになにかをわたした。

 あゝ、そういうことか――と思った。

 ハイライトだ。わたしはハイライトで欠損金の穴埋めをし、そのおんちゃんはハイライトならぬ古雑誌で日々の食費ないしは酒代をまかなうという構図ができあがっていたのだ。

 まだ「ホームレス」なんていう言葉のない時代だ。

「あのおんちゃんはどこに住んでいるんですか?」パンチパーマの先輩にそうたずねると、「さあな、駅の裏のどっか、そのへんだろう」という。なんだか、見つかったら怒られるだけではすまないようなことまでしておんちゃんの暮らしを助けているくせに、面倒くさそうにそういう言葉に、パンチパーマの先輩なりのやさしさがにじんでいるような気がした。

 そう、同じ大学の人はひとりもいなかったが、学生アルバイトの先輩たちはみなやさしくて、仲間やだれかを思う気持ちの強い人たちばかりだった。

 脱線するが、「ハウンド・ドッグ」の大友康平さんの同窓生たちだ(大友さんがわたしと同学年だから、先輩になるのか)。音楽の時代だ。よその街も似たようなものだったのかもしれないが、小田和正さんが去って久しかった仙台にも、吉川団十郎さんが現れ、あの「ダンダンズビズビズバダ」で楽しませてもらいながらも複雑な思いをかかえていたら、今度は街に流れていたラジオ放送のなかからさとう宗幸さんのような人が現れ、最近、週刊現代の記事で拝見したところによると、稲垣潤一さんもほぼ同時期に仙台で音楽にめざめた人らしい。引っ越しに引っ越しを重ねて行き着いたわたしのアパートの上の部屋では、毎日宮城工専の生徒さんがディープ・パープルをやっていたし、大学の教養部のキャンパスでも、毎日夕暮れどきになると、ロック・サークルの人がやるカルロス・サンタナの『哀愁のヨーロッパ』の切ないメロディが響きわたっていた。

 もちろん、わたしはそういう人たちの周辺の周辺の周辺の片隅にいたひとり。でも、こうして、30年あまりの歳月を経てから、その「片隅にいたひとり」の昔語りに登場する。ステージやどこか中心にいた人たちからすると、わたしのようなイモ学生の存在は視野にもはいっていなかっただろうが、ご自分たちが胸に抱いたギターかなにかに夢中になりながら周囲に発信していたものが、知らず知らずのうちに仲間にしたいともなんとも思っていなかった周辺人までとりこんだひとつの時代の空気を形成していたことをお伝えしたら、さぞかしご本人たちも感慨深いことだろう。

 ま、わたしは「ひきこもり」上がりのほんとうのイモにいちゃん。『MEN'S CLUB』の懸賞で当たったUCLAのBruinsのヨットパーカーなんかを着ていても、つい「素」が出て、上から黒い模造革のショルダーバッグなんかをかけていたものだから、大友さんたちの後輩の女子学生たちに「はは~、やっぱりトンペイはかっこワリィ~」などとからかわれていた。

 そう、この「イモ」のところが悪かったのかもしれない。「欠損金」のことだ。

 引き継ぎが終わって「じゃ、お先に」といって売店を出るわたしに、交代する女性社員たちはにっこり笑って「おつかれさん」と声をかけてくれていた。それで、わたしは下宿に帰ってからもそのおねえさんたちの顔やどこかを頭に浮かべて、いいなあ、と思ったりなにかしていたものだが、あんまりにもお金が合わないことが続くのが精神的に苦痛になってきたし、パチンコで勝ちつづけるのも難しくなったので、このアルバイトもやめたあとのことだ。

 だれかがその「欠損金」について、「ばかだなあ」というように笑いながら、ひとつの有力な説を開陳してくれた。

「そら、おまえ、妖しいおねえさんたちがやさしそうな顔をしながら、かわいい坊やをいたぶってくれていたんじゃないか」という。

 ハッとした。まったく思いも寄らぬことだった。女性の、男にはない曲線を見るとただもう神聖視してあがめるしか能のなかったイモにいちゃんには、まだまだ人間に対する理解が決定的に不足していた。

 それまでの行きがかり上、「ネエ、チョット、アソンデカナイ」のオネエさんにはじめて自分を認めてもらったような気分を味わわせてもらっていたわたしは、そちら方面により強いシンパシーを感じ、ふだん、街や大学で見かけるおねえさんがたはどこか疎遠な存在として受けとめていたのだ。

 まだまだ縛りを解く分野はほかにあったわけだ。やれやれ、貴重な貴重な10代の後半を学校の勉強にばかり費やしたりすると、こうなる。

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by pivot_weston | 2011-09-05 12:08 | 自縄自縛