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参加して感じること

 衆議院が解散した。

 こんな、解散なんていう制度は、ほんとうに現代においても必要、あるいは有効なものなのか。フレキシブルに状況に応じて切り換えができるようにしておく、と表現すれば、なにやら現代的に聞こえないでもないが、現実には、現代は一定期間の固定化を求めているように思える。

 国会議員が筆で文字を書いて、行李をかついで引っ越しをしていた牧歌的な時代には、状況に応じて「すぐに解散」というのも、それはそれでよかったのかもしれない。しかし、現代は、そういう意味でのフレキシビリティには劣るかもしれないが、なにもかもがシステマティックに動いている。なにもかもが大きな流れで動いている。それを急に遮断して切り換えたり、「切り換えが近いぞ」という読みをもとに流れが事前に停滞するようなことをしたりしていたら、それはすなわち、国家の停滞にほかならず、全体としては昔よりはるかにスピードを増し、分秒刻みで動いているマーケットなどの世界の流れから自ら遅れをとろうとするような行為になるのではあるまいか。

 それに、一定期間、わたしたちの選択が固定化されるようになると、わたしたちもそれだけ覚悟を決めて投票しなければならなくなる。今回の政権交代では、わたしも旧知の人物が当選したおかげで(先の選挙で民主党に投票していたわけでもないのに)国政の内部に参加する機会を得た。しかし、参加してまず驚いたのは、彼らの政治に参加している人の数の少なさだった。480議席のうちの300議席以上を獲得した政党のところにいても、その得票の多さを肌で感じることはなく、国会議員の国会事務所にいても「おお、やりましょう、やりましょう。いっしょにやりましょう」と言って集まってくる人はほとんどいなかった(きちんと話を通せば、誰でも来られるはずなのに)。事務所にいて見える範囲以外、つまり「陰」ではいたのかもしれないが、来るのはおおかた予算措置を求める人で、そういう人たちは自分の利益を考えているだけで、政治に参加している人とは言えない。

 そうか、日本の政治は相変わらず一部の人たちのもの、「他人任せ」なのだなと感じ、建前は資本主義国家でも国家予算を当てにしている人が大勢いることもよくわかった(現在はオバマ政権のアメリカも「アメリカ社会主義合衆国」と揶揄されているので、どこの国もそんなものなのかもしれないが)。

 震災が起きたときは、これで国をあげての態勢ができるかと思った。あそこで自民党もかつての社会党みたいな姿勢を続けず、不平・不満を封印して黙って政府に協力してさまざまな対策を前へ進めていれば、いずれはその協力が評価され、新鮮な政党に戻れるのではないかと思ったが、まだまだ「社会党式批判」に終始し、震災対応よりも政権奪還を優先させたのにはあきれた。

 今度の選挙は、どうやらその55年体制仕込みの姿勢が功を奏して行われることになったらしい。あれだけの震災を体験した国が、まだその震災から1年半あまりしかたたないというのに、なにをやっているのかと思わないでもない。まだまだ、民主党も自民党もあったものか、そんな、自分のことなど考えず、党派を忘れて目の前の緊急課題を片づけていかなきゃいけない時期なのに、そんな体たらくで、かと思えば、今度は選挙で預託された公職を投げ出しても能天気にバンザイをし、「第三極」とか呼ばれる人たちにすり寄ろうとするおじいさんまで出てくる始末。

 これはもう、わたしたちの参加の度合いが少なすぎるからだと思う。政治の仕組みが政治家と呼ばれる人たちに好き勝手にもてあそばれている。わたしだって、たまたま幸運に恵まれて内部をのぞけただけだが、ともかく内部をのぞいてみてつくづく思うのは、もっともっと多くの人が参加し、入り込む必要があるということだ。模様眺めで他人任せにしていてはいけない。国会のなかに入っても、この人はいいなと思える議員の数は少なかった(あくまでわたしの主観だが)。でも、彼らは「代議士」だ。最終的には、彼らが問題なのではない。彼らを動かすわたしたちがなにを考え、どうするかが問題なのであって、また思考回路の固定したメディアがしきりに「誰に投票したらいいかわからない」という受け身の声をもっともらしく流しているが、それは主権者、つまり第一に問題に立ち向かわなければならないわたしたちの言うことではない。国会議員の雇用主としてのわたしたちの責任放棄であって、「いい」人などいなくても、目の前にいる人しか選択肢がないのが現実なのだから、冷戦時代にアメリカにぶら下がっていればよかったときの気分など忘れて、現実的な選択肢を見つけ、自分が誰に投票したかにかかわらず、自分たちの代表者が決まったら、そこへ向かって自分の声を伝えていくことだと思う。

「第三極」とか呼ばれる人たちは、「なにも決められない」という結果ばかりを問題にしている。そして、その問題のある結果をなんとかするために、個に力を集めることを呼びかけている。しかし、それは「短絡」だ。個、ないしは少数の人に力を集めるとろくなことがないことはわたしたちも歴史の教訓として学んできているはず。いまのシステムに「なにも決められない」という問題があるとすれば、それは政治システムの問題なのではなく、わたしたちの国民参加のシステムがまだ成熟していないからにすぎない。かつて自民党の政治屋に任せきりにしていたシステムをわたしたちひとりひとりの声をもとに運営していくものに変えるには、それなりに時間がかかる。いまはただそのプロセスにいるだけなのに、「なにも決められない」のは問題だと言われると、すぐに、そうか、そうか、と考え、なんでも自分ひとりで決めたがっている人たちに任せる方向へ流れてしまうのは、わたしたち有権者のなかに、依然として人任せにしたい甘えがあるからのようにも思え、そんな方向へ流れて表面だけすっきりさせることができても、本質は昔の暗愚な時代となにも変わらないことになってしまうよ、とも思う。

 前に、日米の政治がパラレルワールドになっていると書いた。どちらでも与野党対決のねじれ現象が起こっている。でも、国民と政治との距離という意味では、ちっともパラレルではない。大きな格差や厳しい差別という現実が重い分だけ、アメリカの国民の声は切実だ。いまはその声が日本よりもはるかに歪みに満ちたアメリカの政治を少しずつ、じわりじわりとだが、動かしている。いまは保険もないひどい国だなどと嘲笑っていても、気がついたら、立場が逆転している可能性もある。尖閣の問題にしても、わたしたちの代議士が中国の指導者とどう向き合うかではなく、基本的には、わたしたち自身が中国の人とどう向き合うかが問われている。

 みんなが主権者としての責任を果たし、代議士を動かしていけば、自民党が政権に戻ったとしても以前のようにはできないだろうし、民主党が政権を維持したとしても、これまでのように頼りなくはないだろう。「第三極」と呼ばれる人たちは、ひとりの政治家がすべてのものごとをどんどん決めていくのがいいことのように言っているが、それはノスタルジーというものであり、多くの人のばらばらな意見をうまく総合していくのが、どんなに難しくても政治家の役目だ。第三極のリーダーの話からは、「こういうご意見もいただいています」「ああいうご意見もいただいています」という言葉がまったく聞こえてこない。あれでは、「ぼくはこんなに優秀なんだよ。だから、みんなぼくに任せて」という自意識の肥大化した子どもの主張にしか聞こえない。勝手に自分の考えでものごとを決めていくのは、国民の被雇用者である政治家としては、出過ぎたまねだ。他人任せにしていたらどんどんその他人の好きなようにされてしまうのはあたりまえのこと。震災後に被災地にボランティアに行き、自分で行動を起こした人が大勢いたのだから、被災地のためにもなると考えて、その気持ちを政治にも向けていけば、この国の政治も世界の流れに合わせて発進させることくらいはできると思う。

 結局のところ、だいじなのは、誰がいいとか彼がいいとかいう議論に終始せず、みんながひとりの主権者としてクールにシステムを動かしていくことではないかと思う。

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by pivot_weston | 2012-11-19 10:37 | 政治

どじょう内閣のどじょう問題

 キミヨッさんが、またやったった。

 今朝9:00から開かれた衆議院の農林水産委員会(リンク先でごらんになるときは、「玉置公良」のところをクリックしてください)。

 毎日テレビばかり見ていたら、「解散」「解散」て、国会議員はそれしか考えてないんかいなと思えてくるけど、ほんとはいろんな問題が起きていて、いろんな問題について議論が行われている。

 なかでもこれは、けっこう重大な問題(原発事故の汚染処理にも関係してくる可能性がある)。佐々木副大臣が答弁しているときに、背後にいるお役人さんたちがとろんとした表情を浮かべずに、バタバタしていることでも、申し合わせたようなお座なりな議論でないことはおわかりいただけるでしょう(いつも思うことだけど、大臣や政務官が答弁するのにあんなにバックはいらないだろうが)。

 どじょう内閣にどじょう対策を迫ったキミヨッさん。

 土壌は「国土」そのもの。「領土」問題となると、ウケをねらって発言する人が大勢いるけど、その基本となる「国土」のことになると、規定する法律も、主管する省庁もないというのはどういうことか。

 地味な問題ですけど、みなさんもお聞きになって、そらいかん、と思われたら、どじょうの基本法をつくる運動、ぜひ応援してあげてください。

 ちなみに、ビデオのなかでキミヨッさんが「地球のカンド」と言っているのは、なにも「地球の感度」のことではありません。和歌山のかたにはおわかりでしょうが、和歌山では「ざじずぜぞ」と「だぢづでど」が入れ替わるので、ド和歌山人のキミヨッさんが言う「地球のカンド」は「地球のカンゾ」、そう、つまり「地球の肝臓」のことです。

 まあ、わたしはもうキミヨッさんの公式の応援団ではないし、発言の末尾のほうには意見の異なるところもあるのだけど、彼が3年前の当選以来、ずっとひとりで取り組んでいるこの問題はとても重要なことだと思うので、ご紹介しておきます。

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by pivot_weston | 2012-11-14 14:55 | 政治

ホワイトハウスが変わりつつある

 White HouseのWebサイトに行き、右上隅のGet Email UpdatesでSign upすれば、オバマさんやホワイトハウスの主要スタッフからのメールが届くようになる。

 今朝も上級顧問のひとり、David Plouffeさんからのメールが届いた。

 文面がおもしろい。

 White HouseのWebサイトのWe the Peopleのページを通して国民の声を集めている行政府がその声に応えて対策を打ち出していること、そして、それを議会がブロックしていることを訴えている。

 かまわねえから、ジャンジャン声を寄せてくれ、ジャンジャン対策を打っていこうぜ――という気分がその文面から読みとれる。

 追いつめられている米国経済。ホワイトハウスもここまで追いつめられているか――という見かたもできるかもしれない。

 またまた、再選をねらっているオバマが国民にすり寄っているようなポーズをとっていやがる――という見かたもできるかもしれない。

 でも、その反面で現実に起きていること、政治が多くの人の目にさらされてしまっていること、背後にどんなにうろんな思惑があるにせよ、行政者が国民の側に立とうとしていることに注目するのは、忘れてはいけないと思う。

 背後に政治家のスケベ心やなにかが隠れていたって、とりあえずはかまわないという考えかたもできると思う。おそらく、わたしたちは理想を現出させることはできないだろう。でも、現実を少しでも理想に近づけていく努力をすることはできる。そこで、いつまでも理想を唱えて現実を批判しているだけに終始しているのか(こういう姿勢の人は、案外、ちっとも現実を変える気のない人であることが多い)、それとも、いろんな現実のなかでその少しの前進を実現させようとするのか、それはわたしたちの選択にゆだねられている。

 Establishmentは、つねに流動する世のなかの阻害要因になる。そのEstablishmentを切り崩せるかどうか、オバマさんたちは、背後にスケベ心があるかどうかは知らないが、とりあえず表舞台ではそんな闘いにはいってきたように思える。

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by pivot_weston | 2011-10-27 09:08 | 政治

日米両政府の「ん!?」

 首相官邸からメールマガジンが届いた。

 鳩山さんのころは【鳩山内閣メールマガジン】が表題の先頭。菅さんのころは、それが【KAN-FULL BLOG】に変わり、野田さんになると、さらにそれが【官邸かわら版】に変わった。

 正直なところ、あまり中身までは読んでいない。でも、見出し程度はちらちらとチェックしていた。鳩山さんのころや菅さんのころには、現実はともかくとして、なにをやろうとしているか、あるいは、なにをやろうとしているようにアピールしようとしているかということは、それで想像がついた。

 野田さんになって何通目だろう。もう見出しもあまりチェックしていなかったが、今日来たメルマガを見たら「世界に届け、日本の思い」とある。

 こんな学芸会じみた見出しは、これまであったかな?――とふと思った。なんの兆候といえばいいのだろう。野田さんの国連演説のことをいっているのだろうが、また政治と現実の乖離現象が起こりつつあるのだろうか。

 一方、ホワイトハウスのほうでは、9月20日に「Fact Sheet: Advancing U.S. Interests at the United Nations」という発表があった。「概況報告書:国連における米国の権益の増進」とでもいえばいいのだろうか。そのなかに「Defending Israel(イスラエルの擁護)」という項目があった。

「イスラエルに対する偏見と闘う」という主旨のことが書いてあった。オバマさんの政権も、財政危機のなかにあって富裕層への優遇税制を守ろうとしている対立勢力・共和党と、現実が見えていないという点では、あまり変わりはないのかもしれない。

 米国の政府は、まだ「ホロコースト」がしきりに映画のテーマになっていた時代を生きているのだろうか。国と国、あるいは、民族と民族のあいだでは、「やった」「やられた」を問題にしていたら、その「国」や「民族」という空疎な枠でくくられているひとりひとりの人間のことなど無視して、いつまでもその論理がつながっていく。必要なのは、そんな「国」だの「民族」だのというくだらない枠はいっぺんぶん投げて、生身の人間の側に立って、みんながフェアに生きられる環境をつくってみることではないのか。イスラエルの人も、パレスチナの人も、なにも枠でメシを食っている連中に殺されるいわれはないはずだ。

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by pivot_weston | 2011-09-26 14:38 | 政治

ポスト菅を思う

菅さんがいよいよ辞職に追い込まれようとしている。

この期に及んで、
松本ナンタラみたいな人を復興相に起用したりしたのだからそれも当然、
といえばいえるのかもしれない。

しかし、わたしはずっと、
菅さんの力量とかなにか以前に、
震災前からの菅政権批判に腑に落ちないものを感じている。

昨日、近所のパン屋さんがつくっているチラシにも
テレビでよく耳にする菅政権批判のフレーズが書かれているのを見て
(お断りしておくが、パン屋さんの政治的主張を訴えるチラシではない。
パンを売るためのチラシだ)、
あらためて、ふむ、と考えこむ気分になった。

世のなかの大勢がある特定の方向へ向かっているときは、
とりあえずそれとは違う方向へ向かったほうがいい、というのが、
これまで55年生きてきたわたしの実感だ。

本来なら中央も地方もなく一体となって機能すべき国家の行政機構の一部に
ポストを占めている人たちからも
平気で菅政権批判が飛び出しているのなどを見ると、
その表面的な批判の言葉より先に、
なんだろう、この現象は、
もしかしたら、いまは行政機構の多くの人たちが
自分で負いきれなくなった責任をかかえて
だれか、いちばん押しつけやすいところに責任を押しつけているのだろうか、
ということも考えてしまう。

前にも書いたように、
震災という自然現象はこの国に
受けとめるだけでもしんどいほどの負担を課している。

平時なら「いい人」でいられる行政担当者のみなさんも、
こういう厳しい行政環境のもとでは、
なかなか「いい人」でいつづけるのは難しい。

手に負えないことや手のまわらないことがたくさんでき、
別にその人自身は「悪い人」でもなんでもないのに、
不本意にも「悪い人」にならざるをえないことがある。

でも、考えてみると、
わたしたちにとって行政担当者が「いい人」でいることなんて、
どうでもいいことだ。
「悪い人」にならざるをえないときにしっかりとその役どころを受けとめて、
「悪い人」呼ばわりされながらも、ウサギとカメのカメのようにでも
行政の課題にひとつひとつ取り組んでくれる担当者が
そのサービスを受ける市民の側にとってはいちばんありがたい。

もしかすると、
これまで長く平時が続いてきたせいかもしれないが、
いまは行政担当者にそういう認識が薄れていて、
平時だろうが、非常時だろうが、自分はいつでも「いい人」でいたい、
と思っている人がふえてきているのかもしれない。

マスコミは「いい人」でいないと視聴率や部数が落ちるのかもしれない。
評論家も「いい人」でいないと人気と仕事がなくなるのかもしれない。
だが、行政担当者までがそんなマスコミや評論家といっしょになって、
特定の個人をたたいているようにも思える。

この国はそんなに特定の個人によって左右される国だったのかな?
という疑問も頭をもたげてくる。

ずっとアメリカに左右されて、
特定の個人なんて、だれだろうと関係ない国だったのではあるまいか。

わたしが菅さん本人にお会いしたときの印象からしても、
とてもあの人がそんなこれまでの国情を一変させて、
国の責任という責任、権力という権力を一手に握ってきたとは思えない。

実際にお会いした菅さんは、
こういっては失礼に当たるのだろうが、
ちょっとひ弱そうで(歌舞伎の女形のような印象を受けた)、
ちょっとかまえにtacticな気配がにじみ出ていて、
もうちょっとどっしりとかまえなよ――
といいたくなるような印象の人だった。

ともあれ、そんなわけで、
平時の「いい人」たちの、非常時にあたっての責任転嫁
のにおいが感じられるのが、
世間でえんえん続いている菅さん批判が腑に落ちない理由のひとつだ。

もうひとつは、菅さんを支える土台に対する疑問だ。

あまり書くのはどうかと思っていたが、
わたしの見た政治の現場の一端をお伝えしてみる。

わたしは大震災発災の3日前に国会クビを言い渡された。
そのときについていた代議士自身はよく勉強をする人で、
なるほど、「優秀」といわれるだけのことはあると思えたが、
どうやらまわりのスタッフにとっては、
わたしの存在が鼻についてしかたなかったらしい。

わたしは30年、ほぼ純然たる自営業を営んできた。
組織の流儀なんて知らない。
人と徒党を組むのなんてきらいといいつづけてきた。
それでどうして、それこそまさに徒党を組んでいる人たちのもとへ
手伝いにはいったかというと、
それはほら、わたしだってひとりの日本国民だし、
子どものころには、南方で撃ち落とされた伯父さんにあこがれ、
遊びのなかで何度も「お国のために命を捧げる」気持ちを
シミュレーションしていたこともあったからか、
前々から、この国の一大改革のときが来たら、
馳せ参じてなにかの役に立ちたい、と思っていたからだ。

それに、組織を知らない自営業者が国民としてカウントされない
という話も聞いたことがない。
だから、失敗ばかりして「いや、すみません」「どうもすみません」
と謝ってばかりだったが、
受け入れてくれたポストに厚かましくいすわっていた。

すると、どうだ。
わたしの書類がとなりのデスクの上にはみ出したといっては文句をいわれ、
デスクの引き出しがあけっぱなしになっていたら
じゃまだといっては文句をいわれ
(もちろん、文句をいう人の書類がはみ出していても、引き出しが開いていても
ひとこともないのだが)、
国会議員の事務所というところはなんとも低レベルなことをやってるところだなあ
と半ばあきれていたら、
今度は、わたしが会議でもらってきて机の上に置いていた資料のなかから
いつのまにか一枚だけがこっそり抜かれていたりすることもあり、
代議士が大臣に会いに行くときに
わたしも写真班としてついていく用意をしていたら、
こちらが事務所を出る直前に、
外に出ていたとなりのデスクの人から電話がかかってきて、
「もう少し事務所にいてくれ」とくる。
だから、はいはいと応じて事務所にいたが、
いつまでたってもその人が帰ってこず、
もう遅刻だ、と思って事務所を飛び出したときには、
その人がちゃっかり写真班として大臣のところへ行っていた、
なんてこともあった。

で、思った。
わたし以外のスタッフはみんな代議士に恋しているのだ。

老若男女を問わず、
代議士に恋して、だれよりもそのそばについていたいのだ。

そう理解した。

わたしはあまり、だれかのことをえらいとは思わない。
いや、ほんとうにえらい人は、こちらからえらいと思わなくても、
自然にその言動の結果として、えらいと思わせてくれるものだと思っているので、
その見分けをきっちりつける意味でも、
あまり「えらい」の評価を他人や世評にはまかせないことにしている。

だから、
それにしても子どもじみたことをするものだな、とか、
ずいぶん手の込んだことをするものだな、と思いながらも、
そういうことをする人たちをぼーっとながめていたら、
クビになってしまったわけだが、
その人たちがよく、自分たちの政党・民主党へ逆風が吹くたびに、
「もう党のことはどうでもいいんです。××個人をよろしくお願いします」
といって事務所へ来た人たちに支持を頼んでいた。

これにはさすがに、
そらちょっと、違うんじゃねえの、と思った。

いくらオカシラが間違いをおかそうが、
いくらオカシラがおたおたしようが、
政党というのは、表面的にはかなりのところまで一枚岩でなければならない、
ということは、組織を知らないわたしでも知っている。

そうでなきゃ、政党政治になんかならない。

だが、しかたがない。
ほかのスタッフはみな自民党ないしはそのシンパだったのだから。

民主党は一気に大きくなっちゃったものだから、
自前の人材が追っつかず、
だからわたしみたいな変なのがもぐりこめたりもしたのだろうが、
ともかく、民主党の議員にもそのスタッフにも
実質自民党がいっぱいいる。

そういう人たちは、
55年にわたる政権政治の流れにくみして、
わたしなどとは違い、従来の政治の段どりには通じているのだろうが、
東京でも、四国でも、
固定化されてどんどん自然な活気を失っていく世のなかを見てきて
ずっと変化に期待を寄せてきたわたしなどとは違い、
今回の政権交代の意味がいまひとつよくわかっていない。

だから、「われわれは選挙で当選してナンボやからね」とかいいながら、
とーっても簡単に政党の旗印をおろしかけたりする。

ちゃうで。
そら、原則としては「当選してナンボ」かもしれないけど、
変革期の担い手は「次はない」くらいの覚悟でやらなアカンのちゃうか、
と思う。

わが身恋しゅうてなんの政治か。

そう、まさに彼らは
「代議士・命」のように見えて「代議士・命」ではない人たちである
こともわかった。

となりのデスクにいた老練のスタッフは、
大震災後、大きな余震が来るたびに腰が浮くようになった。
そして、そわそわしだして、そのうち、
「今日はちょっと用事があるので……」といってさっさと帰宅し、
それだけならまだしも、ガソリン不足が伝えられると、こともあろうに、
遠くのガソリンスタンドまで、いま必要かどうかもわからないガソリンを
買いに走るようになった。
そして、もうひとりいた女性のスタッフも、
放射能のデータが公表された翌日に、
怖くなったからといって地方の実家に帰った。

なんともいえない気分だった。

わたしがいたのは国の政治をあずかる国会議員の事務所。
いくら未曾有の大震災だったからといって、そこがカラッポになり、
残ってひとり詰めていたのが、すでにクビを宣告されていたわたしひとりとは。
ほんと、こんなことでこの国は大丈夫なのだろうか、と心底思った。

労働組合を支持母体とする民主党の議員の事務所で、
労働組合の人たちに対して陰で「なんだかいやですね、あの人たち」
という言葉がささやかれていたのも、少しショッキングだったか。

彼らは結局、自分の自尊心を満たしたいだけなのかもしれない。
人から「えらい」といわれる人のそばについていることによって
満たされる自尊心。
それだけがめあてなのかもしれない。

なかには、
自民党の古い政治家の流れをくむ人たちが
マスコミの人といっしょになってはいりこんできて、
表向きは「変化」をかかげる若手政治家の背後で、
古い時代の価値観で幅をきかせている、なんて例も目にした。

そんな人たちは、
議員も自分の欲望を満たすためのひとつの手段として利用しているだけ
なのかもしれないが、
ともかく、そんなわけだから、
国民みんなが一致団結しなければならない国家の一大事にも、
政権与党すら団結することができないのではないかと思っている。

自民党の立てる首相、立てる首相がみな、
大昔からの流儀を踏襲する2世や3世ばかりになり、
息苦しさや、世界から取り残されそうな不安にかられた国民が
変化を期待した総選挙で一気に組織を拡大した民主党は、
同時に、
幼いころから「いい子」で育ち、
つねに親やまわりの人たちの期待に応え、
その変化を期待した国民にも「いい人」と見られて当選してきた
若い官僚上がりの政治家が多い政党でもある。

感じのいい若者たちだ。
だが、わたしが国会に出入りしていたときには、
そういう政治家たちのつねにどちらへ向いても「いい人」であろうとする
姿勢がとても気にかかった。

ひとつの政党の一員としての自覚より、
「いい人」でありたいという気持ちのほうが強いからだろうか、
そういう人たちは、世論やだれかからなにかいわれると、
自分で問題を考えて判断し、
気軽に自分たちの政党のトップへの批判めいたことを口にする。

それで、トップはああだけど、わたしは違うんですよ、違うんですよ――
となる。

もしかすると、官僚の世界にはどこか政治家を見下しているようなところがあり、
そういう姿勢が表に噴き出してきた結果なのかもしれないが、
そういう感じのいい若者たちのふるまいを見ていると、
政治がタレントの人気取りの競争のようになっているような危惧もおぼえた。

わたしは、菅さん批判がこうして、
さしたる擁護論も出ないままどんどんどんどんふくらんでいく背景には、
そういうこともひとつの要因としてひそんでいるような気がしている。

そもそも、
2年前の総選挙で政権交代を選択したとき、
わたしたちは変化を期待した。

世のなかを変えるのはひとりやふたりの力でできることではない。
変えようと思う人間がみんなで力を合わせて
はじめてできることだ。

第一、わたしたちは「政治家」だけではなく、
従来の古い政治機構や行政機構も変えようと思っていたはず。
そうであれば、変える対象のなかには、
明治以来あまり代わり映えのしない日本の官僚機構やなにかも含まれる。
つまり、菅さんをはじめ、政治の世界で「変化」の旗をかかげた人たちは、
外からも、中からも、変える対象に取り囲まれて政治をしてきたわけだ。

であれば、
選挙で票を投じたわたしたちが変化の旗頭を背後からバックアップしないと、
圧倒的に多勢に無勢になるのではあるまいか。

まだ国会に出入りしていたころ、
いつもタクシー運転手たちが食べに来る食堂で夕食を食べていた。

あるとき、わたしが民主党議員のところではたらいていることを知っていた
あるタクシー運転手がわたしにこういった。

「菅はいつになったらやめるの。
あいつ、なにかしてくれると思って票を入れたのに、なにもしないじゃないか。
もう顔を見るのも腹が立つ。早くやめてくれよだよ」

だから、わたしはこういった。

「あなたも彼らを選んでこの国を変えようとしたのだろう。
選んだのなら選んだ人間の責任もある。
あなたは選んだだけで、結果はただ選んだ人間に期待して、
なにかをしてもらおうとするだけなのか。
わたしは選んだ人間として、最後まで応援する」

それがスジ、っちゅーものではないだろうか。

国民のフラストレーションがたまるときには、
その国民からの批判を受けとめる人が必要だ。

これまでは菅さんがその役目を一手に引き受けてきた。
これから、その菅さんがいなくなると、
いったいだれがその役目を引き受けるのだろう。
「いい子」が「いい子」をアピールばかりしている政界は、
それこそカオスになるのではあるまいか。

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by pivot_weston | 2011-07-18 14:23 | 政治

細野さんのこと

細野豪志さんが原発事故担当の大臣になったという。

首相補佐官として原発事故対応・広報担当になったときから
いい人事だと思っていた。

国会に出入りしていたころ、
民主党の内部で選挙戦術の研修会があり、
閣僚経験者のMさんと細野さんが話をしてくれた。

最初に前に出たMさんの話はおもしろかった。

不動産の営業などもなさったことがあるらしく、
まるでどこかの企業の営業マンの全国大会で、
今年のトップセールスマンに選ばれた人が
誇らしげに自分のやりかたを披露しているように、
上手に抑揚をつけた話しぶりで、
適当にユーモアも交えながら、
どんどん聴いている者の心をつかんでいった。

ふむふむ、ふぅーん、そこまでやるかあ――という感じだ。

そして、講演者が細野さんに代わったとたん、
その、力感あふれる抑揚豊かな言葉が響きわたっていた会場内に
なにやらシーンとした雰囲気がひろがり、
そこに、あの、聴いている人の喉まで撫でていくような
細野さんのひっかかりのいい声がやや物足りないボリュームで響いた。

おや、やはりMさんのほうが一枚上手なのかな――
正直なところ、最初はそう感じた。
だが、そこは大勢の人に票を入れてもらって当選してきている人だ。
細野さんのほうもなんだかんだと話を聴かせていく。

そして、気がついてみると、
いつのまにかわたしはその話にじっと耳を傾けていた。

Mさんがディズニーランドのようになにもかもつくった感じなら、
細野さんのほうは対照的に、
素朴で、自然な人だ。
わたしより若いだけあって、
そういうところにはところどころ、
やや若さを感じさせるところもあったが、
なにより印象に残ったのは、
お、この人はなにがあっても逃げないな、
と思わせてくれたところだった。

その研修会が終わってしばらくして、
がらんとした国会議員会館の廊下を歩いていたら、
目の前をとぼとぼとうなだれて歩いていくもっそりした人のうしろ姿が見え、
議員会館のなかではあまりそういううしろ姿を見かけないものだから、
誰だろうと思って近づいてみたら、細野さんだった。

なぜだろう、このときも、
やたらと自分をどう見せるかばかり考えている議員が多いからだろうか、
だれもいないと思っていたからかもしれないが、
ひっそりとした廊下をもそもそと歩いていく細野さんのうしろ姿に、
お、こいつは信用できるやつかもしれないな、と思わせるものを感じた。

そりゃあ、国政の一翼を担う身となれば、
補佐官であろうが、大臣であろうが、
1000人や2000人の人は下に従える。

そのうちのだれかが失敗をしてもすべて責任を負う立場にあるのだから、
こら、なにやってんだ――と怒られることはある。
そういうときに、なにがあっても「逃げない」という要素は大切だ。

いつもわたしがたとえる金比羅山の石段にたとえると、
500段くらいまで上がっていて、一気に下まで転げ落ちたりしたら、
そりゃあ、みんなから非難の嵐を浴びせられてもしかたがない。
でも、500が0になったのは、たしかに取り返しのつかない大きな失敗
かもしれないが、
そこでわたしたちにできる最善のことは、
立ち止まって泣いたりわめいたりペコペコしたりすることではなく、
いまある状況を少しでも好転させること、
つまり、たとえ500段が0段になったとしても、
また目の前の1段に足を踏み出すことだ。

どんな状況でも、わたしたちにできることは、
そうして目の前の1段に足を踏み出し、
それを積み重ねていくことしかない。

あくまで限定的な見聞にもとづく私見にすぎないが、
細野さんという人は、そういうことができる人のような気がするので、
今回の人事もいい人事だと思う。

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by pivot_weston | 2011-06-28 22:00 | 政治

国民生活が第一

民主党がそんなスローガンを掲げている。

でも、現実には、
それを単なる自分の地位確保のための手段に使い、
いまだに特権意識をもっている人たちがいる。

このスローガンをほんとうにそのとおりのものにするには、
ふつうの国民がどんどん政治の現場に乗りこんでいく必要がある。

なにかをしてあげるのと引き換えに票をもらう。それが常識――

そんなことが、民主党のなかでもいまだに平気で語られている。

流れも、その方向も、標記のスローガンの実現に向かっているのは確か。
でも、そこに「ウソ」を介在させないためには、
もっともっと、ふつうの国民の参加が必要だ。

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by pivot_weston | 2011-03-11 06:43 | 政治

局地戦は国を滅ぼす

前原さんが辞任した。

これまで民主党の一部で起こっていた
ひとつの動きがパタッと止まった。

しかし、こんなことでよいのか。

問題を指摘した議員がどんな人物かということも
語られてはいない。

大局が局地戦に左右されるのは自然なことなのかもしれないが、
いまは大局に対する視野が、とりわけ野党の側にまったく感じられない。

「尖閣」のときも、
あとは黙ってほうっておけば、
中国がひとりでじたばたと暴れ騒ぐさまばかりが浮き彫りにされていたのに、
いっしょになって騒いで「領有権争い」を国際的に動かぬ事実としたのは、
野党の側だった。

日本政府がかつてない強い対応をとったのを見て、
ロシアの大統領があわてて国後島へ視察に行っても、
そういう人たちはそれを、与党攻撃の材料としてしか見ず、
matter-of-factlyに交渉を進めるチャンスが開けたことは無視されている。

「普天間」のときも、
アメリカに行って向こうの高官か誰かの話を聞き、
ほらほら、民主党政権はアメリカから信頼されていないんだ、
ほら、大問題だ――と言っていた議員の発言を聞いているのは、
日本国民として、ほんとうに情けなく、いやなものだった。

それなのに、
いまはそういう議員たちの政党のほうが「支持率」が高いという。
どうなっているのか、これは。

大局こそが、わたしたち国民の生活に直結する。

与党も野党もなく、みんなで力を合わせて立ち向かわなければならない、
いってみれば「国難」のときに、
ことの重大性をぎりぎりまで吟味した気配もなく
ただルールの上で問題だから問題にするような姿勢には、
大局を見る視点がまったく欠けているように思える。

なんでもいい、
国がどうなろうとそんなの関係ないから、
とにかく政権を倒せばいい、
ということなのか。

それなら、問題にする人こそ、
国益に反することを企む外国勢力となんら変わりはないではないか。

60年間も政権を担当してきたのが
ただ私利私欲のためだったのではないかといぶかりたくなるような
スタンドプレーの連続だ。

メディアの現場の記者に話を聞くと、
彼らは野党の立場でいることを「楽だ」「楽だ」と言っているらしい。

そんな、お気軽気分で国をひっかきまわされてよいのだろうか。

前原さんにも、
自分がボロボロに非難されても
こつこつと自分を応援してくれていた人が深く傷つくことを考え、
その人を守るようなやさしさがほしかった。

彼の行動には一貫して、
亡くした「父親」に求める「虚像」のようなものが感じられる。

男って、もっと弱いもの、
弱いものでいいんだよ。

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by pivot_weston | 2011-03-08 06:18 | 政治

意外な展開

「さ、伸び伸び」(3月2日の記事)なんて思っていたら、
少々意外な展開が……。

いまの仕事は、地方と中央で手分けしてやる仕事。
ある案件のことで地方のスタッフと電話で話をしているうちに、
なんとなく話題がそこらへんにさわってきたものだから、
このまま黙っとるのもナンだなあ、と思い、
「あの、もうそっちで聞いとるかもしれんけど、
わたしは3月で、ということになったから」と言ったら、
「えーっ! なに、それえ! そらちょっと、ナットクいかんなあ」ときた。

別にわたしが怒られているわけではない。
うれしくもあり、また、ありがたくもあることに、
若い地方のスタッフが、わたしが「3月で、ということに」なることに
義憤を感じてくれている。

通じる喜び、とでも言えるのだろうか。

「それ、もいっぺん、なんとか変えられんのですか?」
とまで言ってくれる。

だが、「3月で、ということに」なることは
なにもわたしが決めたことではない。

それに、
話をすればムードが変わる可能性があるのなら話もするが、
しばらく時間をかけて、慎重に、慎重に様子を見きわめてきた結果、
どうやらそれはなさそうだ、というところに
わたしの見方は落ち着いている。

地方で次々と義憤のノロシが上がってもまずかろうから、
「まあま、3月中に状況が変化するという可能性もなくはないから」と言って
電話を切った。

こういうことこそ、いまの状況をもたらしている要因のひとつではないかと思うが、
メディアはそんなIn-depthな取材も報道もしない。

ただ、いま起きている状況を読み解く手がかりは、
いくつか手に入ったと思っている。

内側からのながめは、
外側からのながめとはずいぶん違う。

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by pivot_weston | 2011-03-05 18:13 | 政治

さ、伸び伸び

いやあ、待ちに待った解放のとき。
また自由気ままに自分の思ったことを書けるときが来ました。

これも取材と心得て、
いやなことがいっぱいあってもがまんして、
政治の世界の奥深くまではいっていたけど、
また伸び伸びと暮らせるときが来ました。

考えようによっては、ぜいたくな暮らし。
でも、わたしにとっては、これしかできない暮らしでもあります。

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by pivot_weston | 2011-03-02 23:01 | 政治