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カテゴリ:オリーブ橋小脳委縮症( 13 )


電気にすがって生きる

 知らなかった。

 九州で豪雨・竜巻の可能性がある、とニュースで言っていたので、姉のところへ電話をかけて初めて知った。九州電力管内では、計画停電の可能性が通告されているらしい(知らなかったのは、うかつのきわみだが)。

 わたしの義兄は、オリーブ橋小脳萎縮症という病気で、電気で生きている。

 昼間からインターネットで、自分たちの価値基準だけで「反原発」を叫び、「再稼働」を実力阻止しようとしている人たちを見て、はらわたの煮えくり返る思いをしていたところだった。

 このブログでは、何度も書いてきているように、わたしも40年近くさかのぼれば、「反原発派」だ。何代も、何十代も先まで、誰も負いきれない責任のおよぶことを決めた自民党や、その危険な施設を大都市ではない、大都市にとって都合のいい特定の地域に誘致してきた政府や地方の有力者たちに嫌悪を感じていた。

 しかし、そうはいっても現実と妥協せざるをえず、そんな身勝手大都市の一住民となり、原発から供給される電力の一ユーザとなり、暮らしの排泄物のひとつとして使用済み核燃料という排泄物を本来電力消費地である関東とは関係のないはずの福島県や新潟県に排泄してきた(わたしの排泄物も間違いなくあそこにあり、間違いなく、ほかの関東の人たちと同様にわたしもあの排泄物の責任者のひとりだ)。そして、そうして生きてくるあいだに、義兄がオリーブ橋小脳萎縮症という、思いも寄らない病気を発症した。

 誰でも、命の危険にさらされたとき、目の前の現実のなかにある可能性のなかから生きていく方策をさがすのはあたりまえのことではないだろうか。わたしたちは、義兄が発病し、その症状が悪化していく状況のなかで、原発によるものか火力によるものか、そんなものは知らないが、ともかく電気にすがって生きる道を選択してきた。

 いつの時代でも、どんなときでも、わたしたちはそうしてそのときそのときの現実と対話しながら生きている。

 それを、過半数かなにかは知らないが、決して全員一致の意見ではない、あくまで一部の人たちの実証性の乏しい価値基準や「危ない」という印象だけで、ある日突然変化させてもよいのだろうか。

「再稼働阻止」を叫んでいる人たちや、そういう人たちのスピーカー役を務めているメディアの人たちが、いま生きている人たちやこれから生まれてくる子どもたちの幸せを願って叫んでいるのだとしたら、その方向は間違っていると思う。

 計画停電は前日にならないと発表できないものなので、義兄とその家族は明日は非常用発電装置のある病院へ移らなければならないかと、日々おろおろしながら生きている。おそらく、そういう状態に置かれている人たちは、義兄とその家族にかぎらず、全国に何千、何万といるだろう。

「再稼働阻止」を叫ぶ人たちの命がそれ以外の人たちの命と比べてどれだけ貴いのか知らないが、そうして現実のなかでどうにか生きている人たちの営みを踏みにじっても自分たちの主張を通そうとする姿勢は、かつての自民党の政治家たちとなんら変わらない。


オリーブ橋・近況報告

 このブログはオリーブ橋小脳萎縮症関係のかたものぞいてくださっているようなので、九州の義兄の近況を報告しておきます。

 おととい、急に体温の制御がきかなくなったようです。

 これまでも発熱して入院することはしばしばあったのですが、今回のように体温が制御を失い、大きく上下動するのははじめてのことで、医師もあわてたようです。どうやら、病気の核心、小脳のほうにも変化が現れているようです。とりあえず、いまは薬剤に反応し、薬がきいているあいだは発熱を抑えておけるらしいのですが、薬がきれると、また体温が上昇するらしいです。

 なお、血圧は安定しており、意識も明瞭のようです。

 病気の経過は人それぞれで、いまからいってもしかたのないことですが、6年ほど前の発症時には「通常は20年ほどかけて悪化していく」といわれていたのにと、つい思ってしまいます。


オリーブ橋、ひとつのケース

なぜだろう、
ここ数日、義兄のことが頭をよぎる。

わたしと違い、
もともと口数の少ない人ではあった。

四国から仙台の大学にはいって2年目の暮れ、
「お正月にねえちゃんが結婚することになったから、帰れ」
という連絡があった。

ふぅん、てなもんだ。

大学から特待生の誘いがあった姉に進学を断念して大学に行かせてもらったくせに、
姉の人生を斟酌してその知らせの意味をかみしめるやさしさもなければ、
そもそも「結婚」という行為を人のまじめな営みとして理解しようとする
姿勢すらなかった。

そのせいか、
同郷の義兄の実家の近くの神社で行われた結婚式でも、
義兄の記憶は、ほとんど残っていない。

境内の一角にあった披露宴会場の前で
花嫁衣装姿の姉といっしょにならんで笑顔で写真におさまっているところくらいか。

不思議な光景だった。

姉は、ま、いちおう女だが、
学校一の不良の番長とも「腕」で勝負に行くような人。

3つ下で、中学で重なることのなかったわたしも、
卒業したその姉の威光で、
文句をつけに来た先輩の番長グループがあとじさりしてくれる
光景を何度か目の当たりにした。

だから、小柄だが、怪力の砲丸投げの選手で、
そんな野蛮な世界にもにらみがきいた姉のとなりで、
やはり小柄で、なんともやさしそうな義兄が
それからの人生の伴侶としてにこにこしている光景は、
砲丸の代わりに投げ飛ばされて育った弟としては、
なんとも不思議な光景だった。

もちろん、とはいえ姉とは仲のいいきょうだいだったので、
その結婚式のころの一見も二見も無関心に見える態度は、
ただの、なんとかの裏返しだったのかもしれない。

ふたりが結婚後に住んだのは当時の義兄の勤務地、栃木県今市市で、
四国と仙台のあいだを往復していたわたしにとっては、
とても立ち寄りやすい場所だったのだが、
にわかには立ち寄ろうとしなかったように記憶している。

わたしもふたりきょうだいの弟なら、義兄も三人きょうだいの末っ子。
わたしも四国の出身校ではほかの人があまり行かない仙台の学校を選んだ人間なら、
義兄もまだそこより先の、津軽海峡を越えた北海道の大学にはいり、
ひとりで汽車の通路に新聞紙を敷いて寝っころがりながら行き来した人。

お互いにあまり人と接するのは得意なほうではなかったこともあったのだろうか。

でも、壁を隔てて存在する似たような空間というのは、
壁がとれたときにさしたる抵抗もなにもなく混ざり合えるもので、
一度、今市のふたりの新居の借家に遊びに行って泊めてもらってからは、
わたしが宇都宮を通るたびに途中下車するようになった。

義兄は車の運転が好きらしく、
行くと必ず、日光のいろは坂や、中禅寺湖や、男体山や、杉並木や、
そういうところへつれていってくれる。
そして、その途中でどこかの体育館のようなところに立ち寄ると、
バスケットボールや卓球をするのだが、
これが、なにをやってもうまい。
わたしにとっての「スポーツの王様」のような存在だった姉を
軽~く一蹴してしまうくらいうまい。
そして、きわめつきがギター。
学生運動全盛期の人だ。
かの、北大名物・恵迪寮でも肩まで髪を垂らしてジャカジャカやっていたらしいのだが、
わたしが遊びに行って、みんなでビールを飲んでいるうちに、
あまり自分から弾こうとすることはないのだが、
一度聴かせてもらったものをこちらがもう一度聴きたくて、聴きたくて、お願いすると、
きれいなつやのあるギターを取り出して、
いろんなフォークナンバーを、譜面もろくに見ずに、
いや、譜面に書いているような弾きかたではなく、
まさにそれをうたっているプロの人たちの演奏のような弾きかたで
次から次へとやってくれる。
そして、その声がまた、澄んでいて、とても美しい。
いまでも、あんなにきれいな声は聴いたことがない、と思うくらい美しかった。

義弟のわたしからすると、とにかく、
なりは小さいし、知らない人の前ではとてもおとなしいしなんだしするのだけど、
実は、なんでもできる人、しかも、なんでもハイレベルにできる人、
といってもよい存在だった。

その人が、かつての大企業の技術者のつねといってよいのか、
その後、奈良県御所、滋賀県大津、大分県宇佐と転勤を重ねた末に、
もうこれ以上は転勤したくないという意思を表明し、
大分県の地元の企業に転職して、また技術職を続けていた。

わたしの妻ががんを発症し、闘病していたころも、
何度も車でフェリーに乗って四国まで帰ってくれた。

そんな義兄が、わたしの妻が亡くなって何年かたったころ、
人に会いたくない、といって、あまり顔を見せなくなった。

もともと人づきあいの得意な人ではなかったので、
姉もわたしも、まあそうなのだろうと思っていたのだが、
それが、あとになってみると、ひとつの兆候だった。

もう6年前になるだろうか、
「オリーブ橋小脳委縮症」という診断名をはじめて聞いたのは。

50代くらいの人が発症することが多く、
20年ほどかけて少しずつ体が動かなくなっていく病気――
そのころ、調べたときには、そういう特徴がわかったのだったか。

その義兄が、まだ診断後6年ほどなのに、
もう姉と目の動きでしかコミュニケーションができない状態になっているという。

病気というのはどうしてこういう発現のしかたをするのだろう。

10年近く前、神戸のあるがん患者の会の主宰者のかたのお宅におじゃましたときも、
その1年前まで新聞記者としてバリバリ働いていたそのかたの旦那さんが
若年性の認知症を発症されてお宅で小さく肩をすぼめておられるのを見て、
同じように感じたことがある。

なんでもできる状態からなにもできない状態に変わった人の
内面で起こること。
でも、そんな事象をそばでつぶさに感じとっている姉は、
自分では昔の砲丸投げを再開し、
義兄とは、お互いの強烈なひいきチーム、広島カープと阪神タイガースのことで、
いびったりなにかしながら、
義兄が「ここ以外にどこにも行きたくない」という
笑いのある家庭を保っている。


難病を現実の政治の枠組みへ

今日、民主党の政策調査会の障がい者政策プロジェクトチーム
(民主党政調では、厚生労働と国土交通など、
複数の部門にまたがる問題を扱う会議を「プロジェクトチーム」と呼んでいる)
の下に設けられている難病対策ワーキングチームの会合に出たら、
国立保健医療科学院の政策科学部長の金谷泰宏さんという人から
日本の難病対策の現状と問題点に関する報告があった。

難しい病気という現実があって、それに直面している人たちがいて、
どうしたらその人たちが少しでも心地よく人生を過ごせるようになるかという方向へ向かって、
かなり意識の絞れたお話だった。

厚生労働省のお役人たちの現状報告などとは違い、
力がはいったり抜けたりする自然な強弱や抑揚もあったし、
出席者から×××という病気に関する質問が飛んだとたんに、
「×××のことは……」と、背景に十分な知識の存在を感じさせる返答が返ってくるあたりにも、
金谷さんという人が難病に立ち向かっている人たちに近い立場に立って、
難病という問題に取り組んでいることが感じられた。

で、よかった、誰に指示されたわけでもないけど出席してよかった、
と思っていると、最後に座長の玉木朝子議員がマイクをとり、
「今日は難病の患者団体の代表のかたもお見えで……」と
会議の次第書にはお名前の記載がなかったかたを指名した。

日本難病・疾病団体協議会の伊藤たておさんだ。

伊藤さんのお話もなんだか感じがよかったので、
会議が終わったあとで、出席者たちの退室の流れが落ち着くのを待ち、
おもむろに伊藤さんに近づいて名刺交換をしたら、驚いた。

伊藤さんの名刺に印刷された住所を見ると、ありゃりゃ、これ……?
「これ、1階におそば屋さんのあるビルでしょ?」とたずねたら、
「そうです」と言う。

無数のビルが林立する東京の街でこういう偶然は珍しい。
「ありゃ、これ、わたしの義弟の会社がはいっているビルですよ。
おたくの2階下で出版物の校正の会社をやっています」
ということになった。

ともあれ、伊藤さんには、
身内にオリーブ橋小脳萎縮症と先天性ミオパチーの患者がいることを伝えた。
にこにこと対応してくれていた伊藤さんが少し顔をこわばらせ、
ふたつの病名をわたしの名刺に鉛筆で書きとめていた。

病気のかたには何も求められない。
でも、前段の金谷さんのお話からも、
病気の現場から声をあげて現実を伝えることが
対策を前進させる第一歩だと感じた。

この半年、
わたしが見てきた障がい者政策プロジェクトチームでも、
多くの障がい者団体や障がい者の生の声が語られてきた。
政治は確実に現実を踏まえたものに変わりつつある。

だが、それでも、
悪法と言われた障害者自立支援法に代わる障がい者総合福祉法の法案が煮詰まる段を迎えると、
「この法案はほんとうに自民党時代の法律より前進しているのか?」
との疑問が持ち上がってくる。

政治のプロセスでは、
最初は現実を直視していても、どこかでいつのまにか、
現実よりも政治の要素が優先されるようになる瞬間があるのかもしれない。

でも、とにかく、
前には5cmのところで止まってしまったゴミを
次には10cmのところまで押し流し、
またそこで止まってしまっても、
倦まず弛まず、次なる現実の声を発出し、
いつしかゴミを見えなくなるまで遠くへ押し流せるように
努力していくしかあるまい。

変えるという作業は一足飛びには行かない。

(この記事は、ふたつのカテゴリに納めるため、繰り返し投稿します。)


人生はめぐる

今日、姉に電話をかけて
「いま、大丈夫、かいな?」
といったら、
「オムツの時間になるまでは大丈夫や」
という言葉が返ってきたので、
「人生はめぐるな」
といって、ふたりでケタケタと笑った。

オムツの主は、
病院へ行って、
「今日はここに泊まってかなアカン」
という医師を
「やや、帰るんや」
といって、振り切って帰ってきているらしい。

与えられたワクのなかで伸び伸び――
みんなそれがいちばんや。


人工呼吸器と加湿機能

オリーブ橋小脳萎縮症の義兄のことで、
姉からひとつ疑問をもちかけられた。

先日の胃廔の手術などを受けるよりまえに、
呼吸器系臓器の筋肉も弱ってきたせいか、
睡眠時無呼吸が心配されたので、
夜間だけ人工呼吸器をつけることになった。

睡眠時無呼吸は無自覚かもしれないが、
人工的に呼吸を確保するのだから、
楽になるはずだ。

ところが、義兄からは
「苦しい」との感想がもれたという。

おかしいなあ、なんでやろ――と思った姉が
あらためてその人工呼吸器を見ると、
加湿機能がついていなかったらしい。

そやから、痰が水気も乏しく押しかためられ、
管をふさいだんとちゃうやろか――と姉は考えた。

だが、その疑問をぶつけても、
病院からの回答は「そんなことはない」。

ほんまやろか?
姉と義兄の疑問は残った。

で、今回、
胃廔やらなにやら、病院でいろんな処置をして帰宅したとき、
また新しい人工呼吸器を借りて装着することになった。

「楽だ」と、今度は義兄がいう。
姉が見ると、今度の人工呼吸器には加湿機能がついていた。

ほれ、見ぃ――と姉は思うのだが、
どうなんやろ?
ご専門のかたで、おわかりのかたがいらっしゃったら、
教えてください。

病院側にとっては、患者側のちょっとした疑問、
あるいは、まあムニャムニャムニャ……とやりすごせばいいこと
なのかもしれないけど、
大きな荷物をかついでゼーゼーと、それをはこんでいるときには、
ほっぺたのまわりで小さなブヨがぶんぶんと飛びまわるだけでも
懸命にその荷物に集中していた気持ちが切れることがある。

ちょっとした疑問でも、その解決は重要だ。

このところ、わたしと同じで無類の負けずぎらいの
猛者の姉の電話の声にも少し疲労の色がにじんできた。
国家公務員をめざして宅浪中だった次男が家にいたのが
結果的には幸いしているのだが。


オリーブとアナフィラキシー

オリーブ橋小脳委縮症の症状が進み、
胃廔の手術を受けた義兄のところへ姉が行ったら、
声をかけても反応がなかったという。

いつもは反応がある。

だから、変だなと思って血圧を確認したら、
50まで低下していたという。

どうやら、投与した薬でアナフィラキシー・ショックを起こしたらしい。

前にも使ったことのある薬。
そのときはどうもなかった。

オリーブ橋小脳委縮症というのは、
全身の筋肉の状態を変える病気なので、
薬剤に対する反応も変えてしまうものなのだろうか。

ともかく、
姉が行ったタイミングがよく、
大事にはいたらなかった。

義兄はまた怖い思いをしてしまったが、
薬剤投与前の状態まで回復してなによりだ。


胃廔

昨日、
オリーブ橋小脳委縮症の義兄が
胃廔の手術を受けました。

筋肉の機能の低下により
嚥下などは困難になってしまいましたが、
胃には問題がないため、
これでまた少しは落ち着いた状態が確保できるみたいです。

周囲からは
「いいですね、夫婦仲良くて」といわれているとか。

はは。

電話口で姉とふたりで笑ってしまいました。

わたしも妻とよくいわれていたものです。

ええねん、ええねん、
これが誰のでもない、いちばんだいじな自分の人生や。


気管切開

状況の変化を把握できていなかったので、
やや虚をつかれた感がありましたが、
オリーブ橋小脳委縮症の義兄が
今朝、気管切開をしたみたいです。

このところ、
断続的に入院をしていたのですが、
今回は呼吸が苦しくなったので、
思いきって踏みきったみたいです。

さすがの姉の声にも
やや疲れが感じられました。
まあ、山道でも、野良道でも、
ここがいちばんと考えてテクテクですね。


あらためて、オリーブ橋小脳委縮症

きくちさんから書き込みをいただきましたので、
いちいち古い記事に戻らなくてもいいように、
あらためて書き込みをしておきます。

きくちさん、アネさん、
ここのコメント欄を利用して
どんどん情報交換をしてくださいね。

流れに応じて、
またこちらからも書き込みをつないでいきます。

そうか、
きくちさんのおとうさんは
口で言葉を伝えることが難しいのですか。

別の病気になりますが、
この夏、
長女の夫が入院したときには、
携帯電話に文字を入力して意思を伝えるようなことをしていましたが、
そういうことも難しいのでしょうか?

先日、
アネさんのところへ電話をかけたら、
男の人の大きな笑い声が何度も何度も聞こえてくるので、
なんだろう――と思ったら、
アネさんのところの次男くんが父親をわらかして、
リハビリをしているということでした。

わたしは薄情者なので、
アネさんのところへ陣中見舞いに行っていないのですが、
あちらはどうやら、そういう状況のようですよ。