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夕焼けに染まった式典(スロベニア記・その結び)

で、そもそも、なんでスロベニアに行ったのか?
そこのところを書いていなかった。

ほっといたら、
いつまでも四国の自宅周辺の世界にこもっていかねないわたしなので、
いくらブレッド湖が二十数年来の憧れの地だったとはいえ、
わざわざヨーロッパまで行ったりはしなかった。

きっかけは「勲章」だった。
いや、まさか、わたしがいただいたわけではない。

このブログでも何度か紹介してきたが、
日本のワイン会社にルミエールというところがある。
かつては「甲州園」といった、いまとなっては日本最古のワイナリーのひとつだ。

そこの会長さんに塚本俊彦さんという人がいる。
この塚本さんに、わたしは二十数年前から仕事でお世話になってきた。
そう、ちょうど朝日新聞の『世界の地理』で初めてブレッド湖を空から撮った写真を見て、
その美しさに衝撃を受けたころだ。

そのころ、塚本さんは、創業100周年という節目の時期だったこともあり、
中国政府から誘いを受けて青島の近くの烟台というところまで出かけ、
新天地・中国でのワイン造りに取り組んでいた。

おいおい、ずいぶんもってまわった話をするじゃないか。
スロベニアの話がなんで中国の話になるんだ――と思われるかもしれないが、
ここがポイント。
いまや昔の話なれど、その時期にはまだ
このスロベニアが中国と、同じ共産圏というくくりでつながっていた。

で、烟台ワインで約束した業績をあげた塚本さんに、中国政府から、
「ユーゴスラビアのスロベニアで毎年“ヴィーニョ・リュブリャーナ”という
ワインの国際コンクールが開かれている。どうかね、そこに、アジア代表の審査員として
行ってくれないだろうか?」というお誘いが来た。

いまでは世界各地でワインの国際コンクールが開かれているが、
そのなかでいちばん最初に始まったのが、このヴィーニョ・リュブリャーナだと言われている。

そこへ、塚本さんは乗り込んでいった。
で、それから二十数年、そう、あの自主独立路線の英雄チトー大統領のもとで
サラエボ・オリンピックという平和の祭典が開かれたころも、
それが終わってチトーさんも死に、
いっぺんにタガがちぎれたユーゴでボスニア戦争という血みどろの殺し合いが行われたころも、
毎年欠かさず、塚本さんはヴィーニョ・リュブリャーナの審査員を務めてきた。

異能の人だ。
いくらワイン造りの家系に生まれてきたとはいえ、
まるで精密機械のように、ワインがもっている香りや味わいやなにかを探り分けるその能力は、
審査員として金賞に輝いたポルトガルのコンクールでも実証されている。

だから、いつしか塚本さんはヴィーニョ・リュブリャーナにも「なくてはならない人」になった。

そんな塚本さんへの「長い間、ご苦労さま」の気持ちをこめて、
2006年、ヴィーニョ・リュブリャーナに「ツカモト・アウォード」が新設された。
「塚本賞」、その年の最高のワインに贈られる賞だ。

……という話を聞いていて、へえ、すごいなあ、と思っていたら、
しばらくたったある日、ルミエールから電話がかかってきて、
「今度は大統領が勲章をくれることになりまして……」と言う。

おいおい、だ。

「いやあ、たいへんなことになってきちゃったねえ。今度は大統領、勲章、かあ……」
などと、気楽に驚きやら、めでたさやらを口にしていたら、
今度はその話がこちらへ向かってきた。

「ついてはいっしょに行っていただきたい」と言う。

え、え、なんでおれに?――だ。
翻訳者として、塚本さんのお仕事をいろいろお手伝いしてきたが、
別に「側近」というわけではない。
それに、第一、ワインより煙を愛する、
ワイン好きから見れば、あ、いや、いまでは世間全体から見ても、
なんともケシカラン人間だ。
そんな人間がなんで?――とは思ったが、
塚本さんご自身も、

「これまでわたしがやってきたところを、一度見てきていただきたい」

と言う。
ならば、と、
スロベニア政府の迎賓館ブルド城で行われるという勲章の授与式をあれこれと想像し、
叔父から礼服を借り、紳士服のアオキで蝶ネクタイを買い、
あたふた、わさわさと出発していったスロベニアだったのでありました。

なら、その勲章授与式とやらの写真も見せよ――と言われそうだが、
それがない。
当日、車で30分ほどの行きは、
慣れない衣装に身をつつんで、別にオブザーバーには求められていない緊張までして、上の空。
帰りも、わあ、よかったね、よかったねと、みんなでリュブリャーナの高級レストランJBに流れて、
ルミエールや、チュリンや、イケムや、ペトリュースを飲んで、上の空。
で、肝腎の授与式の最中も、
塚本さんのカメラをお預かりしてスロベニアの大男たちの間をちょろちょろしていたので
自分の写真は1枚もなし。

てなわけで、
視覚的にご紹介できないのがなんとも残念なのだが、
いや、ブルド城も、ドゥルノウシェク大統領も、なかなかのものでした。
迎賓館っていうから、でで~んとしたのを予想していたら、
そこは牧歌的な風景のなかにある小さなお城。
といっても、ゲルマン系の、冷たそうな石の肌ばかりに囲まれたお城ではなく、
地中海系の、しかもまた、折りからの夕焼けで黄昏色に染まった土壁のお城。
どこかから、モ~、とか、ヒヒ~ンとかいう声まで聞こえてきそうな気がする。

で、そこのそれほど広くもない広間で、窓一面に差し込む夕日を浴びながら始まった勲章授与式も、
段差がない。
大統領なんていうと、どこか高いところから現れて、
どこか高いところの椅子に座って、どこか高いところへ消えていくのかと思ったら、
さあ、ご静粛に――という雰囲気が流れたとき、
気がついたら、そこにいた。

やはり、これもユーゴ解体とその後の内戦の残影のひとつと言えるのか、
塚本さんといっしょに勲章をもらったのが、
スタンコ・チュリンさんを除けば、軍人ばかりだったので、
出席者に大男が多く、銀行家出身のドゥルノウシェク大統領は、
そのなかに交じると、おとなしい、繊細な青年のようにも見える。

でも、この大統領も、
スロベニアのテン・デイズ・ウォー(10日間戦争)のときには、豪胆に、獅子奮迅の活躍をした人。
人を押しのけず、偉ぶらず、誰とも対等に接しながら、
催しが始まるとそれ相応の存在感を発揮し、きちんとホスト役を務めて去っていく。
そんなところに、動乱のなかで地面を歩いてきた人の確かさを見たような気もした。

そんなドゥルノウシェクさんが、
勲章をもらい、お礼のメッセージを述べる塚本さんをじっと見ていた。
そして、大統領にかぎらず、その場にいた人みんなからじっと見られていた塚本さんが
メッセージを結ぶにあたって、
これまでずっと自分を理解し、そばにいてくれた奥さんにお礼を言った。

声がふるえ、肩もふるえた。

大統領の見つめる目にも、力がこもった。

わたしの脳裏にも、亡くなった妻の顔が浮かんだ。

スロベニアに来てから2日ほどの間に目にしていたあちこちの風景もよぎった。
二十数年前の風景はどうだったのか。
塚本さんも、ドゥルノウシェクさんも、わたしも、
まさかここでいっしょにこういう時間を過ごすとは思わずに生きてきた。
おもしろいものだな、人生は――と思った。

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by pivot_weston | 2009-05-30 11:43 | スロベニア

ダーリオの塩(スロベニア記・その15)

スロベニアには、海もある。

曇天続きのリュブリャーナから
アメリカのインターステイトハイウェイのような
大きなトレーラーがまばらに走る広々とした道に出て、
石灰岩の崖を横に見ながらカルストの山を越えると、
急に世界が明るくなり、
瀬戸内海のように穏やかな海が見えてきた。

おゝ、あれに見えるはトリエステ、
イタリアじゃないか。

とくれば、
どこかの海沿いのカフェテラスあたりで
パスタをチュルチュルといきたいところだが、
この日の用事はスロベニアの製塩会社ピランスケ・ソリン訪問。

瀬戸内の塩田の国、讃岐の出身者が塩の会社を訪問するというのもなにやら因縁めいていたが、
アメリカ資本のしゃれたホテルが建つ海沿いの町コペルを過ぎ、
串刺しのフランクフルトのような、ちょっと愛嬌のあるかたちの
街路樹が並ぶ道伝いにもうひと山越えると、
そこは静寂の世界。

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広大な入り江が見渡すかぎりすべて塩田になっている。
こりゃ、讃岐の宇多津あたりの塩田とは比較にならんわ。
やっぱり、国土面積は四国なみとはいえ、
スロベニアはヨーロッパ「大陸」の一部だ。

あまりに広いので、頭上をよぎる鳥のはばたき以外は、なんの音も耳に届かない。
かすかに、そう、ほんのかすかに、体にさざめきのようなものを感じるのは、
この広大な入り江を満たしたアドリア海の水のせいか。

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ここのお塩が、またおいしい。
日本に帰って日本の塩と食べ比べたら、
この鈍感人間にも、その違いがわかる。

だって、ダーリオのつくった塩だもの。

塩田のなかにぽつんと立つピランスケ・ソリンの会社に行ったら、
塩田を案内してやるというので、ま、変化のない風景だからとくにおもしろいことはないだろうと思ったが、
ともかく、ゴーグルをかけた元生物学専攻の若者社員についていった。

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ピランの塩田の表面には、
何百年もの塩づくりの歴史の間にペトラという
ミネラルや微生物でできた硬い沈殿物の層ができている。

その上に引いた海水を蒸発させたあとにできる塩だからおいしいらしいのだが、
そのへんのところを説明してくれていたゴーグル社員が
途中で言葉に詰まった。

ちょうど、近くでは別の男がこちらに背なかを向けて、
そのペトラの上に、わたしたちが中学時代に野球部で使った
「トンボ」のようなもので海水を引いて延ばしていた。

「ダーリオ! ダーリオ!」

ゴーグル社員はその男に声をかけた。
おゝ、振り返ると、髪がもじゃもじゃで、顎鬚ももじゃもじゃで、
まるでローマ彫刻のような男だ。

例によって、スロベニア語はまったくわからないが、
「おい、ダーリオ、あれ、なんて言うんだっけ?」
と訊いているのはわかる。

で、しばし、ぶつくさ、ぺちゃくちゃ、ぐちゃぐちゃ。
と思っていたら、ゴーグル社員がこちらを振り返り、
「これからダーリオが説明してくれるよ」と言う。

さあ、お立ち会い――
まるでそう言うようにそのローマ彫刻男は片手にトンボを持って
もう一方の手を大きくひろげ、
とうとうと塩のできるしくみを英語で説明しはじめた。

胸を張り、空を仰ぎ、
鬚につつまれた顎が得意そうに突き出している。

あゝ、こいつがつくっている塩か――
そう思ったのが、わたしの味覚には刷り込まれてしまった。

だから、おいしい、ピランの塩。

(下はリュブリャーナのオールドタウンのピランスケ・ソリンの出店)

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ちなみに、このピランの塩田のすぐ南はもうクロアチア。
この小さな川が国境だ。
よくしゃべる、愛想のいいゴーグル社員がいっしょだったこともあって、
その新しくできた国境を守るクロアチアの兵士がにこっと笑ってくれたのが
いい思い出だ。

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[訂正]
当初、ここで紹介している製塩会社の名前を「ピランスケ・ピラン」としていました。
これは、上記のとおり、「ピランスケ・ソリン」の誤りでした。
そうですね、「ピランスケ・ピラン」じゃ、「ピランのピラン」になっちゃう。
「ピランスケ・ソリン」は、要するに、「ピラン製塩」というほどの名前なのでしょうね。
ここは、地名が「ピラン」というので、「ピランの塩」「ピランの塩」と念じているうちに
生じた誤りでした。
失礼いたしました。
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by pivot_weston | 2009-05-29 10:38 | スロベニア

悲恋の広場(スロベニア記・その14)

スロベニアの首都リュブリャーナの中心は
プレシェーレン広場だ。

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ロビンおやじのハンバーガー屋があり、
トリエステ行き、ザグレブ行き、ブダペスト行き――と、
多国籍大陸ヨーロッパを象徴するような表示が出ていた鉄道駅(写真右上の枠外)の前からも、
高級レストラン「JB」の前や、
心憎いまでの呼吸でサービスをする老ウエイターがいたグランド・ホテルのダイニングのわきを通って、
まっすぐここに道が通じている。

この写真でも、
キリスト教国の首都の中心らしく、
クリスマスを控えて大きなツリーが立っているし、
観光客を乗せてぐるぐるまわるおさるの電車のようなトロッコ列車もとぐろを巻いている。

で、そこにあの国歌『乾杯』を書いた国民詩人プレシェーレンの像を立て、
その名を冠し……

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と、なんとも常識的な流れを想像したが、
どうやらスロベニアの人もけっこうウィットをきかせるのが好きらしい。

よく見ると(といっても、申し訳ないことに、わたしの写真では、よく見てもわからないかもしれないが)、
この広場に、向かって左から突き出した白い建物の壁に女の人の像がある。

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で、この、広場をはさんで、離れ離れに向き合ったふたつの像の裏には、かなわぬ恋の物語が……
という。

だとしたら、ま、過去の多くの例から見て、原因は身分の違いか。
プレシェーレンも、健気に働く若い娘に心をひかれ……
と想像をふくらませかけていたら、そうじゃない、という。

相手は貴婦人。やんごとなき身分の女性らしい。
そういや、壁の像がついている位置も、けっこう見上げるようなポジションだ。
深窓の麗人か。
じゃ、プレシェーレンのほうが低い身分から這い上がって……
という話かと思ったら、それも違うという。

じゃ、なんで? なんでふたりの恋は悲恋に終わったの?――と尋ねたら、
説明してくれた人は、にやりと微妙な笑みを浮かべた。

「女だよ」という。
「プレシェーレンはたいした詩人だが、女が好きでねえ」という。

ふむ、詩人なら、さもありなむ、だが。

「結局、いまなら通っちゃいけないところへ通っちゃってたのよ。
で、また、それがやめられなくてね。
で、『やだ、あなたなんて、フケツっ!』てことになっちゃったのよ」

やれやれ、プレシェーレンにも困ったもんだ――とでもいうように
説明してくれた人は首を振りながら笑った。

どうやら、リュブリャーナ市民の多くがそんな裏話を承知しているらしい。
それでいて、街の中心の広場にふたりの像を飾るなんて、
そういうのもまた、なかなかいい。
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by pivot_weston | 2009-05-28 09:27 | スロベニア

赤い屋根の街(スロベニア記・その13)

リュブリャーナの街で美しいのは、
なにも昨日紹介した構図のところだけではない。

今日はリュブリャーナ城の塔の上から見た
街の中心部の景色を紹介しよう。

上から順に
左から右へパンしていく。

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リュブリャンカ川だ。
この川より手前の、お城の下が
あの構図のスポットやプラハのカフカの家を思わせる路地がある
オールドタウンになる。
老女のホームレスがいたのはもう少し左になるか。



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リュブリャーナ大学を中心にした一角。
手前の、屋根の青い立派な建物は図書館。
この建物をはじめ、この一角は建築家プレーチニクが設計した、
とリュブリャーナ市民は胸を張る。
図書館の下の車が並んでいる通りを歩いていると、
右手の建物の窓からバイオリンやピアノの音色が聞こえてきた。
わたしが宿泊していたプリ・ムラークも、
図書館の向こう側にある。
遠くに見える白壁の大きな建物は政府のなにかの省庁。



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この公園では、
日本の1970年代を思わせるロックコンサートが開かれていた。
毎日タバコを買っていたニューススタンドのおにいさんがなつかしい。
右手の角にあるカフェは、広くてのんびりでき、なかなか居心地がよかった。



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少し引く。
奥に見える山はティボリ公園。
国立博物館や近代美術館はその手前にある。
さらにその手前の、やや近代的なビルが、つれていかれた大統領府。
スロベニア人仕様のデカパンを買ったデパートもその近辺にある。
ASレストランがあるのは、手前の公園の右手の一角。
右上に遠くかすんで見えているのが、
頂上に教会がある、ゾウを飲み込んだ大蛇の山。
右端に見えている広場が街の中心、プレシェーレン広場だ。
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by pivot_weston | 2009-05-27 09:05 | スロベニア

何百年の歴史の上に(スロベニア記・その12)

スロベニアで過ごした10日間でもっとも強烈な印象を受けたのが
この光景だった。

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なに、
ヨーロッパには、こんな光景はどこにでもあるのかもしれない。
だが、あいにくわたしは日本で生まれ、育ち、
スロベニア以外のヨーロッパの国はろくに見たことがないので、
丘の上のリュブリャーナ城から降りてきてこの光景を目にしたときには、
足がとまった。

まず構図の端正さに意識が向かった。
左右の家屋の屋根や軒の線、
道路の線、
さらには遠くの教会の屋根の線までが、
画面の中央へと収束している。

まるで誰かが描いたような……。

より強い衝撃が押し寄せてきたのは、そう思ったときだった。

これは誰かひとりの作品ではない。
何十年、何百年という歳月のなかで、
お互いには見も知らぬ、また、たとえ見知ろうとしても見知ることのできない異なる時代の他人同士が、
思い思いに家を建て、道路を整備してできあがった構図だ。

それがこんなに、調和している。

これは、できない。
にわかにわたしたちがまねをして同じようなものをつくろうとしても、
人の一生の尺度以上の時間の経過が必要なのだから、
たとえどんなに超人的な才能の持ち主が挑んでもできない。

西新宿の高層ビル群が脳裏に浮かんだ。

あれも確かに偉業には違いあるまい。
だが、長い人間の歴史のなかで見ると、
あんなの、単なるインスタント、つまり瞬間の作品に過ぎない。
3次元の造形物であって、
時間軸も含めた4次元の奥行きがない。

ひるがえって、目の前の光景に意識を戻すと、
この光景のなかには、
長い歴史のなかのさまざまな時代に生きた大勢の人たちの
背なかをまるめたうしろ姿が浮かんでくるように思える。

家を建てた人。
教会を建てた人。
石畳を敷き詰めた人。
みんな、間違っても目に映る光景全体を自分の美意識で染めてやろうなどと
大それたことは考えず、
ささやかに、潔く、あぶくのように現れては、
自分に与えられた時間を生きて消えていっている。

いいな、と思った。
こういう光景のなかで育つ子どもたちのことだ。
きっと、そういう子どもたちの意識の底には、
こういう光景が美意識のベースとして焼きついていくのだろう。

わたしもそんな光景のなかで育ってみたかった、と思った。

わたしが育った高度経済成長期の日本では、
古い山型屋根の日本家屋のとなりに
四角いコンクリートブロックの家が建ち、
農家の庭先の縁台のとなりに
コンクリートのベランダが出現したりしていた。

雑種文化の国だ、日本は。

もちろん、こんな街に育つスロベニアの子どもたちからすれば、
もしかすると、そんな雑種文化の国のほうがおもしろくてよさそうに見えるかもしれない。

でも、「となりの芝生」かな。
それとも、頑固職人の祖父が自分で作った家で育ったせいだろうか。
ともあれ、わたしは、
大勢の人たちが長い歴史のなかで織り上げてきた美の世界で育った子どもたちを
うらやましく思った。

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なぜか、写真で見たプラハのカフカの家が脳裏によみがえった道。

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これはオマケ。ローマ時代の壁ですと!

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by pivot_weston | 2009-05-26 06:53 | スロベニア

美の極致(スロベニア記・その11)

ブレッド湖は、
ただただ絵のように美しい世界。

初めてその存在を知ったのは、
25年ほど前、朝日新聞が毎週出していた
『世界の地理』のユーゴスラビア編の表紙で見たときだった。

以来、
死ぬまでに一度は行ってみたいと憧れていた地でもあった。

まあ、ここは語るより
写真を通してぐるりと1周しながら
アルプスの秋の1日をご満喫あれ。

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by pivot_weston | 2009-05-25 07:12 | スロベニア

王様の一夜(スロベニア記・その10)

わたしはなにか勘違いされていた。

温泉地テルメ・チャティーシュに行く前の日には、
リュブリャーナ大学の教授に大統領府へつれていかれた。

ものものしい警備。
出てきた広報官に長々とスロベニア国内の観光地の説明を受け、
SLOVENIAの文字が入ったベースボールキャップをもらったあげく、
「明日は温泉に行くから海水パンツを買ってきて」と言われた。

??……だが、まあ、そう言うなら、と思い、
翌朝あわててデパートまで行ってスロベニア人用のデカパンを買ってきてプリ・ムラークで待っていたら、
テルメ・チャティーシュのスパの職員が迎えに来てくれ、
その車に乗っていったら、例の、
雑誌のモデルのような、あ、いや、それ以上かもしれないブロンドの美女、
ポローニャが施設の案内に出てきて、
施設をひとまわりしたところでそのポローニャと
豪華なレストランでふたりきりで鹿肉の料理とスロベニアワインを楽しみ、
「どう、感じは?」と訊かれて「Feel good!」と答え、
ケタケタと笑ってもらっていたら、
結局、買ったデカパンは使わないまま、
今度は「さ、お城へ行くわよ」と言う。

お城?――と思ったが、
もう自主的な行動はとっくに放棄している。

そのままポローニャの車とポリスの車に乗せられるままに乗せられていたら、
1軒、「うちは世界の最高級レストランにワインを納めている」と言う
ちょっと感じの悪い谷間のワイナリーに寄ったあと、
前方の丘の上にお城が見えてきた。

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モクリッツァ城といったか。

もちろん、古い。
でも、おとぎ話に出てくるような、とんがり屋根の塔が立っていて、
きれいに整備されているところで、
どうやらホテルとしても使われているらしい。

わたしが行くと、
重厚感たっぷりのフロントのカウンターにいたおばさんがにこやかにあいさつしてくれ、
近所の青年なのだろうが、純朴そうなボーイさんがなかを案内してくれ、
改装中の中庭を見ながら3階だか4階だかの廊下を歩いていくと、
これまた重厚感たっぷりの扉の前に着いた。

そう、あのとんがり屋根の塔のてっぺんの部屋、
世が世なら、この地の王様が暮らしていた部屋だ。

純朴青年が扉をあけると、いきなりそこにグランドピアノが置いてあり、
4、5段、階段を上がると、そこはバレーボールの試合でもできそうな
大きな円形の部屋。
中央に大きなソファが並んでいて、
奥の窓際と右手の壁際に
会社のなかなら重役しか使えないような、これまた大きなデスクが置いてある。

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窓から外を見ると、
はるかかなたの、霧でかすんだクロアチアのザグレブのほうまで
のどかな農村地帯がひろがっている。

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へえ、昔の王様はこんなところに住んでいたんだ。
そう思ったところで、ずっと頭にあった疑問を案内役の純朴青年にぶつけてみた。

「で、おれ、なんでここにいるの?」
「あれ、今日はここにお泊まりなんですよ」
「えーーーーー! ここにーーーー! お、おれひとり?」
「そう。夕方にはディナーもご用意しておりますので、
6時になったらダイニングのほうへいらしてください」
と言う。

おいおい、なんだよそれ!?
と思ったが、こうなりゃ、なにがなんだろうと知ったことか。

かつて、王様が畑を耕す自国の民を見下ろしながら入っていたお風呂に入っても、
またまた日本ならワンルームの部屋がすっぽり入りそうな空間で
素っ裸でうろうろするのははなはだ居心地が悪かったが、
ま、いちおう体をきれいにしてそのディナーとやらに出かけていった。

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古い、格式のある、きらびやかなダイニングでは、
ドイツのシーメンス社のお偉いさんたちが何人かで会食しながらひそひそやっている。

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こちらは身ぎれいにしたとはいえ、
ラフなシャツ姿で来て、それ以外はあのデカパンしかもっていなかったのだから、
当然そのラフなシャツ姿だ。

なのに……
こちらのディナーのテーブルについて待っていると、
あとから来た、びしっとしたスーツ姿の紳士やその奥さんたちが
「はじめまして。わたしは前に駐エジプト大使をやっておりました……と申しまして」
とかなんとか言う。

ええい、知るか、なにもわからずにここに来たんだから、
おれは相手が誰だろうと、ここがどこだろうと、日本の気のいいおっさんで通すぞ、
と思うしかない。

まあ、でも、次から次へと出てくる料理もワインもみなおいしかったし、
さすがに王様の寝室は居心地が悪かったので、バレーボールルームのソファで寝たが、
王様の部屋も、あとになって思い返せば、歴史の香るなかなかいい空間だったし、
なにより、ホテルのおばさんや純朴ボーイくんや、
翌日、隣接するゴルフ場を案内してくれたゴルフ場の支配人が、
前駐エジプト大使や誰かも含めて、みんないっしょにいい時間づくりができる
いい人ばかりだったので、
なんの不満もないのだが、
いや、それにしても、予想もしないあの流れには驚いた。

ま、みんな、わたしが日本へ帰ってモクリッツァ城をPRすることを期待していたのだろう。
だから、ここにも書いておこ。
みなさん、スロベニアに行ったら、モクリッツァ城もよろしくね。
気のいいタクシー運転手ポリスが案内してくれますよ。
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by pivot_weston | 2009-05-24 08:57 | スロベニア

文化と文化のはざまで(スロベニア記・その9)

スロベニアに行かれたら、ひとつお勧めしたいのが
テレビウォッチング。

なんでや、なんでスロベニアに行ってまで……
と思われるかもしれないが、
まあだまされたつもりで一度スイッチを入れてごらんあれ。

わたしも到着したその夜から
プリ・ムラークの部屋のテレビをつけてみた。

お、クイズ番組。
お、こっちのチャンネルでもクイズ番組。

あれ、でも、両方の番組でずいぶん雰囲気が違う。
一方では、みんながしかめつらで一所懸命に考えていて、
もう一方では、みんながワイワイガヤガヤ、にぎやかに騒いでいるし、
第一、言葉が……。

そう、スロベニアはヨーロッパ文化の分岐点。
早くからローマ帝国やフランク王国の版図のフロンティアに取り込まれていたために、
同じ旧ユーゴでも、
ハンガリー色の濃いクロアチアや、
ノーベル賞作家イヴォ・アンドリッチの小説に描かれたスルタンの国ボスニアや、
正教国家セルビアとは一線を画し、
カトリックのイタリアやプロテスタントのドイツ文化圏と隣接している。

で、四国ほどの小さな国だから、そちらの文化圏のテレビ放送がみんな入るわけだが、
まあ、宗教のことはともかく、
いや、宗教の違いが背後にあるからこそそうなるのか、
番組の雰囲気がその文化圏によってまるで違う。

ドイツ語もイタリア語もわたしにとってはチンプンカンプンだが
(関係ないけど、台湾語ではそういうのを「ティンプトン」というらしい)、
それでもドイツのクイズ番組の出演者たちが
険しい目つきで、真剣に、静かになにかを考えているのはわかる。
代わってイタリアのクイズ番組のほうはというと、
ハハハハハ、ガハハハハ、ギャハハハハ――と、
誰かがなにかひとこと言うたびにみんなが大笑いしている。
まるで、近ごろ日本でも大はやりの「ヨシモト」だ。
にぎやかとかなんとか、そんな域はとっくに通り過ぎて、もうヤカマシイ。

おい、ドイツ、おまえら暗すぎだよ、
おい、イタリア、おまえらヤカマシすぎだよ、
と思ったところで中庸を期待してわれらがスロベニアの番組に切り換えてみると、
そこではリュブリャーナ市街の生の映像をえんえんと無言のまま流していた。

おい、スロベニア、……
あとはなんと言っていいかわからなくなった。

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by pivot_weston | 2009-05-23 09:58 | スロベニア

オズの魔法使いの国(スロベニア記・その8)

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そこは、
ジュディ・ガーランドがカカシやブリキの人間やライオンと
腕を組んでスキップしていた世界を思わせるようなところだった。

かつて、中世の時代に
十字軍が砂糖をめざすアリの大群のようにぞろぞろと列を成して通過していった
なだらかで、まるみを帯びたジェルザーレムの丘陵地帯は、
傾いた日差しにやわらかい色に染まり、
途中で津和野のような古都プトゥーイのたたずまいを目にしていた影響もあるのか、
どこか別世界に迷い込んだような観があった。

西のカルスト地方のほうへ行くと
石灰岩の岩肌をイメージさせる酸味のきつい赤ワインがとれるスロベニアでも、
ずっと内陸に入り、ハンガリーが近づくと、
やはりトカイワインの系譜に属する白のスイートワインが造られている。

そのなかでもひときわ高く評価され、
スロベニア国民から愛されているのが、
このオズの魔法使いの国の住人スタンコ・チュリンさんのワインだ。

チュリンさんのワインのすばらしさは、
まずなによりもチュリンさんが造ったワインであるところにある。

わたしも指物師の孫で、
その指物師の細工場で遊んで育ったので、
ひとりの人間が造るものの輪郭や持ち味は、
なんとなく漠然と胸に焼きついている。

四国の田舎で指物大工が造っていたもののように、
ハンガリーに近いとはいえ、トカイの産地から外れたところにいるチュリンさんのワインにも、
哀しい限界はある。

だが、大勢の人間が寄ってたかって、さまざまな技術を総動員して造ったワインのような
別の哀しさはない。

そして、その哀しい限界のなかで
チュリンさんのワインはチュリンさんのワインとしてきわめられている。
これ以上気の配りようがないほどきわめられている。

わたしたちが丘の上の、なんの変哲もない一軒の農家のようなワイナリーにおじゃましたときも、
チュリンさんは丘の斜面のぶどう畑に出ると、もう老人ではなかった。
急な斜面に足をすべらせることもなく、子どものように目を輝かせて、
ぶどうの列から列へと移動しながら、
スイートワインのもとになる干しぶどうのようにしなびたぶどうをちぎっては、
「どれ、これを食ってみろ」「ほら、これも食ってみろ」
と勧めてくれる。

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幸せな人だ。
若いころにはナチの増産要求に敢然と抵抗した気骨も前面に出ていたのかもしれないが、
いまは、スイートワインひと筋に生きてきた職人の幸せのオーラが出ている。
いまでも誰かが「おれのワイン」と言えるようなワインのなかで、
あそこまで健気に造られているワインというのは、
世界でも稀有なのではあるまいか。

そんなことを思いながらチュリンさんのワインを飲むと、
チュリンさんの幸せがグラスにも少しはこぼれてくるかもしれない。
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by pivot_weston | 2009-05-22 08:58 | スロベニア

豊かな国の陰で(スロベニア記・その7)

いまはどうかわからないが、
わたしが訪れた3年前のスロベニアは、
豊かで、落ち着いていて、安全な国だった。

夜の12時をまわるころに
リュブリャーナ城の下の石畳の街オールド・タウンに出かけ、
バーに並ぶ酔客たちの間にもぐり込んでも、
「おー、ヤポンスカか。おれもホンダは知ってるぞ。あのソーイチローはたいしたやつだ」
などと声をかけられ、
「まあ、この街は大丈夫だ。12時を過ぎたら、財布には気をつけといたほうがいいかもしれないけどな」
と言われる程度だった。

でも、その当時でも、ちらほらと気になる光景はあった。

街のなかにも、石の壁の破れている建物があった。
サラエボ・オリンピックのあとで、
現代人が、あの自主独立路線のチトー大統領のもとで
仲良く暮らしているように見えたユーゴスラビアの人たちが、
これほどむごたらしい殺し合いや傷つけ合いをするものか、
と思えるような内戦が繰り広げられていたころには、
旧ユーゴのなかでも北端に位置し、
あの内戦の主役だったボスニアとセルビアとは
クロアチアを隔てて保護された位置にあったスロベニアにも、
砲弾が飛び込んできた「テン・デイズ・ウォー(10日間戦争)」の期間があったと聞く。

そんな、壁の破れた建物がある街を散歩していると、
毎朝、リュブリャーナ城の下の、街のまんなかを流れるリュブリャンカ川のほとりに、
ひとりしゃがんでいるホームレスの老女がいた。

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声をかけてみようか、と何度か思った。
でも結局、一度も声をかけずに終わったのでなんとも言えないが、
その老女はいつも、静かなリュブリャンカ川の川面をじっと見つめていた。

体制の変化についてこられなかった人だろうか、
もしかすると、かつてはかなりいい暮らしをしていた人かもしれないな、
とも思った。

そういえば、リュブリャーナ城の塔の下の崖地にまわってみたとき、
その塔の壁を見上げて吹き出したことがあった。

Smash capitalism!
(資本主義打倒!)

そこには、そんな落書きがあった。
わたしが大学生活を過ごした世界的な学生運動時代の残り火の時期には、
日本国内でもよく見かけたスローガンだ。

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いつの時代にも、みな
大きなうねりのなかで命の時間を過ごしている。
日本では、自意識の強い学生の自己表現の手段に過ぎなかったように思えるあのスローガンが
この国ではじかに人々の暮らしを左右するものだったのかもしれないな、と思うと、
ふと、スロベニア人と日本人という仲間分けのしかたではなく、
あの時代を知っている人とこの時代しか知らない人という仲間分けのしかたもできるか、
などという思いも湧いてくる。

鏡のように凪いだリュブリャンカ川の川面を見つめる老女の脳裏に去来しているものを思いながら、
乾いた11月の朝の舗面を踏んで歩いたあの散歩の時間も、
わたしにとっては貴重な時間だった。
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by pivot_weston | 2009-05-21 08:17 | スロベニア