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再会

久しぶりに、あるいとこと会った。

大学時代には、
向こうはまだ小学生で、
四国のわが家に遊びに来ては
物珍しい林野でちょろちょろしていた。

頭のいい、思うところのあるやつだ。

10代には、
少々道をそれて、
お父さん、お母さんを悩ませることもあった。

だけど、
やがて不動産会社に就職し、
道をそれるだけのエネルギーを仕事にぶつけだした。

あるとき、
そんな彼が風邪をひいた。
ウイルス性の風邪だ。
そのウイルスが頭のクモ膜下かどこかに入った。

医師は、
生体機能をほとんどすべて停止させる(つまり、
死んでいるのとほぼ同じ状態にする)治療法を提案し、
両親ものんだ。

臨死をくぐり抜けてきた男は、
いま、下町の不動産会社の取締役部長になっている。

たいしたものだ。
笑顔を見ると、感慨深い。

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by pivot_weston | 2009-08-28 09:37 | 人物

海色のシャツ

7年ほど前に買った半袖のシャツがある。

妻が死んだ翌年、
お世話になったがん関係のメーリングリストから抜けずに
引き続き投稿メールを拝見していると、
しきりに投稿を繰り返している人がいた。

患者さんご本人だ。

妻の死でやや関心の薄れていたわたしは、
どの患者さんにもそれぞれ誰か身寄りの人がついているだろうという思いも手伝って、
当初はそのかたのメールをざっと読み流していた。

だが、あるとき、なにかのはずみに、
目が、その人がメーリングリストの参加者全員宛てに送ってきた文字を追い、
驚いた。

頻繁にメールを出している人なので、
無意識のうちに、どこかで、まだ余裕のある人なのだろう、と決めつけていたのだろうか、
実際には、その人はすでに余命3か月の宣告を受けていた。

しかも、どうやら身寄りのかたもいらっしゃらないらしい。

そこで、わたしはほかのメーリングリスト参加者のかたとふたりで、
メーリングリストは通さずに、
直接、個人宛てのメールでその患者さんを励ますことにした。

それなりに楽しいやりとりが交わされ、
固く凝縮していたそのかたのお気持ちも少しほぐれてきたように思えた。

ところが、あるとき、
そのかたからメーリングリストに
もう死にたい、という投稿メールが届いた。

もうじきに死ぬことはわかっているので、住んでいたアパートも引き払い、
いまはホテルにひとりで住んでいる。
そのホテルのベランダから、もう飛び降りて死にたい――と。

だから、次の日だったか、その次の日だったか、
とにかくこの人は誰かほかの人の存在が必要なのだと感じ、
四国の自宅からその人が住んでいたホテルまでかけつけた。

大きな湖のほとりだ。
思ったとおり、わたしが行くと、その人は少し安心したように笑顔を見せた。

「これ、いつの写真だと思います?」と言って、1枚の写真を見せてくれた。
わたしとほぼ同年代の人だ。
写真のなかの顔は、とても若く見えた。
だから、「そうですね、20代のころくらいですか」と答えた。
「そんな……」と、その人は笑い、「3か月前ですよ」と言った。
余命3か月の宣告を受けたころの写真らしかった。

わたしが瀬戸大橋を渡ってきたという話をすると、
「わたしも瀬戸内の海が見たい」と言った。

瀬戸内海からそう遠くないところで育った子ども時代には、
極貧のなかにあり、同級生の親からそのために差別されていたという話もしてくれた。

だから、次にその人のところへうかがうときに、
青いシャツを買って着ていった。
海色のシャツだ。

「ほら、瀬戸内の海の色ですよ」と言って、そのシャツを指で示すと、
またその人はうれしそうに笑った。

大阪のホスピスへの入院手続きも、その人はひとりでしていたが、
ホスピスへ入院するときに指定する「キーパーソン」に
わたしを指定していたのには、また驚いた。

四国にいて、大阪で「キーパーソン」を務めるのは難しい。

でも、その人が頭のなかで描き出した「最期の世界」を破壊するのはしのびない。
そうは思ったが、やはり、無理なものは無理だ。

いろいろあって、わたしはそのかたのサポートを降りた。

結局、そのかたはその翌年の正月に亡くなった。

人は、亡くなるときに、
これだけ生きてきたのだ、せめて少しは心の満たされる世界で死にたい、と思う。

自尊心の保護。
末期がん患者さんのサポートの核心はそこにあると思う。

わたしの妻は、甲斐性なしの亭主のせいで、貧困のなかで人生の幕を閉じた。
でも、その亭主と3人の子どもたちに両手、両足をもって撫でてもらいながら、
朝からまる1日、その4人が看護婦さんやお医者さんたちと交わす昔話の聞こえる部屋で
息をひきとった。

妻は、幸福に人生を閉じられたのだと思う。

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by pivot_weston | 2009-07-01 12:41 | 人物

ドクター・ソムリエ梅田

今日はドクター・ソムリエ、梅田悦生先生にお会いしてきた。

いや、ソムリエでドクターの学位をとられたわけではない。

ドクターでソムリエ、つまり、ワインを利くお医者さまだ。

とはいえ、ワインを利くのも副業なんてものではなく、
れっきとしたワイン学校、レコール・デュ・ヴァンの創立者にして、
初代の校長先生もなさっている。

年齢はわたしよりひとまわりほど上なのに、
とてもお若い。

ちょっと言い過ぎかもしれないが、
40代の男の人にもあんな感じの人はいるよな――と思えるほどだが、
これは「日本抗加齢医学会認定専門医」という肩書とも関係があるのだろうか。

医療の方面でのご専門は耳鼻科とのことだったが、
かつて、世界的に学生運動ブームが巻き起こった1968年に、
ご自分で見つけたストラスブールの病院に研修医として渡られ、
5年間にわたって彼の地の空気を吸いながら、
医療技術を身につけてこられたあたりのお話が、
なにやら楽しそうで、もっとお聞きしたかった。

ワイン愛好家のかたがたにとっては、とっくにご存じの先生なのだろうが、
今日も半日、いい時間を過ごさせていただいたので、
ご紹介しておこう。

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by pivot_weston | 2009-06-18 19:24 | 人物

和田さんに見る地域活性化の一面

昨日の「Google Earth」に観音寺タクシーの和田さんという人のことを書いた。

もう引退されている運転手さんだ。

地方分権とか、地域活性化とかいう言葉を聞くと、
ときどき、この和田さんのことを思い出す。

観音寺に来られたのは遠い昔のことで、
とうに「……じゃなあ」という地方なまりを身につけ、
地域に同化なさっているが、
それでもまだ、「……しよるんよね」などという語尾に、
「……しよんじゃがい」と言う土地っ子のお年寄りなどとは
どこか違った雰囲気が漂う。

静岡県の掛川のご出身だという。

物静かで穏やかなかただ。
かすかに、どこかしら、別の土地の空気を漂わせている。

ああいうかたが、ひとり、またひとりとおられることで、
地域は活気づくのではないかと思うことがある。

東京がいい例だ。
にぎやかな人が大勢いるが、
トータルで見ると、静かに、かすかに、さまざまな土地の空気を漂わせている人
のほうが圧倒的に多い。

生まれ育った土地を離れ、文化の壁に突き当たった人は、
人と慎重に接するようになる。

それは、相手をよく見て、理解するという姿勢にも通じる。

違いがあり、理解しようとする姿勢も生まれれば、
おのずと空気は動きだし、
敏感な子どもたちもそれを感じて育っていく。

和田さんもC中学の前の文房具屋さんだ。
知らず知らず、掛川の空気を吸いながら育った観音寺の子も少なくないだろう。

なにも人気者のタレントを知事として呼び戻すだけが地域の活性化ではない。
いろんな人を受け入れること。
それがなによりの地域の活性化につながると思う。

あ、もし観音寺を訪れるかたがいらっしゃるなら、
駅前に停まっている観音寺タクシーの柳川社長の車に乗せてもらうといい。
トランペット吹きのタクシー運転手。
われらが母校のブラスバンド部のOBで、
音質にこだわらなければ、停車のたびにトランペットを吹いてもらいながら、
楽しいドライブができる。

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by pivot_weston | 2009-06-17 22:52 | 人物

思い出すままに

Kさんという人がいた。

おかっぱ頭のおばあさん。
小柄で、やせていて、少し背なかが曲がっていて、
いつも歩行器を押して歩いていた。

妻が乳がん骨転移を発症し、最初に入院したころだ。

骨転移は脊椎が折れるところまで進んでいて、
病状が快方に向かわないかぎり、
上体を1°でも起こしたら、脊椎を通っている神経が麻痺する可能性があると言われていた。

その問題の病状が、薬が奏効したおかげで、
おや、快方に向かいかけたかな、と思えてきたころだった。

そういう経緯もあったので、
患者を散歩につれ出すなんてことは、思ってもみないことだった。

寝たままでも入れる特殊なお風呂に行ったあとだったか、なんだったか、
ともかく、なにかの流れでたまたま妻がストレッチャーに乗っていたときに、
ちょうど子どもたちも来ていたこともあり、
看護婦さんが「じゃあ、ちょっと、散歩にでも行ってきますか?」と言ってくれた。

おゝ、だ。
思ってもみなかったアイデアを授けていただき、
妻も、わたしも、たぶん子どもたちも、
それまでの「1°も起こせない」息詰まる状況から一気に解放されたような気分になり、
夢中になって病院のなかをまわった。

そんなころだった。

何度目かの「散歩」のとき、屋上の物干し場まで上がると、Kさんがいた。

妻と同室の患者さんだ。
膵臓がなく、胃もなく、腸も一部はなく……といった話は聞いていた。

でも、確か、わたしとはまだ一度も話をしたことはなかったと思う。
もちろん、4人部屋でいっしょに暮らす妻とは話をしていたみたいだが、
そんなこともあって、わたしに気を遣ったのか、
物干し場でお会いしても、すぐには声をかけてこられなかった。

でも、こちらは「散歩許可」がおりてまもなく、気分がふくらんでいた。
天気もよかった。
だから、なにも話をしないまま物干し場からおりてこようとして、
すれ違うときに、「ええ天気ですね」だったか、なんだったか、
ともかく、そんな通り一遍の言葉をかけ、そしたら、それがきっかけとなって、
しばらく話し込んだ。

以来、わたしとも、病室へ行くたびにお話をするようになった。

町の外れの、町営住宅のようなところでひとり暮らしをされているということだった。
娘さんがふたりいて、それぞれに孫もいて、
ときにはそのお孫さんたちが遊びに来ていることもあった。

やがて、上体を1°も起こせなかった妻がリハビリを始めることになった。
といっても、その1週間後にはがんばってすわれるようになった、なんてことはない。
まっすぐに寝たままの姿勢で30°まで体を起こすのにどれだけかかったか。

最初は「やったー!」と思った単細胞亭主も、
毎日妻についてリハビリ室に行くたびに、その上がらない角度が
胸に重みとなって感じられるようになってきた。

「ま、ええがな。ええがな。さ、みんな、今日もがんばっていこーぜー!」

そんなときに、なにをこぼしたわけでもないのに、
カーテンの向こうにいるKさんが、からっとした声で
唐突にそんな言葉を発することがあった。

「元気出していこーぜー!」の日もあったか。

「そうだね。うん、そうだ」と妻が同調する日もあった。

そして、そのへんの呼吸が飲み込めてくると、わたしも
「そ。そやそや、なんでもええがな。がんばっていこ。ははは」と笑えるようになった。

Kさんは、消化器系の臓器がほとんどなかったので、食べるのが苦手だった。
だから、わたしが行っているときも、子どもたちが来ているときも、
食事の時間が来ると、歩行器を押して自分の食事をとりに行きながら、
看護婦さんがいないすきを見計らって、「これ、食べて」と言って、
妻のベッドまで食事の皿をひと皿かふた皿もってくる。

まあ、病院食だ。こちらも別に食指が動いたわけではなかったが、
ぐいぐいと皿を差し出すKさんの顔を見ると、
「え、ええんですか。ありがとう」と言って、それを受け取った。

それを、しまった、と思ったこともあった。
Kさんの体は、自分では血糖レベルをコントロールできない状態にあった。
なんや、今日はKさん、妙に静かやな、と思っていると、
カーテンの向こうで低血糖のために昏睡状態に陥りかけていたことがあった。

でも、そういうときも、看護婦さんの処置で意識を取り戻すと、
また歩行器を押してカーテンの向こうから出てきて、
「へへ、死ぬとこやったわ。まあ、ええがな、ええがな。元気出していこーぜー」
と言いながら、どこかへ出かけていく。

30°までどうにか体を起こせるようになった妻が
また長い月日をかけて90°まで体を起こせるようになり、
歩く訓練も始めると、
初めて目にする立った妻の姿を見上げて、
「へえ、こんなおっけな(大きな)人やったんやな」
と言って目をまるくしていたが、
なにごともさらりと――を真骨頂とするKさんがまた歩行器を押して歩きだしたときの
うしろ姿はさすがに寂しそうだった。

1年間の入院期間を経て、一時は不可能かと思えていた退院を果たした妻と
お正月に近くの四国66番札所雲辺寺山にのぼったとき、
Kさんのところへお見舞いに行こうということになり、
おみやげを買って病院へ行ったが、
そのときには、Kさんは個室に移り、酸素マスクをつけていた。
その数日後に亡くなったと聞く。

さかんに笑顔で語りかけようとするわたしの手を引き、
あまり元気になった自分の姿を見せるのも――ということを思い出させてくれたのも、
Kさんの親友、妻だった。

すごい人は、世のなかのあちこちにいる。

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by pivot_weston | 2009-06-14 08:50 | 人物

炎暑の記憶

おばあさんが道端にしゃがんでいた。

暑いのだろうか、くたびれたのだろうか、
おそらく、暑くてくたびれたのだろうが、
その姿が目に入ると、横浜の保土ヶ谷に住んでいたころの
ある日の記憶がよみがえってきた。

今日なんてものではない、炎暑のころだ。

薬屋へ行こうと思って狭い裏道を歩いていると、
向こうからおばあさんが歩いて……と言っていいのか、
すでにしてその表現が当てはまらないほど
ふらりふらりしながら足をどうにかはこんでいた。

顔は真っ赤で、汗が噴き出している。

「どうしたんですか? 大丈夫ですか?」と尋ねると、
「うちがわからないんです」と言う。

あ、認知症の人か――と思ったが、
さて、その「うち」をどうして捜したものか、
すぐには名案が浮かばない。

表通りには交番があっただろうか、と気持ちを表通りに向けていると、
今度は「昨日越してきたんですが、夜だったもので、
どういうアパートだったか、思い出せないんです」と言う。

あら、認知症というわけではないのか、とわかると、
表通りに向いていた気持ちをまた裏道まで戻し、
「アパートの名前はわかりますか?」と尋ねた。

「××荘です」と言う。

「じゃあ、あそこの地図で見てきます」と言って、
近くにあった地域の案内地図まで走った。

あった。
「ありましたよ」と大きな声でその旨を伝えたが、
もう一度地図を見ると、ありゃ、
ご存じのかたはご存じだろうが、
保土ヶ谷駅の両側はとんでもない崖地で、
その「××荘」はその崖の途中にある。

だが、よろよろとついてくるそのおばあさんより先に立ち、
その地図の場所まで行くと、
確かに「××荘」の名前は出ているのだが、
肝腎のおばあさんが「違う」と言う。

その地域には、「××荘」が2軒あったのだ。

だが、地図のところまで戻っても、もう1軒の「××荘」は出ていない。

「出てくるときには、どういう道を歩いてきましたか?」
そのアングルから、洗い直してみることにした。

遠くが見えて……、木があって……、と
おばあさんの記憶をたどりながら歩いていくうちに、
「ああ、ここです。ここです」とおばあさんが言ったときには、
まさしく、保土ヶ谷のとなりの井土ヶ谷のほうまで見渡せる
崖のてっぺんまで来ていた。

こちらも汗だくだ。

見ると、大家さんの屋敷のなかに建てられた古い木造アパートだった。
そのアパートへ夜引っ越してきて、外観もろくに記憶に残っていないとは、
どういうことなのだろう、と考えた。

事情は訊かなかった。
でも、世のなかにはいろんな暮らしをしている人がいるんだな、
ということにあらためて気づかせてくれた炎暑の一日だった。

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by pivot_weston | 2009-06-13 12:10 | 人物

すごい子

正直なところ、
最初に気がついたときには、ぎょっとした。

近くのソファに、女の人が3人か4人いただろうか。
そのなかで、その、若いが土気色の顔がこちらを向き、
頬がこけた分だけ大きくなった目がわたしの手もとを見つめていた。
じっと、定まって動かず、突き刺さるような視線だ。

その先の、わたしの膝の上には、ギターがあった。

病院から、やってくれ、と言われていた。

だけど、妻が入院していたから、
家族といっしょに最後の時間を大切に過ごそうと思っていたから、
やれたことだった。

妻がいなくなったホスピスで、
いまやただのよそ者となった身で、
知らない人の前でギターを鳴らして歌をうたうことなど、
とてもできない。
そんな技量の持ち主じゃない。

そう思って、背なかをまるめ、
親指の腹でボロンボロンと弦をなでながら、
チューニングを繰り返したり、
簡単なアルペジオを弾いてみたりしていた。

場所が場所だから、深刻な表情の人はいる。
だが、最初は、それがなんの視線か、わからなかった。
ともかく、怖くなるほどの強さで、
わたしの胸を射抜いたのは確かだった。

しばらくすると、その場にいた
土気色ではない顔色の女の人が近づいてきて、
「音楽をやってくれるんですか」
「ええ、まあ」
「じゃあ、……をやってくれますか」
のような会話があっただろうか。

ともかく、そうしてわたしたちの音楽ボランティアの最初の1曲は始まった。

上手な歌だった。
「おねえちゃん、うたって」「もっとうたって」
1曲が終わると、土気色の彼女が言った。

ほかの人にも「ねえ、うたって」「うたおうよ」
と言っている。

あれは、なにかを見つけた目だったのか。
でも、もしかすると、自分は声が思うように出せなかったのか。

次の週に行くと、
ナースステーションのカウンターに小物が並んでいて、
「あの子がつくったんですよ」と看護師が言った。
「まだ23歳なのに、白血病なんです」と。

行くたびに、歌の輪はひろがった。
おずおずとラウンジに出てくるほかの患者さんや、
その家族へも、その子が歌をすすめ、
顔色は悪いが、知らない人が見ると、
その子は患者ではなく、看護師かボランティアのように見えるほど
人の世話を焼くようになった。

看護師の話を聞くと、
「毎日、この病棟の全部の部屋をまわって、
全部の患者さんに『元気、出しましょうね』って声をかけているんですよ。
自分でなにか、ここにひとつの雰囲気をつくり出そうとしているみたいで……」
と言う。

生きる時間は誰にも平等に与えられているはずなのに……。
そう思えているときは、
その「平等」からあぶれたかに見える自分のことにばかり気持ちが向かい、
まだ自分にも人に対してできることがあることに気づかない。

でも、なにかのはずみにそれに気づくと、
今度は逆に、
生きられる時間はみなそれぞれなんだという、
冷徹な事実をも受け入れることができる。

それから2か月後くらいだったか、
その彼女が亡くなったのは。

すごい子だな、
と思った。

わたしにできるのは、
そう思ったことを人に伝えて、
確かにあなたがいたんだよ、ということを証言してあげることくらいだ。

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by pivot_weston | 2009-06-04 08:53 | 人物

ディズニーの陰

いまや、ディズニーはすっかりわたしたちの世界の一部になっている。

でも、わたしが子どものころには違っていた。

6歳のころだったか、
わが家に初めてテレビが来たとき、
電気屋さんがスイッチを入れると、
「漫画」が出た。

正確かどうかはわからないが、
あ、ドナルドダックの漫画だ、と思ったような記憶がある。

でも、そのときはまだ、番組の概念、いや、チャンネルの概念すら頭にない。
ふあぁ、という驚きとともに見て、
電気屋さんが帰ってから、
徐々にチャンネルや番組の概念を仕込みながら
何度「もう一度、あの漫画が見たい」と思って試みたかしれないが、
二度とその「ドナルドダックの漫画」を見ることはできなかった。

でも、ディズニーの世界を見る機会はあった。

初めて映画館で見た映画も『101匹わんちゃん』ではなかったか。

それに、四国の香川県では、日曜日の夜8時、
確か『3ばか大将(The Three Stooges)』のあとだったと思うが、
『ディズニーランド』というテレビ番組もあった。

もっとも、こちらは教育番組だ。
あのディズニーのキャラクターたちは、出てくることもあったのかもしれないが、
わたしには、あの番組で見た記憶はない。

当時の田舎の子どもにとっては、
あの番組の終わる9時というと、もうノーミソが半分以上眠っている時刻だったし。

でも、番組の最初と最後にちょび髭の紳士然としたおじさんが出てきた。
それがウォルト・ディズニー、
ドナルドダックやミッキーマウスを描いている人だということはわかった。

あのおじさんが描いているのか――
そう思うと、ドナルドダックやミッキーマウスをかたどるあの独特の、愛嬌のあるやさしい線が
とても納得いくような気がした。

その後の「オバQ描いてみたい衝動」にもつながるかもしれないが、
自分でもあのドナルドダックやミッキーマウスのような「漫画」を描いてみたくなった。

その衝動は、まだディズニーがわたしたちの世界の一部になる前の期間、
ずっとわたしのなかのどこかにあった。

だから、東京ディズニーランドが開園するとき、
ある出版社の人から「これを訳して」と言って、
ディズニーのキャラクターの肖像権に関する契約書をわたされたときには、
とてもうれしかった。
おゝ、おれもディズニーランドの開園に参加できるんだ、と思った。

でも、それからしばらくたって、
あるビジネスマン向けの英語教材シリーズをつくっていたときのことだ。

マクドナルドの実質的創業者のレイ・クロックさんや、
石油王のポール・ゲティや、
鉄鋼王のカーネギーなどの自叙伝をテープに吹き込み、英日対訳テキストをつけて販売していた。

あるとき、その仕事のディレクターをしていたトムさんが
「今度はディズニーをやろう。またネタ本がないから書いてよ」と言ってきた。

その前に、IBMの実質的な創業者のワトソンさんの話をやるときも、
ネタ本になる自叙伝がなかったので、わたしが書いていた。
よし、今度はディズニーの伝記を書けるのか、と思って力が入った。

ところが、資料としてアメリカのほかの人が書いた伝記を買ってきて読んでいるうちに驚いた。
ウォルトさんのちょっとした秘密が書いてあった。

別に、悪いことではない。
それに、トムさんに尋ねても、
「そんなこと、アメリカ人はみんな知っているよ」とも言う。

ふぅん、だ。
しかし、なんだか、以来、ウォルトさんのこと、いや、ディズニーのことを考えると、
気の重さを感じるようになった。

東京ディズニーランドが開園して、子どもたちと行ったときに、
「こんな、子どもだましのことを!」と、なんだか筋の通らないことを考えて
途中で腹を立ててしまったのも、そのせいだったのだろうか。

結局、その伝記を書く仕事は途中でディズニーとは関係のない理由で打ち切りになったが、
その気の重さが、いまも続いている。

なにも、いまやわたしたちの世界の一部となっているディズニーの世界は、
ウォルトさんひとりのものでもない。
ディズニーの隆盛はディズニーの隆盛として、
そのまま素直に受け取ればいいのだろうが、
なにやら割り切れないものを感じる。

だが、どこにそんなものを感じるのか、よくわからない。
もしかすると、
ウォルト・ディズニーは、実はマイノリティなのに、
みんな、それを承知で受け入れているのだろうか、
というところだろうか。
ウォルトさんがあの明るくかわいいキャラクターの陰でいだいていたものが
みんなに理解されているのだろうか、
という思いだろうか。
でも、マイノリティの人がその背景などとは関係なしに大勢の人に受け入れられている例は、
芸能界などにはたくさんある。

子どもの世界と大人の世界の間の不連続点。
そこには、こんなこともままあるものなのかもしれない。

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by pivot_weston | 2009-06-03 09:38 | 人物

ある便り

ある編集者のかたから定年退職のお便りをいただいた。

一度しかおつきあいをしていない編集者のかた。
でも、その一度が、とても印象深い一度だった。

2000年7月19日。
前夜に子どもたちと妻を看取ったわたしは、
葬儀社の人たちが白黒の幕を張ったりなにかして葬儀の準備をする家のなかで
あたふたと時間を過ごしていた。

柱の電話が鳴った。
初めて聞く、恐縮したような女の人の声。
少し前に、ある本の翻訳を依頼してきた出版社の人だった。

そのときすでに、近いうちに妻がいよいよのときを迎えることは見えていた。
だが、生活の資はほしい。
だから、一部の訳だけを引き受け、
あとは知り合いの翻訳者を紹介し、その人にやってもらうことにしていた。

その翻訳者が「ぼくには内容が難しすぎる。みんなに迷惑をかけるといけないから、
ぼくには本をまとめる作業はできない」と言って途中で仕事を投げ出した、と言う。
「だから、申し訳ありませんが、どうか8月末までに本をまとめる作業をしてくれませんか」と。

まさか、と思った。
8月末までに仕上げるとしたら、もうその日からかからなければならない。

その出版社にも、翻訳者にも、わたしのほうの状況は伝えていた。
それなのにそう言ってくる非常識さやなにかに、驚きを通り越して、
信じられないような、いきなり別世界に投げ込まれたような気分を味わった。

それでも、しばらくは冷静に応対した。でも、通じない。
8月末の原稿アップの期限は延ばせない、と言ってすがるように頼み込んでくる。
あとをお願いしていた翻訳者は鬱病を病んでいた。
自分のことしか考えられない心的傾向は理解していた。しかし、それにしても――と思い、
最後にはとうとう「わたしの知ったことですか。いまをなんだと思っているんだ」
と怒鳴った。

自分を取り巻く環境が急転していく予感はあった。
妻の闘病期間中の状況は、あれ以上を望もうとしても望めないくらいのものだった。
主治医の外科医が開設をはたらきかけていたころから患者やその家族として応援し、
開設した1か月後に入ることになったホスピスでも、
志あふれる看護師さんや医師たちに囲まれ、
妻だけでなく、まわりの患者さんたちにとっても、また、わたしたちにとっても、
目の前を過ぎていく一瞬一瞬を、少しでも、よりよい、生きた甲斐のあるものにしようと
お互いがお互いを思いやり、盛り上げていた。

自分で書いてはいけないかもしれないが、
当時、ホスピスの現場からCancer Talkというメーリングリストに定期的に投稿していた
「瀬戸内ホスピス報告」には、そのメーリングリストの参加者のみなさんも含め、
みんなが勇気をもって、ユーモアも交えながら、目の前の時間に立ち向かっていた様子が
よく表現されていたと思う。

でも、妻の死の前日、いよいよ臨終を迎えたとき、
ある近親者に電話で連絡をして、慄然とした。
「じゃあ、もう死ぬということでしょう。だったら、行ってもしかたないよね」
返ってきたのはそういう言葉だった。

目の前で画面が180度ローテーションしていくように世界が急転していくのを感じた。
この人がいなくなったら、まるで違う世界に投げ込まれるのだ。
そう感じながらも、逆に、ここが勇気の見せどころと考え直し、がまんしていたところだった。
その近親者にも葬儀の連絡をしたら、「いまから行っても意味がないから行かない」
という趣旨のことを言われていた。

なんだ、この世界の変わりようは。
心のなかで、思わずぷっと笑いがもれてしまいそうな、絵に描いたような変わりようだった。

編集者は泣きだした。
泣きながら「どうか、どうか」と懇願を始めた。
ふつうの日常生活のなかではかなり追いつめられていることは理解できた。
ただ、こちらが「ふつうの日常」ではないことはどれだけ考えているのか、とも思ったが、
こうなったら、もういいか、と思った。
仕事のことを考えながら葬儀を出すのは妻に対してとても申し訳ないことに思えたが、
もういるのは、わたしだけだ。
あれだけいろんな条件に恵まれ、いい時間を過ごしてきたのだから、
その反動というものもあるのだろう。
そして、その反動にはわたしひとりで耐えなければならないのだと思い、
8月末の納期を約束した。

その夜から、徹夜だった。
妻の病室に子どもたちがかけつけ、最後の会話を交わしたあとで意識をとる処置をするときと、
火葬場で、それまでいっしょに緊迫した時間を過ごしてきて、みなたまりかねて泣いていた
子どもたちと点火のボタンを押すときの2度、泣きかけたことはあったが、
あとは約束どおり8月末に原稿をあげるまで、毎晩毎晩、妻のためにお経をあげながらも、
泣くことも、泣きかけることもなかった。

わたしはひどい人間なのかもしれない、
もしかすると、人間的な感情をもち合わせていないのかもしれない――という
子どものころから心の片隅にあった疑問も、頭をもたげてきた。

初めて心の底から制御のきかない感情があふれ出し、嗚咽したのは、
それからひと月ほどがたち、上京中に朝まで新宿で酒を飲み、
そのままふらふらと、かつて住んでいた東中野まで歩き、
すでに廃園になっていた、子どもたちが通っていた保育園のなかまで入っていき、
かつて子どもたちの小さな靴を入れていた下駄箱を目にしたときだった。

黒い革ジャンパーを着て、鬚ぼうぼうの男が
まだ明けきらない朝に、すでに廃園になっている旧保育園の園庭で
肩をふるわせ、声をあげて泣いている姿は、
誰か見ている人がいれば、さぞ不審に思えたのではあるまいか。

でも、いいことだ――
そのころ、メールを通してわたしの心のサポートをしてくれていた人はそう言ってくれた。
わたしの心のサポートを――と言っても、その人自身が
認知症でがんを発症したお母さんを看取り、認知症のお父さんのお世話をしていた。
気がつくと完全に心のバランスを崩していたわたしは、
混乱のなかでその人を深く傷つける言葉を発していた。

いろいろなことがあった。
妻の葬儀の前に、いったん引き受けた仕事を投げ出した翻訳者は、
妻の2年半後に、自宅の階段の上から転落して亡くなった。

足かけ10年。
もうそんなにたったか。
もうわたしの人生には、妻の知らないことがたくさんある。

定年退職された編集者のかたも、先ごろ亡くなったタレントの清水由貴子さんのように
当時はお母さんのお世話をされていた。
どうかよりよい第2の人生が訪れることをお祈りしたい。

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by pivot_weston | 2009-04-29 10:01 | 人物

還流・循環

昨日書いた野村克也さんは次々と夢や望みを実現している。

秘密はどこにあるのか?
わたしは奥様ではないかと思っている。

野球の試合を分析し、
そこにひそんでいるデータをさまざまな角度からひろい、収集し、
それらを互いに組み合わせて新たな知見にまとめ上げ、
それを新たな試合に生かしていく作業というのは、
ま、野球好きなら、あ、いや、もしかすると野球好きでなくても
誰でもできる。

野村さんの「ID野球」が有名になってから
まねをしている人もいっぱいいる。

問題はそのプロセスをいかに簡略化し、短縮するかだ。

人生は短い。
むだを省いて、素早く要点から要点に移るには、
ほかのどんな仕事にも共通して言えることだろうが、
手段であるデータのほうに引き寄せられ、そこに埋没してしまうのではなく、
つねに目的である生活や暮らしのほうに足場をかまえておく必要がある。

目的地・生活の現場のほうからデータをながめると、
だいじなデータだけが目につくということはよくある。

その意味で、わたしは、もしかすると野村さんはあの奥様との会話から
多くのヒントを得て、多くのことを学んでいるのではないかと思っている。

しかも、そうして膨大なデータの海を一気にショートカットして要点に素早くたどりつけば、
自分が求めているものにも素早くたどりつけることを覚えた野村さんは、その結果、
マスコミに露出する頻度が増し、一般の人との交流がふくらむにつれて、
ますます多くのヒントの泉を得たと言える。

野球というのもひとつの営為である以上、
めざすものは必ず暮らしのなかにある。

奥様のためにわが「砲丸投げのお姉さま」の大好物の球団を追われて辛酸をなめたというのは、
まわりの人の目に映る、ただの表面の現象に過ぎない。
その奥様のおかげで暮らしのなかからヒントを見つける目を養っていた野村さんにとっては、
それもまた、新たな視野をひろげる好機でしかなかった。

還流し、循環することは大切だ。
還流しないものは、一面どんなにすぐれた行為に見えても、
ただの「大人のママゴト」に過ぎない。

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by pivot_weston | 2009-04-28 06:59 | 人物