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2013年 01月 27日 ( 1 )


窓にとまるネコ――ペニーとルイス(11)

 弱った弱った。

 昨日の夕方、買い物に行こうとして階段を降りかけたら、下からネコの声が聞こえてきた。

 実は、この前の「東京で言う大雪」の日のあと、しばらくペニーの姿もルイスの姿も見えなくなっていた。ビルの外へ出ても「ニャ~」の声が聞こえてこないと、物足りないような、寂しいような、しばらく足をとめて周囲をキョロキョロしたくなる気分にかられたが、想像力をはたらかせて、さては、この雪じゃあんまりだと思った誰かが保護してくれたのかな、と考えると、懐に軽い負担を与えていた扶養家族が減って、安堵感のようなものも覚えていた。

 そのふたりが、二日ほど前から、またビルを出ると外で待っているようになった。

 動かない仕事だから、少しでも足を使えるときは使おうと考え、いつも降りるときはエレベーターを使わないことにしている。だから、ふだんどこかに身をひそめているふたりも、あ、あの足音が聞こえてきたらあの人間が降りてくるんだな、という関連付けができ、最初はわたしが玄関まで降りていくと、そこで待っているようになった。「ニャ~」の声は外。でも、そのうち、その声がなかから、つまり、ガラスや壁の向こうからではなく、staircaseの空間をじかに伝わってくるようになった。ビルの玄関のドアがあいていると(夏場はたいていあいたままになっている)、わたしの足音を引き金にパブロフの犬になって、空腹感を覚え、ほんとはビルのなかにはいっちゃいけないことになっているのに、待ちきれなくて、はいってきて、階段の下から「こら~、はよ降りてこ~い、ニャ~」と鳴くようになったのだ。

 昨日も、そのダイレクト・ニャ~。大雪以来しばらく聞かなかったので、おゝ、また始まったか、といろんな感懐をこめて思う。まあ、ちと待て、そうせかすな、と心のなかでつぶやきながら降りていくが、気のせいか、どこか以前より声が大きいような気もする。だから、反射的に、頭のなかには、ペニーが2階くらいまで上がってきているところが浮かぶ。まずいなあ、このビルには、ネコは入れちゃいけないことになっているのに、この分だとそのうち大家さんに怒られちゃうなあと思い、少し急ぎ足で2階まで降りた。

 ありゃ、いない。ほんの少し、いつもより大きい声を聞いてわたしのなかで起きた感覚と現実のずれ。感覚はすぐに現実に合わせて修正される。あゝ、なんだ、気のせいか、と思い、今度はあとふたつ、踊り場をはさんでくの字に階段を降りていったところでペニーが待っている姿を思い浮かべる。で、1段か2段、階段を降りたとき、いきなり視界の正面に、カッと見開いたペニーの目が飛び込んできた。踊り場の壁の窓に上がり、閉まったガラス窓の前からこちらを見て、いつもの「おなかすいた~。はよエサよこせ~」とは明らかに異なる「ニャ~」を発している。えっ、なんでおまえ、そこにいるの?――と、当然最初は思うが、かりにその疑問に答えられる言語能力があったとしても、答えられる状態ではない。

 理由はすぐに推測がついた。たまたまビルの玄関のドアが開いているときに、おなかがすいてかなんでかは知らないが、ついチョロチョロとなかにはいってきたものの、冬場だから、すぐに誰かにドアを閉められ、出られなくなったのだろう。ともかく、いくら毎日エサをやってきたからといって、そんなつまらない事実など斟酌している余裕をなくすほど怯えていて、近づいたらいまにも、あのワンスイングでさっと赤い血をにじませるネコの強力な爪をふるいそうな剣幕だから、その、やや見上げる位置についた窓のほうへ向いて、顔では笑いながらも、そっと、のけぞるようにして踊り場を通過して、残りの階段を降り、玄関のドアの状態を確かめると、案の定、ぴしゃりと冬場の設定になっていた。

 なら、話は簡単だ。それをあけて、そのうえでもう一度1階と2階のあいだの踊り場に戻り、手をダウンジャケットの袖のなかに引っ込めるくらいの防御策はして、ペニーのお尻をトンと突いてやればいい……と思い、そう、ダウンジャケットの袖を近づけたらフンギャ~と言って歯をむき出すペニーのお尻をトンと突き、1階へ向けて脱兎のごとく(という比喩はあえて必要としない存在だが)駆けおりさせるところまでは計算どおり。ところが、やれやれ、とひと息つこうとしたら、ありゃ、そのペニーがまた脱兎のごとく駆け上がってきた。え、なんで――と思っていると、階段の壁の陰からこのビルのどこかに入居している妙齢のご婦人が現れて、にこっと微笑まれた。あ~りゃ、妙齢のご婦人の微笑みはいいのだが、なんとも間の悪いことに、ペニーちゃんが一目散に出ていこうとしたときに、よりにもよって、その「一目」の正面に、玄関からはいってくるそのご婦人の姿が見えちゃったものだから、オートレースのオートバイさながらにUターンをして、また一路階段の上へと向かっちゃったのだ。

「はは、いつのまにかはいってたみたいで……」とかなんとか言って、ご婦人の手前をつくろいながらも、気持ちは完全に階段の上。でも、狭いビル。要するに、最後は玄関のドアをあけたうえで、いちばん上の階まで上がり、順々に下へ向けて追いつめていけばいいだけの話だと思っていた。だから、そのとおり、ご婦人がお行儀よく閉めたドアをあけ、(階段を上がっていくとまたどこかで遭遇してややこしくなるので)エレベーターで最上階まで上がった。ちょっと時間はロスさせられたが、そんなに焦りもいらだちもない。

 ところが、エレベーターで最上階まで上がり、さあ、かわいそうだけど下まで追いつめるか、と思ったとたんに、思わぬ光景が目に飛び込んできた。

 窓にとまるネコ。

 誰かがその階と下の階のあいだの踊り場の窓をあけていた。行き場に困ったペニーはその窓に上がり、外へ飛び降りようとしている。でも、ネコでも、その高さは飛び降りたら危ないということが視覚的にわかるらしく、飛び降りようと腰は浮かしても飛び降りはしない。それでも、こちらが近づこうとすると、またなんとかして飛び降りようとする。ん~、人間でもこういうケースはあるなあ、と思いながらも、はて、どうしたものか、と考え、結局は玄関のドアはまだ開いたままだと想定し(また確かめに降りるのは面倒だから)、そのまま放置してみることにした。

 ところが、動かない。気になるから、ちょこちょこと見に行くのだが、夜になっても、夜なかになっても、恐怖の記憶がよほど強烈に焼きついたのか、動かない。窓にとまったネコのまま、わたしが壁の陰から顔を出すと、こちらを見て、少し気持ちは落ち着いてきたのか、おい、早く降りろよ、と通じない言葉をかけると、いつものように「ニャ~」と鳴くのだが、そのときはもう深夜も深夜。毎晩夜なべ仕事の変なおじさんでもなければ寝静まっているころなので、「シーッ!」と口に指を当てるが、そしたらまた「ニャ~」と闇にこだますかわいい声で応えようとする。

 やれやれ、体に突き刺す、ところまではいかないが、染み込むような寒さではあるのに、仕事の途中でコーヒーをいれに行ったりトイレに行ったりするたびにその窓をのぞきに行ったが、いつまでたっても窓にとまったネコのまま。あの寒い外気のなかで体を縮めてこらえている内面を思うと、それがいくらわたしたちの想像できるような内面とは違うと思っても、なにやら自分の幼時の似たような体験も思い出す。

 結局、彼女は寒い窓の上で、あったかい部屋のなかで夜なべ仕事をするおじさんに朝までつきあってくれた。でも、これ以上続くと、さすがにこのおじさんもそんなあったかい気持ちのままではいられそうにないので、先ほど、また玄関のドアが開いていることを確認したうえで、窓にとまったペニーがまた立ち上がって飛び降りる姿勢を見せるのもかまわずに、一気に内側へひったくるようにして階段に下ろし、あわてて窓を閉め、一気にキャトルドライブならぬキャットドライブで、彼女がいちばん落ち着く戸外の環境に帰してやった。

 やあ、疲れた。仕事どころじゃない。