物忘れ

最近、物忘れが激しい。

昨夜もひとつ、とんでもないミスをした。

自分のなかでは、若いころと変わらぬ感覚を前提に
いろいろとその理由をさぐろうとするが、
どうやらやはり、それでは自分のなかで起こっている現象にたどりつけそうにない。

人の名前など、固有名詞が一度聞いただけでは覚えられなくなった。
これは、自分のなかでもはっきりと実感できる現象。

若いころには、記憶力のよさを感心されることもよくあった。
でもいまは、一度聞いた名前を口にしようとして、
それが出てこないことがよくある。

証券取引所の天井の近くや新幹線の車内に
相場やニュースの文字情報が横に流れていくディスプレイがある。

ちょうど、ああいうものが自分の口と脳ミソの両方にあり、
そのふたつの情報の流れが一致していないような印象だ。

というか、情報はまず脳ミソのディスプレイに流れてくる。
たとえば、その場の流れで「おおにし・ひろし」という名前を発声するときには、
まず脳ミソのディスプレイの右側の、まだ見えていないところで
「おおにし・ひろし」という情報が発生する。

それにともない、口は、まだなんと発声するかわからないまま発声の準備をする。
若いころには、その準備のできた口のディスプレイに
ほどよいタイミングで脳ミソのディスプレイから
発声する情報がストンと降りてきていた。

でも、いまは降りてこない、ことがよくある。
つまり、脳ミソのディスプレイに流れる情報が見えなくなっているのだろうか。
それとも、それ以前に、情報の脳ミソへの焼きつきかたがあいまいになっているのだろうか。

自分がなにかを発声しようとしていることはわかっていて、
口はその準備ができるのに、肝腎の発声する情報の内容がわからない。
そんな感じだ。

これまでは、そんなことが何度起こっても、
そのつど、自分のなかでうやむやにしてごまかし、
また若いころの感覚で生きていこうとしていた。

そろそろ、そのへんに根本的な切り換えが必要になってきたのかもしれない。

自分の能力を信頼できないというのは悲しいことだが、
信頼できないものを信頼して人に迷惑をかけたのでは、なんにもならない。

ま、なにごとにもおさまりどころがある。
この宇宙の現象に、おさまりどころのないものはないと思う。
まだこれから、どういうところにおさまるのかわからないが、
なるべく人に迷惑のかからない、新たな「人生の刹那」のおさまりどころを探してみよう。

考えてみれば、自分の能力を信頼して生きるほうが硬直した生き方かもしれないしね。

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by pivot_weston | 2008-11-06 08:21 | ブログ