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今年会った名文

今年、出会った名文のなかに、
母校・香川県立観音寺第一高校の同級生、林和明くんのものがある。

驚きだった。
衝撃を受けた、と言ってもいい。

わたしは昭和30年、つまり、戦後10年を経た、
お菓子とテレビや洗濯機の時代の生まれ。

父は戦後、シベリアに抑留され、
数年後に舞鶴の港に帰ってきた。

ん!? なにか変だな。
そんな遠い、じかに目にしたわけでもない歴史がフィードバックされる。

ある日、送られてきた同校東京支部の同窓会誌『燧』を開いたときだ。
「林和明」という名前が目に飛び込んできたので、「あ、林くんだ」と思い、
ページをめくりながら活字に目を走らせたとき、
頭のなかでそんな現象が起こった。

キーワードは、その文中にあった「引き揚げ」。
もしかすると、自分でも意識しないほど短時間のうちに、
「あ、お父さんの話を書いているのか」と思ったかもしれない。

だが、違う。
あらためて書き出しに戻ると、そこには、

「一枚の古ぼけた写真。明るく喜びと希望に満ち溢れた顔がある。
ある家族の写真、夫と妻と女の子男の子、そして迎えにきた肉親がいて、
撮影された場所は宇高連絡船の客席だ。今から49年前の1958年5月31日付けの
四国新聞夕刊にこの写真は掲載されている」

とある。

掲載されている写真は、まさに「引き揚げ」がしっくりくる写真。

ま、まさか……。

人が物事を理解するときには、必ずその理解のベースとなる枠組み、
はやりの外国語で言えば、パラダイムがある。

このとき、わたしの頭のなかで起こっていたのは、
それまでのんびりとそこに安住していたパラダイムが使いものにならないことに気づき、
あわてて、目に飛び込んできたものにぴったりくる別のパラダイムをさがす作業だ。

でも、それが「まさか」と思え、にわかには受け入れられない。

しかし、ほんとうだった。
わたしと同じ昭和30年生まれの林くんが、実は上海からの「引き揚げ者」だった。

そんな、昭和33年に上海から引き揚げてきた人がいたことも知らなかったが、
ただお菓子とテレビや洗濯機の時代に生まれた同級生だと思っていた林くんが、
3歳まで上海で中国語をしゃべっていたとは……。

しかも、読み進んでいくと、今度はまた、その筆力に感心させられた。

文章とそこに描かれている内容をサインカーブのような波線にたとえてみよう。
誰の書く文章にもそんな波線があり、誰の語りたいことにも
やはり同じような波線があると思う。

林くんの文章の波線は、語りたいことの波線と絶妙にからみ合っていた。
ぴたりと、寸分のスキもなくかみ合うのがいいと思う人もいるかもしれないが、
わたしはそうは思わない。
文章の波線と語りたいことの波線の間にあちこち細い隙間があいていたほうが、
逆にわたしの頭のなかでは、その隙間を埋めようとするベクトルが生まれ、
読んだあとに、単に文字を追っただけでは得られない心のふくらみが残る。

林くんの文章は、走りかける文章、抑えようとする心、それでもやはり走りかける文章、
のような、強弱の波があり、
そのつど、文章と語りたいことの間にのぞく隙間がわたしの心をひきつけ、
その隙間を埋めようとするベクトルがはたらいた。

そう言えば、無警戒に人の輪に入っていくタイプではなかった。
かといって、警戒して人の輪に入っていかないタイプでは決してなかったのだが、
こうして見ると、確かに、幼時に一度自分の存在を客体化した経験の持ち主、というか、
つねにどこかで、自分の客観的なイメージを意識し、整理しながら生きている
ようなところがあった。

おもしろいもので、わたしがこのとき、
林くんと同じ『燧』に書いたスロベニア旅行記のなかには、
日本の建築について触れているところがあるが、
実はそのくだりは、高校時代の登下校時に、
林くんのお宅のあたりを通りながら見た光景を念頭に置いて書いたものだった。

林くんの名文をここで紹介できないのは残念だが、
林くんも、わたしなどよりずっと前からブログを開設し、
日々の雑感を書きつづけておられるので、
ここでそのブログを紹介しておきたい。