物言わぬ仲間

 このところ3回ほど続けてお伝えしているテレビ神奈川の開局40周年記念クレイアニメ「ドロンコロン」(DoronCoron)について、ごらんになったかたから、お子さんが「最後の場面の意味がわからない」と言っているというお話をうかがいました。また、一方では、「姥捨山のお婆さんを思い出した」というご意見もいただきました。なるほどな、と思います。

 別にわたしが解説する筋合いのものではないので、個人的な感想を書くと、わたしも最初、海に落ちたドロンコロンが魚たちにつつかれて、くすぐったそうに目を細めながら小さくなっていき、やがて魚たちのおなかのなかや海のなかのどこやらへ消えていくところでは、ありゃりゃあ、と思いました。

 でも、そこからもう一度、画面が崖の上に戻っていくと、そこは一面に別のドロンコロンに覆われていて、小さな(遠景だからそう見える)植物がぽつりぽつりと芽を出していて、街をころがりだしたときに、自分のなかにミミズがもぐりこんできて、そのミミズを鳥にさらわれてベソをかいたドロンコロンのように、また、頭から伸びた大きくてつややかな緑の葉っぱを、これはおいしそうだとばかりにかじりに来たアオムシだかなんだかに、頭の上で平気で葉っぱをかじらせながら、ほかの葉っぱをまっすぐに高々とおっ立てていたドロンコロンのように、生き物と一体となった、というか、それ自体が命の宿るところ、命のめぐるところとなり、つまりはそれ全体がひとつの命となったドロンコロンが、自立能力のない都市の人工空間をまわりで支えていて、さらにカメラがぐっと引いて、人工空間なんてどこにあるのかわからない地球全体の画像になると、そこから「バァ。ぼくだよ」とばかりに地球の陸地全体にドロンコロンの大きなおめめがふたつ出てくる、という構成は、いろんなことを考えさせてくれます。

 ドロンコロンが命の宿るところ、命のめぐるところなのだから、人間も身のほどをわきまえ、自分たちがそこにどう宿り、そこでどうめぐるかを考えるのが自分たちに与えられた命を最大限に生かす方法でしょう。ドロンコロンはわたしたちの命を宿らせ、めぐらせてくれるけど、「大仏さんの手のひら」のようにわたしたちに好き勝手なことをさせてくれるのではなく、上に書いたようにそれ自体が「命」であって、しかも、とても薄く、天気図の雲のように、たえずできては消えているものなので、それが支える命のひとつにすぎない人間が好き勝手なことをしていたら、じきに消えていき、そうなると、自分たちだけでは生きていけない人間も、当然、消えていくしかありません。

 国連FAOのVargasさんはこのドロンコロンのことをわたしたちの「Silent Colleague」(物言わぬ仲間)と呼んでいました。

 そういや、最近は仕事の途中で頭の切り替えが必要になったときによく「春梅」という昭和初期の台湾を舞台にしたドラマを見ています。日本人の俳優さんも大勢参加しているのだから、日本語のセリフはもう少しなんとかならんかったのかなと思うけど、ドロンコロンの頭の上の葉っぱを思わせる緑の風景がいい気分転換のきっかけになってくれるし、わたしにもほんの少しはわかる台語(ダイギー)のセリフが多いみたいだし、なにより春梅さんの子ども時代を演じている役者さんの表情やどこかビートたけしさんみたいな大金さんのキャラクタライゼーションがすばらしいですね。これもおすすめの動画です。


by pivot_weston | 2015-06-13 16:13 | ブログ