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朝の太公望、気分

 朝、ちょっと休憩するときに神経にやさしいテレビ番組をさがしていたら、釣りの番組をやっていた。

 見ているうちに、待てよ、と思えてきた。テレビだからしかたがないのかもしれないが、「当たり」ばかりが続く。釣りの楽しみのひとつはあの、ぼーっと浮きをながめている時間なのではないか、もしかするとこういう番組は釣り好きをふやすためにやっているのであって、すでに釣り好きになっている人のためにやっているのではないのかもしれない、もしかしたら逆に、30分でも何分でも、ただ静かな水面に浮かんだ浮きを映すだけで、なんのナレーションも入れず、ただし、かすかな自然の物音はひろいながら、最後にピクンッと浮きがもぐるシーンで終わるような番組があったらおもしろいのではないか、いや、やはり暖かい春の日差しや頬をなでるやさしい風の感触がないから、そういうのはダメかなと、また例によってマイノリティの思考へとはいっていった。

 わたしは「ため池県」の人間だから、釣り体験のほとんどは海釣りでも川釣りでもなく、池釣り。なんでも定規で線を引き、コンクリートで固めてしまえば、自分たちの暮らしの質が高まっているように思っている人たちのせいで、いまでは近づきたくもない丸裸のただの水たまりになってしまったが、同じようにちんけな水たまりは水たまりでも、その周辺に無数の変化と無数の自然の営みがうかがえ、そもそもその水たまりの表面の裏側にも、水深はたった1メートルかそこらでも、誰にもうかがい知ることのできない神秘の世界が存在していた昔の池釣りは楽しかった。理科の授業で習った音速や波動の原理も、すべては池の世界で体感的に学習できていたような気がする。

 なんてことを考え、寝転がった池の土手の草むらの感触や、ズックの足をすべらせた池のほとりの粘土の感触や、木陰になった鏡のような池面のなんともいえない深い色合いを思い出していたら、自称「漁師」の祖父がよくつくってくれたフナの刺身を思い出した。

 淡水魚は泥臭いと言い、そう言うのが、どこまで実感と確信をもって言っているのか、まるで池のまわりをコンクリートでかためる行為のように、一種の儀式のように多くの人のあいだに広まった現代では、やはりマイノリティの感想だろうし、それはそれでいいのだが、家庭の中性洗剤やなにかに毒される前のフナの、それも、裏の池でとってきて、裏庭の水槽か濠(わが家の裏庭にあった小さな池)に入れておいたものを、裏庭の縁台の上に出したまな板の上で、祖父が料ったものを(わたしの実家のほうでは「料理する」ことを「料る」と言う)、皿に移す前に横からつまんで食べたときの新鮮そのものの食感は、いまでもそうそう味わえるものではない。「泥臭い」のかもしれないが、わたしはもともと泥臭い世界で育った泥臭い人間だし、海臭い人の食べる海臭い魚もその海臭さが好きだし、羊の肉も、鹿肉も、猪の肉も、牛肉も、すべてその臭みがあるほうが好きなので、あのころの食体験はいまも大切にしている(言ってみれば、無臭で人工的な味つけのあとしか感じられない食べ物こそ、ただ腹につめるだけのものとしか思えない)。

 そのころ、刺身とともに大好きだったフナの料理に「テッポー」というのがあった。「てっぱい」ともいう。味噌味で、味つけが少しきつめのところがひとつの特徴でもある料理だと思うが、これがいい感じで内臓を刺激し、白米へ向かう食欲を引き出してくれる。白米とこれがあれば、あとはなにもいらん、とも言えるもので、十数年前、子どもたちが村のお祭りに出るというので、わたしもいやいや参加していたら、「ちょうさ」という山車をかつぐ合間の休憩のときに社殿でこれが出て、もう酒のこともスシのこともすべて忘れ、ひたすら、大勢でつついていたこの「テッポー」を(そのときは、もうフナがとれないということで、サバでつくっていたが)、ケースごとひとりで食べたくなったのを覚えている。

 日本がすっかり変貌をとげてから、久しぶりに「池の世界」を思い出したのは、アメリカ人のトムさんがオハイオのウォレンという町の実家までつれていってくれ、「子どものころはここでよく遊んだんだよ」と言って、実家の裏の川へつれていってくれたとき。「フナのテッポー」を思い出したのも、スロベニアのテルメ・チャティーシュという温泉保養所でブロンドのポローニャと、臭い臭い、だからおいしい鹿肉を、また味わい深いワインといっしょに味わったとき。やはり人生は、無色無臭になるより、どんな色や、どんなにおいでもいいから、味わいに個性があり、またそれが深く刻まれるほうがいい。


by pivot_weston | 2013-03-24 21:08 | ブログ