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たまには考えること

 昨日はちょっと三島由紀夫さんのことを考えていた。

 あの人の作品を「小説のなかの小説」のように言ってほめそやす人は少なくない。わたしも、ほんの少し読んだだけだが、まあ、なんとも、ここまで美しく文章をまとめられる人がよくいるものだ、と感心したのをおぼえている(冊数は少ないが、たいていの小説は読みかけても途中でやめてしまうわたしが、あの人の作品はとにかく読みはじめたものはすべて最後まで読了しているので、とても引き込まれたのは確かだろう)。でも、何冊か読んでも、そのたびに、あとで、あれ?――と思い、物足りなさを感じたので、結局はあの人の作品も、何冊か読んだだけで、あとは読まなくなった。

 わたしが受けた印象は、舞台の緞帳のようなものにたとえることができるかもしれない。それはそれは、狩野派の絵のようにみごとな世界が一分のすきもなくそこには展開されている。でも、芝居小屋でも、みごとな緞帳に感心して、それで帰る人はあまりいないと思うが、わたしも小説を読むからには、その緞帳が上がったときに、舞台の奥の壁になにが描かれているのか、あるいは、その奥の壁と緞帳が下りていたところとの中間、すなわち舞台の上でなにが展開されるのかが知りたくて読んでいたのに、ただただきらびやかで美しい緞帳を微に入り、細をうがって見せられているうちに、次のページをめくったら、いつのまにかそこは最後のページになっていて、あれ、ここまで?――と思わされたような感じと言えばいいだろうか。

 あれだけ精緻に、美しく組み上げられた世界を読まされたので、わたしもどこかあの人は(文章のうえでは)とても饒舌な人だったような印象をいだいていた。でも、昨日、前記のような読後感を思い出しているうちに、あれ、もしかすると、それは逆で、あの人の場合には、あの美しく織り上げられていた一分のすきもない緞帳が内なる自分を表現するのを阻むスクリーンになっていて、結局のところ、なにも語らなかった、いや、なにも語れなかったのではないか、という気がしてきた。だから、わたしたちが中学3年生のころのあのうそ寒い秋の日に、あんな、子ども心には、唐突このうえないかたちでテレビの画面に登場してきて、まるで、さめた観客の前で自分だけ熱くひとり舞台を演じるようにして、内面にたまりにたまっていたものを破裂させるようにして死んでいったのかもしれない。

 小説になんて、なにが正しいとか、なにが間違っているとか、そんなものはいっさいないはずだ。書きたい人が書きたいように書き、読みたい人が読みたいように読み、その結果として、たまたまそれぞれの内面でなにかがコミュニケートされればそれでいいのであって、みんな思い思いに感想を口にすればいいはずなのに、わたしたちの若いころには、誰の作品についても、ある読後感を主張する人がいて、それに賛同する人たちがいると、異なる読後感を口にするのはためらいたくなる雰囲気があった。とくに、私の場合は、本なんてほとんど読んだことがなかったのに本の世界にはいっていったものだから、やたらといろんな小説を読んでいたまわりの人たちに対する劣等感もあって、よけいに口にしづらかったのかもしれないが、そんなことも思い出しながら、三島さんのことを考えてみた。


by pivot_weston | 2013-01-21 13:29 | ブログ