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豊かさと美しさ

 今日は年ふるおじさんの、いかにも年ふるおじさんらしいつぶやきを少し。

 昨日、何気なくテレビを見ていたら、東ヨーロッパの光景だろうか、どこの光景だろうか、ともかくそんな雰囲気の画像が映し出されて、それを見ているうちに、なつかしい感覚がよみがえってきた。

 子どものころから感じていたこと。

 豊かになろうとしている人に美しい人はいるけど、豊かになった人で美しいと感じる人はいないな、ということ(ま、ひねくれた年ふるおじさんの主観なので、カチンとくる人はお気になさらず)。

 たとえば、友だちの家の農家に遊びに行って、庭先に出てきたその友だちのお姉さんが母屋と離れたトイレへ行こうとしたとき、ほのかに見せた恥じらいのような表情(若い人には、そう書いても、その光景がどういうものかイメージできないかもしれないが)。

 周囲からいつも、変わり者、変わり者、と言われ、変わり者でいることが自分の役どころのようになっていたし、高度経済成長期には、吉永小百合さんや浜田光夫さんがいくらわざとらしく貧しさを演じていても(前からこのブログで紹介している『つづり方兄妹』などはちっともわざとらしくなかったが)、まわりの人たちのなかにはすでに、そういうものを忌み嫌い、豊かさに向けて驀進していて、ちょっとした家の造作や庭の置き物などで自分の過去の貧しさとの差別化を図ろうとしていた人が大勢いたので、たぶん、こういうことは言ってもわかってもらえんやろな、と思えたから、説明は抜きで、感じた結果だけを「あの人、ええなあ」「けっこいなあ(きれいやなあ)」と口にしていて、どうせまわりの人には、なんやら色キ×ガイのガキみたいに思われていたのだろうが、こうして半世紀も経て、そんな時代が霞のかなたに遠ざかっていってしまったような気分にとらわれると、つい、あの美しさはどこへ行ったんや、と言ってみたい気もしてくる。

 古くて小さい木造家屋の片隅の、薄暗い台所に悄然とたたずんでいた友だちの妹の横顔もよかった(先の友だちとは別の友だち)。ズボンの裾を膝までまくり、田んぼの泥んこのなかにはいって手伝いをする上級生のおねえさんのプリプリした背なかも、なかなかに訴求力があった。鼻の下を黒くして、いわれもなくからかわれてばかりいた子も、それでもあきらめずににこっと笑いかけてくる顔を見ると、この子、ほんまはきれいな顔をしているのになあ、と思っていた(そう思ったのなら思ったで、その場でそう言ってあげればよかったのだろうが、冷たいやっちゃ)。

 そんな自分の感覚が決して「変わり者」だからではないことは、高校生になってようやく、教科書に載っていた志賀直哉さんの『網走まで』という小説を読んで確信することができた。汽車が宇都宮かどこかの駅に停車したときの車内の光景。ああ、ああいう光景を美しいと思う人はちゃんといるんやな、と思った。

 でも、その後、時代がたち、世のなかにきれいと言われる装いをする人が増え、きれいと言われる家や建物も建ち、きれいと言われる生活様式がひろがるにつれ、(あくまでもわたしの主観だが)あのころのように、ああ、きれいやな、と心底思える人は少なくなってきたように思える(きれいにしている人は、その表情が変化するときはたいてい悪いほうへ変化するので、見ていてシンドイのだが)。なぜだろう。きれいと言われるものやかたち、言ってみれば器物的な美しさで自分をきれいに見せようとすることは、すなわち、そういうものを身につけていないと自分を認めてくれる人がいないこと、あるいは、いないように思える怯えた内面の表れなのだろうか。

 最近でも、西新宿という場所に住んでいるので、器物的に美しい人はまわりにいくらでもいるのだが、あちこちで立ち話やなにかをしていると、おや、この人、ちょっとしたもんじゃない、と思う人もぽつぽついる。きれいなものやかたちが大好きで、そういうものがあれば満足という人は、せっせとそういうものに励めばいいだろうが、自分のありのままの美しさを認めてくれる人を見つけたいのなら、そっちへ行っても見当違いだよ、と思うことはままある。

 ともあれ、東ヨーロッパのものかどこのものか、何気なく目にはいった画像を見ていて、そんなことを考えた。1日たったらもう思い出そうとしても克明には思い出せない画像なのに、喚起力のある画像というのはあるものだ。


by pivot_weston | 2013-01-12 19:47 | ブログ