スポーツとメディア

 箱根駅伝が終わった。わたしも前に住んでいた横浜・保土ヶ谷のあたりがテレビの画面に映し出されるので、2区と9区の「花の」区間は毎年見ており、ついでについつい、だらだらと学生ランナーのみなさんのがんばりを見てしまう(もちろん、脱水症状を起こしても走っているランナーのみなさんは、間違ってもだらだらしているわけではないのだが)。

 で、あのにぎわいを見終わったあとで、いつもなんか、もやもやした気分にとらわれる。

 新聞というものの構造がはっきりと見えてきたのは、30年ほど前、大学を中退して東京に出ることにしたものの、食べていく当てもなかったし、住むところもなかったので、郊外の新聞専売所に住み込みで雇ってもらったときだった。

「箱根」をやっている「読売」がアンフェアな新聞社だということは、それ以前に、子どものころから感じていた。わたしも幼稚園にはいる前の写真には「YG」のマークのはいった帽子をかぶっているものがある。ポケットに、当時は長嶋さんを意味する固有名詞と言ってもよかった「3」の数字の刺繍がはいったシャツを着ている写真もある。近所の散髪屋さんに置いてあった漫画雑誌でも「ナガシマくん」というのを、いつも新刊が出るのを待ちわびて読んでいた。

 でも、幼稚園に通うころには、「F」の文字をかかげていた張本さんや毒島さんの東映フライヤーズがかっこいいと思うようになり、やがて、このブログでは何度も紹介している故・西本幸雄さんの阪急ブレーブスオンリーと言ってもいい野球ファンになっていった。してみると、読売のスポーツ欄の紙面がいかにアンフェアにつくられているかがよくわかってきた。

 学生運動全盛期だ。新聞や報道というものは「真実を伝えるもの」であり、また、そうあらねばならないという主張は、子どもの耳にも届いていた。それで、なんでこの紙面なんや?――というのが素朴な疑問だった。

 巨人は読売のもんなんやから、しゃあないがな――そんな背景を、誰か大人が教えてくれたのだったか。野球は娯楽、そんなもん、新聞を発行している会社が好きなようにしたらええがな――そんな考えが背後にあるのも読み取れた。ふうんと、とりあえず子どもは納得だ。でも、かつては常敗軍団だった阪急が西本さんのもとでパリーグの常勝軍団になっても、なっても、まだ読売の紙面での扱いが変わらないのを見ているうちに、少しは大人になり、いろいろと新しい情報も耳にするようになったこともあり、そしたらヒトラーのベルリンオリンピックはどうなるんや、と思うようになった。

 ベルリンオリンピックは、日本の水泳選手の前畑さんの活躍などでも語り継がれているイベントだが、基本的には、あのヨーロッパ中に災禍を招いたナチが自分たちの宣伝のために開催したオリンピックだった。スポーツの報道やからといって、軽く見とったらいかんのとちゃうんかいな、と子ども心に思うようになった。

 でも、当時の読売の紙面の偏りは、子どもの目には、嗅ぎとるくらいしかできなかった。GのV9時代だ。結果が一等賞なのだからしゃあないやん、と言われれば、そんなもんかな、と思うしかなかった。そんなただの印象が確信に変わったのは、やはり、わたしにとってもとても感慨深いできごとだったけど、「3」が引退してからだった。もう勝てない。ビリ。それでもまだ、読売にかぎらず、ほかの新聞までが「勝利を宿命づけられている軍団」とかなんとか、勝利をフェアに争うのが原則のスポーツの世界では禁句とも思えることを平気で言って相変わらずデカデカと扱っているのを見ると、そうか、読売だけの問題ではないんやな、口では「真実」にこだわるようなことを言っている人たちみんなが真実とは異なる共同幻想のようなものをつくり出そうとしているんやな、と思い、こういうのが大人たちの言っていた「怖い現象」なんやろな、とも思うようになった。

 スポーツをやっている人たちもかわいそうになった。真実に厳密でなければならないようなことが言われるのはおもに政治の報道だろうが、政治家のなかには、真実をありのままに伝えてほしがっている人はそんなにいない。スポーツは「娯楽」かもしれないが、スポーツをやっている人こそ、真実をありのままに伝えてほしがっていると思うのに、それが真実にわけのわからない「重みづけ」をして伝えられている。

 だから、大学を中退して東京で仕事とねぐらをさがすときも、読売に目を向けようなどとは思わず、おのずと他社の専売所にお世話になることにした。そこで、また見えてきた構図があった。ライバル・読売の拡張員たちが「ジャイアンツ戦のチケット」を最強の拡材、つまり新聞を買ってもらうための景品にしていたのは予想どおりで、意外でもなんでもなかった。それでも、こちらが確かにお客さんの家の新聞受けに入れた新聞をその直後にこっそり抜いて、お客さんに「こらっ、今日の朝刊がはいってないじゃないか」の文句の電話をかけさせてから、自分たちの新聞を売り込みに行くようなまねまでされると、いくらなんでもそれはないやろ、という気もしたが、まあ、読売ならしかたないやろ、とも思っていた。

 ある意味、読売は正直だった。あからさまにやっていた。そこへ行くと、わたしがいた朝日のほうがより複雑にやっていたとも言える。Gに対抗するためか、やたらにアマチュアリズムを持ち上げ、夏が来ると高校生の野球大会をさも聖なる催しのように喧伝していたが、それが朝日にとっては金もうけのためのメインイベントだった。つまり、言ってみれば、読売は玄人さんを商売道具にしていたのに、朝日は素人さんを商売道具にしていたわけで、それだけ悪質度は高いとも言えた。

 ただ、田舎ののどかな村から都会へ出てきて、いちばん意外だったのは、朝日にせよ、読売にせよ、当時の新聞宅配現場の売り上げは、いまで言う「反社会的集団」の人ないしは、かつてそういう集団に属していた人たちが支えていたことだった。田舎の家には、例の「ナガシマくん」の漫画を読ませてくれていた散髪屋のおじさんが毎朝新聞を配ってくれていて、別の新聞に切り換えるときも、そのおじさんが一手に対応してくれていた。

 ところが、先の専売所で雇ってもらってしばらくたったころ、ある日、「プロの拡張員の人たち」が来た。「旅団」という言葉は別に旅をする軍団をさすわけではないらしいが、ついその言葉を思い出してしまうように、そのプロの人たちはそうしてあちこちの専売所を巡回して購読者拡張に貢献していたのだが、その人たちが来たときに、仲間の予備校生のひとりがいっしょに風呂にはいってきて、「みんな背なかにマークがあったよ」という事実を教えてくれたものだから、お店のほかの関係者に確認したら、「ま、新聞はそうやってやってきたんだよ」ということだった。

 もちろん、だからといって、その人たちが悪いことをしていたわけではない。新聞の購読者数拡張のためにがんばっていて、田舎から出てきた世間知らずのわたしが夜の10時ごろまで粘ってやっと1軒、ハンコをもらって帰ると、「おお、よくやった」とうれしそうに顔をほころばせてほめてもくれた。

 人間の営みは理屈どおりにはいかない。みんな、思うにまかせぬ現実のなかで、ときには間違いも犯しながら、自分やまわりの人たちのよりよい方向へ向かって生きていっている。まだ戦争が終わって35年くらいしかたっていなかったころ。これが世のなかなんや、いまはこれでしゃあないんや、と思うと、そのプロの人たちに愛着も湧いた。

 問題は、当の新聞社の人たちだ。バブル期のイランイラク戦争が続いていたころ、新宿ゴールデン街で飲んでいると、朝日の、肩書きをなんといったか、ともかく、ヒラの記者ではない人物と何度か出くわす機会があった。もしかすると、あれもバブル期の気運というものなのかもしれないが、酔った勢いかなにか、ずいぶん、朝日の朝日らしい紙面には決して書かれないような思い切ったことを得意そうにしゃべっていた。だから、少しカチンときて、正確な表現は忘れたが、だけど、アレだよね、みなさんを支えてくれているのはいろいろと過去のある人たちだよね、みたいなことを言った。そんなあいまいな言いかただったが、その記者だか編集委員だかには、すぐにこちらの言わんとすることは通じたみたいだった。

 あきれたのは、その記者だか編集委員だかの返事。いや、おれたちは宅配の現場とは関係ない、おれたちは広告費からカネをもらっている、という趣旨のことを言った。ほんとうにあきれた。広告費から給料をもらっていること自体は確かかもしれないが、その広告の料金はなにをもとに設定されるのか。実売、あるいは公称販売部数であり、こんなに何百万部も売れている媒体だから、広告を出したらたいへんな効果があるだろうから、ここの欄の広告料金はン百万に設定しようというふうにして決まっている。たとえ直接的には広告費から給料をもらっているにしても、もとをただせば、新聞社の社員の給料を支えていたのは、いまでは彼らから「反社会的」と言われるようになってしまった人たちだったのだ。

 あの返事は、宅配の現場にいたわたしからすると、許せない言葉だった。人前では「真実を伝える」と言っている人たちが、実はご都合主義に流れているとしたら、駅伝も、Gも、高校野球も、サッカーも、やっている人たちはフェアに一所懸命にやっていても、背後でそれをわたしたちに見せている人たちによって、その人たちの思惑に利用されているかもしれない。熱狂するのは危険、というのは、スポーツの面ではすばらしい祭典だったと言われるベルリンオリンピックの教訓のひとつだったと思う。

 もちろん、誰もきれいごとでは生きていけない。でも、ご都合主義の人たちのやることに熱狂していたら、その流れがいよいよ太く、大きくなってしまう。だから、スポーツを見るときには、いつも、選手たちの競う姿を興味深く見せていただきながらも、熱狂だけはすまいと思っている。それでも、メディアの人たちが、そんなことを言ってもおれたちのおかげで見られているんだろうが、とおっしゃるなら、別に見せていただかなくてもかまわない。どのイベントも、スポーツをスポーツとして楽しむ人たちが大勢いるから成り立っているのだと思うし、なんでもありのままにはっきりさせる努力をしていくことが、よりましな未来を子孫に残すためにはいちばん大切なことだと思っている。

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by pivot_weston | 2013-01-04 07:47 | ブログ