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男と女の修羅場

 土曜日の夜だったか、テレビ朝日でそんなフレーズを連呼する番組をやっていた。ちょうど、なにをする気にもならずにいたときで、寝転がってぼんやりとそれを見ていたら、なるほど、今日的な意味のある番組なのかもしれないと思えてきた。

 アメリカやフランスで実際にあった男女のあいだの殺人事件や殺人未遂事件を特集したものだ。出てくる人たちの行動形態に、近ごろ身近で見聞きする人たちの行動形態がだぶって見えてきた。

 でも、途中でふと思った。男と女の修羅場? たしかに、暴力的な意味では「修羅場」なのだが、わたしなどがその呼び込み文句から想像するような「男と女の修羅場」には、ちっともなっていないような気がしてきた。あれでは、ただ男女がドテッと向かい合い、自分の都合を主張し合うだけで、憎いのだけど惹かれ、惹かれるのだけど憎むような、いかにも、あゝ、男と女だなと思えるような関係はちっとも伝わってこなかった。

 それでも、それが実録というのだから、どういうことなのだろう? 近ごろでは、男女があまり「男女」をしないようになっているということか。それとも、テレビというメディアの限界か。何年か前、阿佐ヶ谷駅前の本屋さんに寄り、目にとまった川端康成さんの新潮文庫のなんとかいう本(題名は忘れてしまった。「美しい人」のようなシンプルな題名だったように思っていたが、いまその題名で検索しても出てこないので、記憶違いなのだろう)を電車のなかで読みだしたときには、小さな田舎町の道で男女がすれ違うシーンの描写に、ぼんやりとなまっていた胸の内がぎゅうっと締め上げられて目をさまし、そこから無数のヴィヴィッドな感情が絞り出されるような思いにかられたことがあった。外的条件からすると、ほんとうにただ男女が田舎道で距離も隔ててすれ違うだけのシーン。物理的に描写をつないでいくと、ただそれだけのシーンなのに、表現やその表現を取捨選択し、並べていく順序に川端さんが長く言葉と格闘してくるあいだに身につけたものが表れていたのだろうが、ほんとうにあのシーンには驚き、気がついたら、水道橋の駅で降りるころには、その一冊を読み終わっていた。

「男と女の修羅場」と触れ込むなら、もちろん、あの川端さんのレベルまでは望むべくもないにしても、少しはああいう方向性くらいは感じさせてくれるような番組を見せてもらいたかった。あれでは、見た人はただ怖い気分になったり、暗い気分や重い気分になったりするだけではなかろうか。ふだんは「好感度」というものを気にしすぎるくらい気にしているテレビ業界の人が、場合によってはああいう番組をただどろどろと流すだけになってしまう背景にも、いったいどういう現代がひそんでいるのだろうと、つい考えてもみた。

 川端さんの作品には、何作か、ほんとうに驚かされたものがある。文字を書き、人を見て、また文字を書き、デッサンをする画家が、わたしたちが頭のなかでああいうものならああ描くわなと考える、その思考の回路の外側や裏側にまわり込んで、素人には思いもつかぬ手法で素人でもとてもよくわかる表情や感情を表現する技術を身につけていくようにしてたどりついた表現なのだろう。近ごろでは、ダレソレがノーベル賞、ノーベル賞と騒がれているみたいだが、その人の作品を読んでそういう深みを感じたことは一度もない。別の女性人気作家の作品を読んでみたら、ただ男女が積み木を並べるように描かれているだけで、途中であまりにも退屈になったので読むのをやめてしまったことがあったが、いまでは本の世界でも「男と女の修羅場」はそれほどたいしたものではないのかもしれない。きっと、わたしが想像するような「修羅場」なら、描かれている行為やなにかは残忍でも、あとに救いのようなものが残るような気もするのだが。


by pivot_weston | 2012-11-12 19:52 | ブログ