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虚脱の時間

 旅のせいばかりではないだろう、なんか、なにをするにも少し「間」をとりたい気分になっている。

 オバマさん再選の影響もあるのかもしれない。

 旅に出るとき、テレビでまるで国内の選挙の開票速報をやっているように(ま、メディアとしてはその予行演習という腹づもりもあったのだろうが)アメリカの大統領選挙の開票速報をやっていた。

 ほっとしている。

 いくらなんでも、ロムニーさんはないだろうと思っていた。もちろん、人間そのものを見れば、オバマさんよりロムニーさんのほうが「なんだ、いいやつじゃん」と思える可能性はある(それもあくまで、わたし個人から見て「いいやつじゃん」と思えるかどうかの問題であって、どちらがそう思えるかは、当然、見る人によってまちまちだろうが)。

 ただ、政治家としては、ロムニーさんは基本的に主義主張や基本理念のようなもののない人だった。彼が言っていたのは要するに、「ぼくにやらせてもらえたら、テストで100点をとってあげるよ」ということでしかなかった。なにがしたいのか、なぜテストを受けるのか、100点をとることにどういう意味があるのか、そういうことがまるで見えてこない人だった。それでいて、100点をとるための表面的な戦術をパッチワークのようにつなぎ合わせる。だから、そのようすを遠くから俯瞰してながめていると、一所懸命に先生にほかの生徒のことを告げ口している優等生のようにしか見えなかった。根底には、アメリカ経済がどうなろうと、それに左右される一般の庶民とは違う自分は食っていける、という「共感のなさ」があったのかもしれない。

 オバマさんのほうは、そういう本質が見えていたし、この4年、泥沼に深くめり込んでいた自分たちの足を、少なくとも1mの深さから80cmの深さに持ち上げ、さらに60cmの深さに持ち上げる努力をしてきて、いつか脱出できる日をめざして、とにかくプラスの方向へ向かって闘ってきたという自信があったから、現状そのものは相変わらず惨憺たるものでも、多くの国民は、ここを通らずには誰も泥沼から抜け出すことのできない闘いを引き続き支持してくれるものと思っていた。

 形勢を揺るがせた第一回のテレビ討論でも、オバマさんはメディアが言っていたように精彩を欠いたのではなかったと思う。いきなり「中間層の強化」というかねてよりの自分の主張を乗っ取って、さも自分の主張であったかのように語りだすという、それこそ「うわっつら」でしかない戦術に出たロムニーさんを見て、あきれたのではないかと思う。もしかすると、哀れに思う気持ちも湧いてきたのではないかと思う。

 それでも、そんな表層の戦術や議論で「世論調査」とやらの結果が動く。だから、オバマさんも、そんな表層の動きを食い止め、対抗する姿勢に出た。結果的に、10月のホワイトハウスは、自分が「テストで100点をとる」こと以外にとくに目的も目標もないひとりの優等生に引っ掻きまわされ、貴重な時間をロスしてしまったのではないかとも思える。

 民主、共和のどちらの党が政権をとるにしても、いまのアメリカでは、やることは絞られている。GMという、近代アメリカと不可分の関係で絡み合った「超企業」が崩壊し、自転能力をなくした国に自転能力を取り戻させてやらないと、どういう方向へ転がるにしても、まず自分で転がりだすことができない。

 そういう国情にある国の人たちが、ノスタルジーに引っ張られた面もあったのだろうが、そんな国情を認識せず、ただの足し算や引き算で(差別があり、戦争という殺し合いでも富を生み出していた)昔の暮らしがよみがえるかのように言う優等生の、根底に「共感」のない主張に引きずられる。

 正直なところ、最終盤に落ち着きをなくしているようにも見えたオバマさんの姿を見ていると、暗澹とした気分にもなっていた。いま味わっているのは、それがゆえの「ほっとした」気分だと思う。

 日本国内でも、久しぶりに田中真紀子さんが鋭い切り込みをした。ところが、メディアはこぞって「受験生がかわいそう」「暴挙だ」とやる。子どもに現実を教えることのどこが暴挙なのかと思う。

 イラン・イラク戦争のころ、いまでも強烈に脳裏に焼きついている光景があった。化学兵器による「民族浄化」の攻撃にさらされていたクルド族の人たちがたまらずトルコに通じる山道を歩いて逃げだしていた。なにもない、はげ山の泥道。CNNの取材記者がマイクを向けると、そんな山道を靴もはかずに、顔も泥でよごしているようなクルドの難民たちが、みな例外なく、みごとな英語でしっかりと返事をしていた。もちろん、そんな状況を招いてしまってはいけないのだが、ああいう、どういう状況に置かれてもしっかりと自分で考え、行動できる子どもたちを育てるのが教育の第一の目的だと、そのとき思った。

 テストで100点をとりながらすいすい流れていけばいいだけのレールを敷いてやるのがわたしたちの務めではあるまい。今回問題になった3校のことはよく知らないが、大学教育か公共工事かもよくわからないまま政治家に陳情し、国家予算の一部を流してもらい、事業を起こすのは、たとえそれで一時的に地方の経済が潤ったとしても、持続可能な健全な経済とは言えない。地方分権をうたう第三極が勢いを増すのがほんとうに民意を反映した動きだとすれば、そうしたものに頼らずに、地方が自力で経済を活性化させるのが筋ではないかとも思う。

 自民党政治も、初代のころはいまのオバマさんのように、国に自転能力を持たせるための力業だったと思う。でも、それが2代目、3代目と世襲されるにつれ、そうして作られた仕組みにたかる「甘えの政治」に変質してきた。でも、それができたのは、アメリカにぶら下がっていられる「冷戦」という「甘え」を許す構造があったからだ。いまはもう、基本的にはどの国も自由に自分を表現できる時代へ向かいつつある。大きな傘の下で、ドンパチの音を遠くに聞きながら、ぬくぬくとコタツにあたっていられた時代の「甘え」を拭い去れない国は、当面は糊塗することができても、いずれは帳尻が合わなくなる。

 人間も地球の上に生きる生き物である以上、安心して生きていくことなどできない。いつでもなにがあるかわからない。でも、なにがあっても、いつでも自分の頭で考えて目の前の状況に対応し、生きていくんだ――そういう力強い気持ちを教えるのが教育の第一の目的ではないかと思う。そういう意味では、わたしたちが若いころには強靭に見えたアメリカの教育は、いま弱体化しつつある。大きな震災を体験した国は、そういう体験の知恵を身につけていってもいいのではあるまいか(民主党の情けないところは、ああしてメディアが騒ぐと、すぐに大臣よりも先に謝罪する副大臣が現れたりするところだ。どうやら、その副大臣もメディア出身のいい子みたいだが)。


by pivot_weston | 2012-11-11 12:02 | ブログ