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水上の予感

 いまは、四国出身者でも一度も船に乗ったことがなかったりするのだろうか(昔の人でも、大王製紙のバカボンあたりは乗ったことがないのかもしれないが)。

 夜、ガラにもなく、お台場あたりのクルージングに誘われている。久しぶりの船。メンドクサイな、とは思いつつも、船に乗ることを考えると、そういうものに乗らないと人生を切り開けないように思って育ったせいか、胸の奥のほうがざわざわしてくる。

 2006年にスロベニアのブレッド湖でスイス人のおじさんが漕いでくれる手漕ぎの船(あ、いや、舟か)に乗って以来か。

 子どものころは、指物師だけど、指物をしなくなって「漁師」を自称するようになった祖父といっしょに、毎日のようにその手製の舟をかついで裏の池まで行き、そのなかに立って、これまた手製の投網を打つ祖父のかたわらで、水の「かい出し」役(舟の底の板と板のすきまから少しずつ水が染み込んでくるので、それをチリトリのような木製の容器ですくって、外へ出す役)をしていた。

 揺らぎはおもに、水面の動揺ではなく、祖父かわたしの体重の移動によって起こる。鏡のような池面。わたしたちはなにも、びくともしない地面に足をつけて生きているわけではないのだな、と思いながらも、意識はそこに映った空や雲や樹木の影に誘われることのほうが多かったか。

 ある日曜日、父がわたしたちを遊びにつれていってくれたりしたのは、あとにも先にもそのときだけだったと思うが、急に父が海辺の町まで釣りに行こうと言いだした。

 いま思えば、あの「たらいの舟」のような印象の残る舟。姉とどこかのおじさんを含め、4人が2艘のそんな舟に分乗し、海に出ると、海辺にそそり立つ山の手前で揺れている自分たちの存在が不思議だった。その一方で、するするとどこまでも下りていく釣り糸。わたしたちはこの宇宙でとても危うい、頼りのない存在なのだな、と感じた。

 中学校の修学旅行も船。万博に行くときも船。高校を卒業する記念に女子クラスと(わたしたちは男子クラス)合ハイをしたときも船。大学にはいっても、自分の心身がおのずとゆるむところへ帰るときは、必ず途中で船に乗ることになった。

 そうして染みついた船の感覚、揺らぎの感覚。頭のなかだけでは整理しきれないものがあって、靴底でデッキなどの船の床を踏んだときのゴトゴトという音などにも、なにか感じるものがあるのだろうな、などと予感する。


by pivot_weston | 2012-10-03 11:01 | ブログ