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原発再稼働、ひとつの視点

 にぎやかな「原発再稼働」論議であまり聞こえてこないことを書いておきたい。

 福島で起こっていることが、福井でも起こっている。

 東京(関東)で起こっていることが、大阪(近畿)でも起こっている。

 この2行の上と下の地名はそれぞれワンセットだが、どちらの組み合わせにも共通していることがある。福島は関東、つまり東京電力の管内ではなく、福井も近畿、つまり関西電力の管内ではない。それなのに、福島も福井も何十年も前から関東や近畿の人たちの生活を支える電力供給基地にされてきて、そのあげくに福島で事故が起こると、福井も「危ない」「危ない」と言われ、これまでよその地域の危険を負担し、その地域の一部となって形成してきた経済を「勝手に再開するな」と言われて停止させられている。

 1970年代なら、都市が自分たちの勝手で田舎を利用するだけ利用する構図も許されたかもしれない。だが、2012年に生きるわたしたちも、その構図をそのままにしておいていいのだろうか。今後の「原発」のありかたを考えるときには、ただ自分たちの「安全」「危険」を考えるだけでなく、こういう点にも考慮が必要だ。

 このブログでは前から書いていること。原発で出る放射性物質は電力利用者の排泄物だ。東京がある関東も、大阪がある関西も、なにかあると今回の福島のようになる危険な施設をよその地域に押しつけ、発生した電力は利用するだけ利用し(しかも、東京や大阪は大株主として危険な運営を続けてきた電力会社の運営にも責任を負っていたのに)、事故が起こると、みなただの消費者然、被害者然とし、なかにはまったく関係のないガレキまで、危ない、排泄物がついているかもしれないと言って受け入れを拒否するところまで出てきて、これまで自分たちの暮らしの危険を陰で負担してくれていた地域に生きていくための仕事がなくなろうとしても、そんなことより自分たちの身の安全のほうが大切だと叫ぶ。かりに危ないものが付着しているとしても、それはあなたの排泄物なのだよ、と言いたくなる。人体の排泄物に置き換えると、いまわたしたちのしようとしていることがよくわかる。

 これが戦後政治の現実だ。いまのヒステリックな「原発再稼働反対」の動きは、施設を設置するときの大都市の身勝手な姿勢が、廃止する局面で逆映しになったものにすぎず、まったく昭和そのもののように感じる。

 もちろん、原発立地地域は危険を負担する代わりにもらうものをもらってきた。でも、それで補償できる危険だったとしたら、福島に同情する報道はいらない。福島に同情する報道が1年たっても繰り返されているのを見ると、そんなもので補償できる危険ではないことはわかったのだろう。それでも、国が被災地の人に頭を下げているところは見かけても、関東・関西の統治者や報道関係者が立地地域の人たちに頭を下げているところは見かけない(滋賀と京都の知事は、おとといの声明に立地県への「感謝」を盛り込んだみたいだが)。災害時には、たいてい自分にふりかかる責任から巧みに逃れようとする人がいる。今回の震災では、国を除く統治者とマスコミがみないっせいにそちらへ振れ、立地責任者が陰にすっこんだことが、なにより内政を停滞させる原因になっている。

 わが身が大切なのは誰だって同じ。でも、自分が理不尽な負担をかけていた人たちが生きていくのが難しくなっているとなれば、少しくらいわが身の安全ばかり叫ぶのを控える人が出てきてもおかしくないのではないだろうか。それなのに、まだテレビのニュースあたりでは、滋賀や京都が「被害地元」になることがたいへんなことのように報道されている。近畿が近畿の電力発生施設で事故が起きたときに「被害地元」になるのはあたりまえのことではないのか。順序から言えば、電力を利用するわけでもないのに施設の危険性を負担している地域が「被害地元」であることを問題にするほうが先ではないかと思うが、その立地地域の人たちが、言いたいことがあっても、顔をぼかしてもらい、しかも言葉まで濁しているのを見ると、暗澹とした気分になる。

 わたしは、国民の多くがほんとうにもう原発はいらないと考えているのなら、原発を再稼働しながら、政府が原発完全廃止までのロードマップを作成し、そのロードマップに従って段階的に廃止していくのがいいと思う。都市の住民がそれまでの危険も負担するのはいやだ、立地地域の住民が明日食べる仕事がなくなっても、危険なものは危険なのだからすぐに廃止すべきだと言うなら、これまで立地地域が生み出してきたエネルギーで建設された都市もすべて破壊し、チャラにすればいいと思う。筋を通すとすれば、そういうことになる。

 おとといあたり、そんなことをいろいろと考えているうちに、そうか、福島の浜通り一帯は、地元の人が同意してくれれば東京都が買って飛び地にしたらどうだろうと思っていたら、なんとも皮肉なことに、その東京都の知事さんが別のところを買うと言いだした。目線の先に見ているものが人間かどうかがよくわかる。国土を確保するのはだいじなことだろうが、そんなことは国土の第一責任者たる国家がやればいいこと。老眼になると近くのものが見えなくなるのかもしれないが、いま目の前に自分が負担すべき責任があるときに、遠くのことで問題提起をするのは、自らの責任をごまかそうとする行為ととられてもしかたない。国家が道を過つのは、自らにふりかかる責任を受けとめる胆力もないずるい統治者がウケねらいに走るときだ。

 マスコミではしきりに「絆」や「つながること」の意味が喧伝されている。でも、それが、自分が「いい人」として被災地の人とつながることだけを意味し、みんなで新しい明日へ向かって生きていくために原発立地地域の人たちといましばらくの危険を分かち合うことは意味しないとしたら、それはいったいなんなのか、とも思う。大地震が起こったら危険な原発を動かしてひとときの甘い生活にひたってきたのは、なにも3年前に政権を受け継いだ民主党政権だけの問題ではなく、遠い昔からこの国の国民全員が総意としてやってきたこと。今回、民主党の人たちは誰よりも身に染みてよくわかったと思うが、統治者は過去にも責任をもたなければならない。過去を切り離してウケのいいことばかり言うのは責任ある統治者とは言わない。もっと多くの国民がこの国の歩いてきた道を現実として踏まえる視点をもたないと、ものごとはなにも解決しないと思うのだが。


by pivot_weston | 2012-04-19 06:15 | ブログ