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またひとつの昔語り

 最近は、こういう方面に義務感、のようなものを感じることが多い。

 放射線レベルのことで過敏に騒ぐ若い人たちを見ていても、この人たちは自分の親や祖父母の世代の人たちが原爆投下後の時代や中国の野外核実験ラッシュの時代を生きてきたのを知らないのだろうかと思っていたが、さすがにこの点については、わたしのように漠とした体験を語り継ぐのではなく、具体的なデータを用いて語り継いでいるかたが少なからずいるみたいだ。なぜだろう、確かに放射性物質というのは蓄積されれば(曝露する回数が増えれば)それだけ影響が大きくなるものだろうし、なにごともなくそういう時代を生きてきたような気がしているわたしなどの周辺にも、厳密に調査すれば、その影響で寿命やQOLを阻害された人はいるのだろうが、あの騒ぎかたを見ていると、なにやらそういう野蛮な時代を生きてきた自分たちの経験や人生が軽視あるいは無視されているような気がするからか、それとも、かつて広島や長崎出身の人を差別していた人たちのことを思い出すからか、どうも納得のいかない気分になる。

 今回大騒ぎになったロケットについても、ある時代にこの日本の片隅に生きていたひとりの視点から、記憶していることを書いておこう。

 小学生のころだ。四国の瀬戸内側の、のどかな農村地帯の小学校の、運動場に面した教室にいた。青い空、乾いた山土の運動場を照らす明るい日差し、その分だけ暗く、いったん窓の外を見たら目のホワイトバランスの調整が求められるような教室のなか――そんなものを記憶している。

 2時間目か3時間目くらいだっただろうか、あるいは、午後の授業中だったかもしれないが、その、車の音も電車の音もなにもせず、先生の歩く足音と黒板に文字を書く音くらいしかしない田舎の小学校の教室で授業を受けていたら、いきなりドーンと、頭や胸をなぐりつけるような轟音がして、運動場に面した窓のガラスがびりびりびりびりと震えた。

「なんぞ?」「なんぞ、いまの音は?」という子どもの声がしばし飛び交ったような記憶がある。しかし、先生もその疑問に答えを出してくれるわけではなく、またむにゃむにゃと授業に戻り、それが終わると、過ぎた驚きよりも目の前の楽しみが勝つもので、みななにごともなかったように運動場に飛び出して遊んだのだったか。

 鹿児島の内之浦からだったのか、ロケット打ち上げの日だった。誰か、情報を仕入れるのに敏なる友だちが「あれはロケットの切り離しの音じゃ」と言った。真偽は定かではない。でも、目の前でなにも起こっていないのに、あんな、窓ガラスが震えるような音が頭や体にぶつかってきた体験は初めてのことで、テレビなどがさかんに伝えていたその日のロケット打ち上げ以外には、なにも結びつけられるものがなかったので、その友だちの解説は正しかったと思っている(「切り離しの音」かどうかはわからないが、ともかくロケットがたてた音だったと思っている)。

 いまかりに、誰かがいきなり、あなたの頭をたたいたり、体を揺らしたりしたら、どう感じるだろう。家に帰って、ロケット打ち上げ失敗のニュースを見ていると、東京のやつらは勝手なもんじゃの、途中で人がどんな思いをしとるかなんて、どうでもええんじゃの、こいつらにとっては、ただロケットが上がるかどうかだけが問題なんかい、と思い、いろんな人から話に聞いていた戦争中も、たぶんそうして国とかいうものが人の頭越しにいろんなことをやっていたのだろうと想像し、国とか体制とかいうものに対する反感をいだくきっかけのひとつになった。

 北朝鮮が高度なロケット技術を獲得するのは、確かに日本の安全保障にとって脅威になる。でも、その日本だって、同じことをしてきている。大手マスコミは「北朝鮮が人工衛星と称するミサイル」などという、明らかに論理の破綻した表現を使って、国家レベルの話ばかりしているが、こういう問題には、国家間の対立軸ばかりでなく、国対国民(あるいは人)の対立軸もある。なにかあるとすぐに国家間の対立軸の話しかしなくなるマスコミは、戦争のころからまったく体質が変わっていないということで驚きもしないが、宇宙航空研究開発機構のサイトにも書いてあるように、日本だって、民家の上に破片をまき散らしたことがあった。かりに、小学生時代のあの日の直後に今回の北朝鮮の打ち上げ騒動があったとしたら、四国の田舎の偏屈少年はきっと「なんや、北朝鮮と日本政府は仲間か」と思ったことだろう。

 北朝鮮の打ち上げ騒動の日には、ちょうど中国出身の若者といっしょにいた。中国なんて、そんな危険な人工衛星の打ち上げだかミサイルの発射実験だかを(まあ、日本や米国ほど地理的に恵まれているところはそうないから、やるとしたらしかたないのかもしれないが)堂々と、飛程の下に何億もの人が住む内陸の発射センターでやっている。「中国だって、これまでには破片が落下しただろう。どうなってるの? 全部、金で解決しているの?」と訊いたら、その若者は暗い表情になって「国が隠しているからわかりません。どうしようもない国ですよ」と言って力なく笑った。国家と国民(あるいは人)の対立軸にも着目する視点がないと、ほんとうの意味で世のなかは進んでいかないと思う。いつまでも戦争の時代は生きていたくない。


by pivot_weston | 2012-04-15 19:48 | ブログ