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ウソと発達とスポーツと

 子どもの場合はよく、ウソをつくのは頭が発達している証拠、などと言う。

 これは、世のなか全体についても言えることかもしれない。昔は、わが家の大人たちも含め、近所のおじさん、おばさんたちも、素手で鍬をもって田んぼをしていたりしたのがなにより象徴的だが、みな地べたと接して生きていたような印象がある。ところが、世のなかが発達してくると、というか、たぶん、その「発達」という現象そのものがそういう方向を志向するものなのだろうが、しだいに地べたと離れて生きるようになった(もちろん、地べたでできたものを食べたり、死んだりしなきゃいけないので、完全に離れることはできないのだが)。必然的に、わたしたちの会話のなかには抽象的な概念がたくさん交じってくる。これは、人間にとっては負担なことだ。発達した時代を生きる人間に課せられる試練、あるいは、「発達」というメリットを享受する代わりに、わたしたちに憂鬱な責任を課すものとも言える。地べたと接していた時代には、米が1俵しかとれなかったのに2俵とれたと言っても、「ばーか、オメエ、そこにあるのはたったの1俵じゃねーか」と言われれば、それでおしまいだった。でも、いろんな抽象的概念をやりとりして生きる時代は、ひとりひとりに個々の責任でそれをできるだけ正確に使うことが求められる。そうではなく、みんながそれをやりとりしているうちに、自分の口しだいでどうにでもなる抽象的な概念の便利さ(危なっかしさ)ゆえに微妙にふくらませたりゆがめたりしていたら、結果として、実態とはまったくかけ離れた、化け物のように大きなものや異様なものができあがる。

 言葉で商売をしているわたしらなんて、そのいちばん最たるところ、いちばんいかがわしいところにいる。ごく短いあいだだけど、若いころに企業の宣伝をしていたときも、ウソをついてはいけないのだけど、ウソとホントのすきまのようなところ、あるいは、ホントがウソの夢に向かってふくらんでいくような方向をねらっていたような気がするし、たぶん、昔の小説家の先生がたが自分たちの仕事のことを自嘲的に「こんなヤクザな商売」などと言っていたのも、そんなところに由来するのだろう。

 まあ、ビミョー、なんでもビミョー、すべてがビミョーでさじ加減ひとつで変化する――それが発達した時代のなによりの特徴なのかもしれないが、ウソというのは検出されると人と人のあいだにすきま風を吹かせるものなので、現代の人がひとりひとり孤立していく傾向にあるというのは、単なる社会問題なのではなく、わたしたちが「発達」というものを放棄しないかぎり訪れる必然の理と言えるのかもしれない。だから、人は途中でずるをしてもなにをしてもともかく衆人環視のもとで明確な結果の出るスポーツなどに心をひかれるのかもしれない。応援している人やチームが勝っても負けても、スポーツはふだんビミョーな概念を扱うのに疲れているわたしたちにひとときの安らぎを提供してくれているのかもしれない。


by pivot_weston | 2012-04-12 08:07 | ブログ