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国会見聞記(13)

(これは不定期連載でお届けしている記事です。流れがわかりにくい場合は、右の「カテゴリ」の「国会見聞記」をクリックし、前の記事を参照してください。)

 もう1度は「靖国」にからむ体験だ。

 各都道府県の戦没者の遺族会のみなさんが靖国神社の参拝に来られたときに、国会議員がごいっしょして、あいさつをする。いまではすっかり国会議員の人気取りのイベントみたいになっているが、おそらく、終戦からまもないころには、そうではない、自然な思いの合流のようなものもあったのだろう。

 このときも、彼は前日の夕方、「代わりにあいさつしてくれるか。文章を書いてって、読み上げてくれたらええんや」と言って地元かどこかへ帰っていった。俗に言う「革新系」出身議員は苦手なのだろう。最後に「おれの身内にも戦争に行った人はおるんやけどな」と言って、ふん、と笑ったところに、そのあたりの内面が表れていたが、これはわたしにとってもさまざまな思いの去来する仕事だった。

 過去に靖国神社へ行ったことは1度だけあった。長女、次女に続いて長男が生まれたときだ。すでに何度も東京に来ていた父が、また上京してきたとき、妻が「おとうさんが東京見物をしたいんだって」と言った。そんな、観光名所などにはまったく興味がないはずの父だったので、意外に思ってそばにいた父のほうを見ると、顔をそむけたまま「わしもいっぺん東京見物がしとなっての」とつぶやくように言った。どこか照れくさそうな態度にも見えた。

「東京見物? どこ行きたいの?」ときくと、父より先に妻が「靖国神社だって」と言って、わたしの顔を下からのぞき込んだ。「ヤスクニィ?」まったく思いも寄らぬ返答に、ついそんな声をあげてしまった。

 第2話にも書いたように、シベリア抑留帰りで(実際には中央アジアのカラガンダの炭田で石炭を掘らされていた)、本棚にマルクスレーニン主義の教科書をならべていた父だ。「な、なんで靖国に?」と問い返すと、顔をそむけたまま「わしもいっぺん行てみとなっての」と、やはりどこか照れくさそうな、そしてまた、どこかうれしそうな顔で、静かに言った。

 そこまで聞くと、もうあとは問い返さなかった。父は三男。長兄もシベリア抑留を経て復員していたが、次兄は兵庫県の川西の飛行場から、西宮かどこかにお住まいだった彼女の家の上空を旋回して「アディオス」を言ってから熊本か鹿児島の連隊に移り、そのあと南方へ行って、インドネシアのアンボイナ島から飛び立った直後に撃墜されていた。

 子どものころ、わが家の墓地のいちばん取りつきの、いちばん新しくてきれいな墓石がその「兵隊のおっちゃん」のお墓だと教えられ、だれかにその側面に刻まれているアンボイナ云々の話を読んで聞かされていた。家の座敷でも、毎朝目がさめたときも、昼間にそこで遊んでいるときも、夜眠るときも、鴨居の上から軍服姿でわたしたちを見下ろしていた(修正された写真だったのだろうが)端正な顔立ちのおっちゃんだ。早世した人にはたいていジェイムズ・ディーン現象のようなものも起こり、近所の誰もが、あの人は偉かった、かしこかった、男前だった、強かったと言って持ち上げていたおっちゃんでもあった。

 当然、子どもたちのあいだではヒーローになる。だらだらと「平和な時代の子ども」をやっていると、乃木将軍を崇拝する祖母から「こらっ! 兵隊のおっちゃんはなあ……」と言われてその模範的な人物像を吹き込まれていたし、お墓参りの季節が来ると、姉と「兵隊のおっちゃんのお墓はわたしがやる」「いや、ぼくがやる」と言って、いちばんきれいなヒーローの墓掃除役を争っていた。だから、わが家に来てまもないテレビでドイツ映画の『橋』やドラマ『魚住少尉命中』を見て人間が死ぬというのはどういうことかを考えさせられたときも、真っ先に頭に浮かんだのは「兵隊のおっちゃん」のことだった。

 その後、遠足で行った観光地のお寺にずらりとならんだ「傷病兵」の人たちを見て、父の部屋の壁に貼ってあった満州の地図を見て、本棚にならんだマルクスレーニン主義の教科書を見て、テレビドラマの『コンバット』をまねて畑の畝と畝のあいだで匍匐前進をしながら戦争ごっこをして、小学校からの下校時には、はるか上空をベトナム(実際には沖縄だったかもしれないが)の方向へ向かって飛んでいく米軍の爆撃機を見上げ、毎日のようにテレビのニュースに映し出される「北爆」の映像を見て、反戦運動を見て、学生運動を見て育った末に、結局は戦争にまつわることはすべて拒絶するような大人になっていたが、それでもやはり「兵隊のおっちゃん」は「兵隊のおっちゃん」だった。

 だから、最初に父が靖国神社に行きたがっていると聞いたときは驚いたが、すぐに、そうか、やはり父のような人でも靖国の神殿に兵隊のおっちゃんの影を求めたくなるものなのか、と思った。いや、もしかすると、父の脳裏には、満州やシベリアでともに過ごした戦友たちの顔も浮かんでいたかもしれない。

 ともあれ、そうしてわたしもはじめて、靖国の大鳥居をくぐった。そして、神殿の前で、父よりややうしろに立ち、まだどこか照れくさそうにしながらも、しばしの合掌のあいだ、じっと自分の内面に浮かび来るものと向き合っているように見えた父の背なかを見ていた。

「おれの身内にも戦争に行った人はおるんやけどな」と言って、ふん、と笑った彼も、それならそれで、遺族会の人たちの前で、そういう自分を素直に表現すればいいのにと思ったが、彼はもう地元かどこかへ帰っていた。だから、その夜も、アパートに帰るまで、そうした父の思い出やなにかをよみがえってくるままに思い返し、机に向かうと、頭のなかでまだ見ぬ遺族会の人たちを実家の近所のおじさんやおばさんに見立てて、ひとつ違いで同じ時代の同じ日本の田舎で育ってきた彼がその人たちに語りかけるところも想像しながら、あいさつ文を書いた。

 彼と同県の国会議員は5、6人いただろうか。いろいろなことを思い返していると、眠る間がなくなったので、そのまま早朝の指定された時刻より少し早めに靖国神社に行くと、最初は誰もいなかったが、そのうち、ほかの議員の秘書らしき人がぽつり、ぽつりと現れ、議員本人たちも現れ、するとじきに遺族会の人たちが到着し、記念撮影となった。

 いっしょにならんだ自民党議員たちは目が血走っていた。よし、いまに見てろ――の思いがあったのかもしれない。ちょうど尖閣沖の漁船衝突事件が起きたころだ。政府はその漁船の船長を逮捕したあと、勾留期限が来る前に釈放した那覇地検の判断を追認していた。ずいぶん議論、というか、批判を呼んだ事件だ。だが、わたしはこのとき、背後でなにがあったかは知らないが、表面を見るかぎり、政府の対応はパーフェクトではないかと思っていた。

 前にもこのブログに書いたことだ。中国側でも、裏でなにがあったかは知らない。でも、表面を見るかぎり、あれは無法者の漁船の船長が日本の海上保安庁の船から警告を受けながら、逃げるどころか、逆に向かってきて、体当たりをした事件だった。わたしはそれを最初に聞いたとき、わが家の庭に隣家の子どもが入ってきて、となりとの境に植わっている木の枝を勝手に折ったシチュエーションにたとえられるのではないかと思った。

 日本は自民党政権時代には前例のない「逮捕」という強硬かつドライな対応をとっていた。領土問題が存在しないという立場をとるのであれば、自然なことだ。となりの子どもが黙って庭に入ってきて、木の枝を折ったら、「こらっ!」とつかまえて、「もうするなよ」と諭して帰す。そんなところだろう。その子をわが家の座敷牢に閉じ込めて法的手続きをとったら大人げないだろうし、家のあるじ自らがその子の襟首をつかんでとなりの家にねじ込んでも、なにやらモンスターペアレントじみてくる。問題の木が完全にわが家のものだと思うなら、あとはなにを言われようが、知らん顔をしていればよかったのだ。

 ところが、意外なことに、国内では、政府の対応は手ぬるい、弱腰だ、中国に譲歩した、という批判が巻き起こった。はじめて「逮捕」というきっぱりとした手続きをとられた中国が仰天し、へたな対応をしたら国内から突き上げられることを恐れてオタオタしていたのに、日本の世論は前例のない強硬な措置をとった日本政府のほうを弱腰だと批判し、それまで一度も「逮捕」という手続きをとったことのなかった自民党の議員までが、弱腰だ、那覇地検の判断にまかせていたなんて、そんなことはありえないし、許されないと言って批判していた。いまでは超大国になった中国政府が揺らぐと世界情勢にも影響するので、結果的にはそれでよかったのかもしれないが、なんだか、日本国内で政府批判の声が大きくなればなるほど、日本のほうから領土問題の存在を裏づけ、ひとつ間違えると沈みかけていた中国指導部を救っているようにも見えた。

 その後のレアアースの輸出制限にしても、ほんとうに中国は報復措置としてああいうことをしたのだろうか。わたしが中国国内の行政情報を読んだかぎりでは、あの時期、中国のレアアース鉱山はまだ前近代的な状態にあり、たいへんな環境破壊を引き起こし、各地の鉱山周辺でデモや暴動が起こりそうになっていた。そこで、中国政府は一部の鉱山を閉鎖して、鉱山の淘汰と設備の近代化を図ろうとしていた。もちろん、尖閣の事件が発生したあとは、多少は日本に意地悪をしたい気持ちもあったのかもしれないが、それなら日本だけを対象に輸出を制限してきそうなものなのに、最近も日米などからWTOに訴えられたように、世界中の取引先を相手に輸出を制限し、しかもその措置をいまも続けている(いや、続けざるをえないのかもしれないが)。

 日本の国内世論を見ながら、どうしてこんなふうになるのだろうと思っていたら、そのうち、こともあろうに、民主党のなかからも政府の対応を批判する声が上がってきた。民主党の議員までが世論の動きを気にして、あの政府の対応はいかん、と言いだしたときには、これでは政党政治にならないな、と思った。政党政治のもとでは、たとえボスが間違ったことをしても、とりあえず各党は一枚岩でいないと、選挙と国会というシステムを通してディベートをしている国民の議論がぐちゃぐちゃになる。それなのに、「いい子」になりたいのかなんなのか、もしかすると、党に対する十分な理解もなく、ただ当時の世間のムードでこの党から出れば当選できそうだという思惑だけで選挙に当選してきた人もいたのかもしれないが、与党の議員なら悪者になるときにはならなければならないのに、多くの人に批判されるととたんにその批判をしている人たちの側にまわる人がいて、ほんとうにこんな人たちが国政をやっていて大丈夫なのだろうかという気もしてきた。

 そういう時期だったので、この靖国参拝のときも、当然のごとく、最初にあいさつに立った自民党議員たちはこぞってマスコミと同じ論調で政府の対応を批判した。それは、まあいい。目の前で「あんな対応をしていたら、この国がおかしくなります」と言って遺族会のみなさんに語りかけられても、先にも書いたように、現実を前へ進めなければならない与党には、批判を受けとめる役目もあるのだから、それはいい。

 ところが、である。そうして、自分たちが政権を独占していたときの対応を棚に上げて民主党政権の対応をけなす議員がひとり、ふたりとあいさつをしたあと、はじめて民主党議員があいさつに立ったときだ。最初にあいさつに立ったのは、エリートの代名詞のような大学を出て、エリートの代名詞のような役所にいた元官僚議員だ。その議員が、あいさつを始めるや、「いや、ほんとうに申し訳ないと思っています。この問題については、わたしもいまお話しになった自民党の先生がたとまったく同じ意見です」と言って、遺族会の人たちに頭を下げた。

 おい、こら、待てよ――だ。エリートと言われる人のことも、十把一からげにして語ってはいけないのだろうが、このときは、エリートと言われる人に国政をまかせることの弊害や危険性を強く感じた。彼らは子どものころからずっと「いい子」で来ているのだろうから、怒られることにも慣れていないのだろうし、怒られそうになったら巧みにかわすすべも身につけてきているのだろう。

 わたしが代理を務めていた彼は高卒で、どうもだいじなときにいなくなるのは困ったものだったが、そんなエリート議員を「あいつは優秀なんや」「選挙も強いんや」と言って仰ぎ見るような姿勢をとっていたのは、少し不憫だった。

 政権交代を実現し、変革を誓った議員なら、変革は当然、多くの反発を伴うものなのだから、また当選しようなどという気持ちは捨てて、とにかくこの一期だけにかけて邁進してもいいはずなのに、あの時期くらいから、政府のやっていることをマスコミや誰かに批判されると、とたんに「いやいや、ぼくは違うんですよ」「わたしは違うんですよ」と言って、自分だけ「いい子」になろうとする議員がめだってきたような気がする(あ、その点、菅さんは、国民がやり場のない不満や怒りをかかえた時期に、嫌われ、けなされ、憎まれながら、原子力保安院をはじめ、自民党時代にできあがった組織を指揮して、ほかには代わる勇気のある人のいない役職をよくぼろぼろになるまで務めたと思うが)。

 ともあれ、そう、彼の番、つまり、わたしがメッセージを代読する番が来ると、最初に書いたような気持ちで書いたメッセージを読み上げた。多くの人を前にして、マイクをもって文章を読み上げるのは勝手の違うことだったが、読み始めるときには、戦没者への思いなどそっちのけで人気取りの批判と言い訳に終始したそれまでの議員たちの話で目をつり上げている人が少なからずいた遺族会の人たちも、読み終えたときには、わたしの実家の近所のおじさんやおばさんのような顔つきになってくれていたように思うし、「くそっ」とでも言いたげに、おもしろくなさそうな顔をしていた自民党議員たちの顔も印象的だった。

 そんなひと幕。これも貴重な経験ではあったと思う。

 ちなみに、「靖国参拝」については、あとで、先のエリート議員とまったく同じ経歴をもつ民主党の別の若手エリート議員から、得意そうに、けろっとした顔で「わたしは参拝すべし、のほうですからね」と言われたこともある。それならそれでいいだろうが、だいじなのはそういうことじゃないだろう、と思った。かつては「すべし」を主張していた人も、「すべきではない」と主張していた人も、ともに同じできごとを乗り越えてきていた人たちだった。表面では対立し、批判し合っていても、根っこには同じような経験をかかえていて、その後の人生やなにかの違いから、その経験に対しても違う反応を示していた。つまり、どちらも同じ日本人の戦争というものに対する嘘偽りのない反応だったと思う。だから、次代の日本を担う若手議員は、算数の方程式を解くような調子で、けろっとどちらかに決めてよしとするのではなく、どちらの道へ進むにしても、まずは同じ戦争という経験に対して日本人が示したさまざまな反応をひととおり包含し、総合し、次の時代への歩みを決めるべきではないかと思う。先人の人生の重みを受けとめることがなにより先に求められることだろう。


by pivot_weston | 2012-03-24 06:36 | 国会見聞記