時間の遠近法

 ひとりの画家がいる。

 最初は紙に丸とか四角とかをばらばらに描いているだけである(そんな人を「画家」と呼ぶかどうかは知らないが)。

 そのうち、その丸とか四角とかの上に別の丸とか四角とかをずらして重ね、「前後ろ」があるものを表現できるようになる。

 やがて、そこに影だの明暗だのもつけたして、1枚の紙の表面に吸い込まれるような奥行き感とか、飛び出してくるような肉迫感を表現できるようになる。

 所詮、紙は紙、2Dは2Dなのだけど、3Dっぽさを出せるようになると、伝えられる情報の幅は格段に増す。小学校の全校生徒100人を横一列にならべて描いたら、ひとりひとりの紹介にしかならないかもしれないが、その100人が校庭で入り乱れて遊んでいるところを遠近感をつけて描けるようになったら、あの子とあの子の関係とか、あの子の性格とか、そういったものまで表現できるようになる。

 だから、やはり、ラスコーの洞窟画などと比べたら、近代の遠近法を用いて描かれた絵画は進歩したものだと言えると思う。

 なら、年寄りはもっと自信をもち、生き生きしてきてもいいのではないか――と、またすぐに飛躍する。

 ご母堂さまと同居するために地方へ転居する同業者のかたの送別の集まりに行った。20年以上お会いしていなかったなつかしいかたも来ていた(どうやら、ときどきこのブログをのぞいてくださっているらしいので、消息的にはそう「ご無沙汰」ではなかったのかもしれないが)。

 はっとした。かつて、おれはあんなことがしたい、おれはこんなことがしたい、と言いながらわいわいと集まっていた若者たちの顔を思い出し、ずいぶん変化した現在のありさまをあらためて見ると、あ、20代のころ、いや、30代のころにも、いやいや、40代のころにだって、見渡せていなかった遠近法の構図が見渡せている――と思った。

 これは、わたしたちが老化しているかもしれないが、必ずしも退化ばかりしているわけではなく、進歩もしていることを物語っている。

 まあ、だからといって、この進歩は、個人個人のレベルでは、よしっ、月まで行ったぞ! じゃ、次は火星だ――と、膨張する宇宙みたいにどんどんふくらませていけるものではなく、わたしたち個体にはタイムリミットもあり、そのリミットを受け入れる、つまり、退化とないまぜになっていく作業も求められるので、やたらめったらと発散する進歩ではなく、かみしめる進歩なのかもしれないが、でも、こうしてひとりひとりの元若者が獲得している時間の遠近法の視点、視座は、ただ紙の上にばらばらに丸や四角を描くことしかできないヒヨコ世代に循環させると、必ずや世のなかのプラスになるものではないのかと感じた(まあ、老化して獲得する時間の遠近法の構図をより充実したものにするには、その過程の時代時代で自分の頭に焼きつける2Dの画像が充実していることが前提条件となると思うので、若い世代はあわてて生半可に実感もできない遠近法の構図を獲得しようとするのではなく、せいぜいしっかりその時代その時代のカンバスに丸や四角を描いたほうがよいと思うのだが)。

 年配世代が各自のリミットを考えながらほどほどに活性化して時間の遠近法で見る構図を若い世代にどんどん還流していけば、100年後の50代の人が時間の遠近法でつかみとる構図は、いまよりはるかに中身のつまったものになるのではあるまいか――なんてことも考えた送別の宴であった。

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by pivot_weston | 2012-01-22 06:30 | ブログ