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国会見聞記(6)

(これは不定期連載でお届けしている記事です。流れがわかりにくい場合は、右の「カテゴリ」の「国会見聞記」をクリックし、前の記事を参照してください。)

「ブーム」のほうの主張も、彼はひと味違っていた。「環境」の主張だ。

 人間社会のなかで少し余裕のある人がサポートを必要としている人にやさしくするような調子で「地球にやさしくしましょう」なんて呼びかけるのとは、ちょっと違う(地球にだって、いろんな生き物を養っている養親としてのプライドがある。そんな生き物の一種にすぎない人間に、せいぜい高が知れたその生存期間のなかでちょっと大きな自由度を獲得したからといって、高慢ちきにも「地球にやさしく」なんて言われたら、むかっ腹が立って、そんなことを考えているひまがあるなら自分たちの生きかたを見直せ、と言いたくなるのではあるまいか。人間が自分たちの思いこみで「やさしく」しようがしまいが、地球にとってはまったく関係のないことだ)。

 彼が訴えようとしていたのは、温室効果ガス排出量削減の枠組みの見直しだ。これも、わたしたちがより長く安寧な生活を送れる空間を確保する取り組みであり、「世界平和」へ向けての取り組みの一部と考えることもできる。

 要は、この地球を取り巻く大気中にどうしてもなくてはならない二酸化炭素という分子が、人間が増殖してああだこうだとやっているうちにその大気中にふえてきて、たまたまその属性のひとつとしてもっていた「温室効果」、つまり、気温を上昇させるはたらきが目立ってきて、このままにしていたら、そのはたらきで大気圏が人間という一時的な生命の生息環境に適さなくなるのではないかという危惧が語られるようになったので、そのほかの、別に大気中になくてもいいような気体も含めて、その「温室効果」がある気体はみな大気中から減らしていく努力をしようという取り組みだ。だから、自動車からも、ビルからも、工場からも、そういう気体を出すのをなるべく減らすようにしましょう、とやっている。

 で、いいのだろうか?

 彼は、なにごとにつけても小手先の技術論に終始する傾向のある官僚出身の「優秀」と言われる議員たちのなかにあって、素朴な観点から「世界平和」という、この国が世界のどこの国よりも果たすことができる重要な役割に気づいていたように、この温室効果ガス排出量削減の取り組みについても、素朴な観点から、実に大切なポイントに気づいていた。

 単純素朴に考えて、筋を通すのだ。

 問題は大気中の温室効果ガスの量。なら、まず大気とそれ以外の部分とのあいだの温室効果ガスの出入りを考える必要がある。そう、だから自動車や工場からの排出量を減らそうとしているんじゃないの、と言われるかもしれないが、さて、大気との接触面積で考えて、自動車や工場がこの地球を取り巻く大気とそれ以外の領域とのインターフェイス全体の何割を占めていると言えるだろう。たしかに、自動車や工場や発電所やオフィスビルはそれ以外の地球の表面よりばかばかと温室効果ガスを出しているかもしれないが、インターフェイス全体の表面積に占める割合で言えば、ごくごく微々たるものだ。それなのに、自動車や工場からの排出量を管理するくらいで大気中の温室効果ガスの量を管理できると言えるだろうか。

 家庭の家計簿だって、さ、わが家に出入りしているお金を管理しようということになって、いっぱいお金を稼いできては遣っているおとうさんやおかあさんのお金の出入りばかりを記録していて、子どもや近所づきあいのお金の出入りについては、ま、そういうのはたいしたことないから、どうでもええわ、という姿勢をとっていたらどうなるだろう。穴だらけの家計簿ということにならないだろうか。

 だから、彼は自動車や工場だけでなく、大気と接しているところは全部管理の対象として、そこから出入りする温室効果ガス全体を管理しようやないか、と言わんとしていた。

 具体的に目を向けていたのは「土」と「海」だ。これは大きい。ここから大気中に出入りしている温室効果ガスの量は、単位面積当たりでは自動車や工場とくらべてたいしたことがないかもしれないが、全体を合算すると膨大な量になる。そこを無視して、自動車や工場にばかり注目して大気中の温室効果ガスの量を管理しようというのは、どう考えてもおかしいではないか、というのが彼の基本的な視点だ。

 もちろん、誰も考えていないことではない。というか逆に、ベースのところではみんなが考えていたことだ。世界の温室効果ガス排出量削減の取り組みの核とも言える国連の気候変動枠組条約のなかでは、大気中の温室効果ガスの収支計算の対象となるものとして「排出」や「発生源」とともに「吸収源」(温室効果ガスを大気中から除去する作用、活動または仕組み)というものも定義されていて、その代表的なものとして「バイオマス、森林、海その他陸上、沿岸および海洋の生態系」があげられている。

 もっとも、表面積では大気圏と外界とのインターフェイスの大半を占めるこの「土」と「海」のなかでもひときわ大きな面積を占める「海洋」「外海」「大海原」については、事実上、現在のところは人間の思いをいたしようがない。つまり、監視することは監視するにしても、そこでどんなに恐ろしい現象が起きていようと、わたしたちにはほとんど固唾を呑んで見守っているくらいのことしかできない。

 そこで、彼が国会で具体的に提案しようとしていたのが、「土」と「沿岸部」についての取り組みだ。なかでもまずは「土」についての取り組みを提案していこうということになった。

 地球を取り巻く大気中にたまっている温室効果ガスをなんとかしようということになって、まずその排出・吸収のメカニズムを話し合った国連気候変動枠組み条約の第1回締約国会議(COP1)では、「新規植林」「再植林」「森林減少」「植生回復」「森林管理」「農地管理」「放牧地管理」という7種類の活動が「吸収源活動」として取り上げられ、最初の温室効果ガス排出量削減の取り組みを行う期間を第1約束期間(2008~2012年)と規定して、その期間中の各国の取り組みを定めた京都議定書を採択したCOP3では、そのうちの最初の3つが正式に「吸収源活動」として認められ、その議定書の運用ルールを決めたCOP7(マラケシュ合意)で、あとの4つも「吸収源活動」として認めるよ(ただし、第1約束期間については、それぞれの国が「吸収源活動」として自国の温室効果ガスの排出・吸収の収支計算に加えたいものを選択して算入することを認めるよ)ということになっている。

 ところが、その段階では、日本は「土」つまり「農地」を「純排出源」と考えていて、「農地管理」を「吸収源活動」のひとつにするよという選択をしていなかった(選択していたのは、デンマーク、カナダ、ポルトガル、スペインの4か国だけ)。

 そななこと(「農地」が「純排出源」としかならないようなこと)はあるまい、と彼は考えた。なんといっても、われらが母なる大地だ。わたしたちに悪いことをするはずがない、という思い入れもあっただろうが、それ以前に、彼は国会議員になる前から農地のことを気にかけて、土壌の専門家に相談をしていた。そして、その専門家から、「農地」も管理のしかたによっては間違いなく「吸収源」になるという知見を授けてもらっていた。

 だから、よし、「農地管理」「土壌管理」も吸収源活動として認めさせようぜ、ということになった。

 なにも、気候の温暖化のことばかりを考えてのことではない。温室効果ガスの排出量を削減しようということになると、これまでそれをばかばか排出して「経済大国」を築いてきた産業界はかなり自分を縛らなければならないことになる。温室効果ガスの排出量を劇的に減らせる技術が見つかればともかく、そうでなければ、自分たちの事業を縮小しなければならないかもしれず、それがどうしても受け入れられない場合は、よそで温室効果ガスの排出量を減らす活動、つまり「吸収源活動」などをやっている人たちにお金を払って、自分たちの事業では減らせなかった排出量を減らしたことにしてもらうしかない。

 第1約束期間で「農地管理」を「吸収源活動」として選択しなかった日本の産業界は、国内や国外の植林活動などにお金を出して自分たちの排出量を減らしたことにするしかなかった。

 さて、そこで、「農地管理」を「吸収源活動」として選択したら、どうなるか。土壌の専門家の話によると、農地に一定の管理を施すことによってそこを「吸収源」とすることはできても、その吸収量はさしたるものではなさそうだったが、それでも間違いなく「吸収源」にすることはできるという。

 それなら、吸収量はともかく、日本全国の農地が温室効果ガスの排出量も考慮に入れて管理されるようにしようじゃないか、ということになった。

 一部に元気なところがあるとはいえ、日本の農業の疲弊ぶりはひどい。わたしも四国の実家で暮らしていたころ、その実態を間近に見ていた。農家のみなさんは、戦後の日本をパターナリズムのような観点から保護してきた自民党政治のもとで、戦前にくらべたら比較にならないほど豊かになっている。だから、ご自分たちではあまり意識していないかもしれないが、横から見ていると、その疲弊ぶりはすさまじい。

 わたしたちはふつう、なにかをつくることによって、それを求める人からお金をもらって生活をしている。だから、その結果、たとえどんなに貧乏をしていても、自分のつくったものを必要としている人がいると思い、がんばれるし、誇りももてる。

 でも、自民党政権下の農政では、なにかを「つくらない」ことによってお金をもらえる仕組みをつくってしまった。しかも、そのお金をくれるのは国だ。言ってみれば、お上の言いなりになっていたらお金をもらえるような仕組みができてしまったら、いったい誰が誇りをもって自分の仕事に取り組めるだろう。そこに生まれるのは、妥協や隷従や屈辱の精神ばかりで、だからわたしの実家の周辺のような零細な農家では、息子や娘たちが誰ひとりあとを継ごうとしないのではないのか(わたしが子どものころは、地域のなかで田んぼのないわが家だけがサラリーマン家庭だったのに、わたしの子どもが小学校に通っていたころには、そうした少年時代をすごして子どもたちのために自宅でできる仕事をしようと思ったわたしが自営業者になって自宅で仕事をしていたわが家を除き、あとの家はすべてサラリーマン家庭になっていて、完全な逆転現象が起きていた)。

「農地管理」を「吸収源活動」として認めさせることができれば、そういう流れも少しはひっくり返せるのではないかと話し合った。農家の人が農地を耕作することによってそこを「吸収源」として認められるところにすることができれば、これまで海外の植林活動などにお金を出して排出削減量の不足を補うしかなかった企業が国内にお金を払い、その農家の達成した吸収量を買うことによって補えるようになる。お金の流れとしても、これまではお上が企業からいったん税金として集めたお金を、国からの補助金やなにかとして農家へ還流させていたのに、そうしたお金の流れができれば、金額は少ないかもしれないが、企業から農村への直接的なお金の流れをつくることができる。循環型社会だ。そのお金は、なにかをしないことによって得るものではない。人間がより長くこの地球上に住みつづけられるように、農地からの温室効果ガスの排出量を管理することによって得るお金であり、正当な、しごくふつうの価値の交換になる。

 そしたら、これまでは、豊かになりながらもわびしい思いと向き合うしかなかったかもしれない農家のおんちゃんやおばちゃんたちにも、わたしたちは人の役に立っている、国の役に立っている、世界の、人類の役に立ってお金をもらっているという気持ちになって、誇りをもってもらえるのではないか、ということになり、さっそく彼から、衆議院の環境委員会で質問をするから、その構想を「絵」にまとめてくれないか、という話があった。

 ガッテン、だ。


by pivot_weston | 2011-12-11 07:54 | 国会見聞記