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放蕩息子の改心

 母親が気腫性腎盂腎炎という病気を発症している。

 糖尿病の恐ろしさを感じる。

 糖尿病とはどんな病気?――ときかれると、「血糖値が高くなる病気」という答えが頭に浮かぶだろうか。

 その結果として、わたしたちが直面する現象にはどんなものがあるか?――と考えると、たとえば「脚が腐って切断しなければならなくなる」とか、そういう回答が頭に浮かぶだろうか。

 それだけでも十分に恐ろしい現象に違いはないが、まだあれだけでは糖尿病の恐ろしさは十分に表現されていたわけではなかったのかと、いま感じている。

 だれでもそうなのかもしれないが、病気というのは、直面するといつも自分のそれまでの認識や勉強の不足を思い知らされる。

 母が前記の病気を発症して、はじめて、(きちんと考えてみればあたりまえのことではあるのだが)糖尿病の本質がよくわかったような気がする。

 たとえば、リトマス試験紙。酸性の液体を垂らすと赤く、アルカリ性の液体を垂らすと青く変色する。リトマスという染料をしみこませていないただの「ろ紙」は、どちらの液体を垂らしても、ふつうは濡れるだけで色が変わったりはしないのだろう。それが、リトマスをしみこませることによって、液体を一滴垂らしただけでさあっと全体の色が変化する性質をもってしまう。

 たとえば、その紙の性質の変化のように、人間の体に、なにかあったときに一気にその全体に変化を起こさせる土壌をつくるのが糖尿病の本質だということがよくわかった。

 3日前の日曜日に、このところ慢性的になっていた体の不調を訴える母親をつれて病院に行き、腎臓が炎症を起こしていて、炎症反応がひどいということで、入院させることになったときには、8月の膀胱がんの手術のあと、一度同じような症状を起こし、腎臓から膀胱にいたる尿路が細くなっていて、尿が滞留して感染症が起こりやすくなっていることがわかっていたので、「またか」と思い、これからはこういうことを繰り返しながらやっていくことになるのかなと考え、病院の売店まで行って、ティッシュは買ってきながらスリッパは忘れてくるような「ガキの遣い」を繰り返すわたしに立腹する母を「まあまあ」となだめていた。

 2日前の月曜日に、病院から症状の進行を伝える電話をもらってかけつけたときには、ちょっと酔っぱらったように目をとろんとさせて胸をはだけている母を見て、おや、と思いながらも、まだ言葉はふつうに通じるし、そのきつさもいつものままだったので、「はいはい」と応じていた。

 それが、昨日の朝、また病院からさらなる症状の進行を伝える電話がかかってきてかけつけると、基本的には意味のわかる会話ができるが、そのなかに意味のわからない会話が混ざるようになっていた。意味のわかる会話9割、わからない会話が1割、といったところか。

 その比率が、お昼になると5分5分になり、その段階で緊急の腎臓摘出手術を決意したあと、いろんな診療科の先生がたに準備をしてもらいながら、手術室に空きができるのを待っているうちに、逆に1割9割の比率になり、午後5時すぎにようやく空きができた手術室に送り込むことができたときには、もう会話をしようなどという気は起こらず、ただただ目の前でもがき苦しむ拘束された母を、どうすれば少しでもなだめられるかと腐心するだけになっていた。

 母は、豊かで気ままな少女時代を送らせてくれた両親と実家が大好きだ。その両親はさすがにもういないが、そこでいっしょに育ったふたりの兄とひとりの弟はいまでも90歳が近づいている長兄を筆頭に、みな健在だ。母がいつでもいちばん好きなのは、かつてその3人の兄弟と共有していた土塀に囲まれた屋敷の世界であることはわかっている。だけど、もう東京に出てきて新宿という街で暮らしている以上、もがき苦しむだけの状態になって、そこへ帰してやるわけにもいかない。

 ただ、真っ先にかけつけてくれた東京在住の弟夫妻と話をし、長兄の家や次兄の家に連絡をとっているうちに、長兄の息子や次兄の息子が東京にいることを思い出し(こういうときには、忘れていることが多いものだ)、その息子たちに連絡をとると、みなもう夜の7時になっていたのに、所沢や錦糸町からかけつけてくれた。

 これまで気難しい生きかたばかりをして、一度も「楽」をさせてやれることのなかったわたしに、せめてできるのはそれくらいかと思った。もちろん、手術室にはいっている母の耳には、わたしたちがロビーでなにを話していても聞こえるはずはない。だが、それでも同じ建物のなかの別のフロアで、母が大好きだった実家の空気につつまれて育った男たちが、昔話も交えながら四方山話をした。その、一族が集まってみんなでわいわいやることこそが、母の「大好きな実家」そのものだった。

 わたしたちが別のフロアで重篤な患者の一族らしくもなく、にぎやかに交わしていた会話の雰囲気は、手術室にいた母にも伝わっただろうか。

 ともあれ、もうこれをやるしかないという思いで午後5時半ごろから挑んでいた腎臓の摘出手術は、午後9時半ごろに終わり、午後11時ごろには、集中治療室のなかで、みな麻酔のかかった母と面会することができた。母にも少しは、あの昔の、土塀に囲まれた大きな屋敷の雰囲気が伝わっただろうか。これからは、せめて、せめて、と考える毎日になりそうだ。

 それにしても、ただでも忙しいはずの毎日の業務のなかで、朝にはまったく予定になかった手術を検討し、決断し、チームで情報とプランを集約していき、その手術を午後9時半まで実施し、患者に健康な体をとり戻させるという職業の基本理念を実現するのはもう難しいにしても、現実と折り合いをつけながら摘出した腎臓をほっとしたようすでわたしたちに見せてくれ、「先生、明日も朝からお仕事があるんでしょう?」と問いかけると、「それはもう……」と笑って答えていた医師たちの姿には、よし、こっちも負けてはいられない――という元気をもらった。


by pivot_weston | 2011-11-30 09:48 | ブログ