(これは不定期連載でお届けしている記事です。流れがわかりにくい場合は、「自縄自縛」のカテゴリの過去の記事を参照してください。)
人生で、あんなに驚いたことはなかった。
午前2時ごろだった。
いつものように「小玉」のおばさんのところで飲んでいた。
カウンターひとつの店だ。そのカウンターに向かってならんでいたわたしたちのすぐ背後で、がらがらと入口の戸が開いた。
「こんばんは~」という女の人の声がした。「お、いらっしゃい」というおばさんの声も。
「おれおれ、そっち寄れ」立ち上がって、横で飲んでいた仲間たちにそういい、新しいお客さんがはいれるように、席をつめさせようとした。
顔を上げたら、暖簾をくぐってはいってきた新しいお客さんの顔と鉢合わせした。そして、そのまま、わたしはフリーズした。
「おつかれさん」とかなんとか、おばさんのいう声がしている。
はいってきたお客さんはそちらへ向いて目尻をなごませ、目の前でフリーズしているわたしのほうへ向いても目尻をなごませた。
「な、なんでっ!?」という絶叫口調の声が、わたしの第一声だったか。次に出てきたのは「な、なんで? こんなきれいな人が……」だったか。
いや、ご本人を前にしていうのは失礼な言葉だったのだろうが、まさに「完璧だ!」と思った。大原麗子さんとだれかをミックスしたような顔。カウンターひとつのおでん屋の明かりのもとでも、きらびやかに輝いている着物。そして、一糸乱れず――というか、一本乱れずきれいにセットされた髪……。
それが、ほんとうに一本も乱れていないのだろうかと確認したい気持ちになり、フリーズしたまま、その新しいお客さんの髪のはえぎわのあたりを不躾にもじろじろと見ていると、背後から「オーニッさん、そこに立ってたら、はいれないよ」というおばさんの声がして、また目の前の人がクスッと笑った。
「ああ、どもども」といって、わきに寄りながらも、まだ納得がいかない。こんなきれいな顔の人がこの地球上に存在していることが納得いかない――という思いで、もぞもぞと止まり木をずらしてすわろうとしていたら、その人の背後からもうひとり同じような人がはいってきて、「こんばんは~」といった。
え、どーなってんだ、これは?――という思いだ。わたしは「小玉」の常連客だった。知らないお客さんはいない、という自負のようなものが、どこかにあった。それなのに、はじめて見る人たちがはいってきて、おばさんと親しそうに話をしていて、またその人たちが……。
FさんとKさんとの出会いだった。姉妹だ。ふたりとも、仙台では名の知れた高級クラブのホステスさんをしていた。貧乏学生とはまったく無縁の人、まったく別世界の人、のように思えた。それが……。
実は、その高級クラブと「小玉」は無縁ではなかった。わたしも、そのクラブのことを、店名ではなく、ほかの「小玉」の常連客、「タカオくん」と「タッちゃん」の勤め先といわれていたら、「ああ……」とすぐに頭のなかで整理することができていた。
遠くから近づいてくる汽車の音のように、どこかからかすかに「バブル」の足音が聞こえていた時代だ。「小玉」にも、いずれ大きく飛躍することを夢見て、クラブで蝶ネクタイを締めてはたらきながら、夜ごと、仕事がハネてから、ひとときの安らぎを得るために通ってくる若者たちがいた。その夜はたまたま、タカオくんもタッちゃんも来ていなかったが、わたしが「この世のものとも思えない」第一印象を受けた美人ホステス姉妹、FさんとKさんは、どうやら最初は、そんな若者、タカオさんとタッちゃんにつれられて来たらしく、その夜が2回目にあたっていたようだった。
しかし、いきさつがどうであれ、「この世のものとも思えない」人たちと狭いカウンターに向かってならんですわっているのはどうも落ち着かない。いちおう、わたしはわたしの仲間たちと、FさんとKさんはおばさんと話をしていたが、最初にあんぐりと口をあけたままフリーズして通せんぼをして「クスッ」の笑いをとっていたこともあり、ちょこちょことお姉さんのFさんがこちらにも話しかけてくれるのだが、なにをいわれても硬直して「あ、はあ……」くらいしか答えられない。
でも、そのうち、なにかのはずみに「猫」の話をした。
「あら、おにいちゃん、猫飼ってんの?」と、とたんにFさんがそのちらりと出した話題の尻尾を踏んづけた。
「あ、はあ……まあ……」そう、このころ、例の「不思議アパート」から新築のアパートらしいアパートに引っ越していたわたしは、ベランダにぴょんと飛びこんできたときに餌をやった縁で、茶色いトラ猫と同居していた。
「わあ、『猫のおにいちゃん』だあ~。わたしも飼ってるのよ~」というFさんのひとことで、以来、わたしはその名で呼ばれるようになった。
「飲も飲も、はい、『猫のおにいちゃん』、飲んで」
「ほら、はい、『猫のおにいちゃん』、飲も飲も」
Fさんがそういうたびに、わたしはぐいぐいとおちょこの酒をあおった。
で、2回目に会ったときだったか、その夜はタカオくんもタッちゃんもいたものだから、飲んでいるうちにFさんが「うちに行こうか。うちの猫、見せてあげる。みんなで鍋でもつつきながら、また飲も」といいだした。みんな「オーッ、いいね、いいね、行こ行こ」。
Fさんの自宅は繁華街から少し離れたマンションの何階だったか。はいると、広いリビングがあり、その中央に大きなコタツがあって、妹のKさんばかりか、同僚のタカオくんとタッちゃんも、何度も来たことがあったのか、さっさとそこに足を突っこんでいく。
じきに、コタツの上にコンロが出され、Fさんが大きな鍋をはこんできて、また宴会がはじまり、最後は第13話に書いた男女混合下宿のクリスマスパーティーのように、コタツのまわりに、ひとり、またひとりと平たくなった。
それが、はじまり。
以来、毎晩毎晩、同じようなことが繰り返され、気がついてみると、その夜のように事前にわたしが「小玉」で飲んでいて、仕事が終わって来たFさん、Kさんと合流し、朝まで飲むのが日課になった。
主導権はすべてFさんに一任。2日、3日と同じことが重なっていると、いつもいつも自宅じゃナンだ、ということになったのだろうが、しだいに外で飲むことがふえてきて、勤め先のお店の板さんなども紹介してくれた。で、みんなで飲んでいると、けんか早かったわたしがなにかで急に腹を立てることがある。でも、そういうところも、人の心をつかむのがお仕事のFさんにはとうにわかっていて、わたしが「ナンダ、コノヤロー、モイッペンイッテミロー」の「ナ」の音を発するか発しないかのうちにFさんの手がわたしの口の前に伸びてきて、「飲も飲も、おにいちゃん、飲も飲も」「ほら、飲むのよ」という言葉がかぶさってくる。
なんだったのだろう、あれは。
見た目もなにも、貧乏学生そのもののわたしが、夜ごと仙台随一の高級クラブのホステスさんたちと飲んでいた。というか、飲ませてもらっていた。それまでは毎晩いっしょに飲んでいた学生たちも、そんなふうになってみんなで「飲も飲も」の合唱をしているわたしたちを、遠くからとろんとした眼差しでながめているようになった。
お色気方面に気持ちを向けるのはなし――それがわたしたちの鉄の規律で、当時はまだ、あたりかまわず欲望をぶちまけかねない状態にあったはずのわたしも、Fさんがときどき唐突にいう「いい、お色気はなしよ」の言葉を聞くと、「わかってらい、そんなことは。さ、飲も飲も」と返していた。
わたしはまだまだ視野の狭い若僧だったので、おもに思考は自分のほうへ向かう。どうしてこの人たちはおれに飲ませてくれるのだろう。どうしてこの人たちはおれにごちそうを食べさせてくれるのだろう。どうしてこの人たちは……そんなことばかり考えながらも、あのふたりのこのうえなく美しい顔や姿に接すると、そのそばで酔いにひたれる心地よさに身をまかせてしまい、朝になって、Fさんのマンションで目をさますと、財布にお金が10円か20円くらいしかはいっていないのを思い出し、「あの、ごめん、帰りのバス賃、100円借りてもいいかな」などと、情けない無心をしたりしていた。
いまのわたしが、夜ごといっしょに飲み歩いていたあのアンバランスな若い3人組の姿を目の当たりにしていたら、生活を応援してもらっている弟分のくせにエラソーにイッチョマエの顔をしていた坊やのことはともかく、そのバカな坊やを立てながら、仙台の街を飲み歩く美しい姉妹の背なかからも、なにかを読みとれたかもしれない。坊やから見れば、なんの不自由もなく毎日楽しく生きているように見えたふたりだが、ほんとうにそうなら、なにもあちこちで貴重なお金をはたいてこんな坊やに飲ませる必要があっただろうか。
20年ほど前、久しぶりに仙台に行き、もうクラブをやめてふたりでスナックを開いていたFさんとKさんの店におじゃましたときには、すでに30代も半ばをすぎて、3人の子持ちにもなっていたのに、店の片隅に呼び寄せられて、声をひそめて「おにいちゃん、ちゃんとご飯、食べられてるの?」ときかれてしまった。
わたしの「ひきこもり」から脱するモラトリアム期間を支えてくれた、美しく、いとしい人たちだ。
このころは、自分の方向性が徐々に見えてきた時期でもあった。
前にちらりと家庭教師の仕事にふれたことがあったが、この仕事はわたしがもっている人間の方向性のようなものをなにより鮮明に教えてくれた。
ふつう、家庭教師は子どもの成績を上げるために雇うものだろう。ところが、そういう意図を強くもったお宅に雇ってもらうと、たいてい長続きしなかった。小学生の息子を東京の開成中学に入れようとしていたお医者さんのお宅などでも、ひと月ほどすると「先生、申し訳ありませんが、もうけっこうです」といわれたりした。
その一方で、学校の成績も上げたいけど、その前に、人前で満足に話をすることもできないこの子をなんとかしたい、というような希望をもっているお宅におじゃますると、たえず襟ぐりをつかみ、「ナンダ、コノヤロー、モイッペンイッテミロー」と怒鳴りつけては泣かしてしまうようなデタラメな指導法だったけど、どの子の目にも、しだいにこちらに向かってくる光のようなものが見えてきて、そういうところに喜びを感じることが多かった。
今年の地震による津波で大きな被害を受けた塩釜市の港の近くにも、おかあさんとおばあさんといっしょに3人でひっそりと暮らしていた、ほっぺたの赤い、おかっぱ頭の中学生の女の子がいた。それほど豊かそうな家でもない。それでも、おかあさんはいろんな意味で娘に引け目のようなものを感じさせたくなかったのだろうか、毎月の謝礼をいただくときには、そんな、思うにまかせぬ人生のなかから切ない願いをこめてこちらへ手を差し伸べてこようとしているような気配が強く伝わってきて、成績は思うように上がらなかったが、ついつい長く通わせてもらった。
また、豊かだったが、銀行員のおとうさんがおかあさんをつれて他県へ転勤していて、おねえさんとふたりで家を守りながら、内面ではおとうさんに代わる大黒柱のような存在をさがしていた高校生の男の子もいた。わたしはそんな存在になれるとは思わなかったが、大学をやめて東京に出てからも、新聞配達をしていたわたしのもとへ「先生、××大学に合格しました!」という喜びではじけそうな葉書をくれたので、少しは彼の気持ちに沿うことはできていたのだろうか。
大学の授業にまったく出席する気がしなくなっていたのも、もしかすると、10代後半には自分の時間のすべてをつぎこんでいた理科系科目への興味を失っていたことが原因ではなく、当時の大学や学生たちのあいだにあったもっとほかのものに対する疎遠感や嫌悪感が原因だったのかもしれない。