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自縄自縛の愚かしさ(5)

(これは不定期連載でお届けしている記事です。流れがわかりにくい場合は、「自縄自縛」のカテゴリの過去の記事を参照してください。)

 世間で「引きこもり」が問題にされだしたころ、そうか、わたしは古い時代の尻尾にいたのではなく、新しい時代の先端にいたのか、と思った。

 食堂にはいっても、なんといって注文したらいいかわからないと、食堂にはいる気がしなくなる。電車に乗ろうとしても、どうやって乗ったらいいかわからないと、電車に乗る気もしなくなる。

 合格したら新しい町でいよいよ念願の学者への道をスタートできると思っていたのに、遠くに見やるその未来図そのものは高校時代と変わりがなくても、その手前や土台のほうがぽろぽろと……というか、なにもない空白だったことを思い知らされた。

 それでも、とにかく、勉強だけは――と思っていたが、そちらも……。

 あれはどういうことだったのだろう。単にわたしの頭が悪かったというだけの話なのかもしれないが、それにしても、当のわたし自身の感覚としては、とても劇的な変化だった。

 高校時代、わたしの自宅の勉強部屋は、床に穴があいていた。木が腐って、縦10cm、横30cmくらいの穴があいていて、南国・四国でも、冬になるとそこから身を切るような風が吹きこんできた。

 だから、父かだれかの昔の分厚いオーバーを膝にかけ、手に息をはきかけながら、それでもこごえる手で鉛筆を握っていた。

 人間の心にかぎらず、なんでも、環境が厳しくなればなるほど収斂度が高まるものかもしれない。

 でも、その環境が変わった。歌にうたわれている「広瀬川、流れる岸辺」だ。

 四国育ちからすると、東北の春は予想以上に寒かったが、下宿屋さんの下宿なので、もうすきま風ならぬ穴風ははいってこない。

 それに、そう、わたしにも、第1話に書いた、長女の先輩のご両親のような存在がいた。

 もちろん、現実の父親と母親は「勉強しろ」なんてことは一度もいわなかった。

 でも、毎日、穴風の吹きこむ家からはたらきに行っては、日々の暮らしをなんとかやりくりしながら、わたしの未来に希望を寄せていることはよくわかっていた。だから、わたしの場合には、自分で勝手に、自分のなかに、背後で監視する両親のような存在をつくりあげていたのではなかったかと思う。

 そして、この春、その存在も日常の視界からは消えていた。

 それで、いっぺんにわたしのノーミソがゆるんでまわりに飛散――なんてことはしなかったが、そうたとえられるような現象が起こったのではなかったか。

 大学にはいって、いの一番にあった代数幾何の授業が、前日、下宿で教科書を読んでいたときからなにか妙な予感があったのだが、まったくわからなかった。山靴をはいた北野先生のいっていることが、もののみごとに、なにひとつわからなかった。

 で、御園生先生の微分積分も、渡辺先生の物理も……ということになり、そう、最初に書いたふたつの現象、

  食堂にはいっても……
  電車に乗ろうとしても……

 の続きが起こった。すなわち、

  大学の授業に出ても先生がなにをいっているのか
  さっぱりわからなくなると、大学に行く気もしなくなる

 というわけである。

 時代もそういう反応を比較的気楽に起こせる環境にあった。

 だれか、大学の同級生あたりと話をしていて、「これからどうするの?」ときかれ、「講義に出るんだよ」などと答えたりすると、「え、講義に? おまえ、正気か?」と、あとに「そんなことしてたら大成しないよ」のひとこと付きで驚かれるような時代だった。

 教室がバリケード封鎖されたこともあったが、それはいっときのことで、そういうこととは別に、一部の学生たちのあいだには、あまり教官たちの講義の意義を認めず、勉強は自分でするもの、講義に出てするものではない、と考えるような風潮があった。

 そして、それは、忠実にその考えかたの意味するところを実践していた学生たちだけでなく、わたしのように行き詰まった学生にとっても格好のexcuseとなった。

 そう、勉強は講義に出てするものじゃない、だから、講義になんか出ないんだよ――という具合に。

 で、せっせと本屋に通って専門書を買ってきては、4畳ひと間の下宿の部屋にこもってそれとにらめっこをする毎日になった。講義になんか出なくても単位はとってやる、と思いながら。

 でも、まわりにはそんな学生が少なからずいても、わたしの場合には、そう考えることで世のなかと勝負をすることを回避し、逃げていたにすぎなかったので、いい結果が出るはずはない。

 前期の試験は惨憺たるもので、途中からは試験を受けることすら放棄してしまった。

 そうなると、食堂から逃げ、電車から逃げ、講義からも逃げ、自分の頭のなかの念願の世界に直通する単位だけをとろうとしていたわけで、そのルートもふさがったわけだから、もう出口、外界との交流は絶たれる。

 幸いにして、まかない付きの下宿で、毎日、朝と夜には6名の下宿生全員で食卓を囲んでいたので、人との接触がまったく絶たれることはなかったが、下宿のおばさんやほかの下宿生たちも、毎日どこへも出かけようとしなくなったわたしを、しだいに不審そうな目で見るようになった。

 ほんとうは、ちょいと方向転換をし、目の前の小さなところから、負けても負けても勝負をするということを始めれば、徐々に出口は開けてきたのだろうが、遠くに見やる未来図だけを堅持し、あとはことごとく自己正当化・逃避のスパイラルに陥っていたので、そういうことにも思いがおよばない。

 気がついてみると、毎日毎日、ただ4畳ひと間の部屋で起きて、本を開き、寝るだけの自分がいた。

 それに、そう、心のなかの「背後で監視する両親」もいた。

 むりもない。両親は「勉強しろ」などとはひとこともいわず、具体的に進路を指示することも一度もなく、食事の準備が遅いと文句をいわれてもじっとがまんし、息子が自分にとっても家族にとってもよりよい方向へ進んでいくことを心のなかで応援していた。両親もその思いがわたしの入試合格によってかなったように思っていた。

 だから、たえず、具体的な言葉には表現しなくても、わたしが「遠くに見やる未来図」に向かって日々前進していることへの期待がみなぎった手紙を書いてよこしていた。

 最初のうちは、わたしもその「期待」を共有して返事を書いていた。しかし、「ただ4畳ひと間の部屋で起きて、本を開き、寝るだけの自分」に気づくと、自分がまったくウソの報告をしているような気分、まるで両親を相手に詐欺をはたらいているような気分になってきた。

 目の前の、ほんのちょっとしたところから、逃げずに勝負をしていく――脱出のカギはただそれだけのことだったのに、なにもせずにただ「未来図」や「期待」や「詐欺の気分」にまみれていったわたしは、ほんとうに食事どき以外はまったく部屋から出ない不審な下宿生になっていった。

 当然、このままではいけないという気分は湧いてくる。出ないといけない、でも、出られない、出たくない――そんな葛藤を自分のなかだけで繰り返しているうちに、1年目の冬が来て、年が明けた。

 よし、環境を変えよう、すべてを新しい環境でやりなおそう、と思い立ったある日、久しぶりに下宿屋の外へ出て、新しい下宿をさがしに行った。

 大学の近くの下宿屋がたくさんある地区まで行き、きょろきょろしながら道を歩いていると、家の前で鉢植えかなにかをいじっているおじさんがいた。

 久しぶりに吸った外の空気は新鮮で、わたしも珍しく気持ちが積極的になっていて、よし、と意を決してそのおじさんに声をかけた。

「あの……すみません、このへんにどこかいい下宿はないですか?」

 そうたずねた。おじさんはこちらを振り返り、不審そうに眉をひそめている。あ、しまった、また変なことをいったかな、と思いかけたそのとき、まったく予想外の、怒りのこもった返事が返ってきた。

「声を出せ。ふざけているのか? 口をぱくぱくさせるだけで声を出さないなんて、失礼じゃないか!」

 よくいう「頭をガーン」だ。立ちすくみ、すぐにまた鉢植えかなにかのほうへ向いたおじさんの背なかを、しばらく呆然と見ていた。

 まさか、自分の耳には自分の声が聞こえていたのに、相手には聞こえていなかったなんて――。

 もう一目散に4畳ひと間の下宿の部屋へ逆戻りだ。

 そして、もうダメだ、と観念した。これ以上ウソに満ちた希望のない世界を生きていくことはできないと思った。もう両親や親戚の人たちから期待されている自分にはなれないし、現に、いまの自分はもう完全にそこからも世のなかからも離脱していると思った。

 年が明けたとはいえ、まだ冬だった。だから、恐山へ行こう、と思った。本州最北端の山へ行って、そこに積もっている雪のなかに寝転がれば、春になるころには、この醜悪な自分の存在を消すことができているだろうと思ったのだ。


by pivot_weston | 2011-08-04 11:44 | 自縄自縛