今週の「かい人」、週刊現代

毎週恒例になってきた週刊現代レビュー。

岩瀬達哉さんの「かい人21面相は生きている」も
今回で第2部第4回。

語られることの意味を思う。

たしか、この事件が起きたのは、
新宿ゴールデン街の「ローレンス」に行くと、
週刊文春の副編集長だった安倍隆典さんが来ていて、
わたしも安倍さんと同県人ということもあり、
遠巻きに、こぼれてくる「ロス疑惑」の話を
聞かせてもらっていた時期とほぼ同じではあるまいか。

大きな事件が起きては忘れられていく。
わたしたちはそのどれについても、
ほとんど細かい事実関係を知らないまま生きているんだな――ということを、
岩瀬さんの緻密な取材のあとを読ませていただいていると、
あらためて感じさせられる。

そんななかで、今回印象に残ったのは、

「この4つの条件を兼ねそ
なえた人間を探し出すこと
は、それほど困難なことで
はない。ダイエーの現職な
いしは元社員、そして取引
業者の現職及び元社員をリ
ストアップし、そこから先
の条件にあう人物をふるい
にかけていけばいいだけで
ある。」

の一節。

ここだけ、ほかの記述とは違い、
妙に断定的で異質な印象を受ける。

そう思うと、
「「大和川の南」にいる!」という小見出しも
なにか本文中には書いていないことを伝えようとしている
予告の言葉のように思えてくる。

この連載記事の主役「かい人21面相」について、
岩瀬さんはそのシリーズのタイトルで「生きている」と断定している。

30年近い歳月を経て、
自分の細かな足取りがこうして世間に公表されながら、
その世間の巷に埋もれて生きている「かい人」のいまの心境も思う。

その正体があぶり出されたら、
事件から今日までの、その心の軌跡のようなものも読んでみたいと思う。

ところで、
岩瀬さんの記事のあとには、毎週野球関係の記事があるのだが、
先週の「日本ハム・吉井理人の告白 投手という生き物」は秀逸だった
(先週書き忘れたので、書いておく)。

いまではすっかり有名人になっている星野仙一さんが
広く人気を獲得するきっかけになった(とわたしは思っている)
週刊文春の連載記事の記憶がなんとなくよみがえってきた。

しかし、それにしても、気になるのは、
雑誌のあちこちで散見される感覚の古さ。

なかでも、その一番手が、
「「軽い」なでしこたちに「重すぎる」国民栄誉賞」という記事。

マスコミはいつでも自分たちを「正義」や「善」の側に置こうとし、
世間の空気を読んであっちについたりこっちについたりしているから
こういう記事が出てくるのかもしれないが、
こういうアングルからとらえているようでは、
せっかくの「なでしこ」の快挙も……という気がする。

「なでしこ」の快挙はわたしたちにとても大きなものをつきつけている。
これまで「なでしこ」のことをほとんど無視していたマスコミには
とても語れないものをつきつけている。

冒頭でコメントを引用されている政治評論家の三宅久之さんは
たしかに「現代の好々爺」なのかもしれないが、
だからといってその人の意見がすべてわたしたちの指標になるかといえば、
そんなことはないと思っている。

『国民の範となる』ことが求められるから
若い「なでしこ」には「重すぎる」という論理だが、
では、「範」とはなんなのか。

若い人が称えられたあとに間違いをおかしたら、
それは「範」とはならないのか。
そんな「範」では、なんとも薄っぺらな「範」ではないのか。
表面だけ身ぎれいにする「範」は、薄っぺらであると同時に非人間的なもので、
過去に円谷幸吉選手の命を奪ったりしたのも、そういう「範」の概念ではなかったのか。

賞揚された若い人が、のちに過ちをおかしたら
(もちろん、その内容にもよるが)もうその人を受け入れられなくなるなんて、
なんとも未熟な社会ではないのか。

人間を人間として見られるのが成熟した社会だ、とわたしは思っている。

彼女たちは若いうちにしかできない
人間の運動技能の最先端を競うスポーツの世界でトップに立った。
それを「若いから」といって
国民の到達できる頂点として記念しないのであれば、
この国はまだスポーツの価値を認められていないことにもなるのではあるまいか。

しかも、彼女たちはただ世のなかの表面を上滑りしてきただけではない。

幼いころからチヤホヤされ、いい用具やいいグラウンドを与えられ、
多くの人の注目のなかでトップに立つ人は、
それまでの社会の価値観を追認させる作業をしたにすぎない。

彼女たちは、そうではない環境から、
世界中の人が注目するアリーナに立ち、そのトップに立った。

日本の国に活気や変化や対流現象を呼び起こすことをしたのだと思う。
その意味でも、彼女たちのしたことは大きかった。

「範」は、
だれかに与えられるものではなく、
わたしたち自身が多くの人の営みのなかから学んでいくものだ。
人間味にあふれる、人間をトータルに包含した「範」をもてない国は、
未成熟な国だと思う。

これから、多少おかしなことをしようが、ヒンシュクを買おうが、
自由に、伸び伸びと生きていき、わたしたちに、
ああ、人間てそういうもんやな、ということを教えてくれればいいのであり、
また、彼女たちをうわっつらだけの枠に押しこめず、
自由に、伸び伸びと生きていけるようにしてあげるのが、
スポーツを自分たちの大切な営みのひとつとして楽しむ、
成熟した社会の構成員であるわたしたちの役目ではないかと思う。

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by pivot_weston | 2011-08-03 08:00 | ブログ