自縄自縛の愚かしさ(4)

(これは不定期連載でお届けしている記事です。流れがわかりにくい場合は、「自縄自縛」のカテゴリの過去の記事を参照してください。)

 わたしの場合は、小学校高学年のころから「文学なんぞ、女のするもんぞ」と口走りだし、自分をひとつの枠にはめこもうとしたと思っていたが、その当時はまだ宣言するだけの段階で、ただの転換期にすぎず、実際にその枠に収束する度合いが強くなり、縛りかたがきつくなったのは、あくまで貧乏からの脱出口と目していた「大学受験」が現実化した一時期、年数にすると3、4年のことにすぎなかったのかもしれない。

「二宮金次郎」や「乃木将軍」の縛りをかけようとしていた祖母が亡くなり、小学校を中心とした世界でわたしを守ってくれていた姉も卒業し、4年生になった始業式の日の朝、わたしは明確な意思をもって登校した。

 教室のいちばん前のいちばん右、先生がはいってくる入口のいちばん近くの席だったか。新しく担任になったおじいさん先生がはいってきても、まったく前を向かず、ずっとうしろの子と、わざと大きな声で話をしていた。

「おとなしい」「おとなしすぎる」といわれるのが、ほんと、心底わずらわしくてわずらわしくてしかたなかった。だから、その日は朝登校するときから、そんなら、ほんとうはそうじゃないところを見せてやろうじゃないか――と心のなかでつぶやいていたのをおぼえている。

 幼稚園から3年生までは女の先生ばかりだったので、おじいさん先生がいきなりわたしの頭を上からわしづかみにして、ぐいと前へ向けたときには、いささか面食らったが、注意されても「すみません」ともなんともいわなかった。

 あれ、この子はこんな子だったかな?――と、いぶかるようなおじいさん先生のしかめつらと、え、なんであの子が?――といういっせいにこちらへ向いた同級生たちの視線も多少は快感だったか。

 みるみる「××大学・命」の枠に閉じこもっていった15歳前後のころとは逆に、このころは、バリバリとそれまでの自分の殻を割っていく音が聞こえてくるような時期だった。

 制服はあっても、制服を着ない。ランドセルも手提げかばんももたず、「ブックバンドや」といって、教科書を裸のままひもで縛って学校に行く。前回書いたラブレターのようなものを書いたのもこのころだった。給食の時間の校内放送の当番だったのに、放送室へ行かずに教室にいて、当時わが校でいちばん怖く、地図をさす棒で生徒をなぐりまくっていた先生が「なんでせんのぞーっ(どうしてしないんだ)!」といって怒鳴りこんできても、「ふん、しとないきんじゃ(したくないからじゃ)」といって、にやりと笑ってにらみ返したこともあった。放課後には、なにかの雑誌にのっていたアイデアだったか、運動場の隅に落とし穴を掘って、そこからわきの木の枝にロープをはわせ、その先に漬物石よりも大きな石を縛りつけて、たまたま近くを通りかかった上級生に手招きをし、まんまと落とし穴に足をつっこんだその上級生のかかとのあたりにドスンとその漬物石を落下させたこともあった。かと思えば、同級生を誘って「おーい、マツボックリのぶつけあいをしょーぜぃ」というのはまだしも、「おーい、ハンゴロッシャイ(半殺し合い)をしょーぜぃ」などといったりもする。まあ、それは言葉だけで、実際には田んぼに積まれた稲わらの上でぴょんぴょん飛び跳ねる程度のことだったのだが、父のタバコ「いこい」をひと箱くすねて夕方までにからっぽにしたのもこのころだったか。休みになると、ひとりで、あるいは仲のよかった友だちとふたりで、まだのどかだった田舎の野道を自由きままに自転車で走って町まで行き、途中でよその小学校の子どもたちと石のぶつけあいなどもしながら、あちこちでちょろちょろと、大人が見たら「こらこら」といいそうなことばかりしていた。

 とにかく、それまで「おとなしい」「おとなしすぎる」という、わずらわしくてしかたのない形容詞をかぶせられていた自分のイメージが変わるのが痛快で、どんどんその快感にのめりこんでいった。

 大人になってから、当時の先生がたとお会いしたときには、みんなが口をそろえて、「ほんと、ひとつ間違えたらとんでもない子になる」と思って心配していたと明かしてくれた。だろうな。

 でも、人間は一時期の殻を破ったところで、そう簡単に自由になれるものではない。たとえ、なにも大きな間違いはおかさなくても、少年期には、じわりと、いつのまにか、外側からではなく、内側からまといついてくるものもある。

 大好きだった父の本棚があった部屋には、もう1か所、本がならんでいるところがあった。

 入口の「上」。そこに、小学生ではちょっと手が届かないくらいの高さの棚があり、あまり厚くないけど、ちゃんとケースにはいった同じ装丁の本がずらりとならんでいた。

「全集」という観念は、自分でも世界童話全集を1冊ずつふやしていたから、あっただろうか。「美術」だったか、「名画」だったか、ともかく、その手の文字が本の背にきれいにならんでいた。

 なぜだろう、かつては「おとうちゃんの本」といって見せてもらおうともしなかったその本に、たしか、この時期のある日、学校から帰ると、木製の脚立をもち出してきて、手を伸ばした。

「ルネサンス」という文字がはいった1冊をとり出したと思う。

 きっかけなんて忘れてしまうものだが、衝撃は忘れない。

 最初に目に飛びこんできたのがボッティチェリの「ヴィーナス誕生」だったか。

 まずは見入った。そして、どきどきしている自分に気づいた。

 同じボッティチェリの「プリマヴェーラ」、ティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」、コレッジオの「イオ」あたりの画像も記憶に残っている。

 現代のわたしたちから「芸術家」と呼ばれている人たちが、なにもかもがもっとシンプルだった時代に、自分たちや発注主の宮廷人たちの本能や思いや願望のおもむくままにものした作品の数々だ。

 なまめかしい肢体やなまめかしい表情。

 単純化しすぎかもしれないが、わたしはそもそも、男女の交情はこれがすべてではないかと思っている。

 いつもいっていることだが、生命の本流は女で、男は遺伝子の一時貯蔵庫のようなもの。木でいえば、女が幹で、男は葉っぱ。わたしたちの生き物としての究極の目的は、いったんその一時貯蔵庫のほうに分けて保管していた遺伝子の片割れを本流のほうへ呼び戻し、合体させて次の個体を生み出すことにある。

 そのために、わたし自身は「葉っぱ」のほうだからよくわからないが、幹の話を聞くと、無限の奥行きがあるという、快感、悦びを生み出すメカニズムがその体に埋め込まれている。

 わたしたちを究極の目的の達成へといざなう装置だ。

 幹は、その葉っぱには味わえない悦びにひたることを予感したり、期待したりしたときに、その顔に「なまめかしい表情」を浮かべる。

 すると、それを見た葉っぱにもスイッチがはいる。

 大昔の芸術家たちが、まだ素朴だった心で残してくれている作品の数々は、その、わたしたちの種としての生存の基本メカニズムをどんどん、ぐるぐると回転させてくれるものではないかと思う。

 わたしたちが感じる美とは、例外なく、そういうものだと思っている。

 とにかく、わたしはその、大昔の芸術家たちが記録し、表現し、残してくれていたものに夢中になった。次の日も、次の日も、そのまた次の日も、道草もせずに帰ってきては、囲碁・将棋や日向ぼっこ三昧に明け暮れていた祖父がそばにいないのを確認すると、急いで例の棚から本を引っ張り出し、より興奮するもの、もっと興奮するものをさがしていった。木の葉のさがだ。

 亡くなった祖母が口にしていた二宮金次郎や乃木将軍の行跡には、こういうことは含まれていなかった。

「おとなしい」「おとなしすぎる」といわれていたわたしの輪郭からもはみ出すことのように思えた。

 こういうときには、まわりの人がはみ出したところをさらりと受け流してくれるといい。

 実は、わたしにとって、全裸のオンパレードとの遭遇はそれがはじめてではなかった。

 5歳のころだったか、元指物大工の祖父の細工場(さいくば)の床に、いまの月刊『文藝春秋』くらいの厚さの雑誌がころがっていた。

 祖父もそばにいたが、だからといってどうとも思わない当時のわたしがそれをぱらぱらとめくると、なんと、全ページが金髪の女の人の素っ裸の写真ばかりだった。

 呆然としてとろんとそれに見とれる間が少しはあったように思うが、それでも、まだ素直だった5歳の坊やは、「おじいちゃん、なんでこの女の人、みな裸なん?」とたずねた。祖父の返事は「さあ」。どうでもよさそうに答えている。そして、「それはとなりのおっさんのじゃ。返してきてくれるか」というので、わたしは「ふん」と答えて返しに行った。

 ただそれだけのこと。だが、その記憶が、この全集に収められた芸術作品を目にしたときに、よみがえってきた。同じようにわけはわからないながらも、体の反応は、5歳のときと10歳のときでは違う。

 わたしは、こうなれば、芸術全集だけでなく、あの写真集ももう一度見たい、なんとしてももう一度見たいと思った。

 で、おずおずと、ひがな一日競輪に明け暮れるとなりのおじさんのところへ行き、「あの……ほれ……なあ……何年前やったか、前にうちのおじいちゃんが貸してもろとった本があったじゃろう。なんの本やったかなあ……わからんきんど、あれ、……もっぺん貸してくれるかな」といった。

 ひがな一日競輪に明け暮れていたおじさんは、それまでは一度もわたしの顔を正視したことなどなかったのに、細い目をまっすぐにこっちへ向けて、おじさんなりに顔の造作を正座・端座させた状態で黙ってこちらを見ている。

「はは……なんやったかなあ、もう忘れてしもたんやけど、あれ……なあ……あれ……」こちらはそういって、うつむく。

「なんじゃろなあ」おじさんはぼそりとそういった。

 こちらのほんとうの意図を見抜いているのかいないのか、よくわからない。だけど、そういわれると、こちらがもう緊張感に耐え切れなくなり、「まあ、えわえわ……ほんなら、ええわ」といって、すごすごと引き揚げてきた。

 おじさんはわたしのアドレッセントの変化に気づいていたのだろうか。

 わたしのほうは、念願かなわなくとも、母が買ってきていた女性週刊誌で川上宗薫先生の小説を読み、そんな一件など頭からすっ飛ぶような思いをして、ますますにょろにょろと少年期の輪郭からはみ出していったのだが、このおじさんの対応は、例のラブレターを見たおじいさん先生の「子どもがこんなことをするでない」よりはるかによかった。

 10年ほど前に、ほんの短期間だったが、お世話、というか、お相手をしていた末期がんの患者さんが精神病院の看護師さんで、こんな話をしてくれたことがある。

「わたしは統合失調症の患者さんがいちばん好きなんです。たいへんなときはたいへんなのだけど、それ以外はだれよりも親切で、だれよりも紳士的で、あの人たちといる時間がいちばん好きなんです」

 その話を聞いたとき、ふと、生まじめな人たちがおろおろと、懸命に自分を抽象的な枠におさめようとしながら生きている姿が頭に浮かんだ。

 専門家ではないので、客観的なことはなにも知らない。でも、人間は本来、だれでも不定形で、あらゆる要素をもっていると思うから、そうして生きていこうとしていると、必ずその枠からはみ出すときがある。

 そういうときに、わたしのようにずぼらな人間ならいいが、几帳面で生まじめな人は、ひとつの枠におさまりきらない自分のやり場に困るのではないか。そして、しかたなく、そこからあふれたものの受け皿として、もうひとつ別の枠をつくる。

 この枠というのは、それぞれにひとつの世界を構成していくものだから、どこか地球と似たところがあって、枠内のものを中心に収束させようとする重力がはたらく。だから、ふたつ、三つと枠ができていくと、そのそれぞれに中心に向かう重力がはたらき、枠のなかのものと別の枠のなかのものの乖離は大きくなっていく。

 そういうことではあるまいか。

 だから、ただただかわいいだけの子どもたちが大きくなっていくときには、変に早くから職業やなにかで仕切られる抽象的な枠を与えず、悪いことをしたら悪い部分を加算し、エッチなことをしたら、またエッチな部分も加算するというように、加算方式でその子の全体像をつくってやれたらよいのではないかと思っている。

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by pivot_weston | 2011-07-30 16:25 | 自縄自縛