自縄自縛の愚かしさ(3)

(これは不定期連載でお届けしている記事です。流れがわかりにくい場合は、「自縄自縛」のカテゴリの過去の記事を参照してください。)

 わたしが自分の心の縛りの破綻と向き合っていた20代はじめのころには、これは時代のせいもあるのだろうと思っていた。

 若い人はプッと噴き出すか、???と首をひねるかもしれないが、わたしの幼時の人生のお手本は、おもに祖母に育てられていたこともあって、二宮金次郎と乃木将軍だった。

 二宮金次郎は、例の、薪を背負って歩きながら本を読んでいる像で有名な人。

 乃木将軍のほうは、このところこのブログでとり上げている前田和男さんの『紫雲の人、渡辺海旭』に描かれている時代の人。

 よく知らないが、あまり食べ物の好き嫌いをしなかった人らしく、晩ごはんのときに、ちょっと食べる気のしないものを残そうとしたりすると、とたんに祖母から「こらーっ、ノギショーグンはなあ……」の声が飛んできて、わたしはその見たこともない「ショーグン」のイメージを、座敷に飾ってあった戦死した伯父の軍服姿の写真と重ね合わせて想像していた。

 勤勉で、ストイックで、質実剛健――ふたりのイメージから仕込まれていたのはそんな人生の方向性だったか。

 でも、わたしはそうではない方向に時間を費やすことが多かった。ひとりで紙に絵を描いたり文字を書いたりしているのが好きで、間近で木の葉がそよぐ観音開きの窓の内側の、びっしりと本で埋まった父の本棚の前で、自分用に使うのを許可してもらったその一画に、毎月父が町から買ってくる世界童話全集を1冊ずつならべていきながら、壁に貼ってあった満州の地図をアメリカの地図と勘違いして、アメリカやヨーロッパの地に思いをはせていた。

 まだはじまってまもなかったテレビ放送のなかでも「山の彼方に」という石坂洋次郎さん原作のドラマに興味を示し、小学校の1年生の教室で、となりの席の女の子を相手にそのドラマで耳にした「好き」とか「愛している」とかいう言葉を使い、面食らわせたりする一面もあったが、どうやら大人たちから見ると、おとなしくて、おとなしくて、心配になるほどおとなしい子どもだったらしく、それをなんとかするために先生が臨時の家庭訪問に来たりもしていた。

 で、あの、ちょっとショッキングな映像に遭遇した。もじゃもじゃ髪の、猿のような人の映像だ。

 小学校1年生か2年生のころだったか、朝、学校に行く前に見ていたテレビの画面にその映像は飛び込んできた。

 自殺する直前の芥川龍之介さんの、あの有名な木に登る映像だ。

 もじゃもじゃ髪や、頭のかたちや、細面の顔が、どことなく結核病み上がりの父に似ているように思えた。

 で、つい、木に登って異様にほほえむおじさんの映像であるにもかかわらず、あ、かっこいい、ああいうふうになりたい、小説家になりたい――と思うようになった。

 まあ、どこまで自然かはわからないが、ともかく、当時のわたしの生活のなかで、だれにいわれたわけでもなく、自分で思いついたことではある。

 でも、そのころ、いろんなことがあった。

 ある朝、目がさめたら、わが家の窓ガラスという窓ガラスが1枚残らず割れていた。(当時の四国では、徳島で起きた「一家4人殺し」が大ニュースになっていて、わたしはてっきり、「香川との境の山に逃げた」といわれていたその犯人が来たのだと思いこんでしまった。)

 ある日、学校へ行ったら、それまでいちばんの仲良しで、毎日いっしょに遊んでいたヨシマサくんという子が、急に、わたしにはひとことの断りもなしに神戸へ転校したといわれた。

 わたしに勤勉な生きかたを仕込もうとしていて、ひところはわたしの世界のすべてのようになっていた祖母も亡くなった。

 そして、気がついてみると、毎月学校で積み立てていた貯金の積立金100円をもらおうとして、ないといわれたり、毎月学校で1回設けられていた米飯給食の日にもっていくお米をもらおうとして、ないといわれたり、やたらとわが家の貧しさを意識させられるできごとがふえてきて、父もまた病気になったのか、学校から帰ると例の本棚のある部屋で寝ていて、夕暮れどきに裏に出ると、着物姿で畑に立ち、真っ赤な夕日を見ながら、腕組みをして俳句をひねっているようになった。

 で、そのころ、母の実家の祖母からこういわれた。「おまえはおとうちゃんみたいになるなよ。おまえは落ちぶれた家を再興せないかん。絶対に文学なんかはせず、男なんやから、理科系へ行けよ」

 いまでも、このとき、わたしにもう少し聡明さがあれば、と思うことがある。でも、残念ながら、当時のわたしには、よほど貧乏が身にしみていたこともあったのだろうが、人のいうことはあくまで「人のいうこと」として受けとめ、ま、それもひとつの参考にはしながら、自分の頭で自分の生きる道を考えるだけの聡明さがなかった。

 で、すぐに、当時いやでいやでしかたがなかった貧乏からの脱出口はその、祖母のいう「理科系」にあるのだと思いこんでしまった。

 そして、毎日腕組みをして俳句を詠んでいる父を、まったく、どうしようもないやっちゃなあ、と思うようになり、周囲の友だちにも「文学なんぞ、女のするもんぞ。小説なんて、おれは絶対に読まん」と公言するようになった。

 多くの時代状況もこの宗旨変えを促進する方向へはたらいたと思う。

 高度経済成長期を迎え、目に映る世界には、ほんとうに母方の祖母がいうように「男は理系」の道を突き進む先輩たちが大勢いた。

 小学校で、いいなと思っていた女の子にわたそうとして書いていたラブレター、のようなものを学生服のポケットに入れていたら、講堂に忘れてしまったその上着のポケットをごそごそとやった先生に見つかって、校内放送で職員室まで呼び出しをくらい、ほかの先生がたもいるところで、「子どもがこんなことをするでない」と説教までくらった。「男女7歳にして席を同じゅうせず」の時代の名残だ。

 大好きだった野球の世界でも、阪急ブレーブスのスペンサーあたりから「ベースボール」のにおいは嗅ぎとりながらも、やはり、いまひとつ聡明さに欠ける点が災いしたのか、NHKの高校野球中継の精神訓話じみた解説の世界にひたり、やがては松山商業と三沢高校の決勝戦でひとつの極点にいたる、「血と汗と涙」の世界にかぶれた。「巨人の星」という超人気フィクションの世界も、貧乏からの脱出や、非現実的なスパルタの効能といったものをわたしの意識下に植えつけてくれただろうか。

 学生運動も盛り上がっていた。それまでいい子いい子していた学生たちが、てやんでぇー、やってられるかー、世のなかなんかぶっ壊しちまえー、と暴れまわっていたのはいいのだが、その結果、なにか大きな事件があると、そのつど、事件の主役のことが新聞に連載記事で紹介され、そうすると、いつも決まって、まだ田舎の中学生だったわたしに「おまえによう似とる」といってくる人がいて、まわりの友人たちも、「おまえは大学へ行ったら絶対に学生運動をやるな」などといって、spellをかけにくる。

 いつも心の奥でうごめいていた「偏屈者」の血が騒いだのだろうか。父の言動にはひそかに追随し、母方の祖母の指示にも素直に従おうとしていたくせに、よその人からそういわれると、豊かな暮らしをしているように見えた彼らへの反感もあったのか、意地でもそのとおりにはなるまいと思い、よし、それなら、ガリガリで冷ややかな、絵に描いたようなエリートになっちゃろうやないか、学者かなにかになって、みんなを鼻で嘲笑いながら生きる人間になっちゃろうやないか、と思うようになった。

 高校へ進むころには、もうわが家の経済もどん底から脱していたと思うが、大学から特待生としての誘いを受けていた姉がわたしを大学へ行かせるために進学をあきらめてくれたりしたこともあり、気がついたときには、もう「××大学・命」の勉強の亡者のようになり、ひどいときには、1日24時間のうちの23時間を、母に食事の準備が遅いと文句をいったりしながら、勉強に費やすようになっていた。

 で、さて、それだけ目標にしていた大学のことを、わたしはどれだけ知っていたかというと、旺文社の『蛍雪時代』に書いてあったこと以外はなにも知らなかった。

 それはそうだ、休日でも勉強していない時間は1時間だけで、たったそれだけの時間に食事もとって睡眠もとっていたとしたら、なにも情報を仕入れる時間などない。

 というわけで、とにかく目標としていた大学には難なく合格したのだが、そこにいたのは、頭のなかで「××大学××学科」という抽象的な枠だけを思い描きながら、世のなかのことをなにも勉強せずに18歳になったデクノボーだった。

 食堂にはいっても、なんといって注文したらいいかわからない。電車に乗ろうとしても、どうやって乗ったらいいかわからない。あげくのはてには、歩くときにどうやって手足を動かしたらいいかもわからなくなり、いつもうつむいて、手足の動かしかたを考えながら歩く学生になっていた。

 あまり他者に注文をしてもいけないだろうが、子どもは考える。手がかりさえ与えてやれば、考え、自分なりの方向性を見出す。その意味で、情報はあまり隠さず、適度に与えることも大切だと思う。

 子どものころに起きた「朝起きたらガラスが1枚も」の事件も、ヨシマサくんの突然の転校の事件も、大人になって話を聞いてみると、すべては流れのあることだった。

 銀行に勤めていた父がとなりの愛媛県の支店に栄転になろうとしていたのに、乃木将軍を信奉する祖母から「一家のあるじは家を離れてはならじ」とストップがかかり、ヤケを起こした父が、子どもたちがすやすや眠っているあいだに家の窓ガラスという窓ガラスを相手に蛮勇をふるい、その父が、結局、銀行をやめて、んじゃ、しゃあねえ、事業でもやっか、と話をしていた相手がヨシマサくんのお父上で、そのお父上が事業資金にしようとしていた父の退職金をもって神戸へ逃げちゃった――というお話。

 なんだ、それなら、「猿のような人」に似た父を「どうしようもないやっちゃなあ」と思うこともなかったし、自分を「反文学・理科系命」の自己強制的近視眼に追いこむこともなかったのやないか、と思ったのは、その近視眼の世界から抜けだしてからのことだった。

 パターナリズムは子どものためにならない。

(このお話は、前に、ある病院の子ども専門の精神科に看護師として勤務していた長女から、さまざまな枠にとらわれて苦しんでいる子がいっぱいいる、と聞き、どなたかひとりでも参考にしてくださる人がいれば、と思って書いています。)

[PR]

by pivot_weston | 2011-07-27 06:58 | 自縄自縛