自縄自縛の愚かしさ(2)

(これは不定期連載でお届けしている記事です。流れがわかりにくい場合は、「自縄自縛」のカテゴリの過去の記事を参照してください。)

 いま、大ざっぱに、人生80年とする。

 成人するまでの20年間は、その4分の1にすぎない。

 世のなかでは、小学生くらいの子どもに「将来、なにになりたいの?」とたずねて、「××になりたいですっ!」とはっきり答える子どもを、さも好もしい子どものようにとらえる光景をよく見かけるが、そのたった4分の1の期間で(小学校4年生なら8分の1だ)あとの4分の3を具体的に規定するようなことをしたら、その子の人生は窮屈でしかたのないものにならないだろうか。

(ただし、やっかいなのはスポーツ選手になるような場合で、プロの野球選手やサッカー選手になる場合には、ひとまず人生を30年くらいに想定しなければならず、そうすると、10歳でも、すでにあとの人生の半分をすぎていることになるし、ましてや、20歳前後でそのパフォーマンスをピークにまでもっていくという条件まで付加されるとなると、たとえそれであとの人生を窮屈にすることになったとしても、幼いころから「××になりたいっ!」というのは、しかたのないことかな、とは思う。)

 皮肉なものだ、と思う。

 もしかすると、時代がどう変わろうが、いつの時代にも、わたしたちに与えられている内的な自由の分量というのは変わらないのだろうか、とすら思う。

 江戸時代くらいまでの、一般庶民にとっては、世界を俯瞰する情報らしい情報もなく、絶望的なまでに職業選択の自由やなにかが縛られていた時代には、逆にわたしたちの心を縛る情報(抽象的な概念)も乏しく、案外、人は内的に自由に暮らせていたのかもしれない。

 それに対して、いまや、世界を俯瞰する情報はおろか、世界を動きまわる自由まで手に入れて、無数の選択肢のなかから職業や人生を選択できるようになったように思えるわたしたちは、逆に、その、全体で俯瞰すると「無数」だけど、一個に特定すると自分を縛る枠になる情報や選択肢といったものに、内面を縛られながら生きるようになっているのかもしれない。

 もっとも極端な例をあげれば、殺しの自由がある。

 暗愚な時代には、それでも推移とともにさまざまな口実がつけられるようになっていたとはいえ、それがあった。

 いまの時代には、これは、どんなことがあっても決してはいってはいけない枠として、完全にシャットアウトされている。

 だけど、それでもはいってしまう人がいるように、動物としての人間には存在する自由のひとつには違いないので、シャットアウトするのはいいことにしても、その枠の分だけわたしたちの自由が狭まっていることも間違いのない事実だ。

 わたしは昭和30年生まれなので、「お国のため」を口実に一般の人にもその自由が認められていた世代の人たちを先人として仰ぎ見ながら、今日の、無数の情報(抽象的な概念)の枠に区分けされた世界にいたる道を歩いてきた。

 だから、子どものころには、テレビの登場などもあって、目の前にぽつぽつと提示されるようになったその情報という枠を、暗愚な沼から自分を救い出してくれるものとして、その枠にはまればその先に新たに広大無辺な自由の世界を見せてくれるものとして、あこがれの念で見るようになった面もあったのかもしれない。

 だから、(1)に書いた、わが子を背後で監視しながら勉強させていたご両親なども、おそらく、わたしとそうたいして年齢の違わないかたがただろうから、子どものころにその情報の枠信仰がしみついて、そこから抜けられずにいたのかもしれない。

 ちなみに、これもなにごとにも共通していえることだろうが、「百聞は一見にしかず」。この「情報の枠信仰」にも、その枠の現実を見てきた人より、まだ見ていない人のほうにより強く残存する傾向があるようにも思える。

 わたしの母などは、いまでこそ、病気になって東京のわたしのところへ身を寄せているが、それまでは一度も四国・香川の観音寺という町を離れたことのなかった人で、だから当然、その町の近くにはひとつもない大学になど通ったことはないのだが、そのせいか、いまだにその「大学」という情報の枠を狂信的に信仰していて、だれの話をするときにも、必ずといっていいほど、その人の名前の前に「××大学を抜けた」という枕詞がつく。

「もうやめろ。××大学といっても、学生は1学年に何千人といる。これまでに卒業した人を合わせたら何万人、何十万人にもなる。いい人もいれば、悪い人もいる。優秀な人もいれば、そうでない人もいる。大学の名前で人を規定するなんて、ばかげたことだ」といっても、「ふん、そんなもんかの」といって、すぐにまた「××大学を抜けた××さんはの……」とはじめる。

 ダメだ、こりゃ。

 大企業の名前にしてもしかり。世間で評判のいい職業の分類名にしてもしかり。万事において、そういう情報の枠で人の幸せやなにかが規定されると思いこんでいる。

 まあそれも、自分ひとりの世界で、子どもがパズルで遊ぶようにしていじくりまわしている分にはいいだろう。だけど、(1)のご両親のように、それをわが子にも押しつけ、わが子がそこから抜け出さないように背後から監視しているとなると、これは一考を要するのではないかと思う。

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by pivot_weston | 2011-07-23 08:00 | 自縄自縛