孫さんへの期待

大企業の社長でありながら「脱原発」「自然エネルギーの導入」をいいだした
ソフトバンクの孫正義さんについて、
いろんなことが語られている。

わたしは孫さんに期待している。

国会に出入りしていたころ、
一度、「光の道」の話だったか、
ある会合で孫さんの話をじかに聞いたことがある。

孫さんは大会社の社長だが、
起業家なので、官僚組織化した大会社の社長とは違い、
やや古さを感じさせる表現を好んで使うところはあるが、
基本的に、使う言葉が素朴だ。

官僚言葉を使わず、
自然に、自分の思うことを説いていく。

ああ、いい感じ、と思った。

国会のなかにはいってみて、
みんなから「むだが多い」といわれているいまの日本の統治機構の
その「むだ」の大きな原因のひとつは「言葉」ではないかと思った。

統治機構では、誤解や行き違いを回避するために
言葉が厳密に管理されている。

それはそれでいいことなのかもしれないが、
その結果として、言葉が本来もっていていいはずの柔軟性が排除され、
たとえば、A地点からB地点に行けばいいだけの話でも、
言語の意味の経路が厳密に規定されているものだから、
途中でC地点を経由して、D地点も経由しなければならなくなっており、
それにともない、C地点を経由する事務やD地点を経由する事務が発生している。

なんでもない、ふつうに
庭先でおじさんたちが話をしているように
「AはBじゃのう」とやればいいのに、
「いやいや、AはCであるからして、Dであって、よってBである」とやっている。

この厳密な言葉の管理は、統治機構や官僚機構が旨とする
「無謬性」を確保するためにやっているのだろう。
でも、そこが要注意、と思う。

「無謬性」、つまり「間違えないこと」を旨としたり、前提としたりすると、
今回の福島原発の事故のように、
なにかあったときにだれの責任も問えず、
だれも責任を負わなくていいことになってしまう。

行政府が間違いをしでかすんじゃやだなあ、と思うかもしれないが、
だからといって「この組織は間違いをおかしませんよ」なんて前提の
組織をつくってしまうと、
だれも責任をとらないし、
むだばかりが生まれる組織ができてしまう。

皮肉なもので、
国民の側にも、どこかに、
人間なんてみんな間違いをおかすものだ、
政府だって間違いをおかすものだ、という腹のくくりかたがないと、
逆に、間違えちゃ困る政府が間違いをおかしたときにも責任を問えなくなる
というしくみで、
わたしたちの側でそのへんの発想の転換ができれば、
この国の統治機構も、ガサーッと、いっぺんにむだが削れるような気がした。

その意味で、
毎日何十とあった会議に出ながら、
そのひとつの会議で孫さんの話を聞くと、
あ、そうそう、この感じでいいんだよ、と思った。

それに、
民間の事業の現場にいる人が自分なりのビジョンを掲げ、
国家予算を管理する政治家のところへ説き伏せに来る、という構図も
なかなかいいように思えた。

ビジョンの是非はともかくとして、
これが自然な姿じゃないの、とも思った。

世間では常識なのかもしれないが、
世間知らずのわたしは国会の現場にはいって、正直なところ驚いた。

おめでたいのだろうが、
「経済大国日本」は、もっと、民間のわたしたちの、
「よし、あれでもうけちゃろ」「これでもうけちゃろ」という
意欲の積み重ねで動いているのだろうと思っていた。

その意欲を発揮した結果として、もうけが生まれ、
そこから国家運営に使うお金を少し工面してもらって、
それで国家が運営されているようなイメージをいだいていた。

でも、現実は、こういっては失礼なのかもしれないが、
そうして国家が握っているお金をもうけの当てにしている人たちが
あまりにも多いのに驚いた。

経済のことなんてわからないわたしがいってはいけないのかもしれないが、
なんだ、日本の経済はまだ一人前ではないのかもしれないな、
というのが、素朴で正直な感想だった。

その意味でも、わたしは孫さんに期待している。

孫さんは民間のアイデアで国家の行政機構を突き動かそうとしている。
原則としてニュートラルな立場にある
政治家や官僚機構のアイデアで国や経済が動いているうちはだめだと思う。

もっともっと、孫さんみたいな人が出てきて、
政治家や官僚機構をただの交通整理係に追いやるくらいになったとき、
この国の経済も世界を引っ張れるようになるのではあるまいか。

パターナリズムからの脱却は、この国の重要なテーマだと思う。

なお、わたし自身の「原発」に関するスタンスとしては、
このブログに何度も書いているように、
即座に否定しようとする世論に疑問を感じている。

福島原発が操業を始めてまもない、若いころには「反対」だった。
あんな、何百年も影響が残るものをつくってどうするのか、
いま生きている人も、これから生まれてくる人も、
だれもその一生において責任をとることのできないものをつくって
どうするのか、と思っていた。

でも、つくられて、40年も動いてきた。
しかも、よりにもよって、
地震の本を少し読んだ人ならだれでも、
なんであんなところに――と思うようなところにばかりつくられている。

この現実が、わたしたちがこれまで
原子力発電というものとどう向き合ってきたかを物語っていると思う。

それがあまりにもめちゃくちゃだったから
即座にあらためたほうがよいという考えかたはわかる。

でも、そのために暮らしを変え、人生を変えてきた人たちもいる。

前にも書いたように、
原発の問題には「普天間」に通じるところがある。

危険性や将来の世代に対する責任を考えれば、
そりゃあ即座に廃止するのがいちばんいいのかもしれないし、
わたしたちは、だって、これまではなにも知らなかったんだもん――
ですませてもいいのかもしれないが、
ある時期には、お国のためだ、よろしく頼む、といって
特定の地域に押しつけてさんざん利用してきたものを、
わが身にも危険がおよぶとわかったとたんに、
人類の敵のようにして排除しようとする姿勢には、
なんだかすんなりとついていく気になれないものを感じている。

そう、それに、これも前に書いたように、
「自然エネルギー」は「自然」だからといって
自然界になにも作用をおよぼさないものではない。
逆に、原子力よりも火力よりも、
地球の表面に存在するエネルギーを多く収奪するものであり、
その影響がどうかという検討ももっと必要ではないかと思っている。

今回の日本の震災はたしかに大災害だが、
同時に、外国でも竜巻や大洪水などによる大災害が起きていて、
やはり少なからぬ人が亡くなっている。

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by pivot_weston | 2011-07-09 06:39 | ブログ