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50すぎのメッタ打ち

ははは。

また例によって、
岩瀬さんに週刊現代の彼の記事を読ませてもらったついでに
ほかの記事も読んでいたら、
あったあった、ズキンとくる記事が。

題して、
「50すぎの女たち」が「50すぎの男ども」をメッタ打ちの巻――
だと。

小見出しをひろっていくだけでも、
「かわいくない!」
「自分のことが見えてない」
「たまには胸を張って歩け!」
「あんたたち、男として終わってんのよ!」と、
「メッタ打ち」の言葉がならんでいる。

まあまあ、でも、
ズキンときながら読んでいても、
近ごろはあまり「50すぎの女たち」と会ったことがないせいか、
「ズキン」を頭のなかだけで了解して、胸で感じることがなくなったせいか、
だからどうなの、
そういや、こんな記事、30年くらい前にもあったよな――
なんてふうにも思いだした。

でもな、ふむふむ、
「イタリアの男と女は死ぬまでオスとメス」
「老齢でも恋に燃えるイタリア人」ねえ。
このへんは、ちと、
フェリーニの映画を思い出して興味が湧いてくる。

そういや、ここ数年で、
最後にそんな心の動きを体験したのはいつのことだったか、
なんてことも考えて、
2年くらい前のある晩、散歩をしていたら、
住宅街の狭い路地の角で白い服を着た女の人がしゃがんでいた
ときのことを思い出した。

いや、しゃがんでいたわけではなかったか。
いや、やっぱりしゃがんでいたか――という程度の記憶だ。

迷っていたらしくて、道をきかれたと思うが、
ひとこと、ふたこと話しているうちに、
薄暗がりのなかだったので最初はよくわからなかったが、
ふと、その人の目が見えていないことに気づいた。

で、「あっちですよ」とかなんとか、
方向を教えてあげると、すぐにその人が歩きだして、
そのうしろ姿を見ているうちに、
なにやら名残惜しいような、
追っかけてもっと詳しく教えてあげたいような
そんな気分にかられたというだけの話。

だけど、そのときのことを思い出していたら、
さらに時間をさかのぼり、
病院のホスピスでボランティアをしていたころ、
わたしたちが通っているうちに目が見えなくなった女性の患者さんのことも思い出した。

少し離れたところから入院してこられたかたで、
ご家族やなにかも、いらっしゃるのかどうか、
お見舞いに来られているようすはなかった。

そこで、たぶん、とても心細い思いをしているだろうからと思い、
病室までおじゃまして、作家の幸田文さんのエッセイを朗読してあげることにした。

ちょっと抵抗もあったが、
いや、消滅を前にして闇と向き合っている人の気持ちは――と考え、
片手で本をもち、もう一方の手でその人の手を握っての朗読だ。

かなり知的なかただったと思う。
そうして朗読していても、
こちらの手を握るそのかたの手にこもる力は
ほとんど変化しなかった。

でも、「それじゃあ、今日はこのへんで……」といって、
手を離すとき、
そのときには、間違いなくその人の内面に
さっと吹いてきた一陣の風でさざなみが立つように
かすかな動きがよぎるのが、その手を離す一瞬に伝わってきた。

何回続いたのだったか、その朗読は。
それほど数多くは続かなかったと思う。

そのうち、ホスピスに行ったときに看護婦さんたちと
「あのかたは……?」「ああ、……」という会話が交わされて、
わたしたちは記憶を胸の奥に押し込んで、
またその日、目の前にいる患者さんたちのお相手をすることになる。

そんな時期のことも思い出した。
「メッタ打ち」の効果かな。


by pivot_weston | 2011-07-06 09:54 | ブログ