ゆがめられる現実

久しぶりに日曜朝のニュースダイジェスト番組を見ていたら、
なにやら気持ちが悪くなってきた。

相変わらずの一点集中型の責任押しつけ論調が続いている。

この分だと、
現在の、大規模自然災害が起きていなくてもかなり病んでいたと思われる
この国の病理現象を受け止める役どころとして、
菅内閣は相当に国民に貢献しているな、
後世においては逆にかなり評価が高くなるのではないだろうか、
という気にすらなった。

わたしたちはさまざまな情報に囲まれて暮らしている。

頭のなかではなんとなく、
地球の上や日本の国土に暮らしていると思っていても、
現実に、人の動きも含めたその地球の上や日本の国土における
物理的な現象を体感している人はひとりもいない。

みな、あちこちからはいってくる情報を通して、
地球の現実や日本の現実を把握した気になって暮らしている。

そういうしくみからすると、
情報を伝えるメディアは、
インターネットのようなパーソナルメディアも含め、
わたしたちの生命の現実認識にとってきわめて重要な役割を果たしている。

透明なフィルタとなって、
はいってきたものを、基本線はそのまままったく曲げることなく、
情報の受け手に向かって流すことができれば、理想だ。

そうすれば、受け手のわたしたちも、
地球の現実や日本の現実を、なるべく忠実に把握した気になって暮らせる。

だが、いまはどうなのだろう。
一種の集団催眠のような状態に陥ってはいないだろうか。
みんなが素朴に、思っていることを自由に口にすることのできなかった、
65年前までと、ある面で近い状態になっていないだろうか。

現実には、大災害が起きている。
多くの人が亡くなり、家族や家を失っている。
原発も爆発した。
みな、動かぬ現実だ。

いま、わたしたちの国には「悪」の要素が満ち満ちている。

ところが、メディアに登場する人たちはみな
「善」であろうとしている。

「悪」がなく、「善」ばかりの世のなかなどいうものがありうるのなら、
それでもいいかもしれない。

でも、現実には、わたしたちの世のなかでは、
つねにこの「悪」と「善」の要素が併存するもので、
現にいまも、上記のように「悪」の要素が満ち満ちている。

そういうときに、情報を通すフィルタとなるメディアに登場する人たちが
みなこぞって「善」でいようとしたら、どうなるか。
「悪」はどこか一点に押しつけられたりなにかするようになり、
ほんとうの、わたしたちをとりまく現実は見えなくなる。

前から書いているように、
わたしも35年前から、大地震で大津波が起きたらこうなる
ということを知っていて、
そういう現実が起きるのを阻止しようとしてこなかった人間のひとりだ。
福島第一原発でつくられた電気を
「おぅ、もっと冷房をじゃんじゃんきかせようぜ」といって、
利用してきた人間のひとりだ。
Jビレッジで練習するサッカー日本代表の人たちを見ながら、
おぅ、日本もこういう環境ができたらどんどん強くなるぞと、
原発の末梢現象を喜んでいた人間のひとりでもある。

自然界で大災害が起きたようなときには、
わが身をふりかえり、ほの暗い思いをいだく人が
いっぱいいるものではあるまいか。

どうしてメディアに登場する人たちはみな、
「善」でいようとばかりするのだろう。

この世に併存する「善」と「悪」はみんなで共同負担するものだ。

被災者の人たちは自分のなかの「悪」をふりかえるまでもなく、
目の前にまぎれもなく押し寄せてきている外的な「悪」と
向き合わざるをえない立場に立たされている。

そういうときに、
メディアに登場する人たちが「善」でばかりいようとして、
それを見た人たちも「善」でばかりいようとしていたら、
もみ消しようのない「悪」と直面している人たちは、
実際には、心の奥では窒息しそうな状況に追い詰められている
のではあるまいか。

Twitter上で、
被災地に行ってイベントをしてきたあるジャーナリストが
誰かからそのイベントのことで難癖をつけられて
憤慨していた。

もちろん、根も葉もない難癖だったのかもしれない。
だけど、少なくとも物理的には被災していない地域から
被災地へ行ってそこの人たちの力になろうと思うのなら、
さまざまな精神的ストレスに直面しているその人たちのことを考えて、
「あ、そうですか、すみません、調べてみます」と
やんわりと受け止めるくらいのことはできないのだろうか。

神戸の震災は「酒鬼薔薇」現象を生んだ。

このまま「善をなす人」ばかりが被災地に押しかけていたら、
被災地の人たちのあいだに、表には出せないストレスが鬱積してくる
可能性もあるのではあるまいか。

かつてホスピスでボランティアをしていたときに
いやというほど思い知らされたが、
ボランティアは自分がいい気持ちになるためにするものではない。

別に悪い気持ちになるためにすることもないだろうが、
あくまで、いちばん大切なのは、つねに、相手の人の気持ちであり、
自分がぼろぼろにけなされることがあっても、
それにさらりと耐えられるだけの覚悟がなければならないと思う。

昨夜も、
発災当日、仙台にいて避難所暮らしをした人と話をする機会があり、
発災直後、傍若無人に被災者の姿を追いかけた
メディアのカメラの話をうかがった。

わたしたちが見ているメディアの映像は「カメラの表」だ。
「カメラの裏」まで気をまわさなければならないのは難儀な話だ。

また、民主党の小沢さんの懐刀の人のことを
幼いころから「おっちゃん」「おっちゃん」と呼んで育った人の話も聞いた。

小沢さんは「善」であろう、「善」になろうとしたところに、
政治家としての薄っぺらさや情けなさを感じる。

菅さんはその点、おしっ、と覚悟を決めているかどうかは知らないが、
右からジャブを受け、左からアッパーを受けても、
コーナーポストの前でふらふらとたたずんでいる。

もしかすると、その内面には、
みんな「善」であろうとするほかの政治家たちへの
ほのかな思いやりのようなものも芽生えているのではないかと思える
今日このごろだ。

みんな、もちつもたれつ。

メディアに出て、批判をすることでお金をもらっている人たちは、
生きていくため、自分の生業に徹するのはしかたのないことだろうが、
心の奥のどこかでは、
この世はみんなが「善」と「悪」を共同で負担しているところだということを
考えていてもらいたいと思う。

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by pivot_weston | 2011-07-03 19:03 | ブログ